藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第二話:登華殿での対局

 博雅について参内することもあれど、栞の日常はほぼ自身の邸宅内で完結している。

 

 その住まいは左京の四条大路沿いに建つ豪奢な寝殿造りで京でも一、二を競う大豪邸であり、両親が筑紫へ下ったいまの主は栞自身であると言っても過言ではない。

 屋敷内には馬場殿もあり馬を駆り弓を打つのさえ困らない広さで、以前はもっぱら父の訓練場であったが、今は栞自身が弓を楽しむ場と化している。

 とはいえ彼女が出歩くのはあくまで屋敷内のみであり、それさえもあくまで特殊な例だ。貴族の女人とあらば基本は屋根の下から出ることは快く思われないうえ「立ち」歩くのさえご法度な生活である。

 

 そんな夏のある日。

 栞は先日の一局を並べつつ、ため息を吐いていた。

 その肌にじっとりと汗が浮き出てくる。

 京の夏は日に日に蒸し暑さが増し、日の高いうちは寝殿の奥に籠もって(うすもの)単衣(ひとえ)一枚で過ごさねばとても耐えられるものではない。単衣一枚では身体が透けて見えるため、さしもの栞もこの装いで端近に寄るような真似は決してせず奥でじっとしているのが常だ。

 暑さにうんざりしつつ耐えていると、女房──乳母の一人でもある──が近づいてきた。

 

「姫さま、お文が参っております」

「必要だったら適当にお返事差し上げておいて」

 

 ここは大臣家。藤原の摂関家ほど時めいた家でなくとも、未婚の姫がいるとあらばそれらしい文が有象無象から届くのが常である。

 今回もその類だろうと軽くあしらった栞だが、女房の次の言葉を聞いて目を見開く。

 

「それが……登華殿の女御さまの使いが見えまして……」

 

 差出人は女御らしく、その内容は──。読み終えた栞は小さなため息を溢した。

 

「参内せよと……?」

 

 そこには先日の夜に襲芳舎で打った打ち掛けの一局を見せて欲しいとの要望が記されていたのだ。

 今まさに並べていた一局でもあり、盤面を見下ろしつつ思う。女御が知っているということは、清少納言が先日の一件を彼女に話したのだろう。

 つまりは面白がられているわけだ。理解するも、女御からの要望を無碍にするわけにもいかず。栞は急ぎ返事を書くと屋敷の外で待っているらしき使者に届けさせ、さっそく参内の準備をするように女房に言いつけた。

 

命婦(みょうぶ)、明日は女御に参入するから衣装を整えておいて」

「かしこまりました。登華殿へ上がられるとなると、薫物はいかがいたしましょう?」

「暑いから……爽やかな香りがいいわ。控えめにね」

 

 言えばすぐに準備に取り掛かる女房──命婦以下はどこかうきうきと浮き足立ち、自身の仕える(あるじ)を着飾るのが楽しみで仕方ないといった具合だが。

 この暑い中で小袿を纏うのは……などと気の重さも感じるも昼の宮中に上がるには最低限の決まりがある故に致し方ない。

 幸運であるとすれば、正装せずとも許される身分だということだろうか。

 栞としては単純に暑いがゆえに裳唐衣(正装)を避けたいわけであるが、中には自分の地位を誇示するために場の空気も読まず砕けた格好をして公の場に現れ裏で顰蹙を買う貴人もいる。それに公家の姫ともなれば身に付ける物の質はもちろん洗練具合も観衆に晒され、うわさは内裏中を巡るわけで……。どんな襲ねにするか、どの小袿にするか。その選択肢がこの大臣家の評判を左右する。──と、命婦以下女房たちは思っていることだろう。

 貴族と生まれた限りは避けられない煩わしさだと知りつつ、翌日の午前中を参内準備に費やした栞は正午前にようやく身支度を整え終えて牛車に揺られた。

 

