藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第十三話:()が袖ふれし

 色鮮やかだった紅葉もすっかり落ち、そろそろ落ち葉の絨毯も見苦しくなろうという頃──。

 

「じき冬本番ですね……」

 

 出仕後の昼過ぎ、屋敷の庭に広がる落ち葉の絨毯を踏み鳴らしながら歩いていた佐為がしみじみと冬枯れた空を見上げて言った。

 

「落ち葉が地面を埋め尽くす初冬の風景もまた風情があって良いものですが……。雪が待ち遠しくもあります」

「佐為の君は冬がお好きなの?」

 

 隣を歩いていた栞が佐為を見上げれば、ふ、と彼は笑みをこぼした。

 

「どの季節もそれぞれ見どころがありますが、雪景色は格別に思い入れがあります。あの真っ白な世界に咲く真紅の椿など、それは見事で……開花が待ち遠しいです」

 

 うっすら頬を染めて語る佐為は梅や桜でなく椿がよほど好きらしい。

 栞はどうかと問われ、少し間を置いたのちに栞はこう答えた。

 

「私は寒いのは少し苦手です……。かと言って夏の暑さも耐え難いし……。でもやはり、緑が萌える夏の方が好ましいでしょうか」

「そなたには色鮮やかな季節が似合いですからね。なかなか他のものには着こなせないような派手やかな色も着こなしておいでですから」

 

 おそらく佐為は栞が夏によく着ている百合襲ねの衣装のことを言っているのだろう。やや昔めいて、いまではなかなか見る機会のない取り合わせでもある。

 

「季節と言えば……、思い出しました。今日、上野(かんづけ)親王(みこ)から使いが来まして──」

 

 言いかけた栞の頬にぽつりと水滴が伝った。

 はっとして思わず佐為と顔を見合わせる。その間にもぽつぽつと二人の頭上から水滴が落ち、急な雨だと悟った二人はどちらともなく寝殿の方へと走った。

 

()くお着替えなさいませ!」

 

 屋敷に上がった頃には幾分濡れていた二人を見た命婦が声を上げ、他の女房たちも集まってくる。

 烏帽子を脱いだ佐為の艶やかな前髪が幾重かしっとりと額に張り付いており、伏せられた切れ長の眼を縁取る長い睫毛に水滴が伝う様子に誰とはなしに陶酔したようなため息を吐いた。

 雨に濡れてもお美しい、などと女房らは誉めそやしたものの見とれている場合でもない。風邪を召す前に手早く着替えを済ませた栞は先ほど話そうとしていた続きを佐為に聞かせた。

 

上野(かんづけ)親王(みこ)の姫君が近々裳着ということで……、いくつか香を合わせるよう頼まれたんです」

上野(かんづけ)親王(みこ)さまの姫君が……」

「ええ、それであなたにも一つお願いしようと思って」

 

 つまりは裳着の祝いの贈り物にということだろう、と何気なく話を聞いていた佐為はその一言で驚愕した。

 

「私が……!? わ、私のようなものが恐れ多い」

「そんな、宮には私たちの露顕(ところあらわし)にも来ていただいた仲ですのに」

「それはそうですが……」

「あなたに初めていただいた文に焚き染められていた香がとても素晴らしかったので……、調合もお得意かと思ったんです」

 

 佐為は、ぐ、と言葉に詰まる。裏腹に栞はどこかうっとりとして口元を緩めた。

 

「ほのかに麝香が混じって艶かしくて……、藤家に伝わる調合法でしょうか?」

 

 曖昧な笑みを浮かべつつ佐為は思い起こす。

 栞に初めて出した文には洒落も込めて『侍従』の香を焚き染めた覚えがある。が、あの調合は橘内侍(きのないし)から教わったもの──などとは口が裂けても言えない。それを教え合う仲が()()()()()()か、さすがの栞でも察するだろうからだ。

 そもそも名香と言われる調合法は秘伝として主に皇族に伝わるものだ。自分など知り得ようもない。しかし香りの良し悪しは内裏での評価にも関わるわけで、殿上人としては気を抜けない部分でもある。

 というより佐為としては調合自体は好きな方であるし、趣味人でもある橘内侍(きのないし)に昇殿当初から折を見て訊き密かに腕を磨いたにすぎない。彼女もまた、宮仕えをする中で伝手を辿り調合法を教わって腕を磨いていったのだろう。

 特に彼女の合わせた『黒方』は素晴らしく格別で……と考えそうになった佐為ははっと意識を戻して栞を見やった。

 

