藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第二十話:伝え継ぐこと

 過ごしやすい季節となったからだろうか。

 

 佐為は晴れた日には簀子に碁盤を持ち出して庭を見ながら、陽が落ちれば篝火を頼りに碁を打っていることが多い。

 

 夏になると毎年こうだ。

 

 佐為が屋敷にいる限り、栞は一日一局は付き合うようにしている。

 おおよその場合は一局で終わらないため、栞はいまではキリのいい切り上げ方をすっかり身に付けていた。

 そうして佐為は一人で古書を手に石を並べていたり、何刻も難しい顔をして考え込んでいたりと日々のおおよその時間を碁盤の前で費やしている。

 

 そんな佐為を見慣れているはずだというのに──。

 何年見ていても、毎日でも見とれてしまう。と、月明かりに照らされ碁盤に向かう佐為の様子を一寸離れた廂から見守りながら栞は思った。

 ほんとうに出会った夜からなにも変わっていない。

 時おり険しい顔をして盤上を見つめる佐為が少しだけ気にかかるも、きっと今の彼の頭は碁のことのみでいっぱいに違いない。

 

『あなたにその気がなければ、しばらくは……いえ、ずっと表向きの夫婦仲であっても構いません』

『対局にはお付き合いいただきたいですけど』

 

 昔はああ言っていた佐為だが、結婚に際してのあの提案を受け入れていたら今ごろはどうなっていたのだろう。

 なし崩しで妹背となったとは言え、きっと不可能だったに違いない。

 佐為は自分を妻にさえすれば頻繁に打てる狙いだったのだろうが、とてもそれだけで済んだとは……と“夫婦”という間柄でのあれこれを思い出して栞は自嘲した。

 

 そもそも自分にとって碁は趣味でしかなく、佐為のようには情熱を注げない。まして同じ目線に立とうなど──。

 

 佐為が碁打ちとしての同士を求めていたのなら、おそらく自分は期待外れだっただろう。

 

 そんなことを思いつつ見つめていると、パチ、と石の音がしたと共に佐為の視線が廂の方へと向けられた。

 

「なんです、先ほどから黙してこちらを見てばかりで」

 

 呆れたようでいてからかうような声だ。

 栞は急に気恥ずかしくなり、思わず佐為から視線をそらす。すれば、ふ、と笑みが漏れる気配がした。

 

「どうせ見ているのなら、こちらへおいでなさい」

 

 月の光を浴びる佐為は相も変わらず優美で、栞は誘われるように頷いて佐為のそばまで歩み寄り腰を下ろした。

 

「夏の夜にこうして石を並べていると……、そなたと出会った時のことを思い出します」

「私も……。それに、登華殿で続きを打ったあの夜の一局が唯一あなたを負かした碁ですから、とても思い出深いです」

 

 ふふ、と栞が笑みを漏らすと佐為は腑に落ちないという風に眉を寄せた。

 

「あれは……大臣(おとど)の姫と知らず礼を欠いたと心乱れが出たまでで……!」

「その大臣(おとど)の姫を妻になさったのはどなたでしょう」

 

 ぐ、と言葉に詰まりしてやられたと言いたげな佐為の顔を見上げて栞は肩を揺らした。

 

「そのあとはどれほど打っても勝てなくて、今ではすっかり自信を失いましたけれど」

「そなたは腕を上げましたが、私もそのままというわけではありませんからね」

「では一生勝てないということではありませんか」

「負けず嫌いもけっこうですが、囲碁くらい私が勝っていてもバチは当たらないでしょう」

「囲碁くらいなどと……、管弦全般もあなたが勝っておいでですのに」

「私など博雅三位(はくがのさんみ)の足元にも及びませんよ」

「それは比べる相手が悪すぎます」

 

 そんなやりとりをして佐為はようやく笑みをこぼした。そうして、ふ、と肩の力を抜いたように碁盤の方へ視線を戻す。

 

