藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第二十四話:初瀬

 初瀬詣(はつせもうで)──長谷寺(はせでら)に参詣すること──を理由にしばらくの休暇を願い出た佐為の意向は認められ、佐為と栞は大勢の従者を連れて初瀬を目指した。

 

 初日は宇治の別荘に泊まり、初瀬への足がかりである“椿市(つばいち)”までは船旅を選んで牛車をも船に乗せるという大掛かりなものとなった。

 

 遠出──特に女人が遠出をする場合は船旅を第一選択とする。山道は危険が多いからだ。

 

「わあ……!」

 

 栞は屋形の御簾をあげて外を見やり感嘆の息を漏らした。四条の屋敷にも船遊びが楽しめる池はあるが、こうも大掛かりな船旅は初めてだ。

 この辺りは交通の要所でもあるため川は物資を京へ運ぶ様々な船で賑わい、京を離れたことのない栞はもとより佐為にしても物珍しい光景が眼下に広がっている。高揚を抑えがたいのも道理だろう。

 間近で感じる水流の音、跳ねる水、頬を強く撫でる風。全てが新鮮だ。

 

 初瀬への道は遠く険しく危険も伴うため、公卿ともなれば代理を立てて初瀬詣(はつせもうで)に行かせるのが常である。ましてや大臣の姫ともなれば、いくら“変わり者”と知られる栞のような姫であっても自ら出かけることは一生に一度あるかないかという一大事だ。

 栞もそのことはよくわかっており、なおさら目に映る光景が愛しく感じられた。

 

 そうして京を出て三日目に一行は椿市(つばいち)に着き、船を降りて初めて「市」を目にした栞はひときわ大きな感嘆の息を吐いた。

 忙しなく行き交う人々。食材や物を売っているらしき人々。市井の人は動きやすそうな服装で自由に歩き回っている。

 裏腹に壺装束でただでさえ動きにくい上に市女笠を被り、周囲を覆うように垂れた布で視界に制限がかかっている栞はもどかしさから佐為を見上げた。

 

「笠、外しても構いません……?」

 

 すれば佐為は檜扇で口元を覆いつつ困ったように顔をしかめた。否定の意だろう。予想通りの反応に栞はしゅんとうなだれる。

 

「だって周りがよく見えなくて……」

「姫さま、もう少し我慢なさいませ」

 

 食い下がってみるも命婦にまで諫められ、栞は肩を落とした。

 狭い視界を凝らして見ても、周囲でこのような出で立ちをしているのは自分一人だ。従者を引き連れ歩いているこの姿はひと目で高位の貴族だと分かるだろう。

 

 周りには見たこともない世界が広がっているのに──。

 

 と、佐為は「あれはなんです?」と物珍しげに尋ねる栞に答えつつ“伊勢物語”を頭によぎらせた。在原業平()が懸想した高貴な姫を盗み出し、外の世界を初めて見た姫は彼に問うのだ。あれはなんですか、と。

 どれほど破天荒に見えても、栞は深窓の姫なのだと改めて実感させられるではないか、と佐為は少しばかり自嘲した。

 佐為とて貴族の端くれではあるものの、佐為自身の里は七条に位置しており市場が近く行商の行き交う騒がしい界隈である。

 佐為にとっては市場の様子は見慣れてはいるが、かといって日常では交わらない世界であり、明確な線引きがある。

 まして公卿ともなれば直に見ることなどない世界であろう──、と佐為は元服前に見た遠い昔のことを思い浮かべた。

 立派な召し物で明らかに市場では浮いた公達をある日、偶然見かけた。興味本位で市場に紛れ込んだらしきどこぞの貴公子は、物売りの商人を見て「まるで鬼のようだ」と言い異質な存在として扱っていた。あの時にはっきりと感じた。あの貴公子と周りの風景とは決して相容れぬ存在。纏う空気や色さえ違っているのだと。

 とはいえ、彼の反応は貴族としては当然の感想と言える。市場とはそのような場所なのだ。

 

 このような雑多な場所に栞を置いておきたくないと思う自分とは裏腹に栞はすこぶる楽しそうで、やはりこの人は変わり者なのだろうか。思いつつ佐為は従者に先導させ栞を連れて宿へと向かった。

 

 椿市(つばいち)初瀬詣(はつせもうで)──長谷寺への参詣の入り口として身分問わず様々な人が行き交う場所である。

 多様な宿で賑わっており、佐為たちは護衛や下働きの従者も含めて全て同じ宿に泊まれるよう一箇所を借り上げて一息ついた。

 参詣は一般的に夜に開始するため、それまで身体を休めるよう栞に言いつつ佐為も狩衣を寛げて息を吐く。

 

