うそぉ、とナイスネイチャの耳がトウカイテイオーに向いている。
自分の馮の中を、ここまで突き進めるウマ娘がいるとは思わなかったからだ。それも下層のウマ娘の中で。
その一挙手一投足が、日本刀のような切れ味を思い起こさせ、霧を切っていく。
「ちょっと、すっごく堪えるんだけど。なに、この子。知らないんだけど。なんで突っかかってこれるの」
「はぇ~。ネェちゃんのスキル。無防備に受けるとすっごくつらいのに」
「だぁぁーーーっ」
雄たけびのように吠えながら、トウカイテイオーはナイスネイチャを追い込んでいく。
あと1馬身。もう手が届く距離だ。
霧が少し弱まる。ナイスネイチャの動揺が、霧に表れていた。
少し軽くなった体を前傾姿勢にして、トウカイテイオーはさらに詰め寄った。
マヤノトップガンが笑っている。自分の知らないことが目の前で、すぐ近くで起こっていることに、わはっ、と口元が緩む。
対称的にナイスネイチャの口はへの字に結んでいった。
その状態で少しほど、時間にして10歩ほど進んだところで、
「グランドマスター様に一瞬の動揺を誘うための、とっておきだったんだけど」
とつぶやいたナイスネイチャの言葉は、マヤノトップガンとトウカイテイオーには聞こえなかった。走る風と蹄鉄の音がかき消したからだ。
しかし、マヤノトップガンの直感が危険信号を最大限に発していた。何を仕掛けるかはわからない。だけど、絶望的なアラートが頭の中を繰り返している。
笑いが吹き飛んだ。
「ちょっとまって! ネェちゃん。それまずいって。マヤまだ範囲内」
「うっさい。これ使う私も負担大きいんだ。一緒に巻き込まれてくれない」
「うわーん。ひっど~い。ネェちゃんのばかー」
100階組以下は先ほどの霧でペースをかき乱されて、もう一度、戦線復帰することはない。トウカイテイオーさえ払えれば、あとは前を走るメジロマックイーンと隣にいるマヤノトップガンだけ。
すでにサイレンススズカのオーラには疲れが見えている。捉えたも同然。
それがナイスネイチャの考えだった。
「まとめて。沈んじゃえっ」
ナイスネイチャが馮を発動した。
先ほどよりはるかに狭い。0.1ハロン約20mまで凝縮された黒い霧がナイスネイチャを中心に半ドーム状に広がっていった。
モクモクと垂れ流しにしていた霧状の時よりも、空気の重みが、粘り気が、比べ物にならないほどに強くなる。
近くにいたマヤノトップガン、トウカイテイオーが球体に飲み込まれた。危険を察知したメジロマックイーンが外に逃れている。サイレンススズカはギリギリ球体の外。
メジロマックイーンがサイレンススズカを追い越していた。しかし、今1位になっているのは、メジロマックイーンにとっては誤算だった。
脚を使ってでも、捕まってはいけない。そう判断した結果だ。
「やってくれますわ」
とメジロマックイーンがさらに距離をとった。
「うきゅぅ。重いよ~」
とマヤノトップガンは目を回して後方に遅れだしていた。
その中で、トウカイテイオーは抗う。が、しかし遅れだす。
離れていくトウカイテイオーに向けて、早くあきらめてくれ、と念を込めるナイスネイチャ。この球体のなかでは、馮の使用者であるナイスネイチャも威力が高すぎて、自分だけ影響しないように防ぎながら発動することが難儀なことだった。消耗が激しすぎる。
約10秒間。この状態をナイスネイチャが維持しておける限界だった。
10秒全てをトウカイテイオーに向けて使い切るわけにはいかない。メジロマックイーンに届かなくなる。だから、トウカイテイオーの脚が勝つことをあきらめるのを、祈っていた。
4秒。2馬身差。まだ駄目だ。
6秒。3馬身差。まだ、トウカイテイオーの間合い、の気がする。
8秒。4馬身差。もう限界。だけど、球体の射程ギリギリまで遅らせられた。この差なら粘り切れる。
霧が晴れる。トウカイテイオーが体勢を少し崩した。持ち直す間に、今度は広範囲の霧を展開する。
トウカイテイオーの顔はあきらめていない、けれど、研ぎ澄ました集中力をごっそりと使った今、先ほどの刃物のような走りはできない。
体が霧に呑まれていく。
その光景をみれて、ナイスネイチャは安堵の息を漏らした。が、しかし。
そのウマ耳があさっての方向に向いた。もう一つの蹄鉄の音が迫っていたのを確かに聞いた。
スペシャルウィークだ。
霧が晴れた一瞬のスキを突いて、猛烈な追い込みを見せていた。
スペシャルウィークが最終局面の脚を捨ててまで、ロングスパートを仕掛けたのには訳がある。
