初瀬から宇治まで戻った佐為と栞は宇治の別邸で数日過ごしてから京へと帰ってきた。
久々の出仕は九月に入って初めてとなる。
京はすっかり秋の匂いで満ちており、朝の空気に立ち込める落ち葉の香りを感じつつ佐為はいつも通りに出仕して侍従所へと向かった。
そして自身の九月の宿直日などを確認していると、源の侍従が出仕してきた。
「佐為殿!」
「源の侍従殿、お久しぶりで──」
「そなた聞いたか!? そなたの居ぬ間に厄介なことになっておるぞ」
「え……?」
会うなりこちらに駆けてきた源の侍従に佐為は目を丸めた。
聞けば、六位蔵人の菅原顕忠が今上に自分との対局を懇願したという。そうして今上は今月九日の菊の宴にて三番勝負で雌雄を決せよと顕忠の奏聞を受け入れたとの話だ。
「菅原顕忠は一﨟になって六年、正月の加叙で巡爵だ。そなたも知るように六位蔵人がその任を解かれれば、昇段も止められることとなる。おそらく菅の一﨟は
「私に勝って
「そこまではどうか……。なにぶん私も女官からのまた聞きで……、話に尾ひれもついていようし」
「では
佐為はやや焦りつつ源の侍従に頭を下げ、その場を離れて内裏へと向かった。
御前に召されての対局など珍しくもないが、相手がいささか不穏である。
菅原顕忠。佐為自身が大学寮で学んでいた頃に大学寮の役人も務めていたゆえに存在そのものは昔から見知っていた。
菅原一族らしく学問に秀で、紀伝道にて学んだ彼は囲碁の上手と大学寮でも評判で熱心に学生を鍛えていたと聞き及んでいる。
とはいえ、佐為自身は彼との接点は特に持たずに来た。腕が立つのならばぜひ対局をと望んだこともあったが、佐為自身は藤原氏であり菅家との縁もなく、大学寮内でも一段低く扱われる算道の学生。いつか手合わせできる機会があれば、とは思いつつも日々をこなしているうちに彼は六位蔵人に取り立てられて大学寮から去ってしまった。
そのしばらく後に先帝が譲位し、そして今上の御代となった。
大学寮にいた佐為の耳にも今上が碁の上手を私的な師として取り立て、いずれは唐国のように棋官を置きたいと願っているとの声が届き、是が非でもその地位が欲しいと望んだのだ。
幸いにして課試に通り、前々から目をかけてくれていた先の大学頭が今上に推挙してくれ恐れ多くも侍従に取り立てられて昇殿を許され今に至っている。
そう、顕忠とは内裏で再会したのだ──と見えてきた清涼殿を見つめながら佐為は思う。
昇殿の間を管理しているのは蔵人だ。
蔵人の一人に今上への要件──表向きは休暇明けの挨拶──を告げて殿上の間に上がり、召されるのを待つ。
黙しつつ佐為は改めて思う。顕忠とは内裏で再会した。
自分に先んじて今上に碁の指導をしていた彼は蔵人という激務だ。おそらく今上が自分を特例に近い形で昇殿させ侍従に取り立てたのも、激務の顕忠一人では師が足りないと感じたゆえなのだろう。
帝や春宮には学問や管弦を教える「御師」という存在がいる。
おおよそにおいて地位ある人々が選ばれるゆえに正式な宣旨がおりるわけであるが、教えを請いたいほどの腕を持つものが高貴な出でない場合はどうであろうか。
例えば管弦などは帝の身につけるべき教養であり、また──皇族出の博雅を例に取らずとも──楽狂いに近しいほど楽を羨望する帝は数多くいたため、時には名手と謳われる地下人や女人が時の帝に請われて参上することもあった。その場合は正式な“師”というより“相談役”と言うべきか。
自分や顕忠の存在は後者に近く、そもそも囲碁は学問や管弦と違って必ずしも帝に必要なものではなく、“今上の師”という立場は非常に危ういものだ。が、一つはっきりしていることは、ひとたび今上の『師』に選ばれれば帝のそばに侍る栄誉を預かるのだ。仮に地下人であれ、昇殿の勅が下る可能性さえある。
ゆえに下級官人からすればこの上ない名誉となるのだ。
先ほど源の侍従が言ったように、顕忠は六位蔵人を辞しても昇殿を続けるために今上に師の役目を継続したいと奏上したのかもしれない。
