藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第十五話:澪標(みをつくし)

 小春日和の昼下がり。

 内裏の庭には蹴鞠に興じる公達の若々しい声が響いていた。

 

 蹴鞠は貴族の嗜みの一つである。

 とはいえ「高い趣味」と言われるようなものではなく、年齢が上がり身分も上がるにつれ蹴鞠に興じる機会も自ずと減っていくものである。が、例外もまた往々にして存在するものだ。

 

「五百十九──五百二十──!!!」

 

 そんな蹴鞠に熱を上げる若い公達──に混じる源博雅──の白熱した様子はにわかに注目の的となり、彼らを召した今上も熱心に見入り、最終的に五百二十回も落とさず蹴り上げ続けた博雅たちには禄が給われることとなった。

 

 今上は汗を拭う博雅を見つつ感心したように笑う。

 

「長秋卿は楽の才に加えて幼い頃から蹴鞠の上手だったと父帝も申しておられたが……頼もしい限りだな」

「まことに……」

「そなたとは北の方の後見人の縁で近しい関係であろう? 四条の屋敷でもやはりこのような遊びを催すのかな」

「いえ、私は蹴鞠の方は恥ずかしながら……。博雅三位(はくがのさんみ)も私が相手では物足りぬでしょう」

 

 今上のそばに控えていた佐為はそう答えつつ、公達と笑い合う博雅を見やる。

 博雅が蹴鞠の上手とは自分も耳にしていたが、まさかこれほどとは。これも血筋や育ちの為せる技なのか。

 いやそれにしても。三位(さんみ)の公卿ともなれば蹴鞠には参加しなくなるのが常だというのに率先して楽しんで……。ああいう破天荒さもきっと血筋や育ちに違いない。と、栞の姿も重ねて浮かべていると今上が改まって佐為の方を向き直った。

 

「ところで……北の方、(そち)の君はお元気でいられるか?」

 

 (そち)の君、とは栞のことだ。は、と佐為は頭を下げる。

 すれば今上が少し寂しげに笑ったのが伝った。

 

「以前は登華殿の女御のところによく参入していて私も忍んで舞など観に行っていたものだが……。まあ、いまはそなたの北の方なのだから仕方がないね」

「は……、女御さまからも惜しまれて、私ももったいなく思ってはおりますが……参内となりますとなかなか難しく」

「まだ私が春宮であったころはあの方もよく御所で舞っていて……いまでも語り草になっているほどだよ。私も未だ忘れられず……あのように身分高く生まれついた姫にあそこまでの舞の才が備わっていたことを不幸にも思ったものだ」

 

 今上は栞を惜しみつつ、もはや人妻となった大臣家の姫が軽々しく人前に出る機会などそうそうないと諦め嘆いてもいるのだろう。

 まさか栞本人に今上がご執心ということはないと思うが。などと佐為が内心焦りも感じていると、彼はこう切り出してきた。

 

大嘗会(おおにえ)(そち)の君が舞った五節舞の話はそなたも聞き及んでおるだろう?」

「──はい」

「じき新嘗会(にいなえ)だが、今年は左大臣が中の君を舞姫として出すと言っておるのだ。そこで、まずそなたに内々に知らせておこうと思ったのだが……」

 

 そうして続ける今上の話に佐為は目を見開いた。

 

 

 新嘗会──新嘗祭とは毎年冬に行われる宮中の重要行事である。

 その最後に行われる豊明節会(とよのあかりのせちえ)で五節の舞は舞われるわけであるが、これを舞うための舞姫は親王、公卿もしくは殿上から四名を出すことが習わしである。

 しかしながら女人が人前に姿を晒すことを良しとしない風潮により、ここ最近は公卿たちは自身の娘を舞姫として出さずに配下の中流以下の貴族の娘から出すようになっていた。

 が、今年の新嘗祭は左大臣が自身の娘である中の君を舞姫として出すという。聞けば外腹の姫らしく、とはいえ左大臣の鍾愛の姫で、新嘗祭の後は欠員が出ている尚侍(ないしのかみ)として入内する予定だということだ。

 

 五節の舞姫には五節舞を専門として指導をする五節舞専門の「舞師」という官職がある。五節の舞姫の経験者から選ばれ、その職位は終身職である上に毎年多大な禄も入るというおおよその女人には名誉な、また生活のためにも良い職と言えるものだ。