ナイスネイチャの霧だ。いくら強力な瞬発力のための脚を残していても、発揮できる機会を奪われては意味がない。あの黒い霧で覆い潰されては勝負ができない。
そして何より、先頭のウマ娘から離れすぎていては、遅すぎるのだ。
纏わりつく重さの原因はスペシャルウィークにはわかっていない。知る由もない。
しかし、その重さに近いことを味わったことはあった。
選抜レース、そしてゴールドシップと戦った際に身に着けていたハンディキャップの重さだ。
あの全身に這うような黒いシャツの重さと、この霧の動き難さには近いものがある。だからこそ、このレースの中で、トウカイテイオーを除いていち早く体勢を整えることができたのだ。
周りのウマ娘は霧に戸惑っている。走るリズムを崩されている。
平然と走っているウマ娘は数人のみ。そのほとんどが先頭集団だ。
だんだんと差が開いていく。離されてしまってはもう先頭には追いつけない。離れれば離れるだけ、日本一ウマ娘の壁の高さを、堀の深さを、距離の遠さを認識してしまう。
「ここ、で遅れたら、日本一に届かない。スズカさんに届かない!」
と、最後の直線並みに自身に鞭打って走っていた。
それでも、足りない。この霧の影響下において走りが重い。遅い。十分に加速することができない。このままでは追いつくことはできない。
その状況がガラリと変わる。変えたのはトウカイテイオーだった。
ナイスネイチャの霧が晴れる。トウカイテイオーを狙い撃ちに霧が凝縮し、結果、スペシャルウィークの周りから重さが消える。
チャンスだ。
「いっけぇぇーーっ」
と、全身全霊を込めてラストスパート並みの脚色で、スペシャルウィークは先頭集団に迫っていった。一度でも追いつき、追い越すために。
ゴールまではまだ800m。
そして、今また霧に捕まるも、2度目で心に覚悟ができている。リズムは崩されない。ゴールドシップの背後で受けた土の威力に比べれば、と覚悟をもって全力で霧に突っ込んでいく。
トウカイテイオーを追い越す。トウカイテイオーはスペシャルウィークの真後ろに入った。
スペシャルウィークは徐々に勢いが衰えていく。それでも十分に加速した状態で、空気の重りに抗う。
メジロマックイーンを筆頭に、サイレンススズカ、ナイスネイチャ、スペシャルウィーク、トウカイテイオー、マヤノトップガンの順で最終コーナーに入っていく。
その後ろから、怒涛の如く足音を響かせながら、ナリタブライアンが迫ってきていた。
トウカイテイオーは、前が見えていなかった。目が見えないわけではない。ただ、目の前という現象が脳に入ってこなかった。
音も聞こえない。いつもの、風を切る走りで聞こえるリズムがない。
1か月磨き上げた集中力は使い切った。今どうやって足を、手を動かしているのかわからない。
足が張っている。使っていない箇所がひとつもない。残っている脚はない。
それでも走れているのは、すぐ前を行くスペシャルウィークのおかげだ。
この1か月一緒に走ったことで、スペシャルウィークのリズムが体にしみこんでいる。ダンスが得意なトウカイテイオーにとって、無意識にリズムに合わせて手足が動いている。
そして、ウマ娘の真後ろは、スリップストリームだ。風の抵抗が弱まる。つまりは、まとわりついてくる重みが一番少ない状態だ。
だからこそ無意識下においても、いまだ、トウカイテイオーは落ちていない。走っている。スペシャルウィークに引っ張られるかのように。
気が付いた時には残り600mの地点だった。
疲れ切っている。まだ600mが残っている。長い。絶望的だ。
全力以上でぶつかってなお、前に4人いる。それが堪らなく悔しくて、嬉しい。自然と口元が笑っている。
残っている力が体のどこにも見つからない。でもまだ終われない。足が勝手に動いている。足の止め方がわからない。
足が、あきらめない。
肺が、くじけない。
腕が、めげない。
勝ちたい。全身がそう言っていた。その言葉に意識もゆだねた。
「勝つのは、ボク、なんだからぁーーッ!」
全てを使い切った今、つまりは限界に立った今、勝ちたいという欲求に背を押されて、ちょっとだけ、前傾姿勢でその境界を越えた。
瞬間、青い羽が、一枚、はらりと目の前に舞った。
炎の羽だ。しかし、色は青。幻想の青の羽がそのまま静々とトウカイテイオーの胸にすいこまれた。
冷静に、しかして高い熱量をもって、ようやく、トウカイテイオーは帝王成しえる。
燭台に灯ったすすけた火が広がるように、闇を上書く光がだんだんとあたりを包み、強まっていった。
そして、一度、とくん、と心音がなった。小さな音だった。しかし、その音をこのレースに出た全てのウマ娘が、スタンドのウマ娘たちが確かに聞いていた。
