藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第二十一話:矜持

 羅城門を越えれば『京』に入る。

 

 京こそはこの国の中心──いやこの国そのものだ。

 

 こと貴族は京の外を『外国(とつくに)』と呼び、任官での下向さえ忌み嫌う。

 

 この京に住まい、今上が座す内裏に上がることこそが貴族の誉れであり、そこからの転落は人生の終わりをも意味する。

 

 生まれながらの公卿には決してわからない感情なのかもしれない。

 

 清涼殿で碁を打つということが、どれほど特別か──。

 

 そう思ったのは果たしてどちら(・・・)だったか。

 

 

「腕をお上げになりました、主上(おかみ)

 

 清涼殿の母屋でそう言ったのは、今上との対局を終えた佐為だ。

 ふむ、と今上は満足げに盤を眺める。

 

「次からは一子減らしてもよい、という意味だと理解してよいかな?」

「そうなさるのがよろしいでしょう」

 

 佐為も微笑んでいると、蔵人の一人が書物を抱えてこちらに歩いてくるのが見えた。

 佐為は一瞬だけ頬を引きつらせたが、今上はちらりとそちらに目をやってから「そういえば」と佐為に聞いた。

 

「そなたと菅の一﨟(いちろう)は腕比べをしたことがあるかな?」

 

 一﨟(いちろう)、とは六位蔵人の首席官である。いま現在は菅原顕忠──もう一人の囲碁指南役──のことだ。

 いえ、と佐為はその顕忠の視線を感じつつ否定する。

 

「生憎とそのような機会は……」

「そうか、宴の余興に三番勝負など打たせてみるのも一興かもしれぬな」

 

 今上は冗談めかし、「お戯れを」と佐為が返す間にも顕忠は上役に書類を渡してその場を立ち去った。

 今上は気に留めた様子もなく、「宴といえば」と佐為を見やった。

 

「北の方はお元気か?」

「は……。はい、いつも通りにすごしております」

「あの方の舞を独占することは私にも叶わぬ。そなたを羨ましく思うよ」

「もったいない仰せにございます」

「そなたたちの子が童殿上するようになれば北の方譲りの舞を楽しめよう。それを近い将来の楽しみにしているよ」

 

 言われて佐為は頭を下げつつ目を見開いた。

 

 童殿上は公卿の、それも権門の子息にのみ許されることだ。

 にも関わらず、今上は自分と栞の間に()の子が産まれれば童殿上を許すと暗に言っているのだ。

 

 驚きつつも思う。いくら父方の自分──つまり藤原──の子になるとはいえ、子の将来に影響するのは母の出自だ。従三位()の子、まして大臣の孫ともなれば当然なのやもしれぬと。

 考えていると今上はさらに続けた。

 

「そなたの子であれば、いずれにしても(・・・・・・・)美しく産まれようから楽しみであるが……私が見られるのは四条の北の方の子だけ(・・)であろうからな」

 

 瞬間、佐為の額に汗が滲んだ。

 嫡妻腹とそれ以外では価値が違う。という当然の意味合いだろう。

 どういう意図で言われたのだ? と考えるより先に佐為はいまこの場に控えている内侍は誰かと巡らせた。なぜなら自分と橘内侍(きのないし)とのことは皆の知るところだからだ。

 もしも今の言葉を彼女が聞いていたら、どれほど道理でもあまりに無慈悲ではないか。思いつつグッと膝の上で手を握りしめる。

 

「私も一日もはやくと願ってはおりますが……」

 

 言葉を濁しつつ佐為は石を碁笥に戻した。

 すれば碁盤を片づけに来たのは橘内侍(きのないし)ではなく別の掌侍二名でホッと胸を撫で下ろす。

 しかしながら、あれほどあからさまな今上の言葉が本人に伝わらないということはまずないだろう。近々様子を伺いに行こう。思いつつ佐為は今上がその場から去るのを見送った。

 

 

 

「──いたッ!」

 

 そろそろ薔薇(そうび)も見納めだろうか。と、栞が寝殿の壺前栽を眺めに壺庭に降りて手を伸ばした瞬間、ちくりと指を鋭痛が襲った。

 薔薇(そうび)の棘に触れてしまったのだろう。指を見やると案の定、血が滲んでいる。

 家人や女房に見咎められたら穢れだ不吉だと騒ぎ立てるに違いない。周りに気づかれていないか確認しつつ、栞は母屋に戻り自身で止血の薬を塗り手当てをした。

 

