藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第一話:時鳥(ホトトギス)の鳴く声

『どこかで時鳥(ホトトギス)が鳴いているのではありませんか……?』

 

 初夏の夜に発したあの一言が、思えばこの姫の長きに渡る非業の、あるいは宿命の始まりだったのかもしれない。

 

 

 

 時は、のちに『平安』と呼ばれる世。

 そのいずれの御時のことだっただろうか。貴族文化が鮮やかに花開いたこの時代は純然たる身分差が存在する世でもあった。

 

 そんな貴族文化の中心、(まつりごと)と華やかな遊びが絡み合う京の御所には七殿五舎から成る後宮があり──複数の女御が住まって今上の寵を競っていた。

 

 その後宮の、とある初夏の日の昼下がりのことだ。

 

 

「佐為の君が麗景殿へお渡りよ……!」

「まあ、いつお見上げしても花のようなお美しさだこと……」

 

 

 一人の女人が、そんな声に足を止めた。

 振り返ったその女人の視界には緋の袍が映った。腰には剣帯している。

 緋の袍は五位の証。そして剣帯しているということは──。

 

「……侍従……?」

 

 陽の差し込んだ先の緋の色が眩しくて、彼女は目を窄めた。

 視界の先にあるのは麗景殿だ。あの侍従らしき人物は麗景殿の女御の関係者だろうか。

 立派な小袿を身に纏った彼女は、後ろ姿の緋の袍を一瞥してから歩いていた承香殿の渡殿を進んでいく。

 

 

 今上の世になってまだ日は浅い。

 だがここ数年は政争もなく、穏やかで安定した日々が続いてる。

 先帝の末期はあれほど騒がしかったというのに、まるであの日々が夢のようだ……、と彼女は少しだけ遠い目をして雲居を見上げた。

 

 

 ──先帝の末期、時の大臣が大宰へ配流となる不祥事が起きた。その監視のためという名目で、慣例では親王が任じられる『大宰帥(だざいのそち)』に任じられたのは当時の左大将であった。

 本来は在京でその職に就くことが習わしの(そち)が下向を命じられたのは、真実(まこと)に『監視のため』であったのかは今も定かではない。しかし、度々の賊徒侵入で中枢の人間を大宰府に送る計画自体は以前からあり、腕利きの武人でもあった左大将は異議を奏上せずに下向を決めて筑紫へと旅立つ日を待った。

 

 その後すぐに先帝は譲位し今上の世となったわけであるが、春宮時代から慣れ親しんだ左大将を不憫に思った今上は即位後に彼を内大臣に格上げした。

 内大臣とは時に名誉職として贈られるものだ。すでに下向の決まった彼の官職が上がろうがそれほどの脅威には思われなかったのだろう。議政官からも異議が出ることはなく、これを境に『(そち)大臣(おとど)』と呼ばれるようになった彼は、大嘗祭を最後にたった一人の姫を都に残して筑紫へと下向した。

 

 

 その姫が『(しおり)』という(あざな)で呼ばれていたことは、千年ののちまで残る『二条左大臣記』、俗に『二左記』と呼ばれる日記や複数の貴族の日記からも確認できる。

 

 父は(そち)大臣(おとど)、母は宮家というその姫は、都いちと謳われるほどに舞の才に秀でていた。──と、後のどの史料にも記してあった。

 

 

 そして、その姫には縁者の後見人がいた。

 名を──。

 

「今宵は源博雅(みなもとのひろまさ)さま……長秋卿(ちょうしゅうきょう)が宿直の夜でしょうか」

「笛の音がここ登華殿まで聴こえてきますわ」

 

 名を、源博雅(みなもとのひろまさ)と言った。

 産まれた時に天から楽の音が響いていたとまことしやかに噂される、当代一の管弦者でもある。

 

 その博雅の奏でる笛の音を目敏く聞きつけ、宮中は後宮──登華殿の女房たちが囁いた。

 すれば、殿(でん)(ぬし)たる女御(にょうご)その人にも聞こえたのだろう。上げられた御簾(みす)の先から上品な声が漏れてくる。

 

「長秋卿の宿直(とのい)とあらば、今宵は栞の君が参られますわね」

 

 その声に呼応するように、彼女の声を聞いていた女房の一人が、あら、と小さく呟いた。

 