「常に……、最善の一手を追求しているんです。もっと優れた手はないものか、と」

「そんなにお強いのに?」

「そなたや博雅三位(はくがのさんみ)にしても、舞や楽への追求が止む気配はありませんからね。何事もそういうものですよ、きっと」

 

 そう言った佐為の目線はまた鋭くなり、栞は息を吐いた。

 自分たち(舞や楽)と違い、碁は一人では打てないのだから孤独に己を高めるという道は果たしてあるのだろうか。共に高め合う“誰か”には自分はなれないのだし、そもそもこの国には囲碁で身を立てる道は公にはないのだ。

 

紅旗破賊非吾事(戦いは我がことでなく), 黄紙除書無我名(取り立てもないのだから), 唯共嵩陽劉処士(ただ友と酒を賭け),

囲棋賭酒到天明(夜通し碁を打とう)

「……。白楽天ですか」

 

 栞がぼそりと詩を誦し、佐為は一寸だけ間を置いて碁盤から目を離さぬまま応えた。

 この詩は白居易が江州に左遷された折に詠まれ、せめて囲碁くらいはと無意無冠の友と静かに楽しもうとするも公から排除された悔しさが滲み出たものである。が、海を渡ったこの詩は──特に後の世で──やや違う受け止められ方をした。戦いも官職も知ったことではない。友と碁を打ち酒を飲み夜を明かす。これ以上の生き方があろうか。と、いうものだ。

 栞がどのような意味合いで呟いたのか、佐為がどう受け止めたのかさえ定かでないまま──佐為はしばしの間を置いてこんなことを口にした。

 

十九條平路(十九路の道は), 言平又嶮巇(平坦なようで険しく), 人心無算處(人の心は計りがたく), 國手有輸時(名人さえ負ける時有り)

 

 唐の時分の、碁そのものを題材にした詩の首聯(しゅれん)及び頷聯(がんれん)だ。

 ああ、と栞はすぐに応じた。

 

勢迥流星遠(石の流れは星降るようで), 聲干下雹遲(音はまるで雹のよう), 臨軒才一局(窓辺で一局打っていたら), 寒日又西垂(もう日が暮れていた)

……唐土は本当に太古より碁が盛んであったことが偲ばれますね」

「ええ、太古の頃からみながこの十九路の宇宙に迷い、魅了されてきたことが手に取るように分かります」

 

 吸い付くように碁盤を見やる佐為の眼は何を宿し考えているのか分からず、栞は無意識に眉を寄せた。

 碁という芸事はことさらに厄介なものだと数多の儒官者が論じて久しいが、やはり自分と佐為とでは碁に関する受け止め方が違うのだろう。

 もう何年も、これほど長く共にいるというのに、佐為がなにを考え求めているのかははっきりとは分からない。

 “人心無算處(人の心は計り知れない)”とは言ったものだ。

 ひとつだけ分かっていることがあるとすれば、彼の心に棲んでいるのは囲碁のみで他はきっと瑣末なこと。──と、いうことくらいだろうか。

 出会った頃から囲碁狂いと分かっていたが、それよりもさらに、もっと、博雅のような楽狂いとは違う人間的な部分が……と栞は膝に置いていた手を無意識に握りしめた。

 この人にとっては自分の存在など──。考えそうになって栞ははっと意識を戻した。

 目の前の佐為はきっと自分が隣にいることすら忘れているに違いない。

 これほど近くにいるというのに──。

 

「あなた」

 

 しばし佐為の横顔を見つめていた栞はそっと囁くように佐為を呼んだ。やや遅れて佐為の瞳が揺れ、こちらを見てくる。

 

「もう遅いですし、今宵は先に休ませていただきますね」

 