 しかしこの五節の舞師は得てして下級貴族や官人階級出身であり、入内する娘の師としては不足に感じたのだろう。折も折、この舞師が体調を崩しがちであることを理由に左大臣はとある相談を今上に持ちかけたという。

 近年の五節の舞姫経験者でもっとも出自がいいのは栞である。ゆえに栞を自身の姫の師につけたいというのが彼の主な相談内容だった。

 今上にしても自身の大嘗祭で舞姫を務めた栞には並々ならぬ思い入れがあり──それならば権官として栞に権舞師を贈ってはどうかと左大臣に告げた。

 左大臣は今上の言葉に喜び、議政官もそれでまとまっているという。

 

 そんな話を聞かされた佐為は思わず頭を押さえた。

 

 背の君が反対するならば無理にとは……と今上は付け加えたものの、どこをどう見ても断れる筋の話ではない。

 

 

 ──などと思いつつ帰宅すると、すでに御所からその話がいっていたのだろう。栞は熱心に文を読みながら難しい顔をしていた。

 

「栞……」

「あ、ああ……おかえりなさい。すみません、つい今しがた御所から使者が来たもので気を取られていて……」

「ええ、私もちょうど御所で主上(おかみ)からお聞きました。新嘗会(にいなえ)のことでしょう?」

「はい。……でも突然で、驚いてしまって」

 

 栞は目を伏せたが、舞師の話を受けたいのだろうと佐為は悟った。ただでさえ結婚後は外に出る機会が激減しているのだ。彼女がそのことを不満に感じているのは知っている。今回のことは外に出るまたとない機会だろう。

 

「左大臣の姫君を教習するのにあまりに身分が低い師だと……とお思いというか、だからこそあえて私に出向かせたいお心のようですね。舞師は終生に渡ってその職務を果たすものですが、私は今回ばかりの権舞師とするということですから」

「実質、左大臣の姫君のためということですね」

「そのようです。加えて、これを受けるならば私には従三位を給うという話です」

 

 ありがたいが益々身分が重くなってしまう。と言う栞に佐為は肩を竦める。

 

「それでは、そなたはますます私には手の届かない人となるのですね」

「何をおっしゃいます。あなただってご昇進はこれからいくらでも……と言っても父上が戻られない限りはあまりはかばかしいことは無理かもしれませんが、ゆくゆくは参議にでも」

 

 ともかく、と栞は笑った。

 

「お受けしようと思います。加階や俸禄はともかくも……舞に貢献できることは嬉しいですから」

 

 やはり、と佐為は無意識に拳を握りしめた。

 舞師そのものに反対なわけでは決してないが、一つ懸念が──と訴える。

 

「左大臣家へ直接出向いて教習を行うつもりですか?」

「それは……そうなると思います。他の舞姫がたには大師()ではなく小師がつくと思いますし……」

「そうではなくて……!」

 

 佐為は思わず栞の手を取った。

 左大臣宅といえば、あの藤の中納言の生家である。

 

「藤の中納言はそなたに求婚していたのですから……何もそんなところに行かずとも」

「で……、ですが中納言さまは今は三条邸においでですし、一昨年にご結婚されたばかりなのに」

 

 不思議そうに栞は目を瞬かせた。

 彼が、藤の中納言が自分たちの婚姻後に院の内親王降嫁の話を受ける決意をしたことは佐為も本人から聞いて承知している。事実、その翌年に院の女四の宮との婚儀を済ませた彼は、いまは実家の二条から女四の宮の母方の里邸である三条邸に移り住んでいる。

 

 しかし──栞への気持ちを忘れたわけでないことは時おり送られてくる文から見てとれ、本人も栞が参内しないことで彼女と会う機会がないことに不満を感じていることは内裏でそれとなく何度も匂わされていた佐為である。

 

 そんな彼が栞が二条へ出向くと知れば、舞姫となる妹の様子を見る名目で実家に顔を出すに違いない。

 いや左大臣家のことだけではない。五節舞の師ともなれば、新嘗祭の折りには参内して御所に幾日も詰めていなければならないのだ。

 もしもなにか間違いでも起これば、という佐為に栞は怪訝そうな顔をする。

 

「そんなに心配なさらずとも……」

「そなたは大臣(おとど)の姫ですが、同時に私の妻でもあります。私には……そなたを守れるほどの力はありませんから」

 

 左大臣家ではともかくも、御所に上がれば全ての女官・女房は人前に顔を晒すことを避けられない。いくら栞の顔は大多数に割れているとはいえ、誰ぞに見初められないとも限らない。

