藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第十六話:最後の参内

 左大臣宅での教習から戻った翌日──子日(ねのひ)、午後。

 

 夜に御所へ参入する予定の四人の舞姫に先駆けて参内する栞の準備は着々と整いつつあった。

 この日は佐為以下博雅や博雅の息子たちも出仕を休み、栞の参内や付き添いの準備に追われた。

 

 参内にあたり紅紅葉(くれないもみじ)襲ねの裳唐衣で正装した栞は、滅多に乗らない金作(こがねづくり)の牛車に乗り込み、佐為たちの乗る複数の牛車と多くの従者を連れて仰々しく内裏へと向かった。

 

 従三位に昇ったこともあり内裏の内郭門まで牛車のまま行くことを許され、大内裏の外郭門で車を降りた佐為や博雅たちに付き添われた栞は後宮北側の 玄輝門(げんきもん)のところで車で降りた。

 その先には栞のために筵道(えんどう)が敷かれており、到着を待っていた諸大夫たちが栞の姿を隠すように差几帳(さしきちょう)をした。そうして栞は佐為に手を取られ先導され博雅たちが付き添って後宮は常寧殿の方へと歩いていく。

 

 その華やかな様子を貞観殿の女房たちが見つめてしきりに感嘆していた。

 

「まあ、今年の五節大師の参内は後の世の語り草にもなりそうな……」

(そち)大臣(おとど)大君(おおいぎみ)で後見人の長秋卿や若君たちも付き添われて……なんと立派なことでしょう」

「それに背の君は侍従藤原佐為朝臣、宮廷一の花とも呼ばれる君が今日は一段と麗しいこと」

 

 登華殿の栞の友人たちも遠くからその様子を見守っていた。

 

「栞殿……お元気そうでよかったこと……」

「従三位にお昇りで今後はますますこちらへのお出ましは難しくおなりでしょうね」

 

 栞はというと正装の重々しい重みに耐えながら常寧殿の馬道を歩き、どうにか目的地に辿り着いた。別名を『五節殿』とも呼ばれるこの殿舎は五節の舞姫の詰所となる場所である。

 五節師には上座に宿所が設営され、『帳台試』と呼ばれる常寧殿での試楽の際には五節師の宿所に今上の座も──もしも渡りがあれば──置かれることとなる。

 つまり帝と同席するということで、──これは下級貴族や官人の子女には名誉と同時に荷が重いに違いない。と、あながち本来の舞師が病みがちというのも本当かもしれないと感じつつ栞は自身の宿所となる塗籠に案内されホッと息を吐いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 辛そうにしていたのか佐為が心配げに顔を覗き込んできて栞は小さく首を振るう。

 

「重いです……。私も直衣を着たい」

 

 そう切り返せば、彼は呆れたような息を吐いた。

 博雅はというと、全体が見渡せるこの場から感心しきりに常寧殿の母屋を見渡している。

 明日の夜には四人の舞姫が揃い最初の教習が行われるのだ。その設営やら歌人の調子の最終調整が栞の役目である。

 今日から豊明節会(とよのあかりのせちえ)が終わるまでの五日間、御所住まいだ。

 ──思えば自身が舞姫をつとめた時には父がいて左近衛の武官が幾人も側に控えており、不安など微塵も感じなかったが。改めて考えれば一人でここに寝泊りするのは心細いかもしれない。

 

 にしても……と栞はまだ主のいない舞姫たちの詰所を見て思った。

 

 舞姫というのは本来なら人前で顔を見せることのない未婚の娘たちが公に出てくる特殊な場だ。

 本人の容姿はもちろん、着ている装束や連れてくる童女たちの容姿装束まで全てが面白おかしく批評される対象となるのだ。

 自身も経験したこととは言え、改めて別の立場から見ると如何ともしがたい気分になる。

 

 ともかくも今夜は佐為が宿直を勤め、明日以降は博雅が宿直を勤めてくれる予定だ。

 佐為とのことはみなが承知しているのだから自分の寝所に入れても文句は言われまいが、さすがに詰所内で床を同じくするのは憚られ、几帳で仕切りをつけてその夜は別々に夜を明かした。

 

 翌日──佐為は宿直明けのまま出仕したようで、栞は台盤所から自身の朝餉が運ばれてくるのを察して戸の方を見やった。が、ふと違和感に眉を寄せる。

 運んできた女官からほのかに香るくゆり。覚えがある。黒方の匂いだ。

 