彼は次の正月には巡爵して『貴族』となる。であれば、「師」として昇殿の勅を受けるに不備はなくなると言える。
とはいえ、だ。仮に彼が地下人に戻っても、もう一人の師──佐為自身──がいるのだから、今上の碁の指南そのものに不足はないだろう。侍従は蔵人ほどの激務ではないし、囲碁指南もつつがなく務められるだろうからだ。
だからこそ彼は自分を追い立て、その地位を独占しようとしているのか。
彼とは顔見知りではあるが親しく口を聞いたことはないし、大学寮にいた頃からあまり好意的とは言えない目線を向けられていた気がする。
だからどうというわけでもないが。と考えているうちに許可が下り、佐為は東孫廂に抜けて清涼殿を歩いていく。
「
ちょうど手が空いていたらしき今上の姿を見つければ、ああ、とあちらから先に佐為の方へ向き直ってきた。
「佐為の侍従、
「はい。道中特に問題もなく……」
「それは何よりだ。初瀬は京よりも秋深く、さぞ美しいことだろうね」
「盛りにはいま少しという頃合いでしたが、そのなんとも言えない色合いがまた格別で……、妻も京より遠く離れたのは初とのことで大層喜んでおりました」
「私もなにかと不自由な身ゆえに、北の方のお喜びが我がことのように分かるよ」
今上は穏やかに言い下し、佐為はどう切り出したものかと考えあぐねる。が、迷っていても仕方ない。ごくりと息を呑むと思いきって聞いてみた。
「
そこまでいえば、ああ、と今上は頷いた。
「そなたと菅の一﨟を召して三番勝負でも打たせようかと考えている。どちらが勝つのか……宴のよい余興となろう」
言われて佐為は反応に窮した。
こういう場での「対局」とは基本「賭け碁」である。先日の庚申待で頭中将に勝って録を得たように、勝てば録、負ければ罰杯であるのが常だ。
しかし「賭ける対象は何か」とは佐為は聞けず口をつぐんだ。
黙していると、侍従、と声をかけられ佐為は目線を上げる。
「そなたの腕は知っておる、が……そなたをそろそろ弁官に取り立ててはどうかという意見があってな」
「え……!?」
思いがけない言葉に佐為は瞠目した。
弁官とは太政官──最高機関──の実務中枢を担い諸司・諸国を指揮しつつ諸行事の運営をも行う非常に多忙な官職だ。
弁官の下で働く下級官人である史は算道や各文書に通じた選りすぐりの賢人が務めるゆえ、佐為自身の出自には合っているとは言える。が、弁官とならば中弁以下は正五位相当──つまり今上は自分の出世を仄めかしているのだ。弁官の中でも高位となれば殿上人にとっては公卿への登竜門となるし、栞や博雅の親族の誰かが推したのだろうか。
むろん出世は名誉なれど、弁官となれば今まで通り今上に碁の指導をする時間は取れまい。
つまりは顕忠に負けるようであれば囲碁は諦め、激務に耐え朝廷に尽くして内大臣の婿らしい働きをせよということか。と、佐為の長い睫毛が伏せられて影を作る。
「もったいないお話で真に恐縮ですが……、私は
「なるほど、そなたは出し惜しみするが……学才も惜しいものだな」
あえて佐為が今上の傾倒する唐国のことを引き合いに出しいかに碁が帝に必要なものかを訴えれば、彼は褒めるような笑みを見せた。
「ともかく……その話はまた菊の宴の後にすればよい。それより今日は久々にそなたと打てるのを楽しみにしていたのだから……相手を頼もうぞ」
「は……、はい」
佐為は返事をしつつ、今上の話しぶりから顕忠との対局は避けられないのだと察した。
そして、勝敗によっては近々職位が変わる可能性さえ今上は示唆したのだ。
弁官ともならば出世ではあるのだから、負けて出世するというのもいささかおかしな話であるが、だとすれば今上としては自分の勝ちを期待してくれているのだろうか。
一方で、これまで尽くしてくれた顕忠にも情けをかけるということかもしれない。菅家である顕忠には、この後のはかばかしい出世は不可能に近いからだ。
対する自分は──今をときめく家系ではないが──藤家ではあるし、なにより立場としては内大臣の婿だ。碁で実力を示せないなら朝廷に尽くせというのは道理だろう。