「姫さま、博雅の殿さまがおみえです」

 

 そんな日の午後、博雅が四条へと顔を出した。

 

「佐為殿はおらんのか?」

 

 ちょうど佐為もおらず一人で時間を持て余していた栞が喜んで迎えると博雅はぐるりと母屋を見渡して言い、ああ、と栞はうなずく。

 

「佐為の君なら今日は宿直(とのい)だとおっしゃっていたので戻られないですよ」

「宿直……? そうであったか……?」

 

 博雅は思案顔で首を捻った。

 

 宿直は中納言以下全ての廷臣に義務付けられている夜間警備だ。これの当番表はそれぞれの省の判官が名簿に記載している。

 

 実は佐為と博雅は同じ中務省に属している。つまり、知ろうと思えば互いの勤務状況は調べられるということだ。が。

 

「予定表をご覧になったの……?」

「うむ……、五日ほど前に出仕した時に確認したような……してないような……」

 

 これだ。と、栞は唸る博雅を見て頭を抱えた。

 宿直のみならず勤怠状況は全て記録されており、出仕日数(上日)が規定に届かぬものは厳重注意や処罰の対象である。

 

「そうやって出仕が滞ると誰それから怠慢がすぎるなどと注意されますよ」

「い、いや怠慢ではないのだ。よい曲を思いついて夢中で譜を書いていたら数日などあっという間でな……!」

「佐為の君も夜通し碁盤の前から動かれない時もありますが、出仕はちゃんとなさるのに……」

 

 佐為と博雅では立場が違いすぎるとはいえ。と栞がため息を吐くと博雅は苦笑いを漏らした。

 ともかくも酒などを運ばせて廂に出て博雅と雑談を交わしていると、ふいに博雅はこんな話を切り出してきた。

 

「佐為殿もいればと思ったんだが……、栞」

「はい」

「近々遠出して、長谷寺詣でにでも行かんか? いま公務も暇な時期であるし」

 

 珍しく真剣な瞳だ。栞は目を見張る。

 

 長谷寺とは初瀬山の中腹に建つ寺院のことで、貴族たちの信仰を一身に集める霊場である。主に安産祈願や授かり祈願のため、女人もこぞって参拝するのだ。

 

 博雅が()()()()()()()()を悟って栞はため息を吐いた。

 

「神頼みでどうにかなる問題だとは思えませんが」

「そ、そうは言っても……! おまえもおまえの父上ももう少し神仏に恐れを抱くべきでな」

「博雅さまの母方祖父の太政大臣も物の怪など一切恐れないお方だったと聞いておりますよ」

「あ、そうであった」

 

 博雅はハッとしたように瞬きを繰り返した。──博雅の祖父は菅原道真失脚の黒幕などと言われ道真にも大層恨まれたものの、本人は道真の怨霊相手に怯まず一喝したなどという説話が残っている人物である。

 博雅もそれを思い出したのだろう。しばらく唸ってからこんな風に切り出してくる。

 

「最近、主上(おかみ)からおまえと佐為殿の子はまだかとせっつかれることがあってな」

主上(うえ)が……?」

「本心から楽しみにされているのもあろうが、おまえたちの仲を懸念しておられるのだろう」

 

 まさか今上までもがそのような事に気を回しているとは想像もしておらず、栞は肩を竦めてみせた。

 

「私は変わらず睦まじく過ごしているつもりですが……。世間はなにかと不確かなことばかりうわさしますから」

「い、いや、私もおまえたちは仲良くやっていると申し上げておいたが……。一緒になってもう長くなるのだし、どうしてもな」

「結婚してようやく求婚やなんやの煩わしさから逃れられたと思ったら、次から次へと……」

 

 煩わしい、と栞はため息を吐いた。

 でも『煩わしい』だけでは終わらないのだ。事実、この先もずっと言われるのだろうし、なにより──。

 

『あなたは子供がお好きだから……ご自分でも欲しいですよね』

『欲しいですけど……、もうしばらくこうして二人だけで過ごすのも悪くありませんから』

 