「この香……、橘内侍(きのないし)?」

 

 まさか橘内侍(きのないし)が食事を運んでくるとは思わず、栞の顔がややこわばった。

 いったい誰の指示だろう。にわかに頭が痛んだものの几帳の先からは聞き覚えのある声がした。

 

「お目覚めでございますか」

「ええ。──お久しぶりですね。そなたの香が大嘗会(おおにえ)の時と変わらぬのですぐに気づきました」

 

 『黒方』は季節を選ばないが冬場に特に好まれ、慶事の際にも用いられる大人びた香りだ。新嘗祭の時期とあって使用しているのだろう。場に合った香を合わせるあたりはさすがに上臈の内侍を務めるだけある。

 感心していると、ゆるく彼女が笑みを漏らした気配がした。

 

「内侍……?」

大嘗会(おおにえ)の時にも御方(おんかた)さまにこの香を褒めていただいたことを懐かしく思い出しておりました。そして……()()()()()()()をお見つけになられたのだとも」

「どういうことです?」

 

 持って回った言い方は宮中では嗜みなのかもしれないが、なにが言いたいのか。考えている間に、ふ、と橘内侍(きのないし)は息を漏らした。

 

「侍従の君が折りに触れてこの香をお褒めくださいますもので……さすがは妹背ともなると趣味が似ていられる、と」

 

 愉悦を含んだような声が届き、栞の顔がますますこわばった。

 そんなことをわざわざ言ってくる意図は何なのか。思いつつ眉を寄せる。

 

「いっこうに風雅を解せぬ私だというのに、香の好みが似ているとは嬉しいことです。もっとも夫婦は似てくると申しますから……自ずとそうなったのかもしれませんが」

 

 そうして朝餉をおいてさがるよう告げ、栞は肩で息をした。

 佐為は職務上、内侍と接することも多いはず。ゆえに彼女の調合する香について話す機会もあるのだろうが。でも。

 

 ──ここまであからさまに佐為との関係をほのめかす意図はなんなのか。

 

 などと気にしても詮無いことで、ふるふると首を振る。

 朝餉を済ませ、歌人の座所や調子の確認をしつつ公務をこなしているとあっという間に午後に差し掛かった。

 

「栞……!」

 

 すれば群臣の退出の時間でもあり、佐為も例に漏れずだったのだろう。

 常寧殿に顔を出した彼の姿を見た途端に栞の眉間に無意識に皺が寄った。

 

「佐為の君……」

「これから退出するのでそなたの顔を見てからと思ったのですが……、何かあったのですか?」

 

 浮かない顔をしていたことに気づいたのだろう。

 栞は少し目を伏せた。

 

「別に……なにも」

「なにもないようには見えませんが?」

「いえ、ただ……橘内侍(きのないし)が朝餉を持ってこられたもので」

「え──」

 

 目の前まで来た佐為が驚いたような気配が伝った。

 

「そ、それで……なんと?」

 

 栞は言い淀む。彼女の合わせた香をあなたが褒めていたと言っていた、と告げたところでなんになろうか。

 言葉を噛み殺して佐為の胸に身を寄せるも、ほんのわずかに目尻に涙が浮かんだ。

 宥めるようにして髪を撫でる佐為には何があったのかおおよそ察しているだろう。

 

「そなたが気に病むようなことは何もないのですから……」

 

 佐為は指の腹で掬うようにして目尻の涙を拭い、そっと栞の額に唇を寄せた。

 

「……んっ」

 

 そうして何度か唇を重ね合い、佐為は明日また様子を見にくると告げて常寧殿を後にした。

 

 

 そのまま内裏の外へと向かった佐為であるが、温明殿を通りかかったところでちょうど件の橘内侍(きのないし)を見かけて足を止める。

 

掌侍(しょうじ)の君」

 

 呼びかけると橘内侍(きのないし)は振り返り、普段通りに何の用かと聞いてきた。

 大声で話すわけにもいかず、佐為は彼女の方へ歩み寄って低く声を抑えた。

 

「栞の……妻のところへ朝餉を届けたそうですね」

「ええ、朝餉をお届けするのが遅れていてお気の毒でしたので」

典侍(ないしのすけ)たちや、まして主上(おかみ)がそなたに栞の世話など頼むはずがないというのにいったいどうしたことか。そなたにしても出過ぎぬのが筋であろうに……!」

