藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第二十三話:月の満ち欠け

 清涼殿──夜御殿(よるのおとど)。今上の寝所である。

 

 今宵の今上は登華殿の女御を召していた。

 

 夜御殿(よるのおとど)塗籠(ぬりごめ)になっており四方を照らす灯りが絶やされることはない。外には常に蔵人及び非蔵人が控えており、女御の女房たちも控えているが、この空間はあくまで私的なものだ。

 

 明かりをそばに置き、今上は碁盤の上に碁石を並べていた。

 先日、弘徽殿にて佐為と頭中将が打ったうちの一局だ。

 

主上(おかみ)司召(つかさめし)のことですけど……」

 

 話が途切れた機を伺い、女御は檜扇を開き耳打ちするようにして囁いた。迫る除目に際し、自身が推挙したい人物の名をさりげなく挙げているのだ。

 今上は否定も肯定もせずうなずく。

 一通り言い終わった女御は再び碁盤を見つめながら、そういえば、と口を開いた。

 

「佐為の君は次もまだ留任されるのでしょうか? 叙爵なさってから今まで加階は一度だけで……少し栞の君を気の毒に思っていますの。三位(さんみ)御方(おんかた)と呼ばれるまでにおなりなのに背の君が見劣りするのではと」

「昇進させると言っても、佐為の侍従は一旦地下に降りての地方任官には難色を示しておるから……、私もあの君は内裏(てもと)においておきたいし、そうなると適当な官職がなかなか」

「文筆も優れてらして学識にも秀でていらっしゃいますから……、弁官になさったらお手元に置いておけるのではございません? 源の頭弁(とうのべん)とは婚家を通して縁続きにおなりですし上手くやれるのでは」

「弁官のような忙殺されかねない職だと、私が碁を打つ時間がなくなってしまうよ。唐のように棋官を朝廷に置ければ最良なのだが、こればかりは私の一存では難しい」

 

 言いつつ今上は考えを巡らせる。

 除目が近づくたびに女御たちが自身の実家の推す人物の昇進をあの手この手で言いくるめようとしてくるのは常なのだが。それを別にしても、栞のことは気掛かりではある。

 なにせ父帝最愛の同腹弟宮であった一品式部卿の宮のたった一人の御孫なのだ。歳もたがわぬというのに帝位につけない弟宮を決して粗略にせぬよう最大の敬意を持つよう父帝にはずいぶんと言い聞かされて育った。兄である院や自分にとっても、かの一家は心を許せる血縁であり忠臣だ。

 

 今上として、要職は賜姓皇族で固めたい。──という願いはいつの世も叶えるのは難しい。

 

 栞の父を内大臣にあげるのが精一杯で、それもいまは筑紫に下向させてしまっており不甲斐なく思っているのだ。

 藤家は源氏の昇進を良く思っておらず、大納言にするのさえ難色を示す状態だ。栞の父の任期が明け、京に戻せば今よりも源氏全体に当たりがきつくなるかもしれない。

 

 佐為は今でこそ内大臣の婿ではあるが、元は大学寮出で下級官人出身。本来ならばどれほど才長けていようと昇殿など生涯叶わぬ身と言っていい。それを顧みれば異例の出世だ。ひとえに彼の類稀なる美貌と碁の才があったればこそだと言える。

 大臣の姫の背にしては足りぬ官位であろうと、これ以上の引き上げは時期尚早ではあるまいか。

 

 いや、いまはそのような憂いた考えはよそうと今上は意識を切り替える。

 

「侍従相手にようやく四子置きまで来たが……いつも美しい流れのままで勝たれてしまうのだよ。今上たる私にさえ勝ち星を譲る気はないらしい」

 

 女御に語りかけ、小さく笑って今上は石を並べ直す。どうやら佐為と打った一局らしい。

 女御はそこまで囲碁が達者ではなかったが、佐為の指導が巧みなのは見知っている。

 

「私へは指導だからともかくも……。いつも隙を見せず、対局相手の棋力を見定めて品のある勝ち方をしてゆくのだよ、佐為の侍従は。敬服に値するが……あの君が打ち負けることなどあるのか疑問だ」

 

 今上はいっそ過ぎるほどの言葉で佐為を誉めそやし、女御は「主上(おかみ)……」と言いかけた口元に袖をあてて止めた。

 佐為はあれで意外に想定外の出来事に弱い。と、栞に──大臣の姫と知らずに打った続きの対局で──黒星をつけられた一局を話そうかと思ったが控えたのだ。

 あの二人が妹背となる決定的な出会いでもあるため今上にとっても興味深い話となろうが、佐為はその今上の碁の師。それもこれほど心酔した様子を見せているとあらば、彼の負け碁の話を聞かせるなど無粋だろう。