「うわさをすれば……」

 

 みなが廂の方へ目線を移してしばらく、一人の女人が小袿姿で母屋へと顔を出した。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく……」

 

 若菖蒲襲ねの質の良い衣に豪奢な文様。その出で立ちはひと目でこの殿舎の主(女御)に次ぐ身分だと見て取れたが、みなは慣れたように彼女を迎え、彼女もまた慣れたように奥に座る女御に向かって一礼をした。

 

「まあ栞の君、そろそろあなたが来られる頃ではと話をしていたところですのよ。わたくしが春宮妃であった頃からの慣わしですから」

 

 女御は上品そうな声で女人──栞に声をかけ、彼女も顔を上げて頬を緩めた。

 すれば周りの女房たちがさっそく彼女へと声をかける。

 

「栞殿、こちらへいらして」

「栞殿がいらしたんですもの、碁でも打ちませんこと?」

「あらせっかく長秋卿の笛が聴こえるのですから、合わせて舞っていただきたいわ」

 

 女房たちの艶やかな衣装が薄闇を照らす灯に映えてなんとも雅やかだ。

 その様子を穏やかに見守る女御もまた、宮中暮らしがすっかり馴染んでいるのが見て取れた。

 というのも今上の春宮時代に入内(じゅだい)していた彼女の元には親兄弟が競うように学の誉高い女房を送り込んで教養を身につけさせ、今上即位後には真っ先に女御宣下(にょうごせんげ)を受けたほどには宮中暮らしが長い。

 しかしながら今上は今のところ三后が全て埋まっていることを理由にのらりくらりと将来に誰を立后させるかかわしており、上達部(かんだちめ)はやきもきしていたのだが、当の女御本人は全く気にする様子を見せていない。むしろ才ある女房を集めて自身の殿舎を社交場とするのを楽しんでいる風でさえあった。

 

 見上げればいつの間にか格子の先に月が出ており、うっすらと朧げな様子に誰とはなしに感嘆の息を漏らした。

 

「このような趣深い夜は、琴など弾き鳴らすのがよろしいかと思われますが……」

「長秋卿がいらっしゃるのですから、こちらの拙い音など聞かせてはと気後れいたしますわね」

 

 帝のお召しも御渡りもない後宮の夜は普段よりもゆったりと更けていき、しかしながらみな飽きもせず歓談に興じた。

 碁や双六に精を出し、そのうちに一人、二人と寝静まっていったが、栞はというと一人の女房の(つぼね)に引き入れられてまだまだ眠れぬ夜を過ごしていた。

 

「せっかくの夏の夜ですから......楽しまないのも罪というものですよ」

「清少納言殿はまたそのような......」

 

 御簾も几帳もどかし、御格子をあげた先から差し込んでくる月明かりを頼りに既に二局は碁を打っただろうか。

 彼女──女房名を清少納言と言う──はここ登華殿の女御が春宮妃であった頃から仕えており、栞とはその当時からの付き合いになる。才気煥発な女房で後宮内でも随一の棋力を持ち、栞ともよく打つ囲碁好きである。

 

「夏の夜は短いのですから寝て過ごしては損というもの。長秋卿もまだ笛を吹かれているではありませんか」

「博雅さまが宿直所(とのいどころ)からお出にならずに夜通し(がく)に夢中なのはいつものことですし……」

 

 途切れなく聴こえてくる笛の音色に清少納言は笑い、栞は肩を竦めた。同時に少しだけ目を見張る。

 笛の音に混じってほんの微かに鳥の鳴き声のようなものが聞こえたのだ。

 

「どこかで時鳥(ホトトギス)が鳴いているのではありませんか……?」

 

 栞は外へと視線をやった。

 すれば清少納言からは「まあ」と訝しがるような息が漏れた。

 

「もう時鳥の季節は過ぎましたでしょうに」

「でも、いま確かに……」

「でしたら……、どなたかが栞殿をお呼びなのではないですか? 時鳥は冥界からの使者だと言いますから」

「またそんな迷信めいたことを……」

 

 そもそも離れて暮らしているとはいえ両親もまだ健在だというのに不吉な。と清少納言へ視線を戻した栞はギョッとする。彼女は何かを訴えるようにしてこちらを熱心に見ており、栞はやや身構えた。

