藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第十二話:負態(まけわざ)

 ──あれは遠い昔の秋の日のこと。

 ──その御時の梅壺の内親王(ひめみこ)が碁を競わせなさった。

 ──その頃の人々の優雅な振る舞い、趣ある光景が今なお偲ばれる。

 

 

 

 

 四条の屋敷を彩る木々も紅葉の季節となり、栞はかねてから計画していた通りに佐為と宇治へ出かけることにした。

 

 長旅ゆえ楽な格好をということで佐為は狩衣に袖を通し、その様子を栞は羨ましげに見つめる。

 

「私も狩衣を着て行こうかしら……」

「それはさすがにちょっと……」

「そうだ! 車だと時間もかかりますし、いっそ馬で行きません?」

「良いから大人しく小袿を着てください!」

 

 佐為はというと栞を諫めつつ命婦たちに目配せして素早く彼女に衣装を身につけさせた。

 

 

 宇治に出かけようと誘ったのは栞だが、佐為は「二人でなら」と答えていた。

 というのも、去年は宇治に行くという話を聞きつけた博雅も同行したからだ。

 寝泊まりは別で博雅は自身の別荘を使っていたわけであるが、博雅を追ってきた都の風流ぶった貴族たちと連日連夜優雅な管弦の催し──ならぬ飲んだくれの宴三昧となり佐為も駆り出されてかえって気疲れしたという経緯がある。

 ゆえに今年は二人で、というのが佐為の望みだ。

 

 宇治までは牛車で三、四刻はかかる。

 馬で行けばさぞ快適であろうに──、と思う栞だったが生憎ながら佐為は乗馬をそこまで得意としていない。無理強いをするのも酷というものだろうと大人しく牛車で向かうこととする。

 

 牛車一つをとっても殿方と女人では乗り降りから手間のかかり方が違う。

 殿方のみであれば中門辺りから乗れば済むのだが、身分の高い女人が乗る場合は寝殿から直接乗り降りできるよう呼び寄せなければならない。

 おおよその場合、男君が同乗する際はその人に手を引かれたり抱き抱えられたりして乗り降りするのが常だ。

 むろんそのようなまどろっこしいことをせず外まで歩いて行って一人で乗り降りすることも──体裁を気にしなければ──可能ではあるが、栞は佐為と同乗するときは寝殿の(きざはし)まで牛車を呼び寄せて大人しく抱き運ばれることにしていた。

 

「まあまあ姫さまと殿のお似合いなこと……!」

 

 見ている女房たちが喜ぶことだし。と、佐為に抱き抱えられて牛車へと乗り込む。

 今日は女房二人も同乗するため、佐為は栞を上座ではなく女君を座らせる左側に下ろして自身は右に座った。

 そうして几帳を一枚立て、後ろに女房たちが乗り込めば出発である。

 そのまま揺られることしばらく。法性寺の大門──九条河原過ぎ──が見えてくる。この先はいよいよ山道に入るのだ。

 

「ねえ佐為の君、やっぱり馬に乗り換えません?」

 

 おおよそ宇治へ向かう際に牛車から馬に乗り換えるとしたらこの辺りである。ちらりと栞が佐為を見上げれば彼は小さく息を吐いた。

 

「宇治につけば私も少しは乗馬に付き合いますから」

「そうじゃなくて……やはりこの先は乗り心地が──わ!」

 

 言っているそばから牛車が大きく揺れ、よろめいた栞の身体を佐為は抱きとめて自身の足の間に座らせた。

 

「これで少しは楽でしょう?」

「そう、ですけど……。宇治まで三、四刻はかかりますのに」

「では退屈しのぎに碁でも打ちましょうか」

「え……」

 

 碁盤も碁石もないし、あっても牛車内で打つのは無謀だが。と栞がよぎらせれば佐為はにこりと笑って第一手を口上した。

 

「あ、頭の中で石を動かせと……!?」

「それほど難しくありませんよ。ホラはやく」

 

 急かされて栞も第一手を口上した。

 まさか佐為の腕に抱かれたまま碁盤も碁石もなしに対局とは……とは思うものの碁は時間を食う遊戯でもあり途中休憩を挟みつつ三番勝負が終わる頃にはもう宇治が見えるところまでやってきた。

 

 宇治は京の都に住む貴族には人気の別荘地である。

 栞の家も例に漏れず都周りに複数の別宅を持っており、宇治もその一つだ。持ち主は栞の母方の祖母であるがいずれは栞の母が継ぎ栞が相続することとなっており、現在管理しているのも栞自身である。