 四条から大内裏は目と鼻の先であるが、牛車で向かえば時間がかかるのは知れたことだ。

 いっそ馬に乗るか走って行きたい。などと思ってはいけないと戒めつつも思わずにはいられない自身とどうにか戦って堪える。

 この堅苦しい京生活にそれほど未練があるわけでなし、いっそ父や母のいる筑紫に行った方が楽しいのかもしれない。

 が、彼らが自分を京に残したのは広大な四条の邸宅や莫大な財産の管理が主目的であり。その役目を放り出すわけにもいかない。

 

 そんなことを巡らせつつしばし牛車に揺られ、大内裏へと入る。

 殿上人ならば例え上達部でもここで牛車を降りねばならないが、女人の、それも高位の場合はやや事情が違った。栞の場合、牛車の使用が許されているのは建春門までである。

 建春門は大内裏の東に面しており、内裏へと通じる宣陽門は目と鼻の先であるため牛車を降りても徒歩(かち)ですぐだ。

 そうして辿り着いた内裏の、まずは温明殿の回廊へと栞は足を進めた。

 ここ温明殿の一角には内侍所(ないしどころ)がある。宮中の華でもある才ある内侍の女官たちが詰める場所だ。

 今日も彼女たちは宮中業務に追われているのだろうか。思いつつふとよぎらせる。

 内侍でも最上位の女官である尚侍(ないしのかみ)は公卿の姫たちが勤めるが、実質の職務を遂行するのは主に中流以下の貴族の娘たちである。特に今の上臈(じょうろう)掌侍(ないしのじょう)は宮廷一の美姫と名高い才媛で、たびたび殿方を悩ませる種になっているとは栞も聞き及んでいた。

 過去に何度か顔を合わせたことがあるが、確かに美しく身に纏う香りも艶やかで……などと思い返しつつ温明殿を抜ければ麗景殿が見えてきた。

 そして承香殿を抜け、弘徽殿を過ぎればようやく登華殿である。

 

「栞殿……! よくいらっしゃいました」

 

 先方はこちらが来るのを既に承知済みだ。

 顔見知りの女房たちが迎えてくれ、栞が女御に挨拶を済ませればさっそく御簾の内からは微かな笑い声が聞こえてきた。

 

「清少納言に聞きましたよ。あの佐為の君と互角の碁を打たれたそうですね」

 

 やはり筒抜けだった上にどうやら話を面白おかしく脚色されているらしい。栞は苦笑いを漏らす。

 

「いえ、私は佐為の君を存じ上げませんので……どの殿方と打ったかさえ定かではないのです」

 

 すれば周囲の女房たちが我先にと反応した。

 

「まあ栞殿、なにをおっしゃるの!」

「清少納言殿に敵う殿方さえ滅多におりませんのに、栞殿と打ち合えるとあらば佐為の君以外におりませんわ」

 

 彼女たちの声が弾んでいるのは、話題の主がその『佐為の君』とやらだからだろうか。

 それに、今上の囲碁指南役を勤めているのは二人だと聞いたはずだが、なぜ彼女たちは佐為の方だと決めてしまっているのか。

 いずれにしてもあの夜の相手は手を抜いて打っていたし、終局まで打ったとしても見かけ上は波乱もなく淀みもない互角の図が出来ただけのような気がするが。

 御簾の内からは微かに布擦れの音が聞こえた。女御も笑っているのだろう。ちらりと栞が御簾へと視線をやれば、女御は応えるように言った。

 

「佐為の君は二十歳を過ぎてなお北の方がおられず、都中の女人を悩ませる種になっているのですよ」

 

 その声を受けて女房たちの声がいっそう色めく。

 

「北の方だなどと大それたことは望みませんわ」

「そうですとも、一晩だけでもお側に……!」

「でもあの君は橘内侍(きのないし)とのおうわさが……」

「あら、わたくしは麗景殿の宰相の君にお通いだと聞きましてよ」

「どちらも美貌の誉高い方々ですもの、さぞやお似合いだとは思いますが……。その話が本当ならば佐為の君は殿方のお恨みを買いますわね」

 