 

「清少納言殿……?」

「いずれにせよ、まこと時鳥なら見逃すわけにはいきません。栞殿、確かめて見てきてくださいませ」

 

 え……と栞は頬を引きつらせたと同時に思い出した。

 ──この清少納言という人は、今年一番の時鳥の鳴き声を聞き漏らすまいと夜通し粘って待っていたりする風流人でもある。ゆえに、今年最後かもしれない時鳥も見逃せないということだろう。

 失言だった、と頭を押さえた栞になお清少納言は言った。

 

「おついでに蛍など捕らえてきてくだされば嬉しゅうございますわ」

「私に後宮を夜歩きせよ……と?」

「あら、そのままでとは申しません。栞殿のご衣装はございますからお着替えなさいませ」

 

 言って清少納言は部屋の奥から衣装箱を出してきて、有無を言わさず既に薄着であった栞に着せていった。水干と呼ばれる童衣装であるが、栞が時折り舞を舞う際に使用しているものだ。

 童衣装とはいえ動きやすい故に下人が使用することもあるが、女人が着ることはまずない。

 ゆえに水干(これ)さえ着れば、たいていの人間には小舎人(こどねり)にしか見えないゆえ歩きやすくはあるが……などと考えているうちに髪を左右に分けて下げ角髪(みずら)に結われ、仕上がった姿を見て清少納言は感嘆の息を漏らし頬を染めた。

 

「相変わらず……宮中のどの姫大夫(ひめもうちぎみ)よりも美しいこと」

 

 姫大夫、とは東豎子(あずまわらわ)という下級女官のことである。行幸の際は男性官人の装束を身を纏い、馬に乗って供奉(ぐぶ)することもある。

 つまるところ男装を褒められているわけで、栞は肩を竦めた。

 

「ありがたいことですが、水干が似合うというのは自慢になるでしょうか。髪も、角髪を結えるほどに短いのですし」

 

 動きにくい、という理由で栞は髪を短めに保っていた。女性の美しさの基準の一つは髪の長さであり、やや気恥ずかしい思いで言うと清少納言は自身の縮毛に手をやって笑った。

 

「栞殿が御髪(おぐし)を頻繁に切られるおかげで私は美しい(かもじ)が手に入るのですし、少なくとも私にとってはありがたいことです。それに男衣装を着られた栞殿に勝る殿方はこの宮中でもいるかどうか……! あの佐為の君よりも瑞々しさでは勝っておいでですのに」

 

 清少納言は目を輝かせて言い、栞は目を瞬かせて少し眉を寄せた。

 

「佐為の君……?」

 

 誰だ? 思うと同時に、ここに来る前に麗景殿で見かけた殿方がそう呼ばれていたような。と考えるもギュッと手を握ってきた清少納言にその思考は乱される。

 

「ほんとうに……、大臣(おとど)の姫君というのは肌の輝きからして私どもとは違うのですから……。貴いお生まれがいかに天からの賜り物か分かるというものです」

「その大臣(おとど)の姫に時鳥探しをご指示なさった方が目の前にいらっしゃるのに」

「恐れ多いことは重々承知しておりますが……。でも栞殿と私の仲ですもの」

 

 恐縮しつつもあっけらかんと清少納言が言い、さすがに栞は苦笑いをこぼした。

 彼女の方は気にする様子もなく、それに、となお軽く言う。

 

「宮中の者は、栞殿が大臣(おとど)の姫であると承知している上にご性質もご存知です。咎める者もいないのですから、これ以上の適任はいないでしょう」

 

 では後ほど、と清少納言は栞を部屋の外へと出し、あっけに取られた栞は肩で息をした。

 ここ登華殿や直ぐ隣の弘徽殿の細殿には女房たちの部屋があり、彼女たちに通う男君と()()()()()で鉢合わせでもしたら厄介である。

 足早に外に出れば緩やかな風が頬を撫でていく。

 

 「夏は夜がいい」──と清少納言は昔からしきりに唱えていた。

 

