藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第十四話:遠国の歌語り

「春はあけぼの……」

 

 清少納言はそんなことを口ずさみながら登華殿から朝ぼらけの空を眺めていた。

 

 かつてはこんな季節の移ろいを一日中お喋りしながら共に過ごした年下の友人もいたが、もうずっと会っていない……と凛々しく美しかった栞の水干姿を思い出し首を振るう。

 

 女と産まれたとて、屋敷に引き籠もっているばかりではこの世に生まれ出た甲斐もないというものだ。

 もしも内侍の高官として出仕できるならば、きっと得るものも大きく良い経験となるだろうに。

 

 そう思う一方で世の殿方が娘や妻に「宮仕えだけはするな」と切々と諭す理由も分からないではない。

 彼らは良く知っているのだ。

 高位の女官ならばまだいい。だが女房や下女たちは、自らを守る術などそうはない。一説によると出仕した女房の七割、八割は誰かしら公卿や殿上人のお手付きだというし、むろん自ら恋を楽しんでいる場合も多かろうが、けしからぬ男の餌食となった例も多分にあろう。

 裏腹に──望む望まないとは別に──あえて幾人もの公卿・殿上人と定期的に枕を交わす女房もいる。経済支援目的だ。

 ここはそのような魑魅魍魎の住まう場所でもあるのだ。

 

 だから佐為が妻となった栞をこのような内裏に参上させたくないのも致し方あるまい。

 

 と、佐為との結婚の報告を最後に一度もこちらに参上していない栞を清少納言はそのように解釈していた。

 

 少なくとも人妻となったからと自ら行動を変えるような栞でないことは間違いないはずだ。

 ならばやはり、背の君が良い顔をしないのだろう。

 もしくは宮廷内で栞に知られたくないことがあるゆえ来させたくない、というセンもありうる。

 佐為は宮廷いちの花と謳われる美貌で内裏中の女人を虜にしてきた。身分はさほどでもないというのに、年配の尚侍(ないしのかみ)でさえ彼を前に見惚れて強く出られないという場面も何度か目にしたほどだ。

 殿方の中にも「あの君が女人ならば是が非でも一度……」や、逆に「自身が女の身であれば是非とも一夜そばに」など冗談まじりに語っているのを耳にしたことがある。

 物腰柔らかく、話しかければ応えてくれ、碁の指導も丁寧で優しい。しかも顔が良い。とにかく顔が良い。

 こう考えるのはきっと良くはないのだろうが、顔立ちの良さはなぜああも人の心を捉えるのだろうか。眠気が襲うのが常の僧侶の説教ですら美男だと殊更ありがたく聞こえるのが世の常なのだ。まして佐為は近くで向き合って碁を打ってくれ、立ち姿は立ち姿で長身が映えいっそう美しい。

 とくれば、熱をあげる女人が後をたたないのも無理からぬことだろう。

 

 滅多なことではなびかないと名高い橘内侍(きのないし)との仲はみなの知るところであるし、麗景殿の宰相の君こそが佐為の一の人であると真実なのか尾ひれがついたうわさなのか、ともかく佐為にまつわる話は後宮にいればいやでも耳にする機会が多い。

 

 聞いた話によれば佐為と栞の仲はとても良いようであるし、栞が内裏に上がって良からぬうわさを耳にしたり、佐為自身の馴染みの女人と顔を合わせるような事態を避けたい。──と、佐為も思っているのかもしれない。

 

 いずれにせよ佐為も大胆なことをしたと思う。

 

『私と結婚なさったのも対局相手欲しさというか……』

 

 栞はああ言っていたが、もしもあれが本当なら碁のために大臣の姫を得たこととなる。

 出世のために家柄の良い姫を狙うのは野心を持つ殿方の常套手段であるとはいえ、限度というものがある。栞は女御どころか皇后も狙える出自なのだ。いくら本人にも父親にもその気がないとはいえ、誰もが摂関家か宮家と縁付くと思っていたことだろう。

 

 だというのに──、と清少納言はすっかり明けて趣の減った空を眺めながらため息を吐いた。

 

 だというのに、これほど思うところがあっても、いざ佐為本人を目の前にするときっと自分とてなにも言えなくなってしまうだろう……と。

 

「末恐ろしいかただわ……佐為の君って……」

 

 

 

 一方の四条の屋敷では梅の季節も終わり、桜がそろそろ盛りだとばかりに春の庭を彩っていた。

 