「栞、疲れてませんか……?」

「平気です」

 

 栞は壺装束──外歩きのために括っていた袿や単衣の裾を元に戻して(しとね)に腰を下ろしながら笑った。

 

「“市”というものがあれほど活気にあふれているとは思いませんでした……! 女人も外で商いをなさっていて……なかなかに面白そうです」

「それは……大臣の姫(そなた)のやることではないのですから」

 

 佐為は市井の人を賤しく思うでなく興味を抱いたらしき栞をやんわり牽制した。

 が、栞には通じなかったのだろう。

 

「この衣装では悪目立ちしますから、男装束などに身をやつせば見物に出かけても構わないのでは……」

「栞!!」

 

 案の定なことを言い出した栞を佐為は先ほどより強く牽制した。

 しゅんと項垂れる様を見てさすがに罪悪感が込み上げるものの、やはり『市』とは公卿の姫に相応しい場所とは言えない。

 佐為自身は京の市しか知らないものの、地方任官を終えて帰京した知人友人から様々な話は伝え聞いている。京の外で栄える「市」とは交易の場であると同時に男女の交歓の場所でもあり、色好みの男などわざわざ京から京外の“市”へ出かけて愉しむという。

 

 ──そういう場所を貴族の、まして公卿の姫が練り歩くなどとんでもない。

 

 などと思っていると、栞は少し寂しげに笑った。

 

「私、これほど遠くに来るのは初めてで……もしかしたら父や母のいる筑紫もこのような場所なのかと考えてしまって……。私もついていっていればあのように外に出る機会もあったのかと」

「ですが大臣(おとど)はそなたを連れていくことを良しとせず京に残したのでしょう?」

「それは、財産管理など私が京でやることも多いですから……」

「それだけではないと思いますよ。やはり京外はなにかと不便も多いでしょうから」

「……。佐為の君は京でないとおいや?」

「私は……」

 

 佐為は思わずグッと手を握りしめた。

 

「私は一度も京を出たことがありませんから……、やはり住みなれた場所の方が善いと感じます」

 

 内裏で碁を打つ以外の人生など考えられない。という思いを飲み込み、佐為は言い下した。

 そう、と栞はふいと目線を逸らす。小さくではあるが、市人の行き交う声が聞こえてくる。栞は耳をそばだてているのだろう。

 彼らとは身分が違う。──と感じるほうが正常な感性であろうが、それでも佐為は外への興味を示す栞の望みを叶えてやれないことを申し訳なく思ってその横顔を見つめた。

 

「口うるさい夫だとお恨みでしょうね……」

「え……」

「外へ出たいのでしょう?」

 

 栞は意外そうな顔をしてこちらを向き、しばし黙したのちに小さく首を横に振るった。

 

「もう何度も言ったように、これほど京から離れたのは初めてなんです。父上も博雅さまも今まで私をこれほど遠くへはお連れくださいませんでしたから……。だから感謝こそすれ、恨んでなどおりません」

 

 そうして栞は少し悲しげに眉を下げる。

 

「私は……身分も高く生まれつき、けれども(きさい)がねとして育てられたわけでもなく、それでも好きなことも身分ゆえに諦めなければなりませんでした。父上はせめて裳着まではと心を尽くして私の自由にさせて下さったことは存じているのですが……。でも、先ほどあなたがおっしゃったように一度も私を筑紫へは呼び寄せてくださいませんでした。あなたの言う通り、父は私を外に出す気はなかったのでしょう」

「栞……」

「だとすれば、自分の人生というものがなんなのか……私はいったい何のために生まれたのか……と」

 

 在原業平()が盗み出したような深窓の姫。──自身も結局はそういう存在でしかないのだと栞もうっすらと自覚したのだろうか。

 だが、裳着を済ませた彼女の自由を奪ったのは他ならぬ自分自身だ──、分かりつつ佐為はそっと栞を自身の胸へと抱き寄せた。

 

「そなたが(きさい)がねとならずにいたのは、私と出逢うためであったと思ってはもらえませんか」

「佐為の君……」

「私の子を産み、育てていく人生であったと……。不服でもそれがさだめと諦めて」

 

 言えば、わずかに目を見開いたのちに栞は口元を緩めつつ頷き、自身を抱きしめる佐為の腕に体重を預けて腕を絡めた。

 