 

 

 その些細な気遣いが大勢の人間の運命を分けることになるかはともかくも、塗籠(ぬりごめ)の外では今上の側近たる蔵人たちが控えており──その中に菅原顕忠の姿もあった。

 

 

 ここ最近の顕忠は焦っていた。

 六位蔵人となり、一﨟となって六年。次の正月で巡爵である。というのも上臈の六位蔵人を一定年数勤め上げれば巡爵──年労により従五位下に叙爵される──という習わしがあるのだ。つまり、次の正月の叙位では加階されて従五位下を賜ると同時に六位蔵人の職は解かれるのだ。

 六位蔵人はその職務ゆえに昇殿を許された特別な職位である。職が解かれるということは昇殿を止められ地下人に逆戻りを意味することに他ならず、加階され“貴族”の仲間入りを果たす喜びよりも昇殿を止められ地下人となる耐え難さが勝るのが常だ。

 おおよその場合、叙位のあとには地方官として国司に任じられる例が多いため悪いことばかりではないとはいえ、源氏でも藤家でもない自分は()()()()だということも顕忠はよく分かっていた。

 今上が碁好きだという話を頼りに腕を磨き出世の足掛かりとしたというのに、外国(とつくに)送りなどとんでもない。

 なにより昇殿の誉れを失うのは我慢ならない──。

 

 正月までにはなんとか策を練らなくては。

 

 灯る燈台の明かりを見つめながら顕忠は考えを巡らせた。

 今のところ自分は蔵人という激務に追われて佐為に囲碁指南の大半を譲る形となっている。というのも、今上への指南は半々だが後宮も含めた宮廷全体を見れば佐為の方が公務で囲碁に携わっている時間が長いからだ。

 次の除目で佐為がどうなるかは読めないが、正月の叙位で自身が地下落ちは既定路線。恥を忍んで蔵人の末席での留任を望んでも、蔵人という職は権門の公達の出世への登竜門ゆえ空きはなく、聞き入れられることはないだろう。

 

 すれば、年が明ければ今上の囲碁の師たる役目は自ずと佐為一人のものとなってしまう。

 

 考えて顕忠は歯軋りをした。同じ下級官人出身の大学寮からの叩き上げだというのに、彼は一度も地方任官することなくあの若さで昇殿を許された。今後も地方官を任じられる可能性は限りなく低いに違いない。

 そうして名実ともに今上の師となっていく佐為を京の外から指をくわえて見ている生涯で終わるのだろうか。

 内大臣の婿として、いずれは公卿へも昇れるだろう彼に囲碁まで独占されては今まで何のために努力を重ねてきたのか分からないではないか。

 佐為にしても、既に出世は約束されているのだから、今上の囲碁指南まで続ける道理はないだろう。そうだ、弁官にでも中将にでもさっさとなればいい。

 それで囲碁指南役は自分に任せていればいいのだ。

 ともかく地方送りは何がなんでも避けたい。

 どうすればいいのだろうか。

 どうすれば──。

 

 

 

 下級官人も含めて除目の時期とならば貴族たちは浮き足立つわけであるが、佐為の方は相変わらずだ。

 

 特に出世を狙っているわけでなし。さりとて地下に落ちる心配がほぼない今は、囲碁さえ打てればそれ以上の望みはないというのが佐為の正直な心情だった。

 

 肌寒くなってきたある日の午後、佐為は四条の屋敷で琵琶を抱えて寝殿から北の対へと移動していた。

 北の対へ足を踏み入れると、北の対付きの女房たちが頭を下げてくる。

 

「殿……!」

「上の様子は?」

「先ほど棗や梨、柑子(こうじ)などを少々お召し上がりで、いまはお休みです」

 

 佐為は返事に頷いて奥の一角へと向かった。

 御簾が下げられ、その奥は几帳や屏風でかっちりと仕切られている。

 

 昨日から月の触り(月水)に入った栞はこの場に隔離されているのだ。

 

 

 御簾の前に佐為が腰を下ろしたとは気付かず、栞は(しとね)に横になって時折り襲う痛みに袖を噛み締め耐えていた。

 こんな場所に隔離されてますます気も滅入るが、いちいち抗うのも面倒である。

 月水(げっすい)など知る限り全ての女人に定期的に訪れる単なる身体現象だというのに穢れだなんだと隔離される意味に疑問を抱いてはいるが、物理的に動き回れないため大人しく隔離される他はない。

