天空競馬場の塔入り口前で、スペシャルウィークは塔を見上げていた。
ウマ娘の聖地と呼ばれる競馬のための塔は、最初に見た時と変わらず、雄大な存在としてそびえ立っている。
馮を使いこなすようになって改めてみて、やはり、このウマ娘の聖地は今日も熱気、喜び、悲しみ、殺気、怒り、狂気が渦を巻いているのが見える。
まだ暑いけれども、夏も終わりに差し掛かっていた。
ボストンバックを担ぎなおす。その持ち手にふと力がこもる。
揺れたバックのファスナーから、アストンマーチャン人形が垂れ下がり、王冠がキラリと輝きを見せていた。
「準備できたか」
と飴を舐めているトレーナーの姿があった。
この長身で側頭部を刈り込んでいる青年の口元に飴の棒が無かったのは1度しか見たことがない。今日、スペシャルウィークが北海道へ帰郷する時でさえ、口からは棒が見えていた。
「少し間が開いてしまいますが、体にはお気をつけて」
隣に立つメジロマックイーンが手を差し出した。
背筋正しい正すまいをして、紫がかった芦毛の髪は今日も真っすぐで、夏の日差しの中で光沢がある。
その白い手に握手をした。2度ほど振ると、静かに解いた。
「ま、すぐに会えるだろ。会えなくてもスぺの気配はもうこのゴルシレーダーに登録済みだぜ。北海道でも地中海でも、ナノメートル単位で見つけ出せるってもんよ」
「ですから、なんでそんな無駄なことに能力使っているんですか。レースに使ってくださいませ。レースに」
マックイーン背後からゴールドシップが歯をきらめかせて現れた。
そのさらに奥からはアストンマーチャンの姿がある。
「スペシャルウィークさんには特別に、1家に2体のマーちゃん人形ですよ」
手に抱えるサイズの2等身アストンマーチャン人形をスペシャルウィークは受け取る。
もう1体はバックのファスナーについている人形の事だ。
「スぺ先輩。今度天空競馬場で会うときはアタシたちも100階に行っていますから」
「先輩が驚く力、身に着けておきますよ」
ダイワスカーレットとウオッカが、アストンマーチャンの横に並び立つ。
握りこぶしを作って、こつんと3人で合わせた。
「スペシャルウィークさん」
ライスシャワーが静かに前に出た。手をおずおずと差し出していた。その手を取る、瞬間、だっと抱き着かれた。
この数か月間一緒に暮らした思いを込めてライスシャワーが抱きしめていた。
スペシャルウィークは何も言わずにそのライスシャワーの後頭部をゆっくりなでる。
「ありがとうございました」
「また3人で一緒に暮らそうね」
「はい」
そう言って、ゆっくりと名残惜しそうにしながらライスシャワーは離れた。
一緒にトレーニングしてきた全員の顔が一列に並ぶ、いや、1人足りない。
「テイオーさんは? 今朝から見かけませんでしたけど」
「ああ、まぁ、そうだな。うん、俺にはわからん」
トレーナーは頬を掻いている。メジロマックイーンが肘打ちをしていた。
ゴールドシップがトレーナーの首元に手を回している。余計なことを言った瞬間に落とす達人のように目が鋭い。
「そうですか」
と、スペシャルウィークのウマ耳が、しゅん、と垂れている。
「そうクヨクヨするな。また半年後に来れば会えるさ」
「そうですわ。6か月間の出場停止なんてあっという間ですわ」
「いや、マックイーン。言い方悪いって、理事長からのお達しはそんな言葉じゃなかったぞ」
「言い方変えてあるだけですわ。『新たなインスピレーションを得させてもらったご褒美に各地の理事長おすすめ施設招待券を半年分贈呈(消費するか期限切れになるまで出走できない)』というのはあまりにもバカげています」
マックイーンが腕を組んで、すん、と口をへの字に噤んでいる。
その頬をゴールドシップが突っついている。
「そういえばトレーナーさんは何もなかったんですか」
「・・・聞かないでくれると嬉しい」
「あはは」
遠い目をトレーナーはしていた。これ以上突っ込むのは憚られた。
少しの間があり、トレーナーが遠いところから復帰するとおもむろに時計を見た。
「もうそろそろ時間だな」