 なにより佐為本人が、と目を伏せていると博雅が持っていた盃を高坏に置く音が響いた。

 

「気に病んでいるのか?」

「そういうわけではありませんが……。佐為の君が欲していらっしゃるので、できればはやくとは思っています」

「佐為殿が望んでいるから?」

「はい」

 

 頷けば、博雅はなにか言いたげに唇を開いた。が、しばし逡巡するそぶりを見せてから小さく首を振ってキュッと唇を結ぶ。

 

「それほどまでに好いているのか」

 

 栞は少しだけ目を見開き、少しののちに伏せてからやや寂しげに笑う。

 

「はい」

 

 すると博雅は一寸間をおいたあとに「そうか」と呟き、もうなにも言わなかった。

 きっと博雅も思うところは色々あるのだろうが、佐為との結婚を──身分違いと言って差し障りない婚姻を──なにも言わず認めてくれた。思い返しながら栞はありがたく思いつつ、差し込む西日に目を細めた。

 

 

 

 一方の内裏。夜明け前。

 

 空を見上げればおおよその時刻は測れるものであるが、大内裏に勤める官人が時刻を知る第一の方法は陰陽寮の役人が鳴らす鐘鼓の音である。

 

 一日の始まりを共にするのも、夜明けごろに響く大内裏の諸門の第一開門鼓だ。官人の忙しい朝を告げる音である。

 

 

「……の君、佐為の君。起きてくださいまし」

 

 佐為は遠くで響く声に誘われて目を開いた。掠れた視界に映るのは未だ薄暗い空間だ。

 

「あと小半刻で次の太鼓が鳴ります。わたくしも行かねばならないのですから」

 

 聞こえてくる声を頼りに身を起こせば、燈台の火がぱっと辺りを照らして佐為は目を窄めた。

 

「いまお手水を運ばせますから、お支度をお急ぎなさいませ」

「ありがとう。私はあとで良いから、そなたが先にお使いなさい」

 

 掠れた声で言いつつ、佐為はそばにあった自身の単衣や半臂を羽織り束帯の袴に足を通した。

 そうして顔を洗ってからようやくホッと一息吐く。

 

掌侍(しょうじ)の君」

 

 既に身支度の大部分を終えたらしき昨晩を共に過ごした相手を呼べば、彼女── 橘内侍(きのないし)は慣れたようにそばの几帳にかかっていた緋の袍を手に取った。

 

「こうしてお支度をしている間にも別れを惜しんでくださるのが後朝(きぬぎぬ)の定めごとというものですのに、ぼんやりなさって」

 

 袍に腕を通し整える作業を手伝いながらそう言う彼女に、佐為は目を瞬かせてから「ああ」と頷いた。

 

「久方ぶりですので……余韻に浸っていました」

「まあ……、お上手におかわしなさること」

 

 彼女は軽い口調でさらりと言いつつ、手早く佐為の髪に櫛を通し整えていく。

 ちらりと佐為は鏡を見やった。さすがに内侍の高級女官。今上の身辺の世話をするだけあって髪の結い上げも見事だ。感心しつつ冠をつけ、手短に別れを告げて温明殿を出る。

 

 次の太鼓が鳴るまでに侍従所に着かねばならない──。

 

 幸いにして内裏を出れば侍従所は目と鼻の先だ。

 陰陽寮の鐘楼をちらりと見上げて足早に門をくぐれば、下級官人たちが朝から忙しなく働く常と変わらぬ光景が飛び込んできた。

 

「おはよう、佐為殿」

「おはようございます、源の侍従殿」

 

 侍従所へ入れば、同僚であり博雅の実弟である源の侍従が既に出仕しており佐為は頭を下げた。侍従自体は従五位下相当であるが兼職が多く、おおよその場合は冠位もだいぶ上であることが多い。黒の袍を纏う彼もその一人だ。

 

「佐為殿……、ところで兄上をお見かけしなかったか?」

 

 そして──博雅の実弟ながら無遅刻無欠席を誇る彼の声に「は?」と佐為は目を瞬かせる。

 