 そうしてさらりと立ち上がり、廂の奥まで歩いて行ってから栞はもう一度簀子の方を振り返った。佐為の瞳は先ほどと変わらず盤の上に向けられている。

 生ぬるい風が頬を撫で、ふと、ほんとうに不意に栞の脳裏に佐為と出会った初夏の夜の出来事がよぎった。

 

『どこかで時鳥(ホトトギス)が鳴いているのではありませんか……?』

 

 あの夜、確かに時鳥の声を聞いたというのに──。

 清少納言にせがまれ、探し歩いた先で見つけたのは時鳥ではなく佐為であった。

 あれから幾年も経つが、思い起こせばあれ以来時鳥の鳴き声を聞いていない気がする。と、やや奇妙に思う。

 世の人が慕うようには時鳥の鳴き声にそれほど執着していない故に気付かなかったのだろうか。

 

『でしたら……、どなたかが栞殿をお呼びなのではないですか?』

『時鳥は冥界からの使者だと言いますから』

 

 それとも……、と無意識に額を押さえつつ栞は今度こそ寝殿の奥へと向かった。

 

 

 

 そうして雨の続く梅雨に入り、徐々に蒸し暑い日々がやってくる。

 

 その日も例に漏れず、汗ばむ天気となった。

 ここのところ雨続きだったせいか大内裏の朱雀門が一部壊れて所轄の官人は大忙しらしい。

 

「姫さま、佐為の殿、博雅の殿さまがおいでです」

 

 そんな日の午後、予告なく博雅が四条の屋敷に顔を出した。

 帰宅後の佐為は廂にて狩衣の前や指貫をくつろげて休んでおり、女房の声に慌てて狩衣の襟を留め直した。

 

「やあ佐為殿、この暑さだ、かしこまらずともよいぞ」

 

 しかしながら指貫の括りを縛るのは間に合わず、顔を出した博雅はだらんと垂れたままの指貫の裾を見やって笑った。

 

「むしろそなたの着乱れた姿を見たとあらば、都中のおなごの羨みの的だよ」

「お戯れを……」

「それはそうと、栞は? 今日はよいものを持ってきたのだ」

「え……?」

 

 笑う博雅に佐為はきょとんと目を瞬かせた。

 曰く、内裏で氷を賜ったから削り氷にして食べようと持ってきたらしい。

 官職・位階に応じて分頒される夏場の氷は涼を取るためにはうってつけのものだ。

 酒に浮かべたり額に当てたりと使用方法は様々であるが、削った氷を器に乗せて甘葛煎をかけ菓子として食べるのもまた一興だ。

 

「冷たい……! 美味しい」

「上品な甘さですね」

「やはり夏の楽しみはこれだな」

 

 口の中にひんやりと冷たい氷が溶けて広がる感覚は何ものにも代え難い格別なものだ。

 黄金色の甘葛煎をかけた削り氷は見た目も涼しげで、香ばしいにおいが鼻腔をくすぐり自然と頬が緩む。

 栞は感嘆の声を漏らし、佐為も口元を緩ませ、博雅も満足げに笑った。

 

「残りは溶けぬうちに酒に浮かべて一杯やろうぞ」

 

 そして博雅はなお佐為に向かってそう言い、ふと真面目な顔つきをする。

 

「時に佐為殿……、そなたは朱雀門を見たか?」

 

 ああと佐為も思い出したように頷いた。

 

「屋根の一部が崩れたそうですね。出仕の時に大勢の役人が集っているのは見ました」

「三日前の大雨が原因とは思うが、不吉の前触れか物の怪の仕業ではないかと主上(おかみ)や一部の上達部は気にしておられてな」

「そういえば陰陽寮は忙しそうにしてましたね」

 

 彼らは内裏の様子を思い浮かべたのかそんな話を口にしたが、栞の方は首を捻る。

 

「大雨は天候の乱れですし、屋根が崩れたのは朱雀門の老朽化が原因ではないのですか……」

 

 自然現象のどこに不吉の前触れなどという不確定要素があるのか。まして物の怪など、と疑問を口にする栞に博雅は苦笑いを漏らした。

 