「まあ……、ひどいおっしゃりようですね。あやしげなものを差し上げたわけでもございませんのに……」

 

 詰め寄れば彼女の艶やかな顔が悲しげに歪み、ぐっと佐為は言葉に詰まる。公には彼女は自分の職務を遂行しただけで非難される謂れはないというのは道理だ。

 が、自分と橘内侍(きのないし)のことは御所中が知っていること。あの博雅でさえ薄々感づいているのだ。そんな彼女を大臣家の姫で自分の妻たる栞に近づけようなど誰もしないだろう。

 佐為がまごついていると、こちらの心情を察したのか橘内侍(きのないし)はすっと目を伏せた。

 

「あなたの妻となられた御方(おんかた)さまのお姿を一目近くでお見上げしたいと存じることさえ、わたくしのような身分では罪だとお思いなのですね」

 

 その言い分を聞いて佐為はわずかに息を詰めた。

 麗景殿のあの人なら、宰相の君ならこんな真似は絶対にするまいに、気の強さはさすがに上臈の内侍というべきか。佐為は思うもこれ以上咎めて事を荒立てるのは悪手だろう。小さく息を吐く。

 

「少々言葉が過ぎました。私たちの仲はなにも変わってはいないのですから……ほら、機嫌を直して」

 

 そっと宥めるように佐為は彼女の頬を優しく撫でた。

 ともかく、栞にとっていまが大事な局面。無事に新嘗祭が終わるようこちらも努めなければならない。

 ただでさえ宮中で何日も過ごさせることに気を揉んでいたというのに、本当に次から次に……と佐為は心内で深いため息を吐きつつ御所を後にした。

 

 

 一方の栞は、陽も落ちてきて参入してくる舞姫たちを待った。本来は昨日の子日(ねのひ)に参入しなければならない彼女らだが、二名ほど遅れているのだ。自宅での舞の個人教習が長引いているのだろうか。

 

 舞姫一行の参入はなかなかに大変なものである。自身も経験しているがゆえに手に取るように準備の苦労がわかるが、舞姫に同行する童女・下仕(しもづかえ)一つとっても五、六人は必要なのだ。その全てを似た背格好、優れた容姿で揃えるのは至難の技。

 だというのになかなかどうして、例年おおよその家がきちんと揃えてくるのだから並々ならぬ力の入れようだろう。

 

 今年の舞姫は左大臣の中の君、参議二名──のそれぞれの臣下の娘──、殿上受領の娘だ。

 

 左大臣の中の君は既に尚侍(ないしのかみ)として入内が決まっているが、他の舞姫たちはそもそも身分柄入内は望めない。

 

 その昔は舞姫は帝と共寝してそのまま入内などということもあったらしいが……とよぎらせ、自分の時に既にその慣習が途絶えていて良かったと栞は思わず頬を引きつらせて咳払いをした。

 

 入内の望めぬ舞姫のために莫大な費用を支払い舞姫を献上する旨みはないはずだが、旨みがないゆえに規定上は輪番、実態は昇進したばかりの公卿・新任参議が舞姫献上を命じられるという暗黙の了解がある。事実、栞自身が舞姫を務めたのも父が内大臣に昇進し献上したゆえだ。

 とはいえ公卿の場合は実の娘を舞姫として献上することはまずなく、代わりに娘を差し出すこととなる彼らの臣下の嘆きぶりは痛ましいほどだと聞いているが、果たして。

 

 舞姫経験者は五節舞師に就任するための切符を手にしているという点では、将来に安定した莫大な禄を得られる可能性もあるという利はあるのだが。あまりに低い可能性ゆえに慰めにはならないだろうか。

 

 女人が気軽に表に出られるような世が来れば、娘が顔を見られることに逐一気を揉む必要もなくなるだろうに。

 世知辛いものだ、と思いつつ全ての舞姫が揃って栞は最初の教習に臨んだ。

 この最初の教習──帳台試に帝が来ることは義務ではなく稀ですらあったが、今上は常寧殿に渡り栞の宿所に席を設けさせ座して見物していた。

 今上としては五節の舞そのものより久々に対面の叶った栞との語らいがことさら嬉しいのか、しきりに栞に声をかけている。

 

「今年はあなたがおられるためか、指示も細やかで大嘗会(おおにえ)での思い出が忍ばれるよ。明日の御前試も楽しみにしている」

「恐れ入ります」

 