 夏も盛りになってくると京の蒸し暑い夜はとても「良い」と言えるものではないが、初夏の月夜は悪くない。

 緩やかな風に包まれ、爽やかさと共になんとも艶かしい雰囲気が漂っており彼女の言葉も道理であろう。

 ましてや、神の祝福を受けてこの世に生を受け“楽聖”とまで称えられる博雅の奏でる笛の音が響く宮中の夜なのだ──と感じ入りつつも栞は自嘲気味に眉を寄せた。

 清少納言も本当は自分の目で時鳥や蛍を見たかっただろうに、女人の夜歩きなど叶わない世だ。

 

 自分にしても、さすがに屋敷内や宮中以外を舎人(とねり)もつけずに歩くことはまずないが。と、若い公達(きんだち)であれば心躍りそうな夜歩きを、人目を気にしつつ闇夜に紛れるようにして歩いていく。

 登華殿の外に向かう門を抜ければ、塀の先にあるのは疑花舎、飛香舎、そして襲芳舎──またの名を梅壺、藤壺、雷鳴壺──だ。

 生ぬるい風に吹かれつつ心地よさに口の端をあげながら耳を澄ましてみる。

 しかし、いくら意識を集中させても聴こえてくるのは博雅の笛の音で、栞は唸りつつ首を傾げた。

 

「聞き間違いだったかな……」

 

 時鳥を訪ねて、などと使い古された夜歩きの口実であるが、本当に聞こえたというのに。なお耳を澄ませていると、ふと風向きが変わって笛の音が遠のいた。

 

「……あ……」

 

 代わりに、微かだが何かを弾くような乾いた音が栞の耳に届いて目線を上げる。襲芳舎の方からだ。

 

「石の音……?」

 

 今上の女御や女官で襲芳舎に住まうものはいないはず。とすれば、隣の梅壺に入りきれない女房が使っているのか、それともあの場を宿直所としている右近衛府(うこんえふ)の誰かか。

 いずれにしても誰かが石並べか囲碁にでも興じているのだろう。

 さっきの今で囲碁という気分でもないが、清少納言にも勝る囲碁好きの誰かだろうか。

 右近衛府の武官たちであれば賭け碁だ罰杯だと騒がしいに違いないから女房たちか。

 

「“手談幽静処, 用意興如何……“」

 

 静かな場所で打ち手の石が語らう。手を考えることのなんと趣深いことか。見知った漢詩を口ずさみつつ、栞は石の音の導かれるようにして襲芳舎へと足を向けた。

 

 うっすらと月を覆っていた雲が晴れ、眩い光が宮中を照らしつけている。

 

 やはり、『夏は夜』なのかもしれない。

 蛍が一、二とほのかに道行きを彩る。栞は水遣りの方からふわりと飛んできた蛍の光を目で追いながら、誘われるように後を追った。

 

 石の音が少し近くなる。

 襲芳舎の簀子が見えてくる。一匹の蛍が廂の方へと向かい、栞はそちらに目線をやった。

 そうしてやや目を見開く。

 月明かりに照らされたその先で、その明かりを頼りにするように優雅に簀子に腰を下ろして碁盤へ向かう青年がいたのだ。

 彼に近づいた蛍が彼の纏う葵襲ねの冠直衣(かんむりのうし)を淡く照らした。その襲ね(かさね)の薄青と薄紫が月明かりと蛍の二重に照らされ、思わず目が奪われるほどの優雅さを放っている。

 一人で碁盤に向かう彼は対局図を並べているのだろうか。

 規則的に響く石の音を聞きながらぼんやりと眺めていると、彼の視界に蛍の光が映ったのだろう。栞からもはっきりと分かる、色形のいい唇が柔らかく笑みを浮かべた。

 無意識のうちに視線をその青年に縫い留められていると、彼は蛍の光を目で追うような仕草を見せた。しばし碁盤の上で舞っていたその蛍は簀子の外へとゆらゆら向かい、その青年の視線も外へと向けられた。

 

 刹那、月明かりが互いの顔を照らし──確かに二人の視線が重なった。

 

 栞の瞳に、青年の涼しげな切れ長の瞳が微かに見開かれるのが映った。

 

「そなた……少将殿の使いか……?」

 

 先に青年が口を開き、栞はハッと息を詰めた。

 ──彼はどうやら自分を右少将あたりの小舎人童とでも思ったようだ。

 ということは、こちらの顔も身分も知らないということだ。

 ならば、まだ出仕して日が浅い下級貴族か。

 ともかくも、下手にいま大臣(おとど)の姫だと露見するよりは『少年』と思われていた方が良いだろう。

 栞は意識して声を低く発する。

 