「はい……」

 

 

 長谷寺は元は天皇家の管轄下であったが今は摂関家たる藤家の庇護下だ。

 ゆえに藤原の……摂関家ゆかりの人間がよく詣でている。

 だからというわけではないが、源氏の姫や既に没落した藤原家の傍流も傍流である自分に利益があるかは疑わしい。などと僅かでも思ってしまうのは神仏に対しあまりに恐れ多いことだろうか。佐為は自嘲しつつ、夜の帳もすっかり降りてそろそろ初瀬へ詣る頃合いとなった。

 徒歩(かち)で向かうか途中まで牛車を使うかだいぶ揉めたが──命婦などは牛車に乗せたがっていたが──、帰りは牛車を使うことにして結局は歩いて向かうこととなった。

 

 笠を嫌った栞は「夜が明ければちゃんと被る」と約束して顔を晒し、松明に照らされる夜の風景を視界いっぱいに直に見ていた。

 佐為にとっては闇夜を、しかも京でない場所を歩くなど空恐ろしく感じたが、栞はそうでもないらしい。内裏や四条の屋敷以外の場所を、まして夜に歩くのは全てが新鮮なのだろう。灯りに照らされた栞の笑う横顔を見て、佐為は肩を竦めつつも頬を緩めた。

 

 しかし──。

 

「なんと恐ろしげな……!」

 

 御堂に辿り着くまでの山中の石段は暗がりで足元さえおぼつかず、絶えず川や滝を流れ落ちる水の音、風に揺れる木々の音が不気味に聞こえるのだ。

 命婦などは恐怖に苛まれたのかしきりに怖がって佐為が慰める有様だ。

 

「しっかりなさい。大丈夫ですから」

「しかし殿……! あやしげな下臈(げろう)などが行き交って恐ろしくて……、姫さまにもしものことがあれば大殿にどうお詫びすればいいか……」

 

 当の栞は平気そうにしているが、大臣家に仕える女房からすれば出自も分からぬ輩や見慣れぬ衣装の修行僧がそばをうろつくのは耐え難いものなのだろう。まして今は夜中だ。

 せめて御堂の局では人払いを頼もう。思いつつ縋り付いてくる命婦を宥め、さすがに足の重さを感じながら段を登っていく。

 そうしてようやく見えてきた本堂は張り出した懸造りとなっており、燈台や燭台に照らされるその光景は佐為には京の清水寺を思い起こさせた。

 

「足は大丈夫ですか?」

「平気です」

 

 栞を気遣えば、さすが日頃から馬弓を巧みにこなす彼女らしく鍛えられているようで、佐為はやや苦笑いを漏らした。下手をすれば自分の方が息が上がっている。

 命婦も含め同行した女房たちはかなり消耗しており、佐為は先導させていた従者を呼び寄せ本堂の局に案内するよう指示した。

 そうして参籠する貴族たちは専用に設えた局にて幾晩も費やし祈りを捧げるわけであるが、佐為たちは今晩のみである。

 

 本尊の観音菩薩像に程近い局に入ればさすがに身の引き締まる思いがし、佐為たちは椿市(つばいち)にて用意していた灯明を供えてそれぞれ勤行に励んだ。

 

 初瀬への参詣は現世利益をもたらしてくれると貴族のみならず人々から尊ばれ広い信仰を集めている。

 

 特に子宝や安産に御利益があるとして、娘を入内させた公卿たちは娘付きの女房をここへ送り懐妊祈願や安産祈願をさせている。

 という話は栞も何度も耳にした。

 しかしまさか自分が来ようとは……と栞は灯りに照らされる観音菩薩を見上げる。

 おそらく、佐為との子ができないのは互いの相性や家系の問題だ。前世からの(えにし)などとは思えない、とギュッと裾を握りしめる。

 それでも皆が、なにより佐為が望んでいるのだからそう遠くない未来に叶えてあげられればとは願っている。

 それさえ叶うならば自分はどうなっても……と思うが、でもまだ佐為と離れたくない。お産は命がけだ。こればかりは身分の高さなどなんの意味もない。今まで何人の姫たちが実家の栄華のためだけに入内し、そして死んでいったことか。──両親がたった一人の娘である自分を入内させなかったのは、そんな不幸を避ける狙いもあったに違いない。

 

 願いはただ一つ。

 佐為と一緒に歳をとっていきたい。

 ずっと仲良く、できれば幾人かの子に囲まれて──。

 