1台のタクシーが天空競馬場の前に止まった。予約していたタクシーだ。スペシャルウィークはタクシーに乗り込む。トレーナーが「このぐらいは」と珍しくタクシーの運賃を渡している。
「最後に」とトレーナーは飴を口から取り出して、言った。
「半年後、この塔で戦うのは150階からになる。施設招待券とは別に、あれだけの走りを見せたお前とテイオーは飛び入りで100階組となったわけだ。半年後から150階入階済み扱いとなる。中層は1年半レースに出ないと出場権はく奪になってまた1階からだ。ちゃんと覚えておけよ」
「わかってます。大丈夫ですよ」
「お前ならまた1階からやりかねん」
「ひどいですよ。そんなことしませんから」
タクシーが出発した。後ろで皆が手を振っている。
皆の姿が見えなくなって、スペシャルウィークは、一度溜息を吐いた。濃い時間だった。
この数か月だったけれど、まるで数年は塔でレースをしたような感覚すらある。北海道で流れていたのんびりとした時間感覚とは全然違っていた。
もう一度息を吐いた。胸に手を当てる。その格好のまま、駅に着いた。
特急用のホームまではかなりの複雑さがあって、もはや迷宮と駅は化している。天空競馬場やメジロ家の離島の別荘とはまたベクトルが違う複雑怪奇な空間だ。
当然のようにスペシャルウィークは迷った。
ようやく、目的の階段を発見したのは、発車時刻残りあと少しといったところだった。階段を1段飛ばしで駆け降りる。長い階段だった。隣にエスカレーターがあるが、スペシャルウィークは走ったほうが速いと階段を選んでいた。
「あ、やっと来た。遅いよ」
たどり着いた先で声がした。顔を上げるとそこにはトウカイテイオーの姿があった。旅行鞄を持っている。
隣にはタマモクロスとナイスネイチャの姿もある。それぞれが大きな荷物を抱えていた。
「テイオーさん。それにタマモさんとネイチャさんまで」
「挨拶はあとでしよっか。もう出発してまうよ」
「そうでした!」
電車に乗り込んだ。ドアが閉まる。数秒と待たずに電車が進み始めた。
「皆さんどうしたんですか」
「そりゃ、ウチら仲良く出停食らったやんか」
「それでアタシらのトレーナーが、タマモ1人ほっとくと危ないからってアタシを目付け役にしてさ。ひどいよねほんと」
「そういうわけでボクたち塔で走れないんだったら、皆でこの理事長施設めぐりをのんびりしようっておもったんだ。昨日思いついてね。そのときスぺちゃん寝てたからタマモとネイチャに相談して、じゃあ電車で合流って話になったんだよ」
「うわ、言ってくださいよそういうこと。テイオーさんに今日会えなくてどうしようかと思ってたんですよ」
「ごめんごめん」
そのまま、電車が進み、スペシャルウィークが乗り換える駅となった。
「えっと、皆さん最初にどこ行くんですか」
「決まってるじゃん」
トウカイテイオーは自信満々に言った。
タマモクロスとナイスネイチャが頷いている。スペシャルウィークの頭にははてなが浮かんでいた。
「スぺちゃんの家だよ」
最初、スペシャルウィークは何を言われたのかわからなかった。その意味が分かり、溢れるように笑顔になって「はいっ」と答えた。
電車の乗り換えをして、どんどん北へと進んでいく。
そのうち、単線となり、周りには田畑や森だけが見えるようになっていき、電車の編成が2両となり、ついには1両となった。
1つの駅で4人のウマ娘が下りる。掘っ立て小屋の様な駅で辺りには人っ子一人見当たらない。
「うっわぁ。何もないところだよ」
とトウカイテイオーは駅から出てすぐ見える景色を一望して喜んでいる。
「スぺちゃん家ってどっち?」
「この道をまっすぐです」
3人がスペシャルウィークの指さしたほうを見た。地平線が見える。その先には青い山がこんもりとしていて、その山に向けて一本の線が続いていた。
「道しか見えないんだけど」
「はいっ」
スペシャルウィークは尻尾をぶんぶん振って答えていた。
そうして、暫く歩き続け、ついに一軒の民家が見えた。周りにほかの家の気配はない。軽トラックが玄関横に停まっている。
家に着くとさっそくといった感じで、引き戸をがらがらとスペシャルウィークは開けた。
「ただいま」
北海道の空に、スペシャルウィークの声が響いた。