「碁石の音に惹かれて参りました。ご無礼をお許しください」

 

 碁石、と発した途端に青年の表情が少し和らぐ。

 

「そなた、碁を打つのですか?」

「え……、ええ嗜む程度には」

「ならば、こちらで一局打ちませんか? 右近の少将殿に付き合いを請われたというのに…… 主上(おかみ)の宿直所に顔を出しに行ったきり戻られず対局相手に飢えていたのです」

「ああ、あちらからは笛の音が響いていましたから、待ち人は恐らくそれを聴かれているのでは……」

「ええ、どうやら博雅三位(はくがのさんみ)がおられるようなので……きっと聴き入っているのでしょう」

 

 要するに彼の対局相手は博雅の笛の音に惹かれて職務放棄をしているらしい。

 そして、どうやらこの場にいるのもこの青年のみ。

 しかし宿直の夜はこれ幸いと女房相手に遊び歩く殿方も少なくないのだから、楽の音に抗えないというのはまだ健全だろうか。思いつつ請われるままに栞は青年のいる方へと向かった。

 幸いなことに眼前の彼はこちらの名を訊ねるでなく、栞は(きざはし)を上がって青年の前に腰を下ろす。

 こちらを元服前の子供と思っているせいだろうか。向き合った彼は優しげな眼差しでこちらを見てきた。

 ──いったい誰だろうか。目の前のこの青年は。

 右近衛府の武官……とも思えないし、どうも武官らしい感じはしない。

 などと考えつつ黒石の碁笥を受け取る。

 

 さて、どうしたものか。

 清少納言などはよく殿方相手に囲碁で大立ち回りを演じては誰々を負かしたと声高に自慢しているが、さて。ここは()()()()()打つべきだろうか。

 

 考えつつ打ち始めた栞は、しばらくして対局相手の打ち筋に違和感を覚えた。

 彼の打つ手は、まさに上手(うわて)下手(したて)にするような、大人が子供を導くような、そんな碁だったからだ。

 ──登華殿随一の打ち手である清少納言よりも数段上の棋力だと自覚のある栞は、まるで指導を受けているようなその対局に思わず目線を上げて彼を見た。

 すれば図らずも目が合い、ふ、と青年が微笑む。

 

「そなた、筋がいい。どなたか師について学んだのですか?」

「──いえ。幼い頃、父から少し手ほどきを」

「ではお父上は碁を生業に?」

 

 いえ、と栞はなお首を振るう。

 もしも自分の父が(そち)大臣(おとど)だと知れば、こちらを下位だと思っているらしき彼は平静に打てないどころかしばらく謹慎生活を送りかねない。

 

 これはただの夏の夜の戯れ。彼が知る必要はないのだ。

 

 考えつつ黙していると、彼はなお笑う。

 

「それでは、そなたの父上は相当な打ち手なのでしょうね。叶うならば一度手合わせを願いたいものです」

 

 彼が本気で打っていないのは明らかで、眼前の対局から技量を測るのは難しい。

 だが相当な腕だということだけは分かる。

 淀みなく流れるような応手が続き、思わず栞は手を止めた。

 いったい眼前の彼は何者だろうか? 昼であれば装束から位階が割れ、ある程度の官職も察せるものである。が、生憎と眼前の彼は冠直衣姿だ。

 むろん今宵限りで会うこともない相手なのだから、知る必要はないのだが。

 巡る考えとは裏腹に、栞はジッと眼前の青年を熱を込めて探るように見つめた。

 手が止まってしばらく。ふいに彼の瞳が、ふ、と細められる。──長考しているとでも思われたのだろうか。カッとしたものの、月明かりが照らす彼の面差しがあまりに美しく……なおさらに石を持つ手が止まってしまう。

 

 現状の盤面は互角と言って差し障りない。彼が本気で打っていないからだ。

 

 視界の遠くで蛍が舞った。

 栞はハッと目を見張る。

 こちらに続く軒廊(こんろう)に人影が見えたのだ。

 ──対局の約束をしていたという少将だろうか?