博雅三位(はくがのさんみ)ですか? いえ……」

「四条にも顔を出しておらぬと?」

「はい」

「そうか……、五日前に梅壺で宿直を勤めて以降行方知れずなのだよ。物忌みなどという話も聞かぬというのに、またどこぞに夜歩きでもして笛でも吹いておられるのだろう」

 

 盛大にため息をつく源の侍従は忙しなく勤務表を確認してから急くように侍従所をあとにした。

 博雅の職務怠慢はいまに始まったことではないため、おそらく上役に小言でも言われたのだろう。思いつつ自身のすべきことを確認する。

 

「あ……」

 

 すれば陰陽寮の役人の複数が遅れて農業休暇に入るゆえ手伝いに行くよう記されており、佐為は苦笑いを浮かべた。

 陰陽寮の主な仕事は天体の観測。複雑な計算を要する場合もあるため、算道出身者と陰陽寮の役人は被っている場合もある。

 四条の屋敷でも栞の財産管理の主計を手伝っているが、こうして出身ゆえに借り出されるのはままあることだ。

 栞といえば、彼女は陰陽寮の役人を怪しげな術を使う非合理的存在と思っているらしいが、彼らは囲碁もよくするため自分としてはそう嫌ってはいないのだが。

 浮かべつつ佐為は思う。今日はいったん七条の自宅へ戻って着替えや湯浴みをせねば、と。

 

 そうして今日の公務は陰陽寮で過ごして終わりのはずだった。

 

 しかし退出前に右大将に召され、かなりの時間を右大将の直廬(じきろ)にて碁を打ち過ごすこととなった。

 

 

 そんな想定外の事態のまま退出した佐為は従者に七条へ向かうよう告げるのも忘れ、自身でもすっかり失念して四条へと戻った。

 

「お帰りなさい、ずいぶん遅くまでいらしたのね……」

「あ、ええ。予定外に召されて色々と」

 

 栞が迎えれば佐為はどこかハッとしたように瞬きをし、着替えのために女房を呼んでいる。

 

「食事はお済ませになったの?」

「朝餉は御所でいただきました。あと、先ほど右大将殿にお付き合いして酒を少々……」

「そう。あ、そういえば……昨日、博雅さまがいらしたんです。あなたは宿直で不在だと言ったら驚いてらして……」

「え──!?」

 

 着替えていた佐為が驚いたようにこちらを振り返り、栞は首を捻った。博雅が四条に来るなど珍しいことでもあるまいに。

 

「ここずっと出仕してないらしくて、宿直表を確認なさってなかったんじゃないかしら」

「あ、ええ……。私も今日似たようなことを弟君の源の侍従殿に訊かれました。もう五日ほど出仕していないと」

「ええ、家に籠もって譜を書いていたそうですから。博雅さまにも困ったものだわ」

 

 栞は小さくため息を吐く。

 ともかく佐為も帰ってきたことだし夕餉の準備をさせようか。

 

「佐為の君、先に夕餉になさいます?」

 

 狩衣に着替えた佐為に聞けば、どこか歯切れの悪い曖昧な返事が来て栞はやや不審に思う。

 

「佐為の君……?」

 

 宿直明けの長時間勤務で疲れているのだろうか。案じて歩み寄れば、佐為の身体がどこか強張ったように感じられた。

 同時にうっすらとほのかなくゆりが鼻をかすめ、栞は眉を寄せる。

 

 わずかな違和感だった。

 

 佐為が好んで身につけている香の匂いではなく、いま身につけている狩衣に焚き染めた匂いでもない。

 狩衣は袖と脇の間が開いており着脱しやすく寛ぎやすい構造だ。ゆえに単衣が狩衣を着たままでも見えており、栞はそっと佐為の腕に身を寄せてみた。

 

「栞……?」

 

 訝しむような声が降ってきたが、栞の眉間の皺が深くなる。

 この匂いは単衣か下着に移った匂いだ。

 この大人びた香り。おそらく黒方だ。大嘗祭、そして新嘗祭の時と同じ──。

 

『侍従の君が折りに触れてこの香をお褒めくださいますもので……』

 

 先の新嘗祭であのくゆりを漂わせながらそう言った橘内侍(きのないし)の声が蘇って、栞はパッと佐為から身体を離した。

 

「栞……?」

 