 

「姫さま、遠いところをようこそおいでくださいました」

「お久しゅうございます姫さま」

 

 各別宅にはそれぞれを管理する女房や家人が雇われており、定期的に四条の屋敷を行き来して現状報告し指示を仰いでいる。

 出迎えた彼女たちもそのような女房たちである。

 

「そなたたちも元気そうでよかった」

 

 宇治川を一望できる位置に立つこの別荘は風雅という意味では四条の屋敷に勝るかもしれず、佐為は感嘆しつつしきりに周りの風景を見渡している。

 

「東屋の先に見える紅葉のなんと見事な……。こちらの葉は京よりも色が深いですね」

 

 寝殿から庭の方を見やって満足げに微笑む佐為を女房たちもうっとりと見上げた。

 

「それにも増して佐為の殿の水際だったお姿……、菊襲ねの狩衣がほんとうにお似合いで」

「姫さまはなんとお美しい背の君をお持ちなのでしょう」

 

 日がもう落ちかけている。

 すぐに暗くなってしまうだろうが庭の散策なら構わないだろうか。栞は佐為に声をかける。

 

「少し外を歩きませんか?」

「今から……? もうじき暗くなるというのに」

「でも、秋は夕暮れ……と申しますのに」

 

 言っていたのは清少納言だが。と春夏秋冬の素晴らしさについて語っていた友人を一瞬だけよぎらせた栞だが、佐為は気乗りしないといった具合にこちらを見た。

 

「長旅でいささか疲れましたし、探索は明日にして、今日ははやく休みたいのですが」

 

 そうして彼は女房らに寝所の準備を急ぐよう言いつけ、栞はさすがに寝るには早いだろうと首を捻る。

 確かに碁盤なしに碁を打って気疲れしたといえばそうであるが──。

 

「では、あなたは先にお休みになって」

 

 疲れたという佐為に無理に付き合わせる必要もないし、一人で庭に行こうとした手は佐為に捕まれ阻止されてしまう。

 振り返って見上げれば、訴えかけるような視線の佐為と目があった。

 

「半日近くもそなたをただ腕に抱いていた私の身にもなっていただけませんか」

「? それが……」

 

 どうしたのだと問おうとした栞に佐為は焦れたような息を小さく吐いた。

 

「あの場で契らなかっただけ褒めていただきたいほどだというのに」

「は──!? な、なにを……私たちはただ碁を打っていただけですのに」

「そなたはそうでしょうが、私は時折り気がそぞろでした」

「さ、三局すべて勝っておいて……」

 

 あまりのことに呆れて栞は絶句する。

 そういえば結婚前後にもこのような噛み合わないやりとりをした気がする。

 佐為からすればこちらが鈍いのかもしれないが、こちらからすれば佐為の方がよほど分かりにくい。

 それに──。

 

「ぎ、牛車で……って、かの業平(なりひら)でもあるまいし……!」

「業平卿に限らず……、栞が知らないだけで世には多分にあると思うのですが」

 

 佐為の方は心当たりがあるのかはたまた殿方間でそんな話をするのか苦笑いを浮かべており、栞はなおさら呆れ返って頭を押さえた。さすがに今()()()()()になるのは無理だ。

 

「私はお腹が空きましたので夕餉をいただきます」

 

 食の話ははしたない。ことさら男女の間では。と言われることくらいは栞でも知っており佐為も拒否の意思だと理解するだろう。

 事実、長旅で空腹ではあるし夕餉の用意を言いつけなくては。と佐為に背を向ける。

 

 

 しかしいつもと違う空間や調度品が旅気分を盛り上げてくれるためだろうか──。

 

 いざ夜となれば栞も拒否することはなく、命婦をはじめ女房たちは察して翌朝はやや遅い時間に手水の準備をした。

 

 

「姫さま、ほんとうに()()をお召しになるのですか?」

「ええ。今日は外に出るから」

 

 翌日、水干を出すように言う栞にここ宇治の女房たちはもちろん命婦でさえちらりと佐為の顔色を伺った。

 おそらくはこういう主人に慣れているはずだというのに、結婚後まで()()だとは思わなかったのだろう。

 

「構いませんから、上の言うとおりに」

「殿がそうおっしゃるなら……」

 

 佐為が苦笑いを漏らせば、栞はどこか不服そうに息を吐いた。

 ちくいち夫に確認を取らねばならないとは。という不満なのだと佐為は理解したが、自分は博雅ほどには放縦不羈(ほうじゅうふき)でも寛容でもないため栞としては不服な部分もあるのだろう。