 栞自身は気にせずとも家人たちはそうでもないため、月水(げっすい)の間は寝殿を離れて北の対の決められた部屋で引き籠る生活だ。

 

 にしても薬師にもっと良い薬はないか聞くべきか──と顔を顰めたまま横になっていると、少しだけ御簾が揺れたのが目の端に映った。

 

「栞、気分はどうです?」

 

 ついで佐為の声が御簾の先から聞こえ、栞の顔が若干明るくなる。

 

「佐為の君……!」

 

 琵琶でも弾こうかと気遣うような声が聞こえてきて栞は頷いて返事をした。

 そうしてそっと目を閉じて響いてくる琵琶の音色に耳を傾ける。

 佐為はいつもこうだ。月水(げっすい)で籠もっている間、こうして北の対まで足を運び、そばにいて色々と気遣ってくれる。

 最初は穢れに近づけば障りがあると止めていた女房たちも今では諦め、むしろこうも自分を慮る彼を賞賛しているきらいすらある。

 

『姫さま、よくお聞きなさいませ。世の女人は夫の通いを繋ぎ止めるためにご自分のそばには数ならぬ身のものを用意するものでございます。月の触りや懐妊時にも通わせるためです』

『よく思い出してくださいませ、姫さまがお相手できぬ時でも殿はこちらにいらっしゃって……これはとても稀なことでございますよ』

 

 先日、命婦にああ言って諭されたことも道理なのかもしれない。

 他の殿方のことは知らないとはいえ、月に何日も隔離されている妻のところへ夫が常と変わらず通うとは思えない。

 そのことを隔離期間は相手ができない妻側の落ち度だと割り切るべきなのか。対策として屋敷に形代となる女房を置き夫を留めおく方がいいのか、諦めて他に通う背中を見送るか。

 佐為は月水(げっすい)の時も屋敷を空けたことは一度もないゆえ、そんなこと考えたことさえなかった、と栞は眉を寄せる。

 出仕はしているのだから内裏で何をしているかは知らないが、それでも夜には必ず帰ってきてくれていた。そうしてこうやって琵琶や笛を奏でて気分を紛らわせてくれたり、ただそばについていてくれ気遣ってくれる。

 そもそも宿直やたまに方違えなどと称して家を空けることのある佐為だが、三日と続けてこの屋敷にいなかったことは一度もない。──三日続けて通いが途絶えることは、新しい妻を迎えたことを示唆する。そう思わせないように努めているのだろう。

 

『あれほどの方があそこまで姫さまだけを一途に愛されていることを幸せに思わねば』

 

 愛されているかはともかくも、これほど優しくしてくれているのだから……自分の預かり知らぬところで数人の情人を持つくらい、それくらい。──いやなことに変わりはないが。なるべく考えないようにしよう。唇を噛みしめつつ栞は思った。

 佐為の琵琶の音は不思議と気分が落ち着く。技巧という意味では博雅に敵わないが、人柄がよく出ているのだろう。

 直接に顔を見れないことが寂しい、と思いつつ耳を傾けているとしばらくして音が止んだ。

 

「栞……」

「はい」

「近々、時間を作って初瀬詣(はつせもうで)へ出かけませんか?」

 

 佐為が琵琶を下ろし言い下すと、部屋の奥の栞が返事に窮している様子が伝った。

 初瀬詣(はつせもうで)とは長谷寺(はせでら)への参詣を意味する。そのことが──この状況で──なにを意図しているか栞に分からないはずもない。

 だが、昨日も月水(げっすい)が始まって相当に落ち込んでいた様子であるし、と佐為は御簾の方を振り返る。

 

「栞……」

「まだ薔薇(そうび)が咲いていた頃、博雅さまからも同じことを言われました」

「え……」

主上(うえ)から博雅さまも色々と探りを入れられているようで、本当はあなたにも言いたかったみたいですけど、生憎と温明殿へお泊まりの日でしたので私だけにおっしゃって帰られましたが」

 

 淡々とした返事がきて、う、と佐為は息を詰めた。

 なんと間が悪いこともあったものか。と頭を抱える。

 自分が逢瀬を楽しんでいる間に栞は博雅を通して間接的に今上からも嫡子はまだかと暗に言われていたとは。

 そのような後であったのならばあれだけ嘆かせたのも無理はない、とさすがに申し訳なく思いつつなお声をかける。

 