「美しいですね」

「ほんとうに。ひと枝折って女御に差し上げようかしら……」

 

 あと幾日もすれば散り始め、舞い散る花弁で彩られた庭の池がさぞ風流な様子となるだろう。

 博雅を呼んで花見の宴でも催そうか、と思いつつ栞は出仕の支度をする佐為を見やる。

 

「桜に添える和歌(うた)を詠んでいただけません?」

「構いませんが……、女御さまにですか?」

「ええ。届けるのは他の者に言付けますから」

 

 言って、栞は家人に桜の枝を折ってくるよう言いつける。

 そうして佐為の書いた文を受け取りつつ格子の外に目をやった。

 

「暖かくなってきたし、今日は馬場で小弓でも打とうかしら。一人じゃつまらないけど……」

「私は付き合いませんよ。だいたい、勝負になりませんから」

 

 栞の勝ちで。と先手を打った佐為が呟き、栞は肩を揺らす。

 

「私は日々囲碁で負かされているのですから、他は譲っていただいてもいいでしょう?」

「たまにでしたら、と言いたいところですが……今日は按察使(あぜち)の大納言殿に呼ばれていてどのみち時間がないのです」

「まあ……、では着替えを用意しておきますね」

「ありがとう。昼にはいったん戻ります」

 

 言って佐為は一度栞の額に唇を寄せ、妻戸から外へと向かった。

 

 

「命婦、桜襲ねの直衣が仕上がっていたでしょう? 出してちょうだい」

 

 夫の生活全般の面倒を見るのは正妻の役目、特に衣装の用意は重要な仕事だ。

 ゆえに出世を狙う男はまず受領階級の金持ちの娘を妻にし身の回りを整えさせ、出世したら公卿の姫を狙うなどという身勝手な振る舞いを行ったりもしている。逆も然りで受領の金持ちが高貴な血を求め、落ちぶれかけた宮家などと縁付くということもままあるのだ。

 ──自分たちには当てはまらないことであるが。などと思いつつ運ばれてきた衣装箱を見やる。

 

 桜襲ねを着こなすのは公達の間でも洒落た粋人の証だ。佐為なら着こなせるだろう。

 それに、彼を送り出すのはこの大臣家だ。彼は従五位下の朝臣であると同時に「大臣家の婿」なのだ。それにふさわしいものを仕立てねばこちらの恥。──ということまで考えなければならないのがこの貴族社会の厄介なところだろう。

 

「とても見事な唐織で……きっとお似合いになりますわね。殿はどのようなお召し物でも見事な着こなしで、様々な衣装のお姿をお見上げできて私どもも楽しゅうございます」

「本当は近々博雅さまをお呼びした時に着て頂こうと思っていたのだけど……、按察使(あぜち)の大納言のところなら直衣でも構わないでしょうから」

「あちら様も殿のお姿にきっと魅入られることでしょう」

 

 うきうきと衣装を見やる命婦を見つつ、栞は小さく息を吐いた。

 出仕が済めば一旦戻ると言っていたが、今夜は大納言家から帰ってくるのだろうか。あの屋敷にどんな女人が揃っているかは知らないが──。

 

 

 栞がそのような物思いをしている頃、登華殿の女御の元へ栞の屋敷の桜の枝が届けられた。

 

「まあ、四条のお屋敷の桜だそうよ」

「栞殿から女御さまへの春のご挨拶だわ……!」

 

 取り次いだ女房たちが見事な桜に昂揚して口々に声をあげる。

 そして女御の御前へ運んでいると、一人が枝に結んであった文に気づいた。

 

「まあお珍しい。和歌(うた)でしょうか」

 

 栞の和歌(うた)の苦手は登華殿では周知の事実だ。

 女御に読んでみるよう促され、清少納言はじめ幾人かの女房が物珍しいその文を見ようと集まってきた。

 すると、春を謳う洒落た和歌(うた)が優美な文字でさらりと詠まれており、女房たちは揃って感嘆の息を漏らす。

 

「なんて美しいお手蹟()……! 栞殿の筆跡とは違いますね」

「それにこの和歌(うた)……、長秋卿……ではありませんよね」

「お二方とも美しい文字を書かれますが和歌(うた)となると……、背の君ではないかしら」

「まあ……では佐為の君のお手蹟()……!?」

 