「栞はお父上の影響かいつもああでな、例え病を患っても僧さえ呼ばんのだよ……」

 

 削り氷を食べ終わった栞がその場を離れ、盃に浮かべた氷を見つつ博雅はそんな風に言った。病気平癒の祈祷や悪霊祓いは元より、日常から僧などに助言を求めるのは本来ならば貴族の生活には欠かせないものだ。

 佐為も盃を手にしながら微かに肩をすくめる。

 

「栞がそうというだけで、私や女房たちが望めば僧や陰陽師を呼んでくれますから……」

「いや、まあ……。つくづくそなたが栞の夫で良かったと思うよ。私は慣れているが、世間からは変わりものの姫であろうから」

博雅三位(はくがのさんみ)がそれをおっしゃるとは……、あ」

 

 これは失礼。と佐為が口元を押さえ、博雅は肩を揺らす。

 

「私はな、佐為殿。なんとなくだが理屈では説明できない力というものを信じているのだよ」

「え……」

「そして常に思っておるのだ、もし次の生があるなら……いや何度生まれ変わっても(がく)をやりたい。何度でも、どの世に生まれようとも萬秋楽を奏でるのだと」

 

 変わりもの呼ばわりされたついでとばかりにそんな話をした博雅に佐為は瞼を持ち上げた。

 言い分そのものは博雅らしいものだ。それに弥勒菩薩の曲とも言われる萬秋楽を奏でたいとは、彼は栞とは違い仏道に造詣が深いのやもしれない。

 が──、佐為はいつかの夏の夜に栞と交わし合った言葉をふと思い出した。

 

『私はあまり前世や来世など信じていないのですが……そうなったらあなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』

『ああでも、人は七度生まれ変わるなんて言いますから……その度にあなたと逢えるかな』

『佐為の君は千年先の世でも囲碁ばかりかもしれませんが……』

 

 千年をも共にすごそう。とありきたりな甘言を受けて真面目に考え込んでいた。

 こちらは特に深い意味を持って言ったわけではないが、あの夜に考えたのだ。もしも次の世があるなら──。

 

「佐為殿?」

「え──ッ!?」

 

 呼ばれてハッとした佐為は意識を戻す。訝しげな色をした博雅の視線を受け、佐為はとっさに笑った。

 

「私は、そうですね。次の世でも碁が打てればとは思いますが……私にはこの現世でやるべきことがありますから、今生のことで手いっぱいです」

「そうか。私はどのような形でも(がく)ができればそれ以上に望むことはないが、そなたは違うようだからな」

「どういう意味です?」

「そなたは碁がただ打てれば満足するわけではあるまい? 例えば、そうだな。山陰などの外国(とつくに)には唐人も多く碁の上手もいると聞く。庶出のものにも腕利きがいるやもしれん。だが、そなたは下向するのは望まないだろう?」

「それは……」

「上昇志向が悪いとは言わんよ。都におらねば得られないものもあろうから」

 

 グイッと博雅が盃をあおり、佐為はどこか見透かされたような気がして無意識に盃を持つ手に力を込めた。

 

 おそらく孫王という──先の帝の第一皇子の嫡男という高貴な身に生まれた博雅には理解できないのだろう。

 今上の御前に、清涼殿へとあがることにどれほどの意味があるか。ましてそのような場所で碁を打てる歓びが如何ほどか。どれほどの努力と運が必要であったか。

 どこで笛を吹いても変わらぬと言い張るだろうこの人とは決定的に違う。

 

 それに──。

 

「私は……他の誰でもない私自身が囲碁を、神の一手を極めたいのです」

「神の一手……?」

 

 なんだそれはと博雅は瞬きをする。

 佐為は高坏に盃を下ろした。

 