 そんな会話が止め処なく彼女たちの口から漏れ、さっぱり話の見えない栞は口をつぐむしかない。

 とはいえ先日の夜に会った青年がうわさの『佐為の君』だとしたら、騒がれるのも無理からぬことかもしれないと思う。あの、まるで月読が地上に降りたかのような姿は……と、月明かりに照らされた青年の姿を思い浮かべていると御簾の内から女御の声がして栞はハッと意識を戻した。

 

「昨日、佐為の君は弘徽殿にいらしていたから今日はこちらに見えるはずです。それであなたを呼んだのですよ、栞の君」

「え……!?」

「佐為の君も朝には他のご公務がおありですから、その後に主上(おかみ)のお相手をなさったり、こちらでも囲碁の指導をなさっておいでなのですよ」

「まあ、では佐為の君は女御がたへも指導を……?」

 

 栞はやや意外で目を瞬かせる。彼は侍従、ということは冠位は従五位下であり、女御と直に顔を合わせるのは憚られる立場だ。

 すればその疑問に答えるように、「いえ」と女御の否定声が届いた。

 

「他の女御がたのことは存じませんが、こちらでは女房たちと打っていただいています。女房たちと佐為の君の対局を見るのもゆかしい事ですから」

 

 なるほど、と栞は頷いた。

 囲碁は貴族の中でも、とりわけ屋根の下から出られない女人に人気の娯楽だ。直接の対局でなくとも、見ているだけでも十分に楽しめるに違いない。

 考えていると、「ですが」となお女御は言葉を続けた。

 

「未だ誰も佐為の君に黒星を付けた者がおらず……、栞の君ならばと思ったのですよ」

「女御、それは……あの対局は──」

 

 驚いた栞は声を上げかけた。あの夜の青年の棋力は図りかねるとはいえ手加減されていたことは明らか。清少納言がどう説明したのかは知らないが、戯れがすぎる。

 

「まあ、みなさん」

「佐為の君がお見えだわ……!」

 

 などと考えていると廂の端側にいた女房たちから声が上がり、女御からは「うわさをすれば」とおっとりした声が漏れた。

 裏腹に栞はやや焦って誰とはなしに訴える。

 

御几帳(みきちょう)をだれか、これへ!」

 

 さすがに見知らぬ殿方に易々と姿を晒すわけにはいかない立場の栞だ。

 慌ただしく女房たちが栞の前に几帳を置いたと同時に一人の殿方がこちらに姿を現した気配が伝った。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく、ご挨拶申し上げます」

「よくいらっしゃいました、佐為の君」

 

 相当に慣れた相手なのか女御は直接声をかけ──、栞は目を見開いていた。

 間違いない。あの夜の青年の声だ。

 

「おや……」

 

 一方の青年──、佐為は奥の御簾のそばに置かれた几帳が目に入って目を瞬かせた。

 どこぞの貴婦人の来客なのか。几帳の端から覗く百合襲ねの衣。綾錦の小袿。しつらえから相当な身分の女人だと一目でわかる。

 もとより(あるじ)に仕える女房には裳唐衣(もからぎぬ)の正装が義務であり小袿(こうちき)の着用は許されておらず、おそらくは女御の親族が参上しているのだろうと推察する。

 どう挨拶したものかと考えあぐねていると、そばにいた女房が歩み寄りそっと伝えてくる。

 

「今日は女御さまのお召しで(そち)大臣(おとど)大君(おおいぎみ)が参られてますのよ」

(そち)大臣(おとど)の……? そのような方が先客であれば、私は日を改めた方がよろしいでしょうか」

 

 女御の親族という予測は外れたものの、大臣家の姫なら納得の装いである。佐為が言えば「いいえ」と周りの女房たちが口を揃えた。

 

「姫君は囲碁の上手で知られてまして、佐為の君のおいでを楽しみにされてましたの」

「清少納言殿よりもお強いのですよ」

 

 とたん、佐為の声がやや跳ねる。

 

「清少納言殿より……!?」

 