 さすがに少将がこちらを知らないとは思えない。身咎められれば厄介だ。ここは心苦しいが対局を投げるしか……。

 考えあぐねていると不審に思われたのか、眼前の彼の柳眉が寄せられた。

 しかし栞の意識は近づく人影に支配されており、姿を見られまいと水干の袖で自身の顔を覆う。

 

(とき)が参ったようです」

「え……?」

「今宵はこれにて……。失礼いたします」

 

 そうして栞は渡殿を歩いてくる人影がこちらにたどり着く前に立ち上がり、(きざはし)を駆け下りて襲芳舎から足早に離れた。

 

「そなた……!」

 

 その後ろで青年も立ち上がって栞に声をかけるも栞に振り返る余裕などなく──。

 残された青年はしばし呆気にとられて闇に紛れた人影を追っていたが、そのうちに聞こえてきた足音にはっと意識を戻す。

 

「佐為殿? 如何された、そのような場所に立ち尽くして」

「少将殿……」

 

 佐為、と呼ばれた青年はやってきた人物が自身の待ち人であると確認して小さく息を吐いた。

 

「おや……」

 

 そばまで歩いてきた少将は、打ちかけの碁盤を目に留めたのだろう。意外そうに瞬きをした。

 

「これは……、盤面互角に見えますが、石並べですかな」

「いいえ、少将殿をお待ちしている間に一局打っていたのですよ」

「ほう。して……どなたと?」

 

 問いながら少将は碁盤の前に腰を下ろし、佐為も連なって腰を下ろしつつ「それが……」と言葉を濁す。

 つい今しがたまで打っていた少年。相当に元服が遅れているのか、小舎人童にしてはやや大柄だったように見受けられた。

 それに、月明かりに晒された彼の姿は隠せぬ気品が漂い、立ち姿は凛として──。打つ石の流れさえ淀みなく、久方ぶりに心躍る一局であった。

 惜しむらくは最後まで打てなかったことだろうか。佐為はそっとこちらを照らし付ける月を見上げる。

 

「夏の夜の精が……人の姿を借りてこの世に舞い降りたのやも知れませぬ」

 

 戯れ半分、しかし半ば本気でそう言い下した佐為の言葉など栞は知るよしもなく──。

 

 彼女はまっすぐと登華殿へと戻り、そっと戸口を開けて細殿へと入った。

 端部屋の女房に通う男でもいるのだろうか。微かに男女の逢瀬の気配がするも、そのようなことは日常茶飯事。未だに御格子が半分上げてある清少納言の局の前まで行くと、栞は差し込む月明かりをぼんやりと見上げた。

 しばらくすると、御簾の揺れる音がして栞は振り返る。

 

「まあ栞殿、戻られたのなら声をかけて下さればよろしいのに」

「清少納言殿……、いえ、もうお休みになられたかと」

「寝るには惜しい夜ですから」

 

 言って彼女は薄着のまま栞の横に腰を下ろした。そして彼女は月を見上げる。

 

「夏は夜……月の頃はさらなり……。これで蛍でも舞えば格別ですのに。して……時鳥は見つかりまして?」

「いいえ。でも蛍ならば……先ほど襲芳舎(しゅうほうしゃ)で見ました」

「あら雷鳴壺(かんなりのつぼ)へ行かれましたの?」

 

 なぜ、と問う彼女に向かい栞は自嘲する。

 

「それが、石の音が聞こえて──」

 

 そうして栞はつい今しがた打ちかけで終わってしまった対局のことを話した。

 

「まるで子供扱いでした。歳の頃は二十歳か、少し上か……。とても美しい殿方でしたが、あのような碁を打たれたことが少し口惜しくて。右近衛の誰かでしょうか」

 

 僅かな悔しさと、もしかしたら清少納言であれば先ほど会った青年を知っているのではないかと淡い期待も抱いて栞は言い下した。

 すると清少納言は暑さ避けのためか手にしていた扇を開いて仰ぎつつ緩く笑う。

 

「それは恐らく……佐為の君ではないでしょうか」

「佐為の君……?」

「ご存知ありませんの? 宮中の女人でその名を知らぬものなどいないほどのお方ですのに……」

 

 視線をこちらに流してきた清少納言を見つつ、ああ、と栞は口元に手をやる。

 まさにここを出る前に清少納言がその名を口にしていたし、麗景殿でも確かに誰かがその名を口にしていた。

 