だが──神の一手を極めんと自負する自分が碁で誰かの下位になるなどとうてい我慢のできることではない。このようなところで負けていては、それこそ神の一手を極めるという戯言など二度と口にできまい。
なんとしても勝たねば──。
「今日の出仕でなにかありました……?」
公務が済んで帰宅した佐為は栞を捕まえてひたすら打ち続けた。
言葉も少なく幾度もの対局を繰り返し、いつの間にか格子も全て下ろされ、もう暮れきってしばらくたった頃。何度目になるか分からない対局が済んだ後に栞が佐為に訝しげにきいた。
「え……?」
「帰ってからずっと怖い顔をなさっているから……何かあったのかと思って」
指摘されて初めてはっとした佐為は努めて表情を緩めてみせる。
「こうしてゆっくり碁盤に向かうのは久しぶりなので、つい」
「ならいいんですが……」
「栞、もう一局お願いします」
「え、でも……」
「頼みます」
おそらくはもう休もうと言いかけた栞に再度言えば、栞は不審げながらも頷いた。
栞と顕忠の棋力にどれほどの差があるのかは分からないが、栞は置石なしの互先で打てる貴重な相手。そんな相手は京中を探してもきっと見つかるまい。
だからこそこの人を欲したのだ。
我ながら、こうして思うとなんと利己的に妻を選んだことか──。
長く時間を共にするに従い、栞は自分とは志を共にする同志ではないのだと後追いで実感し……なによりも情を交わす相手ゆえか無意識に打つ手を控えるようになってしまったが。今ばかりは──、と無慈悲なまでに文字通りに一刀両断すると、投了した栞はやや困惑したような怯えた表情を浮かべた。
いけない、と佐為は律するもかける言葉に詰まっていると、しばらく盤面を見て黙していた栞は小さく口を開いた。
「私、なにか気に障るようなことしました?」
そうして怒っているのかと訊いてくる栞に佐為はなお返事に詰まった。
どう説明したものだろう。菊の宴で今上の碁師を賭けて打てと言われたなどと。おまけに弁官への昇進さえ示唆され──。考えあぐねた佐為は誤魔化すように首を振るった。
「いえ、ただ……少し自分を鍛えたいと思っただけです」
「私ではあなたが満足いくほどの相手はできないと思います。お望みなら……誰か対局相手を招きましょうか?」
「京中を探してもそなたほどの打ち手は見つかりませんよ」
──だから栞を欲したのだから。とは続けないでいると、栞はやや複雑げに笑う。
「あなたにとっての私の価値は棋力の高さ……というのは分かっていますが、それでも足りない自分が恨めしいです」
まるで佐為の飲み込んだ言葉を察したような栞の声に佐為はハッとしたが、栞は腰を上げて今日は先に休むと告げその場を離れた。
「お待ちなさい」
さすがに自分の態度があまりに度を越していたと悔いた佐為は栞を呼び止める。
「そなたの碁の才に惹かれたことは事実です。ですが……」
「分かっています。ただ、あなたと同じようには碁盤に向き合えないことが……少し寂しかっただけです」
お休みなさい、とほんの少し振り返って告げた栞は寝所へと向かい、その後ろ姿を見送ってから佐為は小さく息を吐いた。
こんなことではダメだ。少し落ち着かねば。栞にもちゃんと事情を話して……と思いつつ盤面を睨む。
もしも栞の夫でなければ、弁官への出世の話はなかったはずだ。言うなれば顕忠と同じ、後ろ盾のない下級貴族に過ぎなかった。
そうであれば、今回の話なども負ければそのまま地下に戻るというオチなのだろう。叙爵はされたのだから貴族から落ちることはないにしても、おそらく
いけない。と考えすぎている自身を佐為は叱咤する。あまり気負いすぎては良い碁は打てまい。
考えつつしばし一人で打ち続けてから、その夜は佐為も寝床へと入った。
翌日、内裏。
菊の宴でのことがうわさとなり内裏を巡っているのか妙に周りからの視線を感じる。
宴での御前対局などさして珍しいことでもないというのに、“賭け事”がいささか特殊ゆえだろうか。
「佐為の君……!」