 それともそれは過ぎた望みなのだろうか。と観音を見つめて問答を続ける栞の心理は佐為には分かるはずもなく。

 栞よりも遥かに──と言えば語弊があるかもしれないが──ごく平均の貴族並みに仏道にも馴染みのある佐為は誦じている経を口遊んでいた。

 他人(ひと)の子でも童は愛しいものであるから、我が子ならばどれほどか……と思う。それが正妻()との子でなくとも変わるまいが、やはり自分は栞との子を望んでいる。

 それはなぜか、と考えた時にどうしても碁のことがよぎる。みながそう思うように、栞との子ならば碁才もまた抜きん出ているだろうからだ。

 我が子を鍛えて切磋琢磨すれば神の一手に届くのだろうか。

 それでもし、仮に実子であっても自分ではない誰かが神の一手に届いたとしたら──自分は嫉妬と絶望で生きていけぬやもしれない。

 

 ──神よ。

 ──神の一手とはいったいどう極めればよいのか。

 

 縋るように観音像を見やった自分に佐為ははっとした。

 こんな時でさえ囲碁への思いが勝ってしまうとは。生涯を誓った妻がそばにありながら。

 が、でも──栞に興味を抱いたのも囲碁ゆえ。

 初瀬は夢を授けてくれる場所でもある。眼前におわす観音が夢で告げられる事柄はどちらなのか。

 囲碁か、それとも──。

 

 

 その夜、祈りながら微睡んだ佐為がいったいなにを夢見たのかは誰にも分からない。

 

 

 一つ確かなことは、東雲の頃に本堂を出て見やった風景があまりに高雅で神々しく──佐為は約束を違えて外で顔を晒した栞を咎めることを控えた。

 空がうっすら紫に色づき、なんとも幻想的な中に燈台の灯が揺らめいて色づき始めた紅葉を鮮やかに映し出している。

 

「美しい……!」

 

 栞はギュッと昂揚気味に佐為の狩衣の袖を掴んで目を輝かせ、佐為も薄く笑った。

 

「ええ、ほんとうに」

 

 そうして顔を見合わせて微笑み合う。

 夜が明けたためだろうか。昨夜は恐ろしかったはずの風の音や水の音さえこの風景を彩る豊かなものに変わっている。

 そのまましばらく眼前の光景を堪能してから、佐為たちは下山を始めた。

 山を下る参道へと出れば人の行き交いが密になり、佐為よりも先に命婦が促して栞は虫垂衣(むしのたれぎぬ)と笠を被って人目を避けた。

 それでも栞は周囲の秋の風景に見入っており、時おり足を止めては感嘆の息を吐いている。

 

「春の終わり頃……初夏にはきっと牡丹が見事に花咲くでしょうね」

 

 長谷寺は多種多様な牡丹で名高い。佐為も頷く。

 

「そうですね」

「その頃にはまた連れてきてくださる……とおっしゃいましたよね?」

「本願叶えば、そなたは牡丹の頃には山道を登れる身体ではないと思いますよ」

「そ……!」

 

 それはそうだが、と複雑そうな声色が栞から漏れた。

 垂衣の先で栞がどのような表情をしているのかは読めない。が、こうして外に出られるのは得難く、できれば折に触れて遠出したいに違いない。

 とはいえ栞が望んでもなかなか叶えてやれるものでもないが。などと思いつつ境内を下っていくと二本の杉が見えてきた。

 古今の中でも詠まれている二本杉であろうか。佐為は思い当たる一首を脳裏に浮かべた。

 昨夜は闇夜ではっきり見えなかったが、明けたいまはいっそ清々しいほど鮮やかに根を同じくする二本が寄り添ってそびえ立つ様子が目に映る。

 

「立派ですね」

 

 佐為が立ち止まって見上げれば、栞も頷いて二本杉を見上げた。

 ふ、と佐為は微笑む。

 

「この二本の杉のように末長く共にありたいと……そう思っています」

「またそんなことおっしゃって……。千年よりも長そうなお話ですのに」

 

 栞は苦笑いのような曖昧な笑みを漏らした。

 きっとこの二本杉は千年先の世もこの場にあるのだろう。佐為は先ほども浮かべた古今の一句をいま一度浮かべる。

 

 ──年を経てまたも逢ひ見む二本(ふたもと)ある杉

 

 時が経っても、例え千年を経てもこうしてまたお逢いしよう。

 その先の世など想像すらつかないが……とどちらともなく思いつつ杉を見上げ、二人はそっと手を取り合い重ね合った。

 