「ちょうど麗景殿へ渡られる後ろ姿をお見上げしました。緋の袍を着ていらして……帯剣されていたので、侍従のうちの一人かと思いましたのに」

「ええ、その通りです。碁に関しましては、かの君は大学寮で算道を学ばれて……その時に才を見出されたと聞いております」

「なるほど、あそこは雑戯の全てが禁じられているというのに碁だけは目こぼしされているようですからね……僧さえ許可されているのになどと言って。だから自然と学生(がくしょう)たちも碁の腕を競うようになるのでしょうか」

 

 思い起こせば、かの菅原道真も碁を愛して漢詩など残していたのだった。と栞は口元に手をやる。

 このところは算道や陰陽道にも盛んに囲碁を取り入れているとも耳にするし、教養の要素の一つでもあるし、賭け碁などを貴人の御前で打つこともあるのだ。意外に碁の腕自慢というのは探せば多いのかもしれない。

 

「そういえば……主上(うえ)も格別に碁を愛でておいででしたね」

「そうなのです。それで佐為の君が碁の覚えめでたく、課試の結果も申し分なくて……主上(おかみ)からは碁の指導役にと取り立てられたという話を私も聞いております」

「侍従の職務に碁の指導が含まれていたとは存じ上げませんでしたが──あ」

 

 そこまで言って、栞はふと思い当たることがあり唇に手を当てた。

 

 ──遣唐使が廃止されて久しいが、今上は大の唐かぶれな上に囲碁好きで名高い。

 「唐の棋待詔(きたいしょう)のような官職を設けたい」と春宮時代によく漏らしていたとは父に聞いた覚えもある。

 『棋待詔』とは囲碁をもって皇帝に仕える役職だ。この宮中で言えば大学寮を出た進士や秀才などが就く役職でもある。

 だとすれば、なるほど。課試に通った碁の上手を侍従としてそばに控えさせ、棋待詔のような役所を担わせるのも頷ける。

 

 栞は思ったままを清少納言に説明しつつも肩を竦めた。

 

「いくら主上(うえ)でも新たな官職の設置は叶わないでしょうから、侍従の業務を増やすというのは考えたものだとは思いますが……それにしても御師待遇でしたら結構なことですね」

「佐為の君は特別なのですよ。とはいえもう一人、主上(おかみ)に碁を教えている方がおられますが」

「あら……、では先ほど私が打った方は佐為の君だとは限りませんね」

「いえ……歳若く容貌も優れた殿方となると、やはり佐為の君でしょう」

 

 清少納言は言葉を濁したが、つまりはもう一人の囲碁指南役が年配か、もしくは褒められない容姿なのか。栞は深く追求はせずに小さく頷くに留めた。

 それにしても、と清少納言が軽く笑う。

 

「佐為の君と栞殿の対局、見逃したなんて悔しいわ。打ち掛けなんて勝敗が気になりますもの。石の並びは記憶してます?」

「ええ、もちろん」

「ではそのうちに並べて見せてくださいな。いっそ女御さまにもお話しようかしら」

「ご冗談を。女御に水干姿で襲芳舎(しゅうほうしゃ)に出向いたなどとお話なさっては私の恥となります」

「今さらではないかしら。女御さまも私も、栞殿のことは裳着も済まさぬうちから存じているのですから」

 

 冗談めかす清少納言に栞は少しだけ肩を竦めた。

 確かに彼女たちとの付き合いは裳着の前(子供の頃)からではあるが──。

 

 あの頃は東宮御所が昭陽舎(梨壺)にあり、当時は春宮坊を仕切っていた博雅や左大将であった父と共によく参入しては舞などを披露していた。

 今上の即位とともに博雅も今上母后に奉仕し後宮全体を取り仕切る中宮職に移り従三位(じゅさんみ)に昇って今では「長秋卿」と呼ばれているわけであるが……。

 

 ()()()の方が楽しかった。と振り返るにはまだ早すぎるだろうか。

 

 

『どなたかが栞殿をお呼びなのではないですか?』

『時鳥は冥界からの使者だと言いますから』

 

 

 やはり時鳥の鳴き声は聞こえない。

 きっと聞き間違いなのだ。

 今夜のことは、夏の夜の戯れ……、と栞はもう一度御格子の外を見上げた。

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