 頭が真っ白になるとはこういうことを言うのか。

 昨夜に彼が()()()()()()()()()()のか、いやと言うほど理解してしまった。

 

「あなたの宿直所はいつから温明殿になったの……?」

 

 思わず佐為を睨み上げれば、彼はしまったといった具合に頬を強張らせた。

 

「なにを……私は──」

「見くびらないでください。そのくゆりは橘内侍(きのないし)が合わせた香のはず。私の方があなたよりあの方と付き合いが長いと以前にも言ったでしょう? 知らないとでもお思いでした?」

 

 佐為は返事に窮したように口を噤む。

 今さらなにを、という気なのかもしれない。

 佐為が幾人か通いどころを持っているのも知れたことだ。

 でも、佐為は今まで一度も気付かせなかった(・・・・・・・・)。だというのに何故……。

 もしや今さら他に妻を持ちたくなったのか?

 何年経っても子ができないから?

 それとも──。

 

「栞──」

大臣(おとど)の姫を妻にして、なにが不満なんです!?」

 

 取りなそうとしたらしき佐為を振り払うようにして栞は訴えた。

 佐為には痛い一言だと分かっていてもそう訴え、それでも瞠目した佐為の顔を直視できずに目を伏せる。

 

「そりゃ……、私にも……いたらないところが……ッ」

「しお──ッ!」

 

 しかし込み上げてきた涙が抑えきれず、言葉を言い終わる前に佐為の制止も聞かず栞はその場を離れた。

 

「姫さま!?」

塗籠(ぬりごめ)(しとね)を運んでちょうだい。しばらく一人にして」

 

 そうして塗籠(ぬりごめ)に向かいつつ命婦に告げ、(しとね)を運ばせると中に籠もって伏せった。

 

 

 一方の佐為はあとを追えずにその場に立ち尽くしてしばらく。額に手をやって深い息を吐いた。

 あの調子では話もままならないだろう。しばらくは一人にしておこう。考えつつも脱力してその場に腰を下ろす。

 ──しくじった。自省しつつ佐為は控えていた女房を呼んだ。

 

「湯浴みの用意を頼みます。それから全ての着替えも」

「かしこまりました」

 

 いつもは他の女人の移り香は消すように努めていたというのに。

 特に隠していたわけでないし、栞とて自分に他に通う女人(ひと)がいるのは承知していたはずだ。

 だが頭で分かっていても実感したら確実に栞は()()()()。分かっていたからこそ最大限に悟らせぬよう気を配っていたが、なんという失態だろう。

 自省する一方でこうも思う。落ち着きさえすれば、彼女のような高貴な姫がいちいち気にするようなことではないと思い直すはずだ。しばらく一人にしておこう、と。

 

 

 そんな佐為の考えは果たして正しかったのか否か。

 

 

 栞は(しとね)に伏せったまま袖で涙を拭いつつ声を殺して涙を流し続けていた。

 自分でもこれほど傷ついているのが不思議でならない。

 佐為が宿直や方違えと称して家を空ける理由をそのまま信じていたわけでもないし、折に触れて女人と逢っているだろうことも知っていたことだ。

 でも本当にただの一度もそんなそぶりを見せなかったものだから、心のどこかで「そんなことあるわけない」と信じていたとでもいうのだろうか?

 

 これほど身分高く生まれつけば、自身の正妻の座は決して揺るぐことはない。仮に夫の通う誰かに子が宿ったとしても、寵愛が移ったとしてもだ。

 だから高貴な姫は堂々としていなければならない。──誰しもがそう言われて育つのだ。

 

 それなのに、なぜそうできないのだろう。栞はしゃくり上げながら首を振るった。

 

 あの香の匂いが誰のものか悟った瞬間、いやというほど脳裏を襲ったのだ。

 佐為が昨夜、自分ではない誰かと情を交わしたのだと。

 佐為のいない夜を心細く思う自分とは裏腹に、佐為は──と栞は歯を食いしばってきつく首を振るう。

 振り切ろうとしても考えてしまう。

 いつも自分にするように佐為は彼女に触れたのだろうか。

 どんな言葉をかけたのだろう。

 なぜ? ただの気晴らしなのか?

