トウカイテイオーが選んだ宿は、赤い屋根が印象的な老舗の木造宿だ。
最近リニューアル改装工事を済ませているが、老舗の思い出を残したいというオーナーの要望で、昔の梁や壁の一部、瓦などが入口受付や通路のところどころに飾られている。
天空競馬場に参加したいウマ娘の人気は高く、さらに昔からあることでの安心感などが宿泊客を引き寄せている。
オーナーの人情味あふれる人柄と、ウマ娘を孫のように可愛がる姿から、昔から、ウマ娘たちとの思い出がいくつも刻まれていた宿だった。
サイレンススズカが訪れていたのも、そういった懐かしい気持ちからだったのかもしれない。150階層に到達するまでお世話になっていた宿なのだ。
傷のついた床の一部が展示されていた。サイレンススズカが馮に目覚めたときのものだ。
「まだ、あったんだ」
と、手でなぞる。
漆6層塗りの光沢輝く木目の中に、冷たいへこみをひとつ感じる。
当時はスリッパを履いていたが、ふと、踏み込みのイメージを思いついて一歩強く足を出した際に、脚力が予想以上に増幅してへこんだ床だ。
その傷を、オーナーは許した。誠実に謝ったからかもしれないが、そのオーナーの目は穏やかさがずっと続いていたのを今でも覚えている。
1階奥階段の非常口付近に静まって置かれているのは、宿のオーナーがサイレンススズカに寄せるイメージそのままだった。
自分のトレーナーから3か月間の休養を言い渡されたサイレンススズカは、何もするもなく、気付いたらこの宿にいた。
リニューアルする前に泊まっていたが、自分が知っている面影はこの置かれた床の一部ぐらいしかもうない。
今日、オーナーには会えていない。代わりに宿の人からもらったものがある。
手の平サイズのアストンマーチャン人形だ。
サイレンススズカは貰った人形をもう一度見た。王冠がきらりと光る。これから偉くなるから王冠をかぶっているんです、と言わんばかりの表情をした人形だ。
「どうしよう」
貰った人形だけでなく、これからのこと含めたつぶやきだった。
休養中ではトレーニング施設が使えない。トレーナーの東条ハナが止めるだろう。下層であれば練習場参加に潜り込めるかもしれない。
しかし、それは多数のウマ娘たちと雑多となって一緒に走ることになる。
サイレンススズカが求めている走りは一人で最速で草原をかけるようなもの。混雑の中を縫う走りとは真逆に位置する内容だった。
それに、最近の走りでは景色が霞がかっているようで気持ちが乗らない。走りたいはずなのに、走りたくない気もする。そんな感情が混ざった声だった。
つぶやく声に合わせて、ぎぃ、と非常口のドアが揺れた。少しだけドアが開いている。
サイレンススズカが非常口に意識を向けた。何か別の音がする。ウマ耳をそばだてる。腰をかがめる。栗色の長い髪がさらりと落ちる。
じっと開いた先を見つめている。黒い羽が見えた。カラスだ。
と思うや別方向から声がした。
「どいてください~っ!!」
「ひゃっ!? な、なに」
驚く暇も与えず、階段を駆け下りた勢いそのままにスペシャルウィークが、サイレンススズカにぶつかった。
意識を非常口に向けすぎていたサイレンススズカはよけきれない。
互いに尻もちをつく。
腰をさすりながらスペシャルウィークが顔を上げ、目の前のウマ娘の姿を見ると、サァーっ、と顔を青ざめさせた。
「スッ、スズカさん!」
「いたたっ」
目の間に自分と同じく尻もちをついたサイレンススズカの姿があったからだ。
「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」
「だ、大丈夫、です」
首がもげるのではと思えるほどの速度でスペシャルウィークの頭が何度も上下に振れている。
戸惑いながらもサイレンススズカは謝り続けるウマ娘を止めようと、両の手のひらを胸元においてスペシャルウィークに向けた。
その手にはアストンマーチャン人形がなかった。
スペシャルウィークの手紙もない。
ぶつかった拍子に、互いに落としていたのだった。それが非常ドアの隙間から外に飛び出ていた。
人形の近くに一羽のカラスの姿がある。アストンマーチャンの王冠が一度きらめくのを見ると、くちばしに咥え、飛んで行った。
「あっ」とサイレンススズカがつぶやく間に、すでに手の届かない距離になっていた。
「あのお人形さん。スズカさんのですか?」
「・・・はい」