 しかし気を取り直したのか色合いなどを指示して、彼女は自身には赤と濃赤の紅葉襲ねの水干を、佐為には萌葱と薄萌葱の初紅葉襲ねの狩衣を選んだ。

 

 この程度の着替えは一人でもできるが、基本は女房にさせるのが常だ。

 髪が邪魔だと高い位置で括るよう言っている栞の支度の様子を見守りながら佐為は無意識に口元を緩めた。

 

「佐為の君……?」

「いえ、初めて会った夜が思い出されて……」

 

 思い出したのか栞は少し頬を染めたが、女房たちにはなんのことか分からないに違いない。

 夜の後宮を水干に角髪(みずら)姿でそぞろ歩きしていた栞を小舎人童と間違えたのが出会いだと知れば、彼女たちはどう思うだろうか。

 

「鮮やかな赤と萌葱が互いに引き立て合ってとてもお似合いですが……」

「お美しいのに、なんだかご夫婦というよりご兄弟のようというか……」

 

 女房たちはそう言ったが、佐為としては悪くないと思った。

 それに、あんな出会い方をしたせいだろうか。男衣装を纏う栞は普段よりも艶めいて見え、いつも心が騒ぐ……と佐為は目を細める。

 こんな栞を外に出し誰かに見せるのは惜しいと感じてしまうのだから、やはり自分は博雅のようにはなれないのだろう。

 

「山の方へ紅葉狩りに行きましょう!」

 

 栞の方は佐為の気も知らず、待ち切れないといった風に笑顔で従者の人数などを女房らに伝えている。

 

 そうして馬を用意させ、栞は久々の乗馬に笑みを零した。

 佐為にしても乗馬ばかりは蹴鞠のような娯楽と違い避けられないために最低限はこなす訓練はしているが、いかんせん好きではなく──。

 

「栞、あまり飛ばさないで……!」

「え──!?」

 

 聞こえない、と風を受ける栞は快活で凛々しい公卿の若君のようで麗しく。それを眺めているのもまた良しかと佐為は落馬にだけは気をつけてそのまま馬を走らせた。

 そうして山の麓で馬をおり、従者に見張っているよう言いつけて二人で少しばかり登ってみることにした。

 

「わあ……きれい……!」

 

 早足に前を行く栞の結われた髪が揺れ、ついていく佐為は小さく笑みを漏らす。

 四条の屋敷に籠もっていればこうして山に踏み入ることなど不可能だと思えば彼女の高揚も当然なのだろう。

 だが──自分と結婚していなければ、こうして野山を駆け回る自由を彼女はもっと持てていたかもしれないのか。と一瞬よぎらせた佐為はすぐに首を振るった。

 風が吹けば色づいた葉が舞い、手で受け止めて笑う栞の落ち葉を踏み鳴らす音が辺りに心地よく響いている。

 赤い袖が紅葉と溶け合い、まるで紅葉を愛でるために秋の精が人の姿を借りて舞い降りたかのようだ。

 初めて栞を見た夜にも夏の精の化身かと思ったものだが──、こうして改めて見るとなんと美しい。思うも、すっかり風景に夢中でこちらのことなどまるで目に入っていない栞の様子に少し寂しく笑う。

 手を伸ばせば届く距離にいるというのに。と、先ほどから遠くに聞こえる鹿の鳴き声を耳に入れつつ、佐為は誦じている古今の一首を口ずさんだ。

 

「“奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき……“」

 

 すれば声が届いたのか栞が振り返り、彼女に歩み寄った佐為はそっと栞の身を自身の胸に抱き寄せる。

 

「なに……?」

「鹿も恋に鳴く季節だというのに……我が妻はなんとつれない、と思っただけです」

 

 相も変わらずこのような物言いでは通じないのか、栞は解せないと言いたげに小首を傾げた。

 まこと人ならぬ精霊であれば、男女の機微が分からずとも仕方ないが……と佐為は栞の額に軽く唇を寄せる。

 そのまま頬に滑らせて顎を掬い柔らかな唇を塞げば、栞にしてもまんざらでもなかったのか大人しく狩衣を掴んで応じた。

 気を良くした佐為は頬を捉えていた右手で露わになっている栞の左耳に触れる。ぴくりと栞の身体がしなったのが伝った。

 女人が耳を見せるなど興醒めだなどと言われるが、このように撫でれば戻る反応が違うのだから乙なものだというのに。と、指の腹を耳に滑らせる。

 