 なぜ……と今まで考えもしなかったことが一瞬にして実感を伴い脳裏を襲った。

 

 佐為にとっての自分は、一番都合の良い碁の相手。適齢期で申し分ない身分だったに過ぎない。

 この結婚は愛ゆえのものではないのだ。

 

 分かっていたのに──。

 

 

「殿、そろそろお休みになりませんと……」

 

 その夜、暗くなっても碁盤に石を並べ続けていた佐為に命婦がおずおずと声をかけてきた。

 ああ、と佐為は手を止める。

 

「もうそんな時間ですか」

「お(しとね)を用意しようと思うのですが……」

「栞は?」

「姫さまは夕餉も召し上がらず、塗籠(ぬりごめ)にお籠もりになったままです」

 

 言いづらそうに命婦はいい下し、佐為は小さく息を吐いた。どうやら機嫌はまだ直っていないらしい。

 

「では私も塗籠(ぬりごめ)で休むことにします」

「で、ですが姫さまは一人にして欲しいと」

「構いません」

 

 言って佐為は立ち上がり、狩衣の当帯を解いて脱ぎつつ塗籠(ぬりごめ)の方へ向かった。

 命婦が慌てて他の女房を呼び、佐為を呼び止めて夜支度を整えさせ、塗籠(ぬりごめ)の出入口へと連れていく。

 佐為は手燭を持って塗籠(ぬりごめ)の出入り口を開け、中へと入った。

 中は暗闇に支配されており手燭の炎を頼りに燈台を探し当て、そのまま火を移して明かりを灯す。

 

「栞……」

 

 栞は(しとね)に伏せったまま返事をせず、佐為は肩を落とした。

 そのまま(しとね)へと入って腰を下ろし、こちらに背を向ける栞の肩をそっと抱き寄せる。

 抵抗されたため起きていることは悟った佐為だが、それよりも単衣の袖がしっとり濡れていて佐為は少しばかり目を見開いた。ずっと泣いていたのだろう。

 

「なにを……嘆く必要があるのです。競争相手になりもしないものを」

 

 言って自身の胸へと引き寄せると、栞は抗うように腕の中でふるふると首を振るった。

 そういうことではない。と途切れ途切れにしゃくり上げながら言われて佐為は解せずに眉を寄せた。

 

「ではいったいなにを気に病んでいるんです? 誰のもとへ通ったとて、そなた以外を妻にする気はないというのに……」

 

 宥めつつ佐為はなお困惑する。

 なにをこれほど嘆いているのだろう。今さら情人の存在を知ったわけでもあるまいに。

 橘内侍(きのないし)と個人的ないざこざでもあったのだろうか。

 いやまさか、彼女は受領の娘。大臣の姫()とではいざこざすら起きようもない程の身分差だ。

 だというのに──。

 

 

 夜明けが近づいても泣き止まない栞に佐為はほとほと困り果てた。

 自身の落ち度だと理解はしていたが、それにしても他所への通いが露見するたびにこの調子では困るのは栞自身だろう。──いや、悟られたのはやはり自分の落ち度だが。

 ここまで恨まれるのはかなわない。ちゃんと話をしなくては。

 

 そんなことを考えていると塗籠(ぬりごめ)の出入り口が開く音が聞こえた。

 

「殿、そろそろお支度なさいませんと……」

 

 命婦の抑えたような声だ。

 出仕の気分ではないが、この事で休暇届を出すわけにはさすがにいかないだろう。

 佐為はそっと栞から身体を離すと起き上がって外へと出た。

 

「姫さまは……」

「まだ休んでいるようなので、そのままに」

「お食事はいかがいたしましょうか。お粥などお召し上がりになりますか?」

「いえ、すぐに戻りますから……あとで栞といただきます」

「かしこまりました」

 

 話をしつつ身支度を整え、出仕の準備を終えた佐為は一度塗籠(ぬりごめ)へと戻った。

 伏せったままの栞へと身を屈めて告げる。

 

「これから出仕ですが……、急いで戻りますから」

 

 そうして佐為は出ていき、塗籠(ぬりごめ)の戸が閉まる音を遠くに聞いた栞は重たい瞼を少しだけ開いた。

 佐為は自分がなぜ泣いているのかすら分からず、ひたすら困惑していた様子だった。

 きっと佐為の反応の方が普通なのだろう。

 例えこのことを博雅に話しても、いや登華殿の友人たちでさえ分かってくれるとは思えない。

 でも──。

 