サイレンススズカは少し答えに迷った。確かに貰ったものではあるが、欲しがったものではない。自分の物と言っていいのだろうかと。
しかし、変なことを言えば勘ぐられることになるかもしれない。何か厄介ごとになるかもしれない。という思考で答えていた。
嘘はついていない。小さな人形一つ。自分のだといえば大事にはなるまい。残念だったねとでも話してお終いになるはずだ、と。
しかし、その答えは、スペシャルウィークには悪手だ。
「私が取り返してきます!」
「へっ?」
何を言われたのかサイレンススズカは一瞬分からなかった。
誰が、何を、なぜ、何のために。それが分からない。
しかし、止める間もなく、非常ドアを開けてスペシャルウィークは外へと駆け出して行った。
スリッパで、だ。
ふたたび非常口のドアが、ぎぃ、と音を鳴らして揺れた。
その近くには、手紙が一つ落ちていた。
「あの子が落としていったもの、かな。名前書いてある。・・・スペシャルウィーク」
拾い上げ、土を払い落としたサイレンススズカは、もう一度、どうしよう、とつぶやいた。
今度のつぶやきは全然意味が違うものとなっていた。
天空競馬場があるこの街では、主要道路にウマ娘専用レーンが設置されている。
生活するウマ娘の数が多いためだ。
この街の自動車道は最高時速40kmと決められているところ、ウマ娘道にある40の数字は、時速40kmぐらいで走ってください、という願望込みのひどくあいまいな定義だった。たとえオーバーしても取り締まりの対象にはならない。なるとしたら注意の対象だ。
それは、走るために生まれてきたウマ娘に対しての配慮と、人との距離感から生まれたルールだ。
そのウマ娘道を時速40kmで走るウマ娘はあまりいない。急いている時を除いて。
そして今、1.3倍は超えているスピードでそのウマ娘道をスペシャルウィークは走っていた。
「待てぇー。そこのカラスッ」
上空高く飛ぶカラスを追跡していたのだった。
1つ、2つ、と曲がり角を走る。隣の軽トラックを追い越す。
カラスとの距離は縮まらない。しかし、離れてもいない。
だんだんと息が上がっていく。
それでも、足を止めず。空の黒い鳥めがけて突き進む。
しばらくして、カラスが下降を始めた。追い込みだ。
「よしっ。もうちょっと降りてこい。あと少しで」
そのまま橋の出っ張りにカラスが止まった。下には川が流れている。都会に流れる川にしてはかなりきれいな川だ。魚の姿もある。
息を整える。あと5m程度。とびかかる間合いを図る。
カラスは首をしきりに動かしている。狙われているのを感じ取ってか、見える範囲をいろいろと変化させている。
カラスの動きに合わせ、じりじりと。ゆっくりと。慎重に。しかし確実に。スペシャルウィークは距離を詰める。
あと5歩、まだ届かない。あと3歩、掠るかもしれない、けど慌てるな。2歩。1歩・・・。
いまだ! というタイミングで、
「よぉスぺ。何やってんだ」
ゴールドシップが声をかけてきた。右手にはコンビニ袋がある。
急に声を掛けられたことでとびかかる勢いの目測を誤り、跳びすぎて、スリッパが脱げて、頭から川へとスペシャルウィークがダイブした。
川は大きく白い水しぶきを上げた。
「スぺ、お前。笑いが分かってるじゃないか」
橋の上で感動しているゴールドシップがいる。その真上で驚いたカラスがアストンマーチャンの人形を離して飛び去った。
「スペシャルウィークさん。遅いね」
「そうだね。もう結構経つのに全然帰ってくる気配無いね」
スペシャルウィークが向かった郵便ポストは、この宿から少し離れた場所にある。
しかし、スペシャルウィークにとっては近所だ。最寄りのコンビニが山1つ2つ超えた先にある田舎に暮らしていたスペシャルウィークにとっては、だったが。
ひょいと行って帰ってくる感じで出かけて行ったが、まだ、帰ってこない。
「まさか、何か良くないことが起きちゃったのかも」
「それは・・・大いにあり得るね」
ライスシャワーの心配に、トウカイテイオーが納得していた。
内容はかなり違う。ライスシャワーはスペシャルウィークが不幸な何かが起きているのではと思い。トウカイテイオーは、また想像の上の何かを起こしたのではないかと思っている。
互いに顔を見合わせて一つ頷いた。
探しに行こう、とどちらからも言うことなく、二人は外に出ていた。