「ん……っ」

 

 しばしそうして酔っていると、栞が腕に力を入れてこちらの胸を押し返してきた。

 仕方なしに唇を解放して見やれば、よほど切羽詰まった顔でも晒していたのだろうか。栞は少し目を見開き、一瞬だけ怯えたような色を宿してから視線を逸らせた。

 

「こ、これ以上は……外なのですし」

 

 昨日、牛車で契りたかったなどと言ったせいで警戒されているのか。さすがに佐為は苦笑いをこぼす。

 

「そんな無体を強いる気はないのですが……」

「そ、そんなの分かりませんもの……!」

 

 栞の方は逃げるが勝ちと思ったのかするりと腕から抜け出てこちらと距離を取った。

 

 一陣の風が木々を揺らし、舞い散る紅葉を差し込む陽が照らしつけてくる。じきに夕暮れらしい。

 

 

 その風雅な景色にのみ見入ってくれればいいというのに。

 

 今日はずっと佐為の視線を感じる。と栞はやや居心地悪く身を捩った。

 

 水干など着ているから物珍しいのだろうか。

 でもあの艶っぽい視線は……と栞は無意識に触れたばかりの唇に手をやり僅かに頬を染める。

 せっかくなにかと煩わしい京を離れて屋敷の外にいるというのに、いま屋敷内に連れ戻されるのは避けたい。

 そろそろ夕暮れも近いようだし、宇治川の方へ出て夕陽でも見ようか。栞は佐為を誘い、従者の元へと戻って川の方へと移動する。

 そうして馬から降りて川岸へと歩けば、栞の背を覆うほどに育ったススキが陽を受けて黄金色に輝いており栞は感嘆の声を上げた。

 

「美しいですね」

 

 佐為も柔らかく笑い、栞も微笑む。

 

「ねえ佐為の君、笛をお持ちですよね?」

「ええ、持っていますが」

 

 言われた佐為が懐から横笛を取り出し、栞はゆるく笑った。

 

「一曲吹いてくださらない? 舞いますから」

 

 栞は懐から扇を取り出し、ああ、と佐為も笑う。

 

「では……」

 

 佐為が横笛を構え、耳慣れた音色が響きだす。先日、今上に召された管弦対決のために博雅とよく練習していた博雅の曲だ。──実はこの曲に合わせて栞は予行の際に式部卿の宮の屋敷で自ら振りを付けた舞を舞った経緯がある。

 

 宮廷のような公の場で舞うことなどもう叶わないだろうが……と栞はうっすら思う。こうして時おりにでも外に出られる自分はきっと恵まれているのだ、と。

 

 本来なら屋敷内でさえ立ち歩くのが稀な深窓の姫として育つのが常の身だというのに、こうしていま外の景色を眺めていられる。きっと世間では笑うのだろうが、一生を屋根の下でのみ過ごすよりは幸福であろう。

 まして、自らの意思で背となる人を選べたのだ。

 佐為との婚姻は愛情によるものとは呼べないが、それでも──。と栞は佐為の初紅葉の狩衣に反射する夕陽を眩しく見やった。

 茜色の陽が佐為の纏う鮮やかな萌葱色をいっそうあわれ深く風雅に見せており、目を奪われそうになった刹那、栞は目を瞠った。

 こちらを見やる佐為の眼。焦れたような、熱を孕んだ視線だ。

 こんな表情(かお)を見せる時の彼がどんな気でいるかは知っている。が──。

 

 

 佐為は横笛を下ろし、栞にそばへと来るよう言った。

 

 さわさわとススキが秋風に揺れる。視界を覆うススキに囲まれ、遠目にはこちらがなにをしているかなど見通せないだろう。

 

「ふ……っ」

 

 佐為はそう思ったのか、先ほどの続きとばかりに栞の手を引くなり唇を重ねてきて栞は応じざるを得ない。

 彼がどういう気でいるか分かってはいたが、これ以上この場では──と意識の奥で思う間にも佐為の手が髪に伸びてきて元結(もとゆい)をしゅるりと解かれ、まとめていた髪が風に舞ってさすがに栞は抗議の声をあげた。

 

「なにをなさいます……! こんな髪で戻れば命婦たちになんと言われるか」

 

 すれば気に障ったのかむっとしたように佐為の柳眉が寄せられる。

 

()相手に髪を乱したとて、誰が咎めるというのか」

「そ……!」

 