「姫さま、お目覚めになられましたか……?」

 

 しばらくすると命婦が起こしにきて、栞は気怠い身体を起こした。

 目が腫れているに違いない。

 明るい場所に出たくないという思いとは裏腹に身支度を整えられ、外へ出るよう促された。

 すれば心配そうに命婦が顔を覗き込んできて、栞は少し目を伏せる。

 

「そんなに酷い顔をしている……?」

「姫さま……」

 

 こういうのは夫婦喧嘩というのだろうか。

 女房たちにはやりにくいに違いない。みなの主人は自分だが、同居している以上は佐為にも同様に仕えてきたはずなのだから。

 

「姫さま、佐為の殿がなにをなさったか詳しくは存じませんが……お気持ちを鎮めて差し上げてくださいませ。殿はあれほど姫さまを大切になさっているではありませんか」

 

 佐為の肩を持つような物言いに栞は小さく息を吐いた。この世で一番の味方のはずの乳母までこうとは。

 

「宿直と言って……、夜通し別の女人(ひと)と過ごしていてもそう言える?」

 

 命婦は袖で口元を覆うと、しばし黙して逡巡するようなそぶりを見せた。

 そうして意を決したようにこちらに向き直る。

 

「殿が外でなにをしておいでかはこの命婦にはなにも言えませんが……ご結婚なさってからのこの屋敷でのことは存じております。姫さま、よくお聞きなさいませ。世の女人は夫の通いを繋ぎ止めるためにご自分のそばには数ならぬ身のものを用意するものでございます。月の触りや懐妊時にも通わせるためです」

 

 諭すように言われ、栞は思わず押し黙った。

 

「この屋敷にも見目のいい若い女房は幾人もおりますが……殿は誰にも情けをかけることなく姫さまだけをご寵愛しておいででした。よく思い出してくださいませ、姫さまがお相手できぬ時でも殿はこちらにいらっしゃって……これはとても稀なことでございますよ」

 

 言われて栞は眉を寄せ首を振るった。

 

 命婦の言いたいことはわかるのだ。

 貴族の男は自身の屋敷に情欲を満たすための女房を抱えているのが常だ。それらは妻どころか愛人ですらなく、「数ならぬ身」に他ならない。

 そして貴族の妻も、自身の屋敷に若く美しい女房を用意して故意に夫と関係を持たせるのは常だ。命婦の言う通り、自身が相手をできない時や容貌が衰えたあとも夫を通わせるためである。

 佐為が七条の実家にそのような相手を抱えているかは知らないが、少なくともこの屋敷で彼は一度も自身の妻に仕える女房に手を出してはいない。にもかかわらず、妻が(しとね)の相手をできない時も他所に通うことはなかった。──これは通常ならばあり得ないほどのことだと命婦は言いたいのだろう。

 

 でも、だから何だというのだ。などと思ってはいけないのだろうか。

 

「まして殿は……ご身分はさほどでなくても、どんな公達にも勝るお美しさをお持ちです。あれほどの方があそこまで姫さまだけを一途に愛されていることを幸せに思わねば」

「愛されてる……?」

「そうでございますとも。殿の姫さまへのご寵愛は世にも眩しいほどではありませんか」

 

 必死に説得する命婦とは裏腹に、全てが栞の耳には虚しく響いた。

 佐為は別に自分を愛しているわけではない。むろん好かれてはいるのだろう。婚前からの恋人たちと比べたとしても一番に好いてくれているはずだ。でもそれは愛ではなく──。

 

『長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ』

 

 月日をかけても、重くなったのは自分の情愛ばかり……と思い至って栞は自嘲する。

 こうまで胸が痛んでも、佐為と離れることなど考えられない。

 けれども自分が想うほどの気持ちを佐為に求めるのは一生をかけても叶わないに違いない。

 

『一度契った仲なのですから、千年(ちとせ)の先までをもともに過ごしたいものです』

 

 いくら言葉で契っても、心からそう思っているのは自分だけ。佐為にとってその相手は囲碁でしかなく、自分は女人という括りの中で一番都合がよかったに過ぎない。

 それでも生涯を共にと誓ったのだ。こちらから離縁しない限り、彼はそうするはずだ。

 