 清少納言は登華殿はもとよりこの後宮内でも一、二を争う打ち手だ。その彼女より上とあらば──自身の勝敗には左右せずとも──相当な打ち手に違いない。

 

「それは、許されるならばぜひ手合わせをお願いしたく思います」

 

 興味を引かれた勢いで几帳に向かい声をかけるが返事はなく、佐為は自嘲して目を伏せる。高貴な姫が初対面の相手に返事をするなどまずないことだ。いた仕方ない。

 だが女御と親しいのならばそのうちに言葉を交わす機会もあるかもしれないと気を取り直して用意された碁盤の方へ向かっていると、御簾の内から女御が几帳の方へ声をかける気配が伝った。

 

「栞の君……」

 

 促すような声に栞の頬がぴくりと動いた。

 女御を含め、みなが面白がっていることは分かっている。それに栞自身、先日の打ち掛けの一局が気になっているのは確かだ。

 が、彼──佐為はあの夜の自分を小舎人だと思っているのだ。困ったことに彼自身が“(そち)大臣(おとど)の姫”である自分の存在すら知らないようであるし、わざわざ面倒なことを説明する必要などないのではないか。

 

「せっかく佐為の君がおいでくださったのですから、わたくしも楽しみにあなたを呼んだのですし……打ってくださいな」

 

 考えあぐねていると女御からの更なる要請を受け、栞は心内でため息を吐いた。

 女房の要求ならば突っぱねることも可能だが、さすがに女御にこう言われては。そっと懐から扇を取り出しつつ栞は息を吸い込む。せめて精一杯『大臣(おとど)の姫』らしい振る舞いをせねば。

 

「わたくし、打ち掛けで終わった心残りの一局がございまして……。そのお相手を頼めるのであれば、ぜひ」

 

 佐為の方は思いがけず几帳の奥から声をもらい、あ、と目を瞬かせた。

 一瞬だけ違和感のような、どこか聞き覚えのある声のような気がしつつ、少しだけ声を弾ませる。

 

「打ち掛けの一局とはなんという偶然でしょうか。私も先日同じように打ち掛けのまま終わった一局がございまして……姫君のお心が手にとるように分かります」

 

 女房たちがその返答に耐えきれず口の端からわずかに笑みを零したが、佐為の耳には届かず。

 しばし几帳の方を見つめていると、さらりとした布擦れの音と共に一人の女人が姿を表した。

 こちらに()()()()()様子など、さすがは大臣家の姫だと賞賛したくなるほどの尊貴さで──当の本人は女御の御前で見知らぬ男(佐為)を前に「立ち歩く」わけにはいかず仕方なく膝行(しっこう)しているだけであるが──佐為は思わず目を奪われた。ほのかに漂う荷葉のくゆりも夏らしく爽やかだ。

 髪は深窓の姫とは思えぬ短さであったが艶は見事で、もしや裳着を済ませたばかりの歳若い姫なのだろうか? 扇で顔を覆っているためどのような容貌かを窺い知ることはできなかったが、佐為はふと視線を彼女の扇に向けた。

 ──檜扇ではない。蝙蝠扇のようだが、通常より重々しく両面を張ってあり開き方も大きく類を見ないものだ。おかげでちらりと顔を見ることすら叶わず、特別に作らせたものだろうかと佐為は思う。

 いずれにせよしつらえから身分の高さが伺え、佐為は用意された碁盤の下座について彼女を待った。

 

「姫君……、打ち掛けとなった一局の石の並びは覚えておいででしょうか」

「ええ。いまお並べいたします」

 

 彼女も上座につき、扇で顔を覆ったまま空いていた手で碁笥から碁石を摘んで並べ始める。

 その手付きは彼女が相当に打ち馴れた者であると雄弁に語っており、佐為は期待に高鳴る心音を抑えきれずに笑みをこぼした。

 が、十手ほど並べたあたりからだろうか。笑みの消えた佐為の顔は強張り、次第に引き攣っていく。

 