 それはそうだが、と言いくるめられそうになるも髪を手に絡めて首筋に口元を寄せる佐為の肩を掴んで栞は抗ってみせた。

 

「佐為の君……ッ」

 

 呼べば佐為が顔を上げ、欲を宿したような瞳と間近で目が合いぞくりと栞の背中が粟立つ。たちまち金縛りにあったかのように動けなくなり、そのまま甘んじて口づけを受け入れつつ栞は思う。

 

 佐為が自分を妻とした理由はきっと棋力の高さに他ならない。

 

『長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ』

 

 だが、()()は情愛ではなく情欲でしかないだろう……と。他の殿方を知らないとはいえ、おそらくこの人は思いの外このような欲が強い。それはきっと愛情ではなく──。

 それでもこの二年間ずっと一緒にいるのだから、内裏にいるだろう彼の馴染みの女人たちよりは好かれているのだろうか。

 佐為が宿直の夜や方違えと称して四条に帰らない日になにをしているかは知らない。婚前の恋人たちと切れているとも思えないが、確かめる気はさらさらない。

 が──最初に誓ってくれたように、他に妻問いだけはしないで欲しい。

 息苦しさを訴える頭は切なさと同時に熱く触れ合う多幸感にも満たされ、感情が錯綜して涙が滲むのが自分でも分かった。

 佐為は情欲だけでこちらを欲しても、自分は──。

 

「栞……?」

 

 しばらくして唇を離した佐為が両手で頬を包み込むようにして顔を覗き込み、栞ははっと瞬きをした。

 

「それほどいやでした……?」

 

 不審げに佐為が眉を寄せ、栞は首を横に振るって佐為の胸にそっと身を埋めた。

 

「私は……」

 

 これほど近くにいても、どんなに求められても目の前のこの人はどこまでも遠い。よぎったことを飲み込み、栞は佐為から身を離した。

 遠くに松明が見える。戻りが遅いと案じて迎えにきた従者たちだろう。

 

 そうして屋敷に戻れば、栞の乱れた髪を見た命婦は案の定驚いた様子を見せたものの、何かを察したように押し黙り……いたたまれなくなった栞は下手な弁明をせず黙っておいた。

 

 四条の屋敷に仕える者は主人が夜にどう過ごしているかは把握しているものだ。

 四六時中そばで控えている義務があり、さらには屋敷の構造上物音や声を遮ることはほぼ出来ないからだ。

 

 しかし宇治の別宅で年に数えるほどしか主人を知らぬ者はどう感じたのだろう。

 去年は博雅たちが連日宴を開いておりゆっくり休む間もなかったのだし。──などと気を回す余裕などその夜の栞にあるはずもなく、次の朝にも命婦は慣れたように遅い時間に手水を持ってきた。

 

「姫さまと殿が仲睦まじくて命婦は嬉しゅうございます」

 

 その一言で女房たちの間でなにを言われているか目に見えるようだったが、こうして主人の元に夫君が居続けているのが嬉しいのは事実だろう。

 

「昨日は一日私にお付き合いいただいたから、今日は私がお付き合いしなくてはね」

 

 運ばれてくる朝餉を見やりつつ言うと、命婦は意味を察したのだろう。「それなら」と口元を綻ばせた。

 

「それでしたら、東屋に碁盤を運ばせたらいかがでしょう? お庭の木々も今が見頃でございますゆえ」

 

 すれば栞より先に佐為が反応する。

 

「それはいい。頼みます」

「かしこまりました」

 

 一日付き合う。とうっかり言ってしまったせいだろうか。昨日とは打って変わって彼はすこぶる無邪気に頬を緩めている。

 

「さ、栞! はやく朝餉を済ませて打ちましょう!」

 

 ああやはりこの人を純粋に喜ばせるには碁しかないのかと突きつけられているようでもあったが、栞は肩を竦めて頷いた。

 

 東屋に座が用意され碁盤も運ばれ、時折り紅葉の降る中で打つ碁には格別の趣があるのだろう。佐為は終始満足げに打っていた。

 

「ねえ、栞」

「はい?」

 

 そうして栞が本日何度目の黒星を記した時だっただろうか。

 佐為は降ってくる紅葉に目を細めつつ冗談めかして微笑んだ。

 

「これまで私たちは数えきれないほどの対局を重ねてきましたが……、碁手(ごて)をいただいたことはありませんでしたね」

 

 栞は目を見開く。

 碁手、とは勝負事全般で賭ける物を指す言葉だ。

 