 

 そのまま佐為と栞は参道をある程度下ったところで迎えの牛車に乗り、椿市(つばいち)の宿へと戻る。

 全ての従者に朝餉が振る舞われ、栞たちも軽く朝餉をとって各々湯浴みなどをし、さすがに疲れた身体を休めた。

 

 そうして夕方には椿市(つばいち)を発つものだと思っていた栞だが、佐為は今夜もここに泊まるという。

 

「みな疲れているでしょうから」

「まあ、構いませんけど……」

 

 宇治まで戻れば別邸も荘園もあるのだからそっちでゆっくりできるのではと思った栞だが、特に反対する理由もなくうなずいた。それに、参詣も終わったことだし町に出てみたいという欲求もある。

 

「ここに泊まるのでしたら、時間もありますし水干に着替えて市場に行きたいのですが……」

「栞」

 

 おずおずと言ってみれば一蹴され、やっぱり、と栞は息を吐いた。不便な身を少しばかり恨めしく思う。

 

「みな、精進落としが必要なのですよ。我々も……」

 

 言って佐為が宥めるように頬に触れてきて栞は首をかしげた。

 

「精進落とし……?」

 

 精進落としの膳は既に振る舞ったが、となお首を捻れば「ええ」と佐為はどこか含んだような笑みを漏らした。

 

「それに私たちは本懐も遂げねば」

 

 そして彼は栞の袴の腰紐に手をかけて解き、惚けていた栞ははっとする。

 ()()()()()()だったか……と思案している間に佐為は額を合わせてきて両手で栞の頬を覆った。

 

「構わないでしょう?」

 

 栞はそっと佐為の手に自身の手を重ねて小さく頷いた。

 

 

 

 そうして栞たちが初瀬詣(はつせもうで)に赴いている頃──。

 

 侍従という職務は帝に侍っているとはいえ、蔵人ほどの激務ではなく常に全員が今上のそばにいるということはない。

 

 が──。

 ()()()()の姿が幾日も見えないことを菅原顕忠はやや不審に思っていた。

 公卿・殿上人の殿上の間への出仕を管理・把握するのは蔵人の勤めとはいえいちいち佐為一人を気に留めてはおらず。彼の不在に気づいたのはここ三、四日ほど今上に続けて召されて碁を打っているからだ。

 今までこのようなことは記憶の限りなかった。

 とはいえ、病欠や方違え等あるゆえ差して気にも留めていなかった顕忠だが、たまたま台盤所で四位侍従──博雅の実弟でもある──に会い、それとなくたずねてみた。

 

「源の侍従殿……、ご同僚の姿が見えないようですが、物忌みですかな?」

「は……?」

 

 彼にしてみれば急に親しくもない身分も下の相手に話しかけられ不躾に感じたのだろう。顔をしかめている。何の用だと言わんばかりだ。

 

「いえ、今日も主上(おかみ)から私の方へ囲碁指南のお召しがあったものでどうしたものか、と」

 

 そこまで言って、ああ、と源の侍従は頷いた。

 

「佐為殿はいま北の方を連れて初瀬詣(はつせもうで)に出ているからな」

「北の方と初瀬へ……ということはご懐妊で?」

 

 踏み込み過ぎたのか源の侍従の顔が険しくなる。

 

「そうだったら良かったのだが」

 

 佐為の北の方──四条殿は彼には近しい親戚筋だ。不快にさせたのだろうと顕忠は頭を下げ、出て行く黒の袍を見送りつつ思う。

 なるほど、今の反応を見るに佐為は正妻の懐妊祈願に初瀬まで赴いているらしい。

 彼の正妻は皇族筋で今上にも先帝にも気に入られている従三位も預かる姫だ。今上も手放しで佐為の参籠を許したに違いない。

 ということは、佐為はあと五日ほどは出仕しないとみていい。

 

 この機をなんとか使えないものか。──と顕忠は考えを巡らせた。

 

 指を咥えて年明けをただ待っていれば五位の大夫にされ地下に逆戻り、そして地方送りは免れない。

 大国の任が得られれば一生困らぬ財は築けるだろうし、既に落ちぶれている菅家としては十分なのかもしれない。

 しかし──しかし。昇殿の栄誉を預かったいま、そこから降ろされるのは耐え難い屈辱なのだ。まして囲碁で抜きんでようと人知れず励み、ようやく身を結んだばかりだというのに。

 

 対してあの若造(佐為)はどうだ?