 女御の御前ということすら失念して女房たちは盛り上がり、当の女御はさして気にする様子もなく自分にも文を見せるよう言いつけた。

 

「確かに栞の君のお手蹟()ではありませんね……」

 

 栞は華美な文字を書くが、この筆跡は優美さが勝っているいると女御が評し、ますます女房たちは盛り上がる。

 

「この登華殿には佐為の君の書き文字を見た者はおりませんもの……! 想像に違わずこんなに美しい文字を書かれるなんて……!」

「やっぱり素敵ねえ……」

「栞殿はきっとお幸せにお暮らしなのね……。もうずっとお会いしていませんが……」

「きっとお幸せよ。あの佐為の君が背の君なんですもの」

 

 文字の美しさは本人の評価に即繋がると言っても過言ではない。期待以上の文字を見せた佐為に彼女たちが惜しみない賞賛をおくるのも無理からぬことだろう。

 しかし……、と誰とはなしに寂しげな息を吐く。

 栞が最後に登華殿に参上したのは二年前の梅の季節。つまりもう二年以上顔を合わせていないこととなる。

 話をする彼女たちのそばに置かれたままだった碁盤を見やった清少納言が小さく言った。

 

「こちらで打っていた頃のお二人は、()()()()ような仲ではなかったはずですのに……」

 

 彼女はそっと碁盤の方へと歩み寄り、終局した盤面を見つつ腰を下ろして碁石を片すために盤面を崩しつつ考える。

 あの頃は()()()()ような仲でなかった二人は、今やヨセさえすぎて盤面を崩し白黒の碁石が混ざりあった状態──つまり男女の仲がすっかり深まったのだ。浮かべて自嘲気味の笑みを漏らす。

 まことに男女の仲として深まったのならいいが……、在りし日の栞に対局ばかりをせがむ佐為をよぎらせて清少納言は小さく首を振るった。

 

 

 そうして昼も過ぎようという頃に佐為は四条へと戻り、陽もすっかり傾いた時分には外出の準備を整えた。

 女房たちが仕上がったばかりの桜襲ねの直衣を佐為に着させて見上げ、見惚れているのが見て取れた。

 栞にしても胸が騒がないことはなかったが、それよりも他所の屋敷に送り出すのはいつまで経っても慣れず憂鬱なものだ。

 

「今宵はお戻りになります……?」

「そのつもりですが、先に休んでいて構いませんよ」

「私が起きて待っていると気がお咎めになる?」

 

 その言い分に佐為は肩を竦めつつそっと栞を抱きしめた。

 

「休んでいるそなたの元へ戻るのも、恋人を忍んで訪ねるようで悪くありませんから」

 

 そうして佐為は「行ってきます」と屋敷を出、牛車に揺られた。

 栞は存外に寂しがりなのか、家を空ける日はやや不安そうな顔をする。

 宿直の夜や方違えなどで帰れないことを告げるとなおさらだ。

 単に離れがたいと感じているのか、外でなにをしているのか疑心暗鬼なのか。

 少なくとも栞が整えた衣装を着て他の誰かへ通ったことは一度もなく、今日に限ればゆっくり碁を打ちたいと誘われてのことゆえに要らぬ心配なのだが。と、栞に持たせられた桜の枝を見やる。

 

 按察使(あぜち)の大納言は既に引退してもおかしくない高齢でおそらくこれが極官。大臣家よりは下の家門だ。

 それでも自分にとっては雲の上の存在なのだから本来なら正装で向かうべきだが、栞に送り出されてここにいる自分は「大臣家の婿」に他ならない。その証左がこの『大臣家の桜の枝』である。

 父が聞いたら卒倒しそうなことであるが、あの四条の屋敷にもすっかり慣れている自分がどこか恐ろしくもある。と、しばし牛車に揺られてたどり着いた大納言の屋敷は四条の屋敷に比べればこじんまりとしており、家人に案内され庭を歩いて寝殿の方へと向かう。

 

 その佐為の纏う桜の唐の綺の直衣に葡萄染(えびぞめ)下襲(したがさね)の裾を引いて歩く様を、寝殿の御簾内に控えていた女房らはもちろん宴席にいた殿方たちも息を呑んで見やった。

 

「まあ……なんとあでやかな大君姿(おおきみすがた)でしょう。まるで花の王のような……」

「あんなに美しい殿方がこの世にいらっしゃるなんて……!」

 