 夜中すぎて終わった帳台試を見届けて去っていく今上に頭を下げ、栞は一息ついた。

 これほど夜が深くなってもまだ辺りがざわついている。おそらく上達部や殿上人たちが各五節所の品定めをしつつ舞姫献上者の昇進祝いと称して呑み騒いでいるのだろう。

 

「栞、火桶をこっちにも回してくれ。寒い!」

「あ、はい。ただいま」

 

 宿直のためにやってきた博雅の声がして火桶を手配し博雅のところへ行くと、やはり予想通りに公達たちが各五節所の様子を見て周り、あれやこれやうわさしているのだと聞かされ栞は苦笑いを漏らした。

 

「こうなると、その昔の私の五節所がどのようにうわさされていたのか気になるというものです」

「あの時は大嘗会(おおにえ)でいつもとは違っていたからなあ。それに栞の母上や私の叔父上たち天下の風流人が心を込めて選んでいたし……良かったと思うぞ」

「明日の御前試には博雅さまもいらっしゃる?」

「ああ。叔父上たちもいくだろう。佐為殿も……明日は朝から殿上するんじゃないか?」

「殿上……許されるかしら。明日は全ての公卿・上人が一堂に介する機会でもありますし……全員は殿上できるとは限らないでしょうから」

「おまえがいるのに背の君が殿上しないということはなかろうよ」

 

 ははは、と博雅は笑った。

 

 

 翌日──寅日。

 五節舞の清涼殿での御前試が行われる日であるが、舞姫たちの出番は夜である。

 午前中は朝から参入していた公卿及び殿上人たちに盃が振る舞われ、管弦などを楽しむ宴が催される。

 

 しかしながら清涼殿は殿上の間に控えられる人数には限りがあり、三位以上の公卿が昇殿できないということはまずないが、四位や五位では昇殿を許された身であっても昇殿できない場合もままあるのだ。

 

 昇殿の間を取り仕切るのは蔵人の役目である。

 特別に昇殿を許されている六位の蔵人が早朝から忙しなく動き回って準備を進めている。

 

 佐為も朝から出仕し殿上を許されたものの、自由に着席できるはずもなく身分順である。

 位階的にはこの場で末席となる佐為だ。博雅を見かけても気軽に挨拶すらできない。──と、佐為は他の公卿と雑談をしている博雅を昇殿の間の隅から見やって小さく息を吐いた。

 

 節会ゆえに今上が臣下に宴を振る舞うという名目ではあるが、この場に帝が現れることは稀だ。

 蔵人頭の一人──頭中将(とうのちゅうじょう)──が献杯すればあとは歓談するのみである。

 正月が近いゆえか、みなの話題は除目が中心だ。聞き耳を立てつつ佐為は思う。下手に国司などを命じられて下向するのは御免被りたい……などと心内で考えつつ大人しく盃に口をつけていると、参議あたりの席から声がとんだ。

 

「ここらでひと差し舞など所望したいところですな」

 

 酒が進めば詩歌や楽など腕自慢が競い出すのは常である。

 さして気にも留めずにいた佐為だが、次の言葉で顔を上げざるを得なくなる。

 

「藤の侍従、一ついかがかな?」

「は……?」

 

 まさか自身が指名されるとは露ほども思っていなかったのだ。佐為は目を瞬かせた。

 

「それはいい……!」

「侍従の北の方は都いちの舞い手と名高いあの(そち)大臣(おとど)の姫君ですからな、あの御方(おんかた)が師とあらばさぞやご上達されているでしょう」

「まして今年は五節大師であられる……」

 

 博雅はというと、上座からその様子を見ていた。

 

「いえ、私などが舞ってはかえって妻の恥にもなりましょうから……」

 

 やんわりと断る佐為の様子はまことに奥ゆかしく、なおさら彼らの興味を駆り立てている。

 ──貴族とは風流でさえあれば納得するようなところがあるから、あの美貌をもってすれば身分差をこえて大臣(おとど)の姫を妻としても仕方がない。などと栞との結婚当時にうわさされていたのも頷ける雅さである。

 しばし観察するもさすがに哀れになって、懐から笛を取り出した博雅は助け舟を出してやる。

 

「婿君の代わりに私が一曲吹きましょうぞ」

 