「私にもはっきりとは分かりません。が、今までのどの石の働きをも超越した究極の手……まさに神のような。そのために私は……」

「都……いや宮廷のような穢れなき場所こそふさわしいというわけか」

「思い込みかもしれませんが」

「にしても“神”の一手というほどのものが、人である私たちに打てるものなのか?」

「分かりません。でも、その一手を極めるのは私でありたい。他の誰でもなく、私が……!」

 

 思わず拳に力が入り、肘が高坏にあたって佐為は慌てて酒が溢れぬよう盃を右手に取り高坏をもう一方で押さえた。

 その様子を博雅はジッと見つめ、そうして瓶子から盃へと酒を注ぐ。

 

「そなたも付き合え」

「え……あ」

 

 どうも、と佐為は盃を差し出し、博雅は少し笑う。

 

「私も管弦を極めたいという志を持ってはいるが、私などではその領域には至れぬことも分かっているつもりだ。私は筝を祖父帝に学び、そして琵琶、笛、篳篥とその道の名人に学んだ。私の師たちもまた、その道の名人に学んだものを私に教え伝えてくれた。だから私の筝には祖父帝が生きておるのだ。私の楽を通して多くの名人が生きておるのだ」

 

 博雅はしみじみと言い下したが、佐為はやや困惑した面持ちで博雅を見つめた。

 ぐいと博雅はなお酒を喉に通す。

 

「幸い、息子たちはみな楽の才があってな。私の楽は息子たちに伝えてゆくつもりだ。私にできることは、おそらくそこまでだよ」

博雅三位(はくがのさんみ)……」

「それになあ佐為殿、私はいま譜を書き記しておるのだよ。それを読めば、私ではない誰かも同じように奏でられる。この譜が百年ののち、いや千年ののちまで残ればその世の人は楽を奏で、この博雅を知るのだ。私はそれを天から見守ろうぞ」

 

 佐為は切れ長の眼を見開いて博雅を見つめ、ほんの少しだけ曖昧に微笑んでから長い睫毛で縁取られた目を伏せた。

 

「私には……いささか理解が及ばないやもしれません。やはり私は、違う誰かではなく私自身が碁を極めたい」

「それもよい。それに、そなたはまだ若い。が……いずれ分かる時も来るだろう」

 

 ははは、と博雅が笑い佐為は少しばかり肩を竦める。

 若いといえば、と博雅は母屋の方へ目をやった。

 御簾が下ろされており中が見えない。きっと栞は薄衣一枚で暑さを凌いでいるのだろう。

 

「栞には舞の天賦の才があったが……、惜しいことをしたと思っているよ」

 

 その一言に佐為はぎくりとした顔をした。

 

「それは……参内ができないからという意味でしょうか」

「ん? いや、そういうわけではないが……。そうかなる程、やはり栞の参内を止めたのはそなたであったか!」

 

 博雅は肩を揺らし、佐為はしまったとばかりに目を逸らす。

 

「ご存知のように、宮中はあまり安全とは言えぬ場所ですので……」

「そうさなあ、栞も私と同じで場所に拘っているわけではなかろうよ。そなたが舞うことまで咎めれば別であるが、そうではないのだろう?」

「はい。栞の舞は言うに及ばず、私より達者な馬弓などは頼もしく見ています」

「ならば、そなたはやはりよい夫だよ。栞の才は惜しいが、おなごではどうしようもないこともある。平城(なら)に都があった頃はこうではなかったと思うと、栞は生まれる時代を違えたのかもしれんな」

 

 とくとくと酒を注いでは飲み干すという動作を何度か繰り返し、博雅は息を吐いた。

 そろそろ女房の誰かが次の瓶子を持ってくる頃だろう。

 すれば案の定、絶妙の頃合いで瓶子を携えた女房がやってきて、彼女は瓶子を替えつつ佐為の方を見やった。

 

「殿、姫さまから言伝でございます。博雅の殿さまにお付き合いせず程々になさってくださいましと」

 