 いつ頃からか、ぼんやりと気づいていた。

 どれほど想いを告げても、佐為が同じ言葉を返してくれたことは一度もなかった。いつも言葉を濁して微笑むのだ。(しとね)の中でさえ、決して同じようには返してくれない。──そう気づいてから、いつしかこちらも口にするのを控えるようになった。

 元々想い合って妹背となったわけではないと分かっていても、やはり悲しくて──。

 

「姫さま……?」

 

 心配げな命婦の声を聞きつつ、栞は溢れそうな涙を拭った。

 

 ──なぜあの夏の夜、佐為に出会ってしまったのだろう。

 

 出会わなければこんな思いなど知らずに一生を過ごせたはずだというのに。

 でももう全てが遅い。

 自分に佐為と別れる意思がない以上、受け入れるしかないのだ。他所に通うなと咎めても、聞き入れる殿方などきっといない。そんな無駄なことのために諍いを起こすくらいなら咎めないほうが良いというもの。

 

 昨夜、(しとね)で抱き寄せてくれた佐為からは既に橘内侍(きのないし)の移り香は消えていた。

 

 湯浴みでもして下着も全て替えたのか。

 おそらく今まではそうしていたのだろう。佐為なりに気を遣って、いっさいこちらに悟らせないようにしていた。

 

 少なくとも彼は自分を妻として最大限に尊重してくれている。

 ならばもうそれでいいではないか。

 

 今はただ、今朝の約束通りに彼がここへ帰ってくるのか。そちらのほうがよほど怖い。

 

 はやく帰ってきて欲しい。それでもうなにも言わないから──。

 

 遠くで巳四刻を知らせる鐘の音が響いた。そろそろ公務も終了の時間だ。

 普段の佐為はなんだかんだ昼過ぎまで戻らないが、今朝はなにも食べずに出仕したというし、言葉通りに帰ってくるつもりなのだろう。

 それでも栞はじんわりと手のひらが汗ばむのを感じた。

 もし帰ってこなかったら……。

 

「姫さま、殿がお戻りです」

 

 緊張気味に待っていると控えていた女房がそう伝えてきて、栞はびくっと身体をしならせた。

 程なくしてやや慌てたような佐為がこの母屋に入ってきて栞は少しだけ目を伏せる。

 

「おかえりなさい」

「栞……」

 

 佐為が小さくほっとしたような息を吐いたのが伝った。

 栞もほっと胸を撫で下ろす。

 

「よかった」

「え……?」

「もう私を訪ねてきてくださらなかったらどうしようと……不安で」

「なにを言うのです」

 

 そばまで歩み寄ってきた佐為が右手でそっと栞の頬に触れる。

 

「私の帰る場所はそなたの元です、栞。これから先も、なにがあろうとも」

「……あなた……」

「こんなに目を腫らして……」

 

 痛ましそうに栞を見やり、佐為はそっと栞を自分の胸へと抱き寄せた。

 栞はギュッと佐為の袍を掴み、目を閉じる。

 

「佐為の君……、もう昨日のようなことはなさらないで。今まで通りに(・・・・・・)なさって……そうしたら私も普通に過ごせますから」

 

 他の女人(ひと)と逢ったことを気づかせないで欲しい。そうでない限りは素知らぬふりをする。

 と、栞があれほど嘆いていた感情を飲み込んで譲ったというのはさすがの佐為にも分かった。

 

「栞……」

 

 都に並び立つもののいないほどの高貴な姫が、自身の矜持さえも飲み込んだ。その気持ちの正体を佐為は悟り、自身の妻ながらに彼女の痛々しいほどの想いをやや哀れにも感じた。それほど身を尽くしてくれても、同じようには返せないのだから。

 そっと佐為は栞の耳元に唇を寄せて、ささやくように彼女の(いみな)を口にした。本来なら、澪の(しるべ)になるべき名だというのに──。

 皮肉に思いつつも佐為はそっと心内で誓う。少なくとも二度とこのように目を腫らすような真似はさせまい。しばらくは誰の元にも通うまいと。

 この女人(ひと)を大事に思っている気持ちに偽りはないのだから、と。


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