 しかも夫が自分程度の身分では──、手を出しても構わぬと軽んじられてしまうだろう。

 

「大丈夫ですよ、博雅さまも後見くださるはずですから」

「でも……」

「あなたが私をあまり人前に出したくないのは存じてますし、ご心配も分かります。かと言って、そもそも断れる筋の話では──」

 

 そこまで言って、栞は何かを思い出したように佐為を見上げた。

 

「そういえば……五節舞師は内侍宣で決定が下るのでした。おそらく私の場合も同じでしょうね」

「え──」

「ということは上臈(じょうろう)の内侍……橘内侍(きのないし)から言付けされるんだわ」

「え……」

「懐かしい、あの方は私が五節の舞姫を務めた時にはまだ上臈(じょうろう)にお昇りではなかったから……。そう考えると、あなたよりも私の方があの方と()()()()()()()ということになりますね」

 

 ふ、と口元だけで微笑まれて佐為は握っていた手を思わず離してしまう。

 

「い、意味がわかりかねます」

「五節師を引き受けるとなると内侍とも関わらねばなりませんから、そうなるとあれやこれや申す者もいるでしょう。……あなたのご心配はそちらなのかと思って」

「そ──!」

 

 そうではないと言い返そうとして佐為は言葉に詰まった。

 考えたくはないが、栞の言う通りである。

 思い起こせば三日夜を前に、他に妻にしたい人たちがいるのでは、と尻込みしていた栞だ。自分と橘内侍(きのないし)のことも元から承知のはず。

 

 どうしてこう次から次に……、と佐為はため息を吐いて説得を諦めた。

 

 

 

『掌侍橘何某宣、奉勅____』

 

 そうして新嘗祭が近づき宣旨が渡り、栞には今年の新嘗祭の五節舞を取り仕切る役が正式に下りた。

 

 これを境に従三位に昇った栞は、以後『三位(さんみ)御方(おんかた)』や『四条殿』と呼ばれることになる。

 

 五節の舞師となれば舞姫を出す家それぞれから膨大な禄が贈られる上に必要なものは全て彼らが揃えるわけで、栞自身の持ち出しは実質ない。

 この収入が今年絶たれるだろう本来の舞師には哀れなことで、栞は病みがちだという舞師に見舞いの名目で絹や綿、米や調度品など栞自身が受け取るだろう禄に準ずる品々を贈り届けさせた。

 

 栞の役目は舞姫たちが御所に参入する前の数日間に左大臣家で中の君に教習すること、及び舞姫に先駆けて参内して新嘗祭が無事終わるまで五節舞のいっさいを取り仕切ることである。

 

 つまり左大臣の家に泊まり込まねばならず、佐為としては送り出したくない気持ちもあったのだろう。

 が──。

 

 いったん決まった以上は覆しようがなく──、佐為にしても新嘗祭の準備に追われてそれどころではない。

 

「姫さま、左大臣さまのお屋敷よりお迎えの車が来ております」

 

 五節の舞姫の御所参入まであと三日と迫った日。その夜に左大臣は栞のところへ迎えをよこした。

 了承の返事をして栞は佐為に告げる。

 

「それでは、後のことはよろしくお願いしますね」

「分かりました。気をつけて」

 

 佐為に見送られ、左大臣からの迎えの牛車に乗った栞は自身の屋敷から複数の従者、女房を選んで同行させた。

 この舞師の連れてくる従者へ禄を取らせるのも世話をするのも舞姫を献上する側──つまり左大臣家の負担である。

 一家から舞姫を出すというのは並大抵の負担ではないのだ。

 

 栞自身が舞姫を務めた時は……あの年は特に大嘗祭だったこともあり衣装から人選まで色々と大変だった。などと思い返していると、牛車は二条の左大臣宅に着いた。

 

 教習所は東の対に設置したのか、牛車は東の対の端に寄せて止められ栞は直接そこから中へ迎え入れられた。

 さすがに摂関家。調度品やしつらえの趣きも品があり全てが一級品だ。薫物の匂いがわずかにくゆり、良い暮らしぶりが見てとれる。

 

御方(おんかた)さま、お隣に北の方さまと中の君さまがおいでです」

「参ります」

 