 女房たちの色めき立つ声は佐為の耳に届かなかったが、視線を感じるのは常のことだ。

 そのうちの一人が「佐為の君」と意外そうな声で呟いたが佐為にはむろん聞こえず、案内されるままに寝殿の(きざはし)を登った佐為はまず按察使(あぜち)の大納言に挨拶をした。

 

「今宵はお招きいただき恐縮の限りに存じます。こちらは妻から大納言さまにと預かって参りました」

 

 自身を前に惚けているらしき大納言に佐為は携えていた桜の枝を差し出し、彼ははっとしたように瞬きをしてから受け取った。

 

「この屋敷の桜も今が盛りだが、さすがは(そち)大臣(おとど)邸の桜……。ましてや北の方は春の王を遣わせたと見える」

「お戯れを」

「ともあれ花見には格好の夜となろう。納涼の御遊でのそなたの笛の音を忘れかねておるのだよ。まず一曲聴かせてもらえるかな」

 

 意外な言葉に佐為は目を瞬いた。

 納涼の御遊とは佐為が博雅たちに混じって御前で横笛を吹いた管弦対決のことだ。その際、按察使(あぜち)の大納言は判者を務めたという縁がある。

 この場にはあの時不在だった者もいたため、彼は佐為が博雅に師事して素晴らしい演奏だったと誉めそやし、佐為はやや恐縮した。

 むろん楽聖と称えられる博雅に笛を師事できたことは至福ではあったが。と佐為は請われるままに懐から横笛を取り出して構える。

 

 夕暮れに染まる薄紫の空にひらひらと花びらが舞い、桜襲ねの直衣布袴(のうしほうこ)姿で優雅に笛を吹く佐為は比喩ではなく春の王が降り立ったような出立ちで、盃を手に見やる殿方たちもその姿に酔って見入った。

 

 佐為の叙爵も婚姻も出自を思えば不可解な出世とはいえこの姿を見れば納得であろうと誰しもが感じ、佐為が笛を下ろせば詩歌自慢が和歌(うた)や詩を詠み合う宴席と相なった。

 佐為も酒を貰い受け、誰とはなしに碁を打とうという話になって相手を務める。

 こういう場ではたいてい相手に応じて石を置かせ、指導碁めいた対局になるが、これはこれで楽しいものだ。

 

 一局、また一局と対局を重ね、酒をもらい、また打つ。時おり誰かが弾き鳴らす管弦の音や歌う声が聴こえ、優雅な時間が流れて夜は更けていった。

 

 そうしてどのくらいの時が経っただろうか。

 さすがに少々酒を入れすぎた、と少し酔い覚ましをしようと佐為は区切りのいいところで中座した。

 灯籠を頼りに人気のない方の庇へと歩いていく。

 端近に控えている女房たちの衣の裾が御簾から覗いていてなんとも色鮮やかだ。

 それにも増して……と佐為は夜桜を見やった。月明かりに照らされる様が言い表しようもなく美しい。

 今が盛りだというのに花びらを風が攫い、やや火照った頬に心地いいはずの風が恨めしい。

 

「もうしばし留め置きたいものを……」

 

 歩きながら憂いていると、その呟きが聞こえたのだろうか。そばの御簾の内から声が届いた。

 

「残りなく散るぞめでたき……と申しますのに」

 

 佐為ははっと目を見開き、足を止めて口元を緩めた。見知った声だ。

 

「ありて世の中はての憂ければ。……ですか?」

 

 桜は全部散ってしまうのが素晴らしい。世の中というものはいつまでも有り続けると最後はいやなものになるのだから、という意味の古今の一首だ。

 佐為の声を受けて御簾のうちから小さな笑みが溢れ、佐為はその声の主が控える御簾のそばまで寄って腰を下ろした。

 

「どれほど美しいものもいずれは憂しものになる。……とはいささか厭世がすぎますね」

 

 これほど美しいものを、と声をかけると相手は御簾の内だというのに檜扇を開いて顔を覆う気配が伝った。

 

「わたくしは()()()()()をずっと見ていましたから……。この和歌(うた)こそ真理だと思うばかりです」

「それは穿ちすぎというものです。()()()は今も変わらず睦まじいままですから。──藤式部(とうしきぶ)殿」

 