 博雅はその言葉にきょとんとし、佐為も目を瞬かせてからゆるく笑う。博雅の酒豪ぶりは知れたことであるし、無理して付き合い酒をするなと言いたいのだろう。

 

「明日は出仕休みですから、酔い潰れても平気です。とお伝えなさい」

 

 女房は頷いて去り、博雅は新しい瓶子を手にしながら上機嫌な様子で笑みを見せた。佐為が博雅の酒にとことん付き合う意思を見せたのが嬉しいのやもしれない。

 

「栞の父上も酒は呑まれるから、そなたは覚悟しておいた方がよいぞ」

 

 言われて佐為も少し笑い、ふと盃を下ろして目を伏せる。

 

「この屋敷にも日に日に慣れ、恐れ多くも今では自宅のような気さえしております。ですが時おり思うのです、これで良かったのかと」

「栞との結婚を悔いておるのか?」

「まさか、その逆です」

「栞はそなたを好いておるぞ」

「分かっています。だからです」

 

 佐為は盃に映る自身の顔を覗き込んだ。酒が揺れ、少しばかり柳眉を寄せて視線を横に流した。

 博雅が小さく息を吐いたのが佐為の耳に伝う。

 

「以前にも言ったが、私は私の預かり知らぬ所で結婚を決められていた。妻の顔を見たのも全てが終わった後だ。が、そなたは少なくとも栞を気に入って選んだのだろう?」

 

 博雅の声を聞きつつ佐為は逡巡していた。

 栞の親代わりとも言うべき彼にしていい話ではないかもしれないが、いまは双方酒が入っている。ならば多少は過ぎた口も許されるやもしれぬ……と。

 

「栞には碁の才があります。栞と偶然にも手合わせが叶ったのは神の思し召しと思えるほどの幸運でしたが……望めばたやすく会える身の人ではなかった。そのうちに栞が人の妻となれば生涯会えぬと思ったのです」

「ああそれで……、栞を自身の妻としたのか。して、そなたはそれで満足しておるのか?」

「毎日打てるのですから、幸せです。ただ、栞は碁打ちではありませんから……」

「そなたの望むほどには上達しなんだか」

「いえ、私が()()接するには難しくなったのです」

「? なぜ……」

「妻ですから」

「ああああ」

「栞が世慣れぬというのをわかって、私は栞を我がものとしました。私のわがままで……栞には望んでいたことをずいぶんと諦めさせた。私が権門の出ならそれでも格好も付きましょうが……栞は私と出逢ったがために人生を狂わされた気がしてならないのです。私とさえ出逢わなければ好きに生き、違う人生もあったものを……。だからといって、手放す気はないのですから浅ましい我が身にほとほと呆れかえることがあります」

 

 佐為は伏せ目がちのまま正直な心情を吐露したが、博雅は要領を得ないと言った面持ちで目を寄せつつ小さく唸った。

 

「佐為殿……前にも言ったが、私は男女の機微とやらがさっぱりなのだ。色々と難しく考えているようだが……、そなたも栞を好いているのだろう? ならばどこに問題がある?」

「……愛しくは思っております」

「? なにか違いがあるのか?」

 

 ますます分からん、と言いたげに博雅は眉を寄せた。

 佐為はうっすらと苦く笑う。曖昧にさえ答えられず押し黙ると、博雅は再び盃に酒を注ぎつつこう言った。

 

「そのうちにそなたにも子ができよう。美しく碁も強い()の子が産まれるだろうと主上(おかみ)も楽しみにしておいでだ。栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる」

 

 そして笑った彼は瓶子を差し出し、佐為の盃にも酒を注ぐ。

 

「佐為殿、栞に物足りぬこともあるやもしれんが、私にとっては妹のような、娘のような姫だ。どうか大事にしてやって欲しい」

 

 

 すっかり夜も更け、博雅は四条の屋敷を後にした。

 