「神頼みをしてどうにかなるものではないとそなたが考えていることは分かっていますが……良い気晴らしにはなると思うんです」

 

 栞としては思い出したくないことも思い出して顔をしかめていたが、外から聞こえてきた佐為の声にはっと顔を上げた。つまり彼はしばしの遠出に誘ってくれているのか。

 

「京から初瀬(はつせ)までは三、四日はかかると聞いておりますが……」

「公務もそれほど忙しくない時期ですから、休暇を願い出ます。主上(おかみ)もさすがにお咎めにはならないでしょうから」

 

 理由が理由だけに、と笑う佐為の声が届いて栞はやや自嘲する。それに。

 

「長谷寺は初夏の……牡丹の頃が素晴らしいとのことですから、どうせなら一番良い時期の方が遠出するにはふさわしいのではありません?」

「これ限りではなく、初夏にはまた行けばいいのですから……。そなたと遠出をする良い理由にもなりますしね」

 

 返事を受けて、栞は少しだけ笑った。

 やはり引き籠もっているばかりでは気が滅入るものだし、佐為は自分を外に連れ出そうとしてくれているのだ。

 それに佐為はきっと神頼みをしたいのだろうな、と悟って栞は頷いた。

 

「ではこちらで手配を進めておきますね」

 

 佐為は再び琵琶を抱え直しつつ言った。

 来月の菊の宴にはさすがに出なければならないだろうが、それまでは自分が必ず出なければならない行事もない。

 しばらく栞はこの部屋から動けないのだし、その間に準備をしておこう。と考えつつ思う。

 月水(げっすい)は物の怪や忌み日とは違うというのに、このように隔離されて気の毒なことだ、と。穢れの許されない宮中であれば血を嫌うのは理解できるが、そもそも……と遠い昔に大学寮で過ごした日々を思い出す。

 いつだったか、古文書を読んだことがある。太古のころは定期的に血を流しては止まる女人の身体は豊穣の象徴でさえあったというのに、唐土の教えが入って以来徐々に変わっていったという。

 その昔は月水(げっすい)の最中でさえ睦み合った神々もいたということだが、それを思うと現世とはなんと狭量なことか。

 

 時代さえ違えば……と思えば、博雅が言ったように栞は生まれる世を間違ったのやもしれない。

 それに──。

 

『栞は私と出逢ったがために人生を狂わせた気がしてならないのです』

 

 以前に博雅にああ言ったことは紛れもない本心だ。

 栞は一品の宮の孫にして大臣の一の姫。本来なら生涯をかけて臣下として仕えこそすれ、妻にしたいなどと考えることさえ筋違いの相手だ。

 自分とさえ出逢っていなければ、高貴な姫として自由の身を貫くことも、身分相応の相手の妻となることも、入内して国母となることさえ出来ただろうに。

 まして子にも恵まれず、子は前世からの(えにし)というのだから、なんと縁の薄い相手と妹背になったことか……と自分自身を俯瞰して哀れに思う心もまた本心だというのに、やはり今さら手放す気にはなれない。と、佐為は撥で琵琶の弦を弾いた。

 

 ──私のために、誰よりも高貴だったはずの彼女の人生は……。

 

 薄ぼんやりと、佐為はいつかの夏の夜に栞と交わし合った言葉を思い浮かべた。

 

『私はあまり前世や来世など信じていないのですが……』

『あなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』

 

 もしも次の世があれば、自分のことなど忘れて今度こそ自由に生きて欲しい。そう本心から思う一方で、きっとこれほど碁に執着している自分は目の前に彼女のような碁才豊かな人が現れれば手を伸ばさずにはいられないだろうとも思う。例えまだ見ぬその人の人生を狂わすこととなっても──、と佐為は自身の鳴らす琵琶の音を遠くに聴きつつ息を吐いた。

 来世がどうであろうと、自分こそが神の一手を極めるのだという願いを叶えるのは自分でなければ意味がないというのに。仮に来世の自分であろうと、()()()()()()()()()意味がない。

 

 

「栞……?」

 

 しばし琵琶を弾き鳴らしてから、佐為はそっと御簾のうちに声をかけてみた。

 振り返って御簾のうちを窺うように見ても反応がない。眠ってしまったのだろうか。ならば少しは気分も落ち着いたのか。ふ、と佐為は口元を緩める。

 

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』

 

 博雅の言うように、いつか彼の言葉が理解できる日が来るのだろうか。

 この人との間に子ができれば──、と噛み締めるように思いつつ佐為はそっと手に持っていた撥を隠月へとおさめた。

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