「そういうわけではないのです。宮中には趣味の高い人もいますから、少々教えを請うただけで……」

「やけにご謙遜なさるのね」

「そ、そういうわけでは……」

「でしたらせっかくですもの。いっそ香合わせにするというのはどうです?」

「え──!?」

「私も一つ合わせますから、仕上がったら博雅さまに判じていただきましょう」

 

 佐為はあっけに取られるも、宮に頼まれた以上は断るのも無理な話なのだろう。そもそも、恐れ多いというだけで自信がないわけでもないのだから栞の言う通り謙遜しすぎるのもかえって嫌味というものだ。

 

「分かりました」

 

 ともあれ、香を合わせるには良い季節だ。

 それに、ひとたび香を作るとなると希少で高価な材料を多々使わねばならない。香合わせが高雅な趣味と言われ、特に皇族に秘伝の技が伝わる所以だろう。

 今までは原材料を揃えるのにまず苦心していたが、さすがにここは大臣家。質の良く珍しい原料が全て揃っていて心踊らされる。

 上野(かんづけ)親王(みこ)の姫に贈る分は別にして、色々と合わせてみるのも一興だろう。じきに正月であるし、『梅花』も合わせようか。ああでもちょうど落葉の頃であるし『落葉』を合わせたら……いや季節外れだろうか。

 豊富な原料を前に考えていると気持ちも高揚していき、佐為は出仕と碁盤に向かう時間の間を縫って香の調合に心を砕いた。

 

 一方の栞も香を合わせている間は北の対に籠もってしまい、「勝負」に集中しているらしい。

 

 香を合わせるには実に細かい工程が必要だ。原料を砕き、粉状にして繋ぎを混ぜ、練り状にしていく。ほんの僅かの匙加減が香りを変えてしまうのだから技の競い合いに相応しいと言えるだろう。

 そうして練り上げたものを丸薬状に整えたら壺に入れて土に埋め、香りが馴染むのを待つのだ。

 この馴染み具合の出来不出来は神のみぞ知るところであるが、佐為は──家人は止めたが──屋敷の遣水周りを自ら慎重に歩き、最も湿気を孕んだ良さげな場所を選んで複数の壺を埋めていった。

 そうして五日から十日ほど経って取り出すわけであるが、あらかじめ栞と決めた期日があるため不出来でも仕切り直しは不可能だ。

 

 栞の完成具合は一向に分からないが、勝負の日。

 

 出仕から四条に戻った佐為は埋めていた壺を取り出してみる。博雅は夕方にもここへ来るという。

 上野(かんづけ)親王(みこ)の姫への香を予め用意されていた贈呈用の香壺(こうご)へと移し、それ以外もそれぞれ香壺に移し替えていると栞も自身の合わせた香を携えて北の対から戻ってきた。

 

「出来はいかがですか?」

「さて、それはなんとも……。博雅三位(はくがのさんみ)を待ちましょう」

 

 ちらりと栞の方を見やると、彼女も贈り物の他にも香を合わせたようだ。

 が──。

 

「ずいぶんたくさんお合わせになったんですね……」

「つい、興が乗ってしまいまして」

 

 複数の香を合わせた佐為に栞は驚いたらしく目を瞬かせ、佐為は少しばかり自嘲してみせた。

 そうして陽が落ちてしばらく、博雅が屋敷へと顔を出した。

 

上野(かんづけ)親王(みこ)の姫のために香を合わせたとな?」

 

 博雅は舞と歌そして和歌(うた)は好んで嗜まないが、たいていのことは他に劣らぬ趣味人だ。優劣をきちんと判じてくれ、宮家の姫に相応しくない出来であればはっきり言ってくれるだろう。

 並べられた二つの質の良い香壺を見て興味深そうな表情を浮かべた博雅は、まず佐為の合わせた香壺を手に取る。

 

「ほう、『菊花』か……。白檀を心持ち多めに入れたな? 甘やかで若い姫には似合いだろう。それにやや艶かしさも混じって……。うむ、見事だ」

 

 調合はまさにその通りで、さすがは先の帝の第一皇子の嫡男だと佐為は改めて思う。

 栞の方は意外そうに佐為を見上げた。

 

「『侍従』をお合わせになると思ってましたのに」

「季節柄で言えばそうですが、姫の裳着のお祝いにはこちらの方が合うと思いましたので」

 

 菊花は長寿を願うめでたい花でもあるゆえだろう。

 博雅は次いで栞の合わせた香を手に取った。

 ほう、と喉を鳴らした博雅の表情が綻ぶ。

 