1階まで降り、宿のエントランスに出ると、そこには一人のウマ娘の姿があった。玄関付近であっちに行ったりこっちに行ったりしていた。
時には回転するように歩いている。
腰まである長い栗毛の髪もターンするたび忙しなさそうに広がる。同じくしっぽが不規則に揺れている。緑色のウマ耳カバーもくるくると不安げに回っている。
「帰ってもいいかな。だめ、だよねきっと。あの子はどこまで行ったんだろう。私の人形だから取り返す、って。・・・人形好きなのかな。う~ん、まだ帰ってこない。どうしよう」とつぶやいている声が聞こえてくる。
その手には、スペシャルウィークが先ほど書いていた手紙を入れた封筒があった。
「あの人、スペシャルウィークさんの手紙持ってる」
「サイレンススズカ、だね。これは何か変なことになっているの確定だね」
トウカイテイオーの目が糸目になった。前髪の白いメッシュもうなずくように揺れている。
それでも、スペシャルウィークがどうなったか聞かないわけにはいかない。
「その手紙を持っていたウマ娘を探しているんだけど」
サイレンススズカに声をかける。スズカもトウカイテイオー達に気が付いた。
ものすごく困ったような顔になったサイレンススズカが、
「カラスを追って」
「はい?」
と答えた。
トウカイテイオーは思わず聞き返していた。どうしてそうなった、と。
想像の上をいくとは思っていたが、スペシャルウィークの行動はその遥か斜め上に飛び抜けていた。
もしかしたら、塔での生活でストレスがたまり、つい野生に還ってしまったのかもしれない。と半ば本気で考えてもいた。
しばらくすると、
「ただいま~」
スペシャルウィークが足取り重く帰ってきた。声に張りが無い。疲れているようだ。全身が濡れている。
その手にはアストンマーチャン人形があった。
両手で掬うようにして人形をサイレンススズカに差し出した。
「すみません。汚れてしまいました」
耳がしおれて、尻尾も力なく垂れ下がった状態で、スペシャルウィークが謝った。
人形を受け取ったサイレンススズカは、じっと人形を見ている。
このアストンマーチャン人形が手元から離れてから戻ってくるまでの間。1日にも満たない短い間。しかし、これだけ長時間、一人のウマ娘のことを想っていたことは、サイレンススズカにとって初めての経験だった。
待っている間のモヤモヤとした感情の中から言いたいことが渦を巻いていた。その中で、一つの言葉を選び出した。
「ありがとう」
と、はにかんだ笑顔で答えた。
スペシャルウィークの顔がぱぁっと花開くように笑顔になった。尻尾も嬉しさのあまり、ちぎれんばかりに回っている。
「で、なんでそんなに濡れているの」
「大変、はやく着替えないと風邪ひいちゃうよ」
「それが、川に落ちちゃって」
「はい?」
トウカイテイオーはまたまた聞き返していた。
手紙を出しに行く。カラスを追いかける。川に落ちる。うん、文脈がつながらない。手紙をカラスに取られたのならまだ理解できる。しかし実際はサイレンススズカが持っている。と、思考の迷路に迷い込んでいた。
その横でライスシャワーに手を引かれてスペシャルウィークは部屋に向かっていた。途中スペシャルウィークが顔だけを向けてサイレンススズカに伝えた。
「私、3日後レースがあるんです。よかったら見に来ていただけませんか。私一生懸命走ります」
その問いに、サイレンススズカは少し間をおいて答えた。
「うん。気が向いたら。行くね」
「待ってます!」
そうして、次の日のトレーニングになった。
トレーナーが無意識に飴をがりッと噛んだのは、スペシャルウィークの走りがおかしいからだ。
やる気がみなぎっている。それはいい。しかし精神が前に行き過ぎている。体がついていっていない。しかも足の動きから不調なのは明白。疲れが取れていない。
昨日のトレーニングではここまで疲れが残るはずがない。
「スぺ。お前昨日帰った後何をした」
「えーっと。じつは」
問いただした結果。トレーナーの頭も昨日のトウカイテイオーと同じ状態になった。
ややあって、指でトウカイテイオーの方を指すと、
「今日走るの禁止だ。お前も座禅するんだ」
と言った。
それに従うしかなかったスペシャルウィーク。いい笑顔でトウカイテイオーとアストンマーチャンが手招きしていた。
その日の夜。スペシャルウィークは涙目になって耐えていた。
ライスシャワーが2人を消毒していたのだ。昨日覚えたやり方を忠実に再現しての治療だった。