 苦笑いを浮かべ、佐為は御簾の内の人物をそう呼んだ。

 彼女、藤式部は麗景殿に仕える女房で、宰相の君の親しい友人でもある。部屋も隣同士ゆえに佐為と宰相の君の馴れ初めから全てを見知っており、彼女への通いが減ったことを責めているのだろう。

 

「あなたこそ、いつまでお逃げになるつもりですか? 一度手合わせを、とかねてからお誘いしているというのに」

 

 佐為はそう切り返してみた。

 宰相の君に興味を持ったきっかけは他でもない、彼女の残した対局の盤面を見たことだ。白黒共にひとかどの打ち手であり、特に片方は熟練の理論派なのが見てとれた。

 しかし誰が打ったかまでは分からず、宰相の君に通う仲となってしばらくののちにそれが彼女──藤式部であったと知るに至ったのだ。

 もとより学者の家系らしく聡明な彼女と接するのを佐為は好んでいたが、藤式部の方は友人の恋人と碁を打つなど御免被りたい一心なのだろう。幾度となく対局に誘うも色よい返事はなく。未だ対局は叶っていない。

 いずれにせよ栞の棋力には劣るため、今では是が非にでもとは思っていないが……と夜空を見上げる。

 

「ところで、意外なところでお会いするものですね。あなたの宿下り先が按察使(あぜち)の大納言殿のお屋敷だとは思いもよりませんでした」

「遠縁の伝手でございまして。わたくしこそ佐為の君にお会いするとは思いもよりませんでした、麗景殿ではなかなかお会いできない昨今ですのに」

「せっかくの美しい夜だというのに、手厳しいですね。今は恨み言よりも夜桜を眺めるほうが有意義というものですよ」

 

 佐為は苦笑いを漏らした。

 彼女の身を思えば友人のために恨み言の一つや二つ言いたくなる気も分からないわけではないが。さりとてどうすることもできない。

 この人は和歌(うた)も巧みだし、今宵はそれに興じてみようか。四条の屋敷では和歌(うた)の詠み合いなど叶わないのだから一興だろう。

 思ったままに声をかけてみると、ぱち、と御簾の内で檜扇が閉じられる音がした。

 

「でしたら、ちょうど興味深い話がありまして……。佐為の君は“かい沼の池”をご存じ?」

「かい沼の池……? いえ……」

陸奥国(むつのくに)にある場所らしいのですが、民衆の間になんともあやしき歌語りが伝わっているそうで……」

怪奇な(あやしき)歌語り……ですか」

 

 佐為は少々身を御簾に寄せて藤式部の話に耳を傾けた。

 陸奥国とは遠国の一つであるが、この屋敷の主人は按察使(あぜち)の大納言だ。按察使(あぜち)とは陸奥国及び出羽国の地方行政を監督する地位。既に形骸化して久しい役職とはいえ、その地域の話が入ってくるのも道理だろう。

 だが陸奥国などあまりに遠い外国(とつくに)。しかも民衆の話など、京から出たことのない自分には想像すらできない。

 

「そのかい沼の池に身投げしたという伝承の一つが歌となっているようで」

「え──!?」

「どうせならわたくしもそれにちなんだ和歌(うた)など詠んでみようと思ったのです」

 

 つらつらと話す彼女の声に佐為は絶句した。

 身投げなどという仏道に反する最たること、なんと恐ろしい。と口元を覆う。

 それとも和歌(うた)のように、恋の淵に身を投げる、などと言葉の上でのみの戯れなのだろうか。いやしかし、遠国の民衆はこちらの想像に及ばない生活を営んでいるという可能性もあるわけで。と、佐為が絶句したまま凡夫には予想もつかない才媛の言葉を聞いていると、彼女はこう口上した。

 

「世にふるになぞかい沼のいけらじと思いぞ沈むそこは知らねど……」

 

 刹那、ぞくり、と佐為の背中に悪寒が走る。

 彼女はいったい何を詠んで(言って)いるのだろう。

 

 

 ──この世に生きていてなんの()()があろうか。

 ──いっそこの身を沈めてしまおう。その水底(みなそこ)になにがあるかは知らないけれど。

 

 

 しかし和歌(うた)が巧みなせいだろうか。それともあまりに強烈な内容ゆえか。佐為はふと、水の中でゆらゆらとたゆたい、水底(みなそこ)に沈んでいくような漠然とした光景に囚われた。暗い水の底など確認しようもないというのに、それを見てみたい。と、誘われるように感じてハッと意識を戻す。

 