「これはまた、すっきり爽やかな『荷葉』だな。だが……亡き式部卿の宮秘伝のものとは少し違うような……」

「おじいさまから伝えられた調合法だと少し重くなるので、微調整したんです。軽さを意識して、より爽やかになるようにと」

「なるほど、溌剌としていかにも栞らしい香だよ」

 

 そうして二つの香壺を前に博雅は考え込んでしまい、栞と佐為は顔を見合わせる。

 終いには「持で」と引き分けを宣言されて二人はゆるく笑った。博雅らしい判定である。

 ともあれ勝負も済み、それぞれ相手の合わせた香を手に取ってみた。

 佐為は栞の合わせた香をきき、なるほど博雅の評価通りだと笑う。

 

「そういえば登華殿で初めて栞に目通りした時も『荷葉』を纏っていましたね。あの時は、淑やかな振る舞いには不似合いなほどの爽やかな香りが夏の時期に合っていて……清涼な空気を漂わせる姫にこちらまで涼やかな心地になったものです……」

 

 懐かしい、と笑う佐為に栞はやや訝しげに眉を寄せる。

 

「なにがおっしゃりたいんです……?」

「いえ……。そなたには似合いの香だという意味ですよ」

 

 佐為は言葉を濁したが、この香りが栞に合っているというのは本心である。

 ははは、と博雅は笑った。

 

「ともあれ、これを贈れば宮も喜ばれるだろう。双方どこに出しても恥ずかしくない出来だ」

「ありがとうございます。ただ……裳着の儀はめでたきことなれど、成人後の女王というのも身の振りが難しいですからね……宮はどうなさるおつもりかしら」

「まあ斎宮も代替わりしたばかりであるし、遠くへやる心配はないと思うが……」

「入内するにしてもお歳が主上(うえ)とは不釣り合いですしね……」

 

 裳着を済ませて成人とならば、それは婚姻可能ということを意味する。しかし臣下の身でない女王の嫁ぎ先はなにかと難航を極めるのだ。

 一番良いのは入内し帝の妃となることだが、そう簡単にいけば誰も困らぬというもの。

 栞の母方の祖母である斎宮の大宮も背の君は親王であるし、女王である栞の母も妹背となったのは二世王で賜姓皇族かつ大臣の父である。つまり血縁(皇族)同士の繋がりで完結しており、臣下への降嫁は常に慎重に行われるのだ。

 とはいえ皇族と言えど不安定な身に変わりなく、両親に先立たれれば途端に落ちぶれる例もあり、身分相応の品格を保ったまま一生を過ごすのは想像よりも遥かに難しいことでもある。──栞の父が栞に関して一番危惧しているのもこの事に他ならない。

 話をしつつ、佐為は心内で自嘲した。このような話を聞くにつけ、栞を妻にした自身がいかに大それたことをしでかしたのか後追いで実感してしまう。後世では身の程知らずもいたものよと物笑いの種にさえなるかもしれない。

 だが、もはやどれほど責められようがこの女人(ひと)を手放す気はないが……と無意識に栞を見やっていると彼女は首を傾げた。

 裏腹に博雅は宮の姫用ではない並べられた香壺に目を向けている。

 

「にしても……そこの数々の香壺はいったいどうしたのだ?」

「あ、ええ……その、姫君用に調合しているうちに興が乗ってしまい……つい」

「全部佐為殿が合わせたのか?」

「一つは栞ですが、それ以外は」

 

 博雅は数度瞬きをしてまじまじと香壺を見つめている。

 四つのうち三つが佐為の合わせたものであるため驚くのも無理からぬことだろう。

 さすがにやりすぎたかと佐為がやや気恥ずかしく感じていると、博雅も栞も香りをきいてみたいと望み品評会と相なった。

 

 栞が佐為の合わせた『梅花』を手に取る。

 あ、と瞬きをした彼女はゆるく微笑んだ。

 

「これは……青みがかった若い梅を思わせるような華やかで心地よい香りですね。佐為の君がこれをお合わせになったなんて……少し意外です」

「じき正月ですから、そなたに贈ろうと想い浮かべつつ合わせましたので、私に合わないのも道理ですよ」

 

 言いつつ佐為は栞の合わせた『梅花』を手に取り顔を寄せる。

 これはまた……、と鼻腔をくすぐる香りに佐為は無意識のうちに微笑んでいた。匂い立つような艶かしさが後を引くような、同じ『梅花』でこうも違ってくるとはやはり香は奥が深い。

 

「そなたにしては……ずいぶん大人びた香りですね」

「私も佐為の君に合うようにと思って……お正月用に」

 