「対局のたびに碁手を贈れとおっしゃるの?」

「いえ、それは冗談ですが……。ふと思い出したのです。この宇治の別荘の持ち主である斎宮の大宮さまのお話を」

「おばあさまの……?」

「ええ。そなたは存じませんか? 大宮さまが斎宮に卜定(ぼくじょう)される前に催された梅壺での囲碁合のお話を」

「ああ……、おばあさまのお父帝と梅壺の女御さまがおばあさまのために催されたという」

 

 ええ、と佐為は頷く。

 

 栞の母方祖母の斎宮の大宮は、父であった当時の帝が即位してすぐの十三歳の時に卜定(ぼくじょう)により斎宮に選出されている。

 卜定(ぼくじょう)とは占いにて物事を定めることであるが、実のところ誰が選出されるかはおおよそは分かっており、梅壺の女御は自身の姫宮が選ばれると半ば察していたという。選出されればすぐに潔斎に入らねばならず、女御は卜定(ぼくじょう)に先駆けて姫宮のための華やかな催しをしたいと帝に持ちかけた。

 帝も快諾し、季節もちょうど紅葉が見頃とあって姫宮主催の名の下に梅壺にて帝側と女御側に分かれ秋の夜長に夜通し囲碁で競う囲碁合が催されたのだ。

 その際の負態(まけわざ)として用意されたのが豪華絢爛な檜扇をはじめとした様々な扇──。骨は彩画された銀や紫檀、地は唐の薄絹、そして鮮やかな絵や古今の和歌(うた)が縫い描かれた扇の数々はあまりに雅やかで、碁にて白星を挙げた側が今を盛りの紅葉の下でその扇を手に梅壺を歩く様子はこの世のものとも思えぬ高雅な光景で今なお語り草となっている。

 

 以来、賭け碁の碁手は扇という暗黙の了解があり、碁の負態(まけわざ)と聞けば風流人はこの時の梅壺の様子を思い浮かべるという。

 

「なんと風情ある趣向でしょうか……。この話を思い出す度に私もその場にいたかったと思うばかりです」

 

 うっとりと語る佐為に栞は苦笑いを漏らした。

 

 ──その後、予想通りに斎宮に選出された栞の祖母は伊勢に下り数年間斎宮を務めるも、母である梅壺の女御の薨去により退出して京へと戻った。

 内親王で斎宮まで務めた姫宮といえど、後ろ盾をなくした宮を帝は案じたのだろう。父である帝とは血縁の薄い数代前の帝の皇子にちょうどいい歳周りの親王がおり縁付かせる運びとなったのだ。

 そして栞の母である女王に恵まれるも、斎宮の宮は夫の宮に先立たれたことを機に髪を下ろして仏門へと入り、以後、京の中心部を離れて桂の別荘に引き篭もり御堂を建て勤行に明け暮れ、今では斎宮の大宮と称され人々の尊敬を集めている。

 

 祖母の大宮のその話にそれほど感動したのなら帰りに桂に寄って祖母の顔を見がてら話でも、とも思うがきっとそういうことではないのだろう。と、栞は佐為の顔を見やる。

 すれば、ふ、と佐為は口元の笑みを深くした。

 

「そなたの祖母の大宮さまにちなんで……私も一度くらい扇など所望したいものです」

「佐為の君ならば数えきれないほどの扇を既に貰い受けたのでは……?」

「そうですが……そなたの扇は物珍しいですからね」

 

 そうして佐為は栞が携えていた扇に視線を移し、栞は目を見開いてぱっと扇を隠す。

 

「こ、これはだめです……!」

 

 その扇は栞が愛用している特製のものだ。

 佐為も戯れで言ってみただけなのだろう。反応を予測していたのか、くすくすと笑みを漏らしている。

 

 

「姫さまが馬で山に行くなどと申された時はどうなることかと思いましたが」

「こうして見るとお似合いのご夫婦ね」

「夫婦仲も申し分ないご様子だし……、お二人の御子はきっと美しくおなりよ」

 

 

 控える女房たちは二人がどのような会話を交わしていたかは知る由もなく、彼らの様子を遠くから見やって口々に囁き合った。

 紅葉降る東屋の風景に溶け込むような二人の姿はまるで絵巻物のようで──誰もがこの宇治宅の主である大宮の若き頃の囲碁合の話を浮かべ、目に映る光景をうっとりと眺め続けた。




この世界線ではこの宇治別荘がのちの平等院かも?
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