「これは……」

 

 見覚えのある、いやあの夜からずっと頭を離れなかった手順だ。あの夏夜の精が小舎人に姿を変えて自身の前に舞い降りたかとさえ感じたあの一局。

 

「姫……!」

 

 思わず彼女を見やるも、扇で覆われたその奥の素顔が見えるはずもなく。

 やがて彼女が手を止めれば、一手も違わずあの夜と同じ図が出来上がって佐為はさすがに動揺を隠せずにいた。

 まさかあの時の()()が目の前の女人(ひと)だとでも言うのだろうか? いやしかし。彼女とあの少年が知り合いで、この一局をたまたま彼から聞いた可能性は?

 見やる先で眼前の彼女は一人の女房を呼んでなにかを耳打ちした。

 すれば女房は彼女のそばから白の碁笥を佐為の方へと運び、佐為は息を呑む。

 

「ここで打ち掛けとなったのです。わたくしの事情で止めてしまったので、申し訳なく思っていました」

 

 その言い分はあの夜の一局の相手が彼女であったことを含ませているように感じ、佐為は喉元を引きつらせた。

 あの心躍った対局が、夏の夜の精が舞い降りたとさえ思った相手が大臣家の姫であったなどと誰が想像できようか。

 そのような高貴な姫がなぜあのような出で立ちをしていたのだ?

 それよりもなによりも、あの夜の自身の態度は姫君相手にはあまりに……と若干血の気が引いていると小気味のいい音とともに黒石が盤面へと打ち込まれた。

 ハッとした佐為はどうにか頭を対局に切り替えようと努める。

 あの夜の相手ならば、技量は申し分ない。こうもあっさりとあの一局を並べたことからも、やはり相当な打ち手であると見て取れる。

 ならば対局に集中しなくては。あの夜の続きを打てずに口惜しく思っていたのは他ならぬ自分自身ではないか。

 ましていまは女御の御前──。

 

 集中しなくては──。

 

 との思いが伝わってくるようだ。と、栞は打ち返してくる相手の石筋を見ながら内心息を吐いていた。

 予測できたことではあるが、おそらく彼は動揺しているのだろう。

 驚かせたかったわけではないというのに、女御の前では気安い会話を交わすことさえままならない。

 さりとてこちらから「通常通りに打ってくれ」と言いつけるのは彼に更なる追い討ちをかける結果になりかねず……。周りの女房たちのみが目を輝かせて碁盤へと視線を向けている。

 

「あれでは白は大石を取られますわ」

「さすが栞殿、お強いわね」

「佐為の君が手加減なさってるのではありません?」

 

 対局者には届かない程度の声で女房たちがささやく中、対局は進み──。

 栞は手を止めた。

 数えれば黒が多いはずだ。もともと盤面互角での打ち掛けだった上に相手の応手が通常ではない以上、黒が勝つのは予測できたこと。

 むろん佐為にも勝敗は見えているだろう。

 

「白が……足りませんね。さすがにお強い」

 

 眼前からやや掠れた声が聞こえた。

 そう告げるだけで精一杯という具合だ。

 

「いえ……打ち掛けの一局でしたから、佐為の君を戸惑わせてしまったのでしょう。お付き合い頂き感謝します」

「姫……!」

 

 栞は腰を上げ、佐為は思わず彼女を呼び止めた。

 が、この場ではどうすることもできず、誤魔化す様に頭を下げて目線を盤上に戻す。

 清々しい一局と言えないのは確かだ。動揺を隠せず打ち損じたのも事実。

 

「佐為の君は栞の君の前でご緊張なさったようですね」

「まあ女御さま……、いくら大臣(おとど)の姫君が相手といえど佐為の君はいつも主上(おかみ)を相手に打たれている方なのですから」

「きっと栞殿に花をお持たせになったのね」

 