光が次第に収束していき、翼の形を象った。
疲れ切った体に力がみなぎる。溢れる。翼が羽ばたく。その力が霧を吹きとばす。トウカイテイオーが覚醒した。本格化だ。
トウカイテイオーは、スペシャルウィークの横に体をずらすと、飛ぶように走りぬいた。
トウカイテイオーの本格化を受けて、レースの色が明らかに変化した。
未だ1番を走るメジロマックイーンの走りが変わった。レース中に本格化しきったウマ娘は初めて聞く。驚きが超えて、それはライバルに見せる心持ちへと変貌する。
ナイスネイチャが2番手だ。どこの主人公だ、と嘆いている走りも、すでに下層でのものじゃない。200階の猛者と駆ける走りだ。
サイレンススズカが3番手、だけどどこか走りに陰りがある。
マヤノトップガンも眼が変わり、全力を出していた。
200階層クラスを、トウカイテイオーは本気にさせたのだった。
残り400m、トウカイテイオーが前方を追い込んでいく。
ついにサイレンススズカを抜いた。現在3番手、その後ろにマヤノトップガンがいる。スペシャルウィークはこれ以上の伸びがない。
ラスト200m。2番と半馬身差。ナイスネイチャを再びとらえた。
瞬間、茨のドームがゴールに向けて道を貫いた。半身入っていたトウカイテイオーが、3歩耐えるも、はじかれる様に外に飛ばされた。ナイスネイチャも飛ばされている。
「ほぅ。私の道に半歩踏み込むか。なるほど。ナイスネイチャが仕掛けるわけだ」
ナリタブライアンが茨の道を猛然と進む。その横には光をまとったマヤノトップガンが並走していた。
マヤノトップガンはナイスネイチャに向いた。その顔は笑っている。しかし、心の中で舌をだしているのがはっきりとわかる顔だった。
「その顔、覚えたぞ。5番。だが、邪魔だ」
黒い稲妻を彷彿とさせる走りで、ナリタブライアンがあっさりとトウカイテイオー、ナイスネイチャを追い越した。マヤノトップガンが続く。
そして、ゴールとなった。
1着メジロマックイーン、2着ナリタブライアン、3着マヤノトップガン、4着ナイスネイチャ。そして。
5着にトウカイテイオーが入った。以下サイレンススズカ、スペシャルウィーク、ウイニングチケットが続く。
トウカイテイオーとスペシャルウィークは近寄って互いに膝に手を当てて息を整えていた。汗がしたたり落ちる。
空気を大きく取り込み、体の隅々まで新鮮で軽い酸素をいきわたらせる。
「ま、負けました」
「・・・うん、負けたね」
そういう二人の表情は晴れやかだ。
それは、やれること全てを出し切っての敗北だったからだ。確かに悔しさはある。がそれ以上にすっきりとした気分だった。
「私、日本一がなんとなく、少しわかった気がします」
「ボクも、カイチョーと走るために、何が足りないのか見えたよ」
遠い、だけど、背中が見えた。届かない距離じゃない。
だからこそ、負けたけれども笑っている。
そこに、メジロマックイーンが近づいてきた。少しだけ、額に汗が浮かんでいる。
「お二人とも、素晴らしい走りでした。スペシャルウィークさんの諦めない走りにゴールドシップさんが本気を見せたのも納得です。そして」
トウカイテイオーをじっと見て、
「レース中に本格化に至るとは、正直、ここまで胸躍らせたことは今までありませんでしたわ。それでもまだ、わたくしに届くには足りないですが」
「追いつくさ。必ず。今度はボクが勝つ」
「楽しみに待ってますわ」
しばらくすると、不意に、トウカイテイオーがよろめいた。足がゴムになったかのように支えられない。力が入らない。
ナイスネイチャが受け止めた。
「ま、こうなるよね。アタシだって本格化したときは一日中筋肉痛ひどかったんだから、こんな急になったら立てなくなるってものよ」
一息入れて、トウカイテイオーを抱えると、
「医務室につれてってあげる」
「あ、ありがと」
「ネェちゃん。やっさし~」
「ネイチャ、だ」
担がれるトウカイテイオーを見ていたスペシャルウィークは、はっと思い出したかのようにあたりを見渡した。
レース後にサイレンススズカに再度アタックする予定だったからだ。
しかし、サイレンススズカの姿がない。
「あ、あれ?」
「どうしたの。医務室いくよ」
「あ、はい」
そのまま、医務室へとついていくことにした。
スタンドが見える。場内のどよめきはひとしおだ。
着順掲示板にはトウカイテイオーのゼッケンと同じ番号である5の数字が光っている。
全階層混合エキシビジョンマッチ(春)は、予想外の幕開けと、予想外の終末を迎えたレースとなった。