 内大臣の婿としていずれは参議にも登れるはずだ。自分には生涯をかけても届かぬ地位だろう。

 

 そもそもにして、あの佐為という男は大学寮を出たあとはせいぜい主計寮や主税寮にて算師として取り立てられる程度の経歴でしかなかったというのに。なぜか彼は侍従に叙され、あっけなく昇殿を許され今に至っている。

 その上、自分が地下に落ちれば今上の囲碁の師という名誉までも彼一人のものとなるのだ。

 

 それだけはなんとしても阻止したい。

 しかしあの輩の碁の腕は本物。対局こそ一度もしたことはないが、良くて五分。

 どうすればいい? 菅家らしく、儒家の言葉でもふんだんに引用した申文でも書いてみるか。いかに自分を重用することが朝廷のためとなるか、と。

 顕忠は焦燥と自嘲が混じったような笑みを浮かべた。

 このまま何もしなければ地下に逆戻りだ。

 

 どうすれば──、などと考えているうちにも時間が過ぎ、妙案浮かばぬまま顕忠は今日も召されて今上と碁を打った。

 六位蔵人となり今上とこうして対局する機会に恵まれ、“師”と請われて指導をするようになってからずいぶん経った。この場に居る栄誉を噛み締めれば噛み締めるほど、この地位を追われるのは耐え難い。

 まして菅原は学業で身を立ててきた一族なのだ。囲碁こそはその最たる高雅な嗜みではないか。忌々しくも一族の誉であったあの菅原道真も生涯囲碁を愛し続けたのだ。

 

主上(おかみ)……」

 

 終局して盤面を崩しながら顕忠は今上を見た。

 六位蔵人風情が今上と密談をするなどあり得ず、常にそばに誰かが控えている。下手なことは言えない。ごくりと顕忠は喉を上下に揺らす。

 

「恐れ多くも主上(おかみ)へこれまで囲碁指南をさせていただきましたが……もうじき辞さねばならぬことがまことに口惜しくてなりませぬ」

 

 今上も正月の除目で自分が巡爵し六位蔵人の任を解かれることは分かっているはずだ。だからこそ、蔵人は辞しても囲碁指南は辞したくないことを奏上せねばならない。顕忠は続ける。

 

主上(おかみ)は院さまの御時に蔵人として召された私をお見捨てにならず棋力を見込んでくださり、蔵人にとどめ置いてくださいました……。そのお心にこれからも尽くしてまいりたいと感じていることをお伝えいたしたく……」

「つまりそちは私への囲碁指南を継続したいと、そう申しておるのか?」

 

 今上が読めない表情で言い、顕忠は改めて奏じ上げる。

 

主上(おかみ)がお許しくださるならば……」

「うむ、私にとっても碁の上達はこの上ない願いではある。そちの貢献には感謝しておるが……ここには佐為の侍従もおる。棋力ならばそちよりあれが上であろう」

「そ……!」

 

 思わず声を上げそうになるのを顕忠は堪えた。対局したことはないが、佐為が上手であろうことはみなが薄々感じていることだろう。

 だが──と顕忠は思う。どのみちどう足掻いても地下落ちは免れない。ならば()()()意義はあるのでは、と。

 

「それでは……もし私が侍従殿に優れば、私を召してくださいますか」

「なんと……?」

「対局にて雌雄を決し、勝者をお召しくだされば……と」

 

 言い下せば、今上は突然の直接的な奏上にやや驚いている様子を見せた。

 控えの女官たちも互いに顔を見合わせて困惑している様子が伝った。

 顕忠はごくりと息を飲む。

 今上は笏を口元に当て、しばし唸る。

 そうして何か思いついたような顔つきで口を開いた。

 

「誰を召すかはともかくも、そなたたちの対局は一度見てみたいと思うていたところだ。近々……そうだな菊の宴の余興に三番勝負などどうか」

 

 あくまで今上の口ぶりは軽いものだ。が、顕忠はいっそ仰々しいほどの動きで首を垂れた。

 

「ありがたくお受けいたします」

 

 おそらく今上は勝敗がどうなろうが佐為を遠ざけるような真似はすまい。が、勝てば確実に禄がある。菊の宴は今月九日の宮中行事で、めでたき席ゆえ結果次第では臨時の除目もあり得る。

 ゆえに、うまくいけば殿上の官職に取り立ててもらえる可能性も出てくるのだ。少なくとも訴えが通りやすくはなるだろう。

 

 

 なんとしても勝たねば──。

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