 女御含め対局を見守っていた女房たちの声を耳に入れながら佐為はようやく視線をあげる。

 栞、と呼ばれている彼女は中座したのか見当たらない。

 ならば追って話を、と願っても叶わぬことだ。自嘲していると次の相手にと女房の一人が碁盤の前に座り、佐為は今度こそ気持ちを切り替えて相手へと向かった。

 

 

 一方の栞は簀子に出てぼんやりと庭を眺めていた。

 先ほどの一局、結局は不本意なものに終わってしまった。

 できるならば、このような形ではなくもっと違う形であの夜の続きを打ちたかった。などと願うのは過ぎた望みだろうか。

 こちらにしても扇が邪魔で相手の顔さえ見ることすら叶わずに──と、あの夜に慈しむような眼差しを向けてくれた彼の面差しを浮かべて扇を持つ手に力が入る。

 きっと彼はこちらを元服前の子供だと思ったからこそあれほど優しげな瞳をしていたのだろう。それにも増して、蛍の光を受けた月下の彼の姿はあまりに優美で……と思い返してハッと首を振るう。

 なにを考えているのだろう。

 どんな形であれ、あの一局は既に片がついたのだ。ならばもう忘れなくては。

 佐為が退出すれば自分も女御に挨拶して四条の屋敷に戻ろう。

 ぼんやり考えつつ日差しを受けて青々と茂る木々の葉を眺めていると、けっこうな時が経っていた。

 

「姫君──ッ!」

 

 柱に寄りかかるようにして庭を眺めていると後方から声がかけられ、反射的に栞は扇を開いて顔を覆った。

 

「姫、いましばしお待ちください……!」

 

 佐為の声だ、と慌てて隠れようとするも引き止められて足を止めてしまう。

 他の女房たちとの対局は済んだのだろうか? すぐ後ろまで足音が迫って栞は思わず息を呑んだ。

 彼はよほど焦っていたのか、息を整えている様子が伝わってくる。

 

「姫……、知らぬこととは言え先日の夜の非礼、お詫び申し上げます。どうかお許しを」

 

 やはり彼はあの夜の対局相手が自分であったと確信したのだろう。栞は視線を床へと落とした。

 

「私の方こそ、あのような形で去ってしまい……今日もあなたにとっては不本意な対局を強いてしまいました。申し訳なく思っています」

「そのような……、先ほどは私の未熟さゆえの心乱れが出たまでのこと。姫君の技量は本物にございます」

 

 こちらの返答に安堵したのか佐為の声がやや柔らかくなり、栞も少し安堵する。

 が──、振り返って顔を見たい。というのはやはり止めた方がいいだろうか。

 

「姫……」

 

 しばしまごついていると、やや緊張を孕んだ佐為の声が背中にあたった。

 

「重ねての非礼を承知で……、いま一度私と打ってはくださらないでしょうか」

 

 え、と栞は目を見開いた。

 

「お気づきでしょうが、私はあなたを元服前の子供と思い指導碁を打っていました。心躍る一局だったというのに、打ち負かすわけにはいかぬと。そして先ほどは酷い一局を晒してしまい……挽回の機会を与えていただきたく」

 

 自嘲気味な声が響いてくる。

 

「いえ、言い訳は致しますまい。私は姫君のような相手を探していたのです」

 

 言われて、栞は扇の持ち手に無意識に力を込めた。

 彼の真意は図りかねるが、強い打ち手を求めているということだろうか。

 いや、この際彼の真意がどうであっても構わない。

 やはり一度ちゃんと向き合って話がしたい。

 ぱち、と音を立てて扇を閉じ栞はそっと振り返る。

 

「姫だなどと……、栞とお呼びください、佐為の君」

 

 すれば栞の瞳に緋の袍を身に纏った、あの夜に向かい合った青年が目を瞠り、そしてすっと細めて頬を緩める様子が映った。

 姫、と再度小さく呟いた彼はそっとこちらに近づき扇を持っていた栞の手を取る。

 

「ああ、やはりあなただ……あの夜の──」

 

 よもや人ではないとさえ感じた相手と再び会えるとは。

 どちらともなく顔を見合わせて微笑みあった。

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