 栞はうっすらとはにかみ、佐為は僅かに切れ長の瞳を見開いた。

 つまり栞もこちら用に『梅花』を合わせてくれていたということだ。

 自分はあれもこれもと気が多く香を合わせてしまったが、彼女はたった一つを自分だけを想って合わせたくれたのだろう。常と変わらぬいじらしさについ口元が緩んでしまう。

 

「では、この香壺は私がいただいても?」

「はい」

 

 そうして互いの合わせた香を贈り合う二人を博雅は微笑ましく見守った。相変わらず夫婦仲は申し分ないらしい。

 佐為は栞との身分差を気に病んでいるようだが、栞にとってはこれ以上の相手を見つけることはできないだろう。願わくばこのままずっと睦まじくいて欲しい。思いつつ他の香壺に手を伸ばす。

 どうやら一つは『落葉』のようだ。この初冬の風景を眺めつつ合わせた一品だろう。

 甘みのないしっとりと艶かしい匂いだ。麝香を多めに入れているらしい。さすがは宮廷一の色男、この辺りも抜かりない。これを纏えば常の倍は宮廷の女官女房が彼に酔うに違いない。感心しつつ博雅はもう一つを手に取る。

 

「お、これは……」

 

 『侍従』だ。

 沈香の上品さを際立たせるほのかな甘み。それでいてしっとりと落ち着いた、なんとも言えない深みがある。

 

「これはよい香りだな……! こちらであれば私は佐為殿に勝ちの判定を下したぞ」

 

 博雅はやや興奮気味に声を上げ、佐為は恐縮した。

 栞はその絶賛ぶりに驚いたのだろう。自分も試してみたいと香壺を博雅から渡してもらう。

 

「『侍従』……? でも、前にきいた匂いとは違うような……」

「少し調合を変えてみましたので」

 

 さすがにこの屋敷で合わせるのに橘内侍(きのないし)から教わった調合通りにするのは憚られた佐為は自身で手を加えていた。

 その佐為の調合を博雅は痛く気に入ったらしい。

 

「佐為殿は多才なのだなあ……、香合わせは臣下の身ではことさら難しくあろうに、見事だよ」

「そんなもったいない……、買い被りすぎです」

 

 そして佐為はそれほど気に入ってくれたならば、と『侍従』を博雅に贈ろうと言ってみる。

 

「差し出がましいようですが、よろしければぜひお持ちください」

「いやそんな……これほど出来のよいものを全ては貰えぬよ」

 

 佐為としては全て持ち帰ってもらっても問題なかったのだが、あまりに博雅が遠慮するため半分ほどを小さな香合に移し替えて渡した。

 

 そうして彼はせっかくならばと上野(かんづけ)親王(みこ)のところに香壺を届ける役を買って出てくれ──先方から承諾の返事が来るのを待って栞たちの合わせた香を手に四条の屋敷をあとにした。

 

 おそらく姫への贈りものついでに宮と演奏しつつ酒を飲む口実にするのだろう。などと思いつつ夜も更けて二人は寝所に入る。

 

「佐為の君がこれほど香合わせがお上手だとは思いませんでした」

「馬弓や蹴鞠は一向にそなたに敵いませんから、これくらいは……」

 

 『梅花』を棚に収めつつ言う栞に佐為は笑った。

 それに栞の合わせた『梅花』の出来こそ実にこちら好みで、と口元を緩める。

 

「二つの梅花が混ざればどうなるか……今から楽しみです」

 

 呟けば、栞は佐為の方を振り返ってきょとんとして目を瞬かせた。

 

「でしたら……一度混ぜて焚いてみます?」

 

 その答えに佐為はいささか失望して頭を抱えた。

 いつまで経っても彼女には寝所での艶話が全く通じないらしい。説明するのも野暮だというのに──。

 

「そうではなくて……、新年には私はそなたの合わせた香を、そなたは私の合わせた香を纏うのですから」

「それが……?」

 

 いよいよ佐為は困り果ててため息を吐き、手招きをして栞を(しとね)の方へと呼び寄せる。

 小首を傾げつつやってきた栞を抱き寄せ、膝の上に座らせながら小さく囁く。

 

「夜通しこうしていれば……互いの香が移るでしょう?」

 

 そこまで言って初めて栞ははっとしたらしく、さすがに佐為は苦笑いを漏らした。

 

 

 ──しかしながら『移り香』の話題は二人の閨でのものとは全く違う場所で発展した。

 その後しばらく、寸分違わぬ同じ匂い、しかも『侍従』を纏う佐為と博雅は本人たちの知らぬところで内裏中を巡るうわさとなり、いったい北の方を介してどんな関係なのかとしばしの間穿った目で見られたという。

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