「あ、あなたという人は……先ほどから厭世がすぎるというものですよ」

 

 少々息の乱れた自身を誤魔化すように彼女を窘めてみせる。

 ふ、と御簾の先からは自嘲気味の笑みが漏れた。

 

「そういうわけではないのですが……わたくしもこの世に常なしということを少しは悟っているつもりですから」

「そうであっても、身を沈めるなどと……有りもしないことを」

「さもありましょうが……、地方に下向した折にそういうこともままあるのだと見聞きしましたゆえ。京に住む方々には理解の及ばぬところではございましょうが」

「ともかく……次はもう少し明るい和歌(うた)を」

 

 言いつつ佐為は考える。

 怪奇で幻想的(あやしい)などと評される池ならば、水面に光が反射する様子などもっと美しい光景を描けるはずなのだ。そう、生きる甲斐なしではなく生きる甲斐もあるというような。

 

「心ゆく……水のけしきは今日ぞ見る……」

 

 佐為が心のままに呟けば、藤式部が下の句を継いだ。

 

「こや世に経つるかい沼の池」

 

 

 ──心が晴れ晴れとする景色を今日は見た。

 ──これが生きる甲斐があると伝わるかい沼の池なのだ。

 

 

 彼女は佐為の心情を汲み取ったようで、先ほどとは打って変わって明るい和歌(うた)となり佐為もようやく笑った。

 たかだか和歌(うた)だというのにこうも狼狽えるとは、とさらに自嘲していると藤式部には奇妙に映ったのだろう。不審がられて佐為は弁明してみせる。

 

「四条ではこのようなやりとりはしませんから……。あなたと話しているといつも気の張る思いです」

 

 栞は栞で聡い姫ではあるが、やや方向性が……と思い浮かべて佐為は苦笑いを浮かべる。

 彼女は今ごろどうしているだろう。もう眠ってしまっただろうか。それとも起きて自分の帰りを待っているのか。

 心地よい夜風が頬を撫で、空を舞う桜の花弁を目で追う佐為の脳裏に扇を翻して舞う栞の姿が浮かんだ。

 これほど美しい夜だというのに──。

 

「我は寂しも……君としあらねば……」

 

 あなたがいないから寂しく思う。などと、いったい誰を想って口ずさんだのだろう。それとも見知った万葉の一句が口をついて出ただけか。藤式部にもさしもの佐為にさえ分からず、しばし二人は無言で舞い散る桜の花を見つめた。

 

 

 そうして夜明けまであと一刻(いっとき)ほどとなり──。

 

 

 四条の屋敷では、(しとね)に横になった栞が揺らめく燈台の火をぼんやり眺めていた。

 佐為が夜に外出している際は帰るまで起きて待っているのが常だが、今日は先に寝ていて欲しいと言われてしまったし……と寝返りを打つ。

 もう夜明けが近いはずだ。

 佐為は帰らないつもりなのだろうか。

 でも寝ようにも寝付ける気がしないし、などと考えつつ時折りうとうとしながら起きていると、ふいに風が入り込んだように燈台の火が揺れ、はっと栞は目を凝らした。

 すれば几帳に大きな人影が映っており、驚いて上半身を起こす。

 その間にも几帳を乱して影の主が近づき、さすがに栞は声を上げかけた。

 

「誰か──ッ!」

 

 が、声を発する前に後ろから手で口を塞がれ身体を抱き抱えられて恐怖で一瞬身がすくむ。

 

「お静かに。姫、あなたに焦がれてここまでやってきたのですから」

 

 だが耳元で囁かれた声は見知ったもので、瞬時に脱力した栞は呆れて後ろを振り返った。

 

「佐為の君……、なんの真似です」

 

 着替えもしないで。と、桜襲ねの直衣を纏ったままの佐為を見やれば、ふ、と口元が愉悦めいて緩められたのが見えた。

 

「今宵はそなたのところへ忍んでいくと言ったでしょう?」

 

 そういえば出かける前にそんなことを言っていた気もするが、まさか本気だったとは思わず栞は困惑するしかない。

 

「お、お戯れが過ぎます。いったい誰かと……とても恐ろしく思ったのに」

 

 佐為は栞のその反応を見て自身も困惑したように肩をすくめている。

 

「やはり……このような形で妻問いをせずにいた私が正しかったといま改めて悟りました」

 