 栞自身は客人で師という以前に大臣家の姫で従三位も預かる身だ。本来なら舞師は下級貴族で公卿家に傅かねばならないが、むろん栞はその立場にない。

 あちらも当然、大臣家の姫に礼節をもって接するだろう。

 女房が仕切りの役目を果たしていた二枚の几帳を移動させて道を作り、栞はその先に控えていた二人に挨拶をする。

 栞の目に人懐こそうな笑みを浮かべる年若い姫が映った。この中の君は外腹の姫ということだが、幼い頃にこの家に引き取られたらしく継母である北の方との仲も良さそうだ。

 

「兄の中納言が大嘗会(おおにえ)の時の御方(おんかた)さまの素晴らしさを何度も語られて……わたくし、今日は御方(おんかた)さまが来られることを楽しみにしていたんです」

「それは恐縮です。ともあれ五節の舞は格別に難しいということはございませんのでお気楽になさってね」

 

 変な話だが今上の御前よりもよほど緊張する。と、今日ばかりは大臣(おとど)の姫らしいゆかしさを忘れず振る舞おうと頭に刻み、栞は中の君に舞の教習を行った。

 さすがに尚侍(ないしのかみ)になろうというだけあって明るい人柄のようだ。きっと宮仕えも上手くこなすだろう。

 さすがは左大臣──智略に優れているとも言える。正妻腹の大君(おおいぎみ)は既に院の女御であるし、この中の君は外腹だとみなが知っているのだ。女御として入内させても問題はないが、あえて尚侍(ないしのかみ)として出仕させる。そして今上の目に止まり寵を受け懐妊したら女御に格上げさせる腹なのだろう。仮に今上の寵を受けずとも尚侍(ないしのかみ)の職位は終生維持できるのだから、次の帝も未定なことであるし、譲位後に残って望みを繋ぐ手さえあるのだ。

 表向きは慎み深く、それでいて左大臣家にはなんの損もない采配である。

 

 こういうものを見るにつけ、やはり自分には入内して寵を競うなど不可能であった。

 

 などと思いつつ教習は夜中まで続き、その日はそのまま四条から連れてきた女房や従者ともども栞は左大臣宅で休んだ。

 

 そうして翌日も引き続き教習を続けていた栞であるが、午後になってやや風向きが変わる。

 休息を取っていた時に、とある一つの事件が起きたのだ。

 

「若さまがお戻りですって……!」

御方(おんかた)さまにご挨拶をと申されております」

 

 この家の女房たちが騒ぎ始めたかと思うと上臈らしき女房が栞の元へ来てそう告げ、さすがに栞は目を見開いた。

 

 

「かの五節の舞姫がこちらにおいでだと伺い、昔を思い出して我が家を訪ねて参りました」

 

 

 若さま、とは藤の中納言のことである。

 驚いた栞だが、ここは左大臣宅。断るのも無理な話だ。

 取り急ぎ、座が用意されるのを待って御簾越しで話をすることとした。

 御簾を隔てて久々に対面した彼は数年前よりも立派な青年になっており、さすがは摂関家の総領と言うべきか。

 

「“天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ”。──などと過去詠まれもしましたが、そうありたいと願っても叶わないこの世が恨めしい限りです」

 

 御簾の先で中納言はそんな風に言った。

 おそらく昔は直接の対面が叶っていたのに今は御簾を隔ててしか会話できない現状への愚痴……という風に栞は解釈した。

 

「こうして中納言さまとお話するのは数年ぶりですもの。その間にあなたは内親王(ひめみこ)さまとご結婚され、さまざまな事が変化いたしました」

「あなたが先にご結婚されたのですから、私と距離を置かれたのはあなたの方だというのに……」

「そんな風におっしゃいますな、私など宮さまとは比ぶべくもない只人(ただびと)です」

 

 そもそもの話であるが、内親王降嫁がなくとも中納言の求婚は受けていない。と匂わせると、伝わったのだろう。自嘲するような声が中納言から漏れた。

 

「すみません、あなたが妹の教習に来られると聞き及んでいてもたってもいられず……。どう過ごされているのかずっと気にかかっていたのです。あれほど足繁く通われていた登華殿への参上も遠のき、もしや背の君がお咎めなのか……お幸せなのか、と」

「中納言さま……」

「私のところへおいで下さっていれば、そうはならずにいたものを……と」

 

 栞は苦笑いを漏らした。

 中納言()と結婚していれば、さらに窮屈な生活となっていただろうに。──それでもその心意気だけはありがたく思い、栞は微笑む。

 