 そして視線をちらりとそばにいた叔父の源の中納言に向ければ、あ、と彼も頷いた。

 

「では私が歌おう。“美濃山”……でよいかな、長秋卿?」

「相応うございます、叔父上」

 

 天下の楽才が笛を取るとあらば皆の興味はむろんそちらに移るわけで。

 佐為はホッと胸を撫で下ろした。

 不思議なものだ。栞の縁続きなのだから当然といえばそれまでだが、下級官人の出である自分が公卿がたに気遣われ庇われて──。

 

 

 などと佐為が思っている頃、栞は常寧殿の自身の部屋で聞こえてくる笛の音を羨ましく聞いていた。

 博雅の笛だ。いつものことであるが、楽しげな音色はやはり羨ましく出ていけない身が恨めしい。などと思っていると、世話係の下級女官の声が聞こえた。

 

御方(おんかた)さま、登華殿の方がこちらに……」

 

 え、と目を瞬かせる。

 開かれた戸から中を隠す几帳のそばまで寄っていけば、うっすらと几帳に透ける懐かしい面差しが見えて栞は思わず自身で几帳を退かせた。

 

「清少納言殿……!」

「一昨日に参内なさる姿をお見上げして、いてもたってもいられず……来てしまいました」

「よく来てくださいました、どうぞ中へ」

 

 直に言葉を交わすのは数年ぶりだろうか。懐かしい友人の姿に昂揚した栞は清少納言を中に招き入れる。すれば彼女には五節師の宿所が物珍しかったのだろう。しげしげと見つめている。

 そのうちに彼女の書く散文らしきものにこの事も登場するかもしれない。思っていると「それにしても」と清少納言がこちらへ向き直ってきた。

 

「ご結婚されてからというもの全く参内なされなくなって……、みな心配しておりましたのよ」

「すみません、そうできれば……とは思うのですが、私は今回を最後にもう二度と御所に上がることはないと考えています」

「まあ……! なぜです、佐為の君がそうせよとおっしゃるの?」

 

 清少納言は心配げにこちらの手を取って見上げてきた。

 返事に窮していると、彼女は肯定だと捉えたのだろう。少しだけ眉間にしわを刻んだ。

 

「憎らしいことをおっしゃるのですね。栞殿は女御さまにも、恐れ多くも主上(おかみ)にも気に入られて……。今回もこのような晴れがましい役を務めていることを誇るべきだというのに。佐為の君がそのようなつまらない殿方であったとは……お情けない」

「そ、そういうわけではないのです。その、私が屋敷で好きに過ごす分にはなにも言われないですし……。ただ、やはり人の妻となった身で内裏などで好きに過ごしていると軽薄に思うものもおりましょう。それでも大臣である父がおいでならばただの物笑いで済んでも、佐為の君はご自分では私を守れないと気を揉んでおられるようで……」

「栞殿……」

「私は佐為の君にそのような思いをさせてまで御所に上がりたいとは思えないのです。皆さんにお会いできないのも、舞をお見せできないのも口惜しくはありますが」

 

 栞は苦く笑った。だがそれが栞自身の偽りのない本心だ。

 清少納言は同情気味な表情を浮かべている。栞への同情か、佐為へか、それとも両方なのか。

 彼女は小さくため息を吐いた。

 

「ご存知の通り、私は風雅を全く解せぬ夫と離別いたしましたが……内裏(うち)で顔を合わせる機会もあり今も仲良く過ごしております。栞殿はそうなさろうとは思わないのですね」

 

 暗に窮屈な生活を強いられているならこの結婚を終わらせればいい、と含ませる彼女に栞はきつく首を横に振るった。

 

「離別など……、七度生まれ変わってもまた逢いたいと思っていますのに」

 

 なにがあろうがそんなことは考えられない。と匂わせれば、清少納言は驚いたように目を瞬かせたあと、どこか哀れむような目を向けた。

 だがそれも一瞬。次には彼女はいつものような快活な表情で笑った。

 

「でもお元気そうで良かった。昨日の帳台試を見た頭中将さまが今年の五節舞の出来を褒めて回ってらしたので、私どももこっそり観にいこうかと話しておりましたの」

「ぜひいらして。それに……四条まで来ていただけたらいつでもお会いできますもの、お気軽に来ていただきたいわ」

「まあ……、大臣宅になど恐れ多い」

「そんなことおっしゃらずに──」

 

