店内をピアノの音が静かに流れていた。
天空競馬場200階にある隠れ家的な雰囲気のバー『天使と悪魔のぼったくり亭』を包むように曲が続いていく。
やや暗い店内をオレンジ色のライトがうっすらと照らしている。一枚板のカウンターはまるで鏡のような光沢がある。
地上よりもお値段が異常だが、上層トレーナーには人気がある店だ。
東条ハナはちらりと横をみた。クラシックな雰囲気漂う店内で、丸椅子に腰を半分だけ乗せて座り、棒付きキャンディーを頬張る度胸は認めている、とハナは思っていた。
隣の男に、である。
トレーナー同士の話がある、とハナがトレーナーを誘ったのだ。支払いはハナ持ちだ。
そうでなければ、急に7人もウマ娘が増えたトレーナーには財政的にこんなところへ来る余裕などなかった。
トレーナーの目の下にはうっすらクマがある。連日、ウマ娘所属控除条項と支援金制度を徹夜で見直していたためだ。
「それで、用ってなんだ」
「スズカのことよ」
トレーナーはグラスに口をつけて啜る。喉が熱く、辛味と酸味が鼻からふわっと抜ける。
一口数百円から数千円と考えると、蒸発すらもったいない、がそれ以上に一気に飲むのがもったいない。といった飲み方だった。
音をたてないようにグラスをテーブルの上に置いた。
「休養させたって話はきいている。調子を崩していた原因はなんだ? ケガでもしたのか」
「分からないわ。医者の話では体調には問題ないって。針治療も効果なし。メンタル部分になるだろうけど、それはあの子全然話さないし、カウンセラーにも、はい、しか言わないし」
バーのマスターがグラスを拭いている。ピアノの合いの手のように、グラスを磨く音が人の耳でも大きく聞こえる。人の声はほかにしない。今日の天使と悪魔のぼったくり亭はいつも以上に静かだった。
二口めを啜る。そして、トレーナーは東条ハナの次の言葉を待った。
「自分のところのウマ娘の弱点を言うものあれだけど。スズカ、支配系の馮に弱いのよ。自分が前を走ること以外考えていないから」
「それでも、あの逃げは脅威だ。たいていのやつなら射程距離にも捉えられない。逃げ切れる」
「ナイスネイチャみたいな広範囲持ちからは逃げられないわ。あと先頭集団のみ狙い撃ちするタイプとか」
東条ハナも一口飲んだ。そのあと、指でテーブルを叩いていた。
「あの子の走りが通用するのは100階クラスまでなのに」
「誰よりも速く。ただ速く走ること。ウマ娘としての本分と言われていることを突き詰めた。それがサイレンススズカと思っているけどな」
「1人で走るのならそれでいいわ。タイムアタックならスズカはこの塔で1、2を争う実力者なのは分かってる。グランドマスター含めてね。それでも、それだけじゃあレースでは勝てない」
テーブルの上で指を止めた。
「あの子が気を許せる友達でも作ってくれれば、感情を表に出さない性格も少しは変わるんだけど。他のウマ娘のレースは興味ないし、話聞かな過ぎて150階まで自分の個室があるって知らなかったみたいだったし」
東条ハナはグラスを傾けた。残りを喉を鳴らして飲んでいく。
その言葉に、ふと、トレーナーは思い出した。サイレンススズカが他のウマ娘のレースを見てもいい、と最近聞いたことを。
「そういえば、うちのスペシャルウィークがサイレンススズカにレース観戦のお誘いして、行けたら行くって言ってた、と聞いたぞ」
空のグラスをテーブルに叩きつけるように強く置いた。東条ハナは目が見開いている。クールレディを体現している彼女にしては珍しい光景だ。
しばらくして、口元を握った手で隠しながら咳をした。
「貴方に頼みがあるわ」
彼女の頼みを断るわけにはいかない。ここの支払いはできない。気分を損ねて帰られたらまずい。まさか最初からこれを狙って、とも考えた。その可能性は捨てきれない。
そう思うと、諦めたように、グィっと一気に煽り飲んだ。
辛さが、喉に染みた。
サイレンススズカは迷っていた。
スペシャルウィークのレースの日になったけれど、その実、行こうかどうかは踏ん切りがついていなかった。
ただ、近いうちにスペシャルウィークに会わなければいけないことがあった。
手紙だ。
スペシャルウィークが宿で落とした手紙をまだ返せていないのだ。
ずぶ濡れで帰ってきたスペシャルウィークは、ライスシャワーに手を引かれてすぐに部屋へと連行されていた。手紙を渡す暇無く別れてしまったためだ。
今度偶然出会うのがいつになるか分からない。常に手紙を持ち歩くわけにもいかない。部屋を訪れるのも何か変だ。と、3日間机の上に手紙が置いてあった。
レースはない。練習もない。やることがない。と、日がな一日中この手紙をどうやれば返せるかと持ち主の事を思っていたサイレンススズカ。
モヤモヤした気持ちは募るばかりだ。夢の中にすら手紙が現れる始末なのだ。
しばらくして、深呼吸をして、時計を見て、ようやく決意した。
「この手紙を返すため行こう。でもいつ渡せば。レースの前じゃあ荷物になるよね。それならレースの後」
携帯を取り出すと、おぼつかない手つきでスペシャルウィークのレース階と時間を探した。初めてといっていい、ほかのウマ娘の出走レースの予定を開くのは。