「私は幸せに過ごしております。それに、夫に言われずとももう独り身ではないのですから……軽々しく参内するのも憚られまして」

「さもありましょうが、あなたが来られないことをみな残念に思っているのです。今回のこともそれで主上(おかみ)など熱心に──あ」

 

 これは失礼。と言いすぎたことを中納言が詫び、栞は肩を揺らした。

 

「私も今回のことは公事として参内できる機会をいただき、ありがたく思っております。こちらの中の君さまをはじめ、舞姫がたを統率して大嘗会(おおにえ)に勝るような五節舞にできるよう務めるつもりです」

「私も御所でのあなたの久々のご活躍がなによりも楽しみで……きっと素晴らしく取り仕切られるのだろうと確信しております」

「もったいないことを……。私などのことよりも中の君の舞の方をお楽しみになさってください」

「舞も楽しみではありますが……、あなたが居られるだけで私にとっては御所が明るく華やぎますから」

 

 相も変わらずな彼の熱心ぶりに栞は苦笑いを漏らすもしばし歓談し、中納言は三条邸へと戻っていって栞はホッと胸を撫で下ろした。

 

 

 そうして丸二日の教習を終え、左大臣より大層な禄を贈られ左大臣家の従者に傅かれて栞は四条まで送り届けられた。

 

「おかえりなさいませ、姫さま」

「おかえりなさいませ」

 

 家人や女房たちと共に佐為も出迎えに赴き、彼は自ら左大臣家の車より栞を抱きかかえて下ろし迎えた。

 その様子から、この二日間はよほど気を揉んでいたのだろうと察するも疲れも相まって大人しく運ばれて寝殿の母屋へと足を下ろす。

 

「留守を預かってくださり、ありがとうございました」

「いえ……。それより左大臣の屋敷はどうでしたか?」

「とても良くしていただいて……、中の君は好感の持てるお人柄できっと良い尚侍(ないしのかみ)におなりだとお見受けしました」

「それは何よりですが……」

 

 やや不安げな佐為はまだ中納言のことを気にしているのだろうか。

 正直に話せば「やはり」と佐為はわずかに柳眉を寄せた。

 

「だから言ったでしょう」

「でも御簾越しにお話しただけですし……」

「御簾越しって……、直接話したんですか!?」

「で、でも……急なことで取り継ぎなども難しくて……」

 

 佐為は一度溜め息を吐いて栞を抱き寄せた。

 

「以前も言いましたが……私ではそなたを守りきれないのですから」

 

 やり切れなさを含んだような声に栞の眉尻が下がってくる。

 佐為の懸念がわからないわけではないのだ。女人とは軽く見られがちであるし、いくら栞自身の身分が高かろうが実父は在京ではなく夫の身分も高くない。となれば、屋敷の外──御所や今回の左大臣宅など──で他の男の手が付きやすくなってしまう。特にそれが公卿級や恐れ多くも帝とあらば佐為には抗議する術さえない。ということなのだろう。

 佐為がそういう意味で自分を外に出したくないと思っているかは定かではないが、もしそうなら……と栞は一度唇を結んでから佐為を見上げた。

 

「この新嘗会(にいなえ)が終われば、私はもう二度と御所には上がりません。だから心配なさらないで」

「栞……」

「幸いこの屋敷は十分に広いですから、私は舞も馬弓も好きなだけできるもの。それで十分です」

 

 笑うと佐為は自分がそう言わせたと感じたのか、どこか後ろめたそうな顔をした。

 

「すみません、私のわがままで……そなたに我慢ばかりを強いて」

「なにをおっしゃいます。私はあなたを背に持って幸せなのに」

 

 栞はそう言うと、そっと佐為の胸に身を埋めた。

 事実、栞はそれで良いと感じていた。外に出られない不満も佐為が不快に思うなら取るに足りないことだ。この先の一生をこの屋敷内で過ごすことになっても構わない。

 佐為が囲碁を一番に思うように、かつてはただ純粋に舞に励んでいたこともあったが……公卿の姫と生まれた以上は諦めるしかないのだから。だから、むしろ佐為がいて良かった。

 過去に戻りたい、裳着の儀の前に。との願いがもしも叶ったならば、そこに佐為はいないのだ。ならば、これでいい。

 この人のために人生を生きるのもそう悪いことではない。

 佐為といられるなら他を全て捨ててでも──と栞は佐為の直衣を強く握りしめた。

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