 そうして話をしていると、ふとこちらに近づく足音が響いて二人は顔を見合わせる。

 

「栞……? 誰かいるのですか?」

 

 あ、と二人は互いに呟いた。佐為の声だ。

 どうぞ、と栞が言えば開いた戸の先からやや顔を赤らめた佐為が入ってきた。

 

「清少納言殿……」

「まあ佐為の君、ずいぶんとお酒を召されたご様子だこと」

「ええ……、それで一度退出するのも煩わしいと思いまして」

「御前試までここで休もうという腹づもりですか……。私はお邪魔のようですね」

 

 さらりと清少納言は立ち上がり、そのまま佐為に一礼して戸の方に向かった。

 

「では栞殿、最後までつつがなくお勤めくださいませ」

「はい、ありがとうございます」

 

 慌ただしく去っていった清少納言とは裏腹にどうも佐為の足元はおぼつかない。

 

「あの、佐為の君……大丈夫ですか?」

「たぶん……。宴が進んで……ずいぶんと飲まされましたので」

「博雅さま……は愚問ですよね」

 

 いまこの瞬間も清涼殿の方からは博雅の鳴らす篳篥の音が聞こえてきており、佐為は一足先に出てきたのだろうと肩を竦める。

 休むように促し、佐為は袍をはだけてから横になり栞の膝に頭を預けた。

 

「先ほど……博雅三位(はくがのさんみ)と源の中納言殿に助けていただきました」

「え……?」

 

 ぼそりと呟いた佐為は、先ほど殿上の間で舞を請われた一連の流れを栞に語って聞かせた。

 

「舞って差し上げたらよかったのに」

「そなたと比べては……見劣りしますから……」

 

 そこまで言うと彼は眠りに落ちたのか、ふ、と栞は息を吐いた。

 御前試は夜中だし、あとでもう一度舞姫たちを見ておこう。この常寧殿の詰所で人目に晒されやすい状態で過ごしている彼女たちは不安に違いないし、気を配っておくのも仕事のうちだろう。

 明日は明日で清涼殿にて『童女御覧』があるのだ。舞姫よりもさらに幼い少女たちが公卿たちの好奇の目にただただ晒され見せ物のように品評されてしまう機会でもあり、決して気持ちのいいものではないはずだ。特に節会の最中はみな酒が入っていることもあり、殿方がどのような振る舞いをしても『戯言』にしかならない。

 自分だって……と栞は目線を下げて佐為を見た。

 佐為とは妹背なのだからこの宿所に入れたわけだが、ここは誰であっても踏み入ろうと思えば足を踏み入れられる場所であることは否めない。

 実際、過去に舞姫の部屋に忍び込んで籠もったまま出てこなかった男がいたことなど笑い話として語り継がれていたりするが。その舞姫が忍び入った男に()()()()()()()()は自明であり……。

 

 ──そう思うと佐為の心配も当然なのだろう。

 

 

 などと思いつつ、しばらくして佐為が目覚めると栞は各五節所を訪ね舞姫たちの様子を見て回った。

 やはり相当に気疲れをしているらしく、今にも倒れそうで退出したいなどと泣き始めた舞姫をどうにか慰めて今夜の御前試に臨む。

 

 清涼殿での御前試では舞姫たちは東孫廂に参入し、舞師もそこに円座が設けられる。

 

 一方の昇殿の間からは直接には今上の座や東孫廂は見えないため、せいぜい聞こえてくる歌人の声に耳を傾けるくらいしかできることはない。

 

 と、佐為は栞たちがいる東孫廂の方角を見やる。

 ちらりと上座に目やれば、藤の中納言がそわそわした様子でしきりに東孫廂に繋がる戸の開いた先を見ている。

 舞姫を務めている妹の中の君を気にしているのか、それとも栞を気にしているのか。おそらくは両方なのだろうが──たぶん後者が強いのだろう。と佐為はやや眉を寄せた。

 とはいえ、彼の恋心を自分が咎める権利などはないのだ。そもそも藤の中納言からすれば自分こそが栞を奪ったと感じているに違いない。自分が彼の立場であったならば、やはり良い気はしなかったはずだ。

 

 いけない、と佐為は自身を戒める。

 