今日のレースとは聞いていたが、どのレースに出るかは知らなかった。
スペシャルウィーク。検索にヒットした。
「53階。あと40分後。まだ間にあう」
個室を出て、天空競馬場の高速エレベーターへと向かっていった。
100階でエレベーターを乗り換え、50階で降りると多少道に迷いつつも今度は階段で3階分上がった。
そしてスタンドまで進むと、ライトに輝く芝のレース場が現れた。
なつかしい。
見た途端そう感じていた。最近下層に来たはずなのに、あの時とはまるで見える風景が違う、と。
すでにレースは始まっていた。第2コーナーまで先頭が進んでいる。
「スペシャルウィークさん、は」
見つけた。
後方、一番外枠を走っている。東条ハナに言わせればダメ出しされる位置取りだ。レース中誰よりも長い距離を走らなければならなくなるためだ。
それでも、走っているスペシャルウィークをみて、
「なんだか、楽しそう」
と思えたのは、スペシャルウィークが頭を真っ白にした結果の位置取りだったからだろう。レース中に余計なものを考えない走り。だから、前だけを見ていられる。
スペシャルウィークに作戦なんて言葉はなかった。
トレーナーの指示だ。契約して日が浅いこともあり、余計な事は考えず自分がここだと思うところを走れ、というウマ娘のやりたいように走らせるやり方だった。
よく言えば自在。
悪く言えば放任主義的な指示の下、スペシャルウィークが選んだのはエキシビジョンマッチの時の走り。
ここから、レースが後半戦に突入した。
ピクリと緑色カバーをしたウマ耳が反応した。スペシャルウィークが仕掛ける気だ。
長距離ロングスパートだ。一気に先頭集団へと迫る。
第3コーナー、最終コーナーを経て、最後の直線を迎えた。
「私なら、ここで」
というタイミングと同じくして、スペシャルウィークがもう一度、伸びた。
重なる。重なった。自分があの場所で一緒に走るイメージが湧きだった。
先頭に躍り出た。2番手を引き離していく。後ろは見ていない。スペシャルウィークが見ているのは常に前だ。
「私の見たい景色が、あの子には見えている」
少し胸が締め付けられる様だった。栗色の尻尾が縦に一度振れていた。
そのあと、残り200mの時点でスペシャルウィークが伸びなくなった。2番手、3番手がまとまって迫る。
「勝って」
と発した声は無意識だった。合わせるように、スタンド前方からもスペシャルウィークを応援する声がした。
トウカイテイオー、ライスシャワー、ダイワスカーレット、ウオッカ、アストンマーチャン、ゴールドシップ、メジロマックイーンの姿があった。
その横には飴をなめているトレーナーの姿もある。
彼女たちの声援に背を押されて、最後に踏みとどまった結果、頭一つ分有利な状態でそのままゴール板を横切った。
スペシャルウィーク1着だ。
クールダウンしながら手を振っている。頬をうっすらと赤く染め、口をおおきくあけて嬉しそうだ。
サイレンススズカの足がうずく。走りたくなる。そんな気にさせてくれたレースだった。見に来て良かったと少し思った。
スペシャルウィークが手を振るのは前のチームメイトに向かってだ。その目が、ふと、サイレンススズカをとらえた。目が合った。
思わず一歩身を引く。嫌な予感が背中を伝う。200階で走るよりも危険が迫っている感覚だ。
とたん、一気に、直角に、鋭く、スペシャルウィークが猛ダッシュした。その加速はレース時よりも速いかもしれない。
コース脇の手すりを壊さんばかりの勢いで掴むと、肺が膨らみきるほどの空気をため込み、声と共に一気に吐いた。
「スズカさーんっ!」
スタンド中に響く声量で叫んでいた。みんなが見ている。
かなり、いや、最上級に恥ずかしい。
スペシャルウィークのレースを見に来たことを後悔していた。
人違いです、と帰ろうという気持ち8割、しかし手元の手紙がそれを阻止する。ここで帰ったら、今度手紙を返す時にこの恥ずかしい事がもう一度あるんだぞ。と訴えてくる。
深く大きい溜息をサイレンススズカは吐いた。
そして、ゆっくりとスペシャルウィークに近づく。
手すりの切れ目から、観客席の仕切り壁までスペシャルウィークも進んでいた。手が届く距離だ。
「見に来てくださったんですね!」
尻尾がせわしなく横に振れているのが見える。
気まずい。早く要件を終わらせて帰りたい気持ちが高まった。
スッと手紙を取り出してスペシャルウィークに渡す。
「これ、あの時落としたの返せていなかったから」
「あ、手紙だ」
受け取ると、スペシャルウィークは胸に手紙を抱きしめて、
「ありがとうございますっ」
と喜んだ。
その後、周りの目を気にしてそそくさと帰ったことなど、サイレンススズカにとっては初めての体験だった。顔が火照っている。
周りなど今まで気にしたことがなかった分、余計に落ち着かず、恥ずかしさが勝っていた。
部屋に帰り着くと、ベットにダイブし、枕の下に頭を滑り込ませた。
枕を手でぎゅっと押し付ける。それでも、先ほどのスペシャルウィークの大きな声が耳の中に響いているように感じられていた。