 呆れたように言われた栞は釈然としなかったが、こればかりは彼の言う通りかもしれない。

 ──貴族の子女は声を荒げることははしたないと言われ育つ。ゆえに望まぬ輩が寝所に押し入って来たとしても助けなど求められないのだ。が、自分ならおそらく大騒ぎしていたであろうし、厄介なことになっていたはずだ。

 

「じき夜明けですのに……、ずいぶんと遅くまであちらにいらしたのね」

 

 ともあれ帰宅した彼を迎え、それほど熱心に対局していたのかと問えば佐為は少しばかり言葉を濁した。

 

「色々……話も弾みましたから」

 

 佐為の方は逡巡しつつ言い淀んだ。

 按察使(あぜち)の大納言家で交わした藤式部との会話を栞に話すか否か迷ったのだ。

 

『世にふるになぞかい沼のいけらじと思いぞ沈むそこは知らねど……』

 

 うっかり思い出して再び背筋に悪寒が走る。

 いくら遠国の民衆の歌語りを聞いたとて、彼女とて貴族の端くれであろうに、暗に水に入っての死を連想するなど常軌を逸している。

 それともあまりに賢すぎるゆえ、彼女に見えている世界はこちらとは違うのだろうか。考えつつ佐為はちらりと栞を見やる。

 栞にしても神仏を恐れぬきらいがあるため、今宵の話を語って聞かせたら案外藤式部の言い分を理解してしまうかもしれない。

 

「佐為の君……?」

 

 いや、さすがにないだろうか。いくら栞とて、そんな反貴族的なことを……と思い至って佐為ははっとした。

 

 自分は偶然に取り立てられただけで、本来は叙爵など望むべくもない出自だ。本来ならば『貴族』ですらないのだ──。

 してみれば、自分こそが理解すべきなのか。

 遠国の民の── 水底(みなそこ)に身を沈めたという。

 

「佐為の君……!」

 

 ゆらゆらとまたも水にたゆたうような感覚に囚われ愕然としていると、先ほどよりも強く栞から呼ばれて佐為はびくりと身体をしならせた。

 

「どうなさったの……?」

「い、いえ……すみません、ぼんやりしてしまって」

 

 訝しげに栞が見上げてきて、佐為は取り繕うように笑ってみせた。

 そして内心で自嘲する。たかだか戯れの和歌(うた)の話だというのにおかしなことを。けれども、なぜか漠然と胸に引っかかるものがあるのは確かで……と考えていると栞が直衣の袖を引いた。

 

「じき夜明けです。せっかく起きているのですから外を見ませんか?」

 

 きっと美しいはずだと誘う彼女に佐為は頷いた。

 さすがに格子を上げさせるには忍びなく、二人してそっと妻戸を開けて外へと出てみる。

 すれば薄紫に色づいた空にうっすらと雲がかかり、庭の桜がその色に溶け入るような光景が目に映ってどちらともなく感嘆の息を漏らした。

 

「春はあけぼの……と言いたくなる気持ちもわかる光景ですね」

 

 小さく栞が笑みをこぼした。曰く、かつて清少納言がそう語っていたという。

 佐為も小さく笑って栞の肩を抱き寄せた。

 少しずつ空が白んでゆく。あの雲の先から陽が顔を出すのも近いだろう。すれば庭の池に陽が反射して……、そうだ、生きる甲斐もあるような光景となろう。と、佐為は無意識に脳裏の奥でそう感じた。

 

「ねえ佐為の君」

「はい」

「あなたは私のもとへ忍んで通うのも悪くないとお戯れをおっしゃいましたが……、もしそのような仲であれば、夜明け前には帰ってしまうあなたを見送らねばなりません。こんな風に夜明けを共に見ることもできないなんて……、私はいやです」

「栞……」

「ですから、ここにいらしてね」

 

 ぎゅっと直衣を握りしめて見上げてきた栞に佐為はさすがに胸打たれ、腕に力を込めて彼女を抱きしめた。

 ええ、と頷きつつそっと額に口付けを落とす。

 そうして思う。なにを不安になることがあろう、と。ここにいる自分は他でもないこの人の背で、歴とした上人(うえびと)なのだ。

 そう、昇殿さえ許された貴族()なのだから……と明けゆく薄紫の空間に身を委ねながら強く思った。




この世界線では藤式部(紫式部)はこの夜の佐為の姿にインスパイアされて「花宴」の光源氏を書いたんでしょうね。
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