 せっかくの節会だというのに、こうも心乱されるとは。

 理由は藤の中納言のことではない。節会の間中、自分の妻が観衆に晒されて品定めされるのを見聞きせねばならないのだ。これで胸中穏やかでいられる方がおかしいだろう。

 くすぶる気持ちが自分でも抑えきれずに佐為は下唇を噛んだ。

 きっと博雅ならば、いや栞の父の(そち)大臣(おとど)も栞のことを……従三位に昇り今上と同席する娘を喜び誇らしく思うのだろう。

 比べて自身のなんと小さいことよ、と佐為は自嘲した。

 

 せめて辰日の、豊明節会(とよのあかりのせちえ)での最後の五節舞は晴れやかな気持ちで見守らねば。

 

 

 そんな佐為とは裏腹に監督する立場の栞は無事にこの新嘗祭を終わらせることのみに神経を削っており、御前試が終わり、翌日の童女御覧も問題なく終えて既に疲労困憊状態に陥っていた。

 

 

 ──辰日、豊明節会(とよのあかりのせちえ)

 

 本日の夜の紫宸殿での宴が新嘗祭の最後を飾る。

 参入の刻限が近づいてきて、栞は深呼吸をした。紫宸殿に入るのは初めてである。

 紫宸殿は内裏の正殿。御所に来るのも今日が最後。勝手ながら今日という日にはふさわしい場所だ、と舞姫たちの参入に先立って紫宸殿へと向かう。

 

 格子があげられ、南向きのすべての御簾も上げられている様子が栞の瞳に映った。

 

 今日の殿上に席が設けられているのは親王及び公卿までである。四位、五位と一部の六位の席は全て地下に設けてある。彼らの全てからこちらの姿は丸見えだ。

 

 すでに新穀や酒も諸臣に振る舞われている筈だ。

 篝火に照らされた幾人かの顔色がほんのり赤い様子が紫宸殿の上からでも見てとれる。

 

 舞姫たちの顔色が疲労と緊張でだいぶ悪いがこれが最後である。無事に終わって欲しいと座して彼女らを見守りつつ、宴も進んで彼女たちの出番となり大歌も終わって舞が終わり、栞はホッと胸を撫で下ろす。

 一人一人の退出を見送って、これでほぼ役目を終えたと栞が安堵していたあたりで予想外のことが起きた。

 御帳台の先から今上の声が飛んできたのだ。

 

「今宵は私の大嘗会(おおにえ)を飾った舞姫が師の君として来ているのだ。最後に一つ、舞ってはくれぬだろうか」

 

 栞は思わず今上を見返してしまった。

 次いで公卿の席へと視線を移せば、案の定博雅が目を剥いている。

 やや緊張も覚えつつ栞は今上の方を見やる。

 

主上(うえ)、恐れながらこの装束ではご期待通りに舞うのは難しいかと存じますが」

「うむ、であるから、五節舞ならば問題なかろう?」

「は……五節舞を、一人で……でございますか?」

大嘗会(おおにえ)でのあなたの舞を忘れかねているのだよ」

 

 栞は目を瞬かせた。

 なるほど五節舞ならばこの裳唐衣の正装でも舞えるのはその通りだが。

 でも、まさか一人でとは──と思いつつも舞が舞えるという事実を前に栞は胸を高鳴らせた。

 他でもない今上からの頼みなのだ。ありがたく引き受ける。

 

「かえって興醒めにならないといいのですが……」

 

 謙遜してみせたが、おそらく誰の目にも謙遜だと分かっていただろう。

 広場がざわついている。地下にいる群臣たちには晴天の霹靂に違いない。思いつつ栞は廂の中央まで歩いて行った。

 そうして檜扇を取り出し、大歌所の歌人に視線で合図を送る。

 

 五節舞は大歌の伴奏で舞う緩やかな舞で、難易度は低いと言えるだろう。

 

 だが──翻す袖、目線。歌との調和。

 

 いまこの空間にいる全てを自身が支配している……と栞は振り返って篝火や燈台の明かりに照らされる舞台から群臣たちの姿を見下ろして感じた。

 この紫宸殿で、今上の御前で──。と、囃し立てる者すらおらず、むしろ静まり返る中で栞は舞い終えて腕を下ろし、昂る胸を鎮めるように一つ深い息を吐いた。

 

 

 

 こうして圧巻の舞を見せつけた元五節の舞姫の師の君の舞は、のちの『二条左大臣記』のみならず数多の貴族の日記にその詳細が記され、千年先の世でも史料の中で色あせず生き続ける事となる。

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