 残された佐為はふらふらと立ち上がり、括らないままでいた指貫の裾を引きずりながら寝殿の奥へと向かう。

 少し喋りすぎたやもしれぬが、酒の席の戯言で許されようか。

 蒸し暑い夜だ。客人が帰宅したのを良いことに、佐為は烏帽子をとって狩衣をはだけ、息を吐いた。

 そうして燈台の灯にうっすら浮かび上がる几帳で隔たれた最奥を見やる。

 ()()に足を踏み入れられるのは自分だけの特権だ。博雅ですら叶うまい。自覚した昂揚ゆえか、佐為の口角が無意識下でやや上がった。

 

「栞……」

 

 几帳を掻き分けて中を見やれば、(しとね)の上で脇息(きょうそく)にもたれかかる薄衣一枚の栞が燈台の陽にゆらゆら照らされる様子が映った。

 

「佐為の君……」

 

 思わず佐為は目を細める。

 柔らかな肢体が(うすもの)の単衣に透け、(しとね)に投げ出されて散った黒髪はさながら絹のように艶やかだ。

 出会った頃はまだあどけなさの残る危うげな色香が漂っていたが、今は匂い立つようですっかり大人びた。

 

「博雅さまは……?」

「お帰りになりましたよ。それにしても、栞」

 

 佐為は指貫の腰紐を解きながら(しとね)の上に腰を下ろして栞を見やる。

 

「ずいぶんと悩ましい装いですね」

 

 その一言にぼんやりしていたらしき栞はハッとしたように上半身を起こし、そばに脱ぎ捨ててあった小袿を手繰り寄せた。

 

「あ、暑かったので……!」

 

 薄衣はその薄さから透けてしまうため襲ねて着れば色合いが美しいが、一枚ではほぼ着衣の意味を成さないのだ。

 さすがに恥入ったのか隠そうとする栞の手を取り、小袿を剥ぎ取った佐為はそれを(しとね)の脇に投げやってしまう。

 

「ちょ……、と」

「どうせこれから脱ぐのですから」

 

 言いつつ栞の手を自身の手で撫でるように這わせつつ指を絡めれば、小さく栞が息を詰めたのが伝った。こちらが()()()()でいるかを悟ったのだろう。

 首筋に顔を埋め、薄衣越しに唇を滑らせれば栞の口からは甘い息が漏れて佐為は口元を緩める。

 そのまま(しとね)に組み敷き、やや酔いが回った頭で思った。明日は出仕休み。このまま夜明けまで戯れても許されるだろう、と。

 

 

 

「美しい夜だなあ……」

 

 一方の博雅は家に帰らず朱雀門まで牛車を走らせており、夏の夜空の下で横笛を手にしていた。

 湿気を孕んだ空気は笛の音を狙い通りに響かせ、直りかけの屋根の下で警備の武人たちを客として虫の音と調子を合わせていく。

 

『それになあ佐為殿、私はいま譜を書き記しておるのだよ。それを読めば、私ではない誰かも同じように奏でられる。この譜が百年ののち、いや千年ののちまで残ればその世の人は楽を奏で、この博雅を知るのだ。私はそれを天から見守ろうぞ』

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』

 

 いつの日か佐為が理解してくれる日は来るだろうか。

 残酷で身勝手な自身を自覚しているらしき、あの美しい若者が──いつか。

 そしてこの音は自身の望むように悠久の時を超えて同じ空の下へと響くのだろうか──と。

 

 

 

 そんな博雅の願い通りに、博雅は勅命により──のちに現存する最古の笛譜となる──『博雅笛譜』を編纂し、彼自身の作曲した『長慶子(ちょうげいし)』は千年の時を経てもなお色褪せず人々に奏でられ生き続けることとなる。

 

 むろん今の彼らにその事を知る由はなく、今はただそれぞれの夜を満天の星空だけが静かに見下ろしていた。

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