佐為が居心地悪い思いをしつつ内裏を歩いていると、見知った声に呼び止められた。
見上げれば、仁寿殿の簀子を歩いていたらしき
「どうし──」
「あなた、菊の宴で菅の蔵人と御前で賭け碁をなさるんですって?」
歩み寄ってどうしたのか聞こうとすれば、彼女は手摺りまで駆け寄ってきてこちらを覗き込むようにして言った。
「そうらしいですね。私も昨日聞いたばかりで……なにやらうわさになっている風なのは落ち着きませんが」
「負ければ職位が上へ変わるやもしれないともお聞きいたしました」
「それは……、ええ。そのような話は私も
少し笑えば、彼女は相変わらずの艶やかな顔を顰める。
「菅の蔵人は年明けには加階巡爵ですので、あなたに負ければ予定通り地下に戻ります。お気をつけなさいまし」
佐為にとっては予想外の言葉で、無意識に肩がやや揺れてしまう。すれば眼前の相手は不審そうな目をし、佐為は「失礼」と笏で口元を覆った。
「そなたにとっては私が出世した方が望ましいかと思っていたもので……」
まさか勝敗を案じてくれるとは、と続けると
「御覧試合に勝たれた上でご出世なさるのが一番嬉しゅうございます」
「なんと……、そなたらしい言い分ですね」
「わたくしの選んだ男君はそれに見合うお方でいてもらわねば……こちらの恥にもなりますゆえ」
佐為はその言葉に苦笑いを漏らした。
あまり心配しないよう言って彼女に背を向けると、その背後で
いまの佐為に
折も折で、栞は庭の菊を摘んでいる最中だったようで両手いっぱいに抱えたまま迎えてくれた。
「おかえりなさい」
優美な菊を溢れるほどに抱えたその姿はあまりに可憐で、一瞬にして緊張の解けた佐為は思わず目を細める。
「ただいま。見事な菊ですね」
「ええ、博雅さまにもお届けしようと思って」
宴の際には宮中の菊もちょうど見頃となるはずだ。菊の宴での御前対局は佐為自身にとっては一大事とはいえ、今上や公卿がたには花に添えるいい余興でしかないだろう。
栞が菊の処理を指示している間に佐為は着替えを済ませ、碁盤の用意をしてから栞をそばへと呼んだ。
栞は対局を請われると思ったのだろう。昨日のことがよぎったのか僅かに身構えた様子を見せた。
やや罪悪感も覚えつつ、佐為は自身の隣に座るよう促す。
「打たれないの……?」
「その前に話をしておこうと思いまして。九日に菊の宴が宮中で催されるのは知っているでしょう?」
「ええ」
「実は
腰を下ろした栞の手をそっと取って言えば、栞には意外すぎる話だったのだろう。きょとんと瞳を瞬かせている。
「先日も召されてませんでした……? 庚申待で」
「今回のは少しばかり毛色が違います、実は──」
佐為は順を追って顕忠との対局の詳細を栞に話した。顕忠がこれに賭けているであろうこと、負ければ出世ではあるが激務となる可能性もある等々を含めてだ。
「そなたには悪いと思うのですが……私は今は出世よりも
「佐為の君……」
「そういう事情から、昨日はやや気が焦ってしまい……申し訳ないことをしました」
怖がらせるつもりはなかったのだが。と頬を撫でると、栞は合点がいったとばかりに薄く笑った。
「私の腕で菅の蔵人の代わりが務まったのならいいのですが」
その言葉に佐為は思わず肩を揺らし、手を引いて栞の身体を自身の胸に収める。
「棋力の方はなかなかですが、お姿が可愛らしいので代わりとまではいきませんね」
膝の上に座らせて顔を覗き込めば、栞は呆れたような顔色を浮かべた。
「あんなに容赦なく打たれてたのに」
「昨日は気が立ってましたから」
髪に指を絡めながら額に唇を寄せれば腕の中の栞はくすぐったそうに身をよじる。
柔らかな感触に安堵しつつ、佐為は思う。いずれは出世の話も受けて、この人の夫として大臣や博雅への恩に報いなければならないだろう。それに、もっと立場が重くなれば恐れ多くも今上とさえもう少し打ち解けた碁が打てるかもしれない。そう思えば悪いことでもない。
そのうちに栞が子を産めばみなが望むような美しく碁も強い子となろう。その子と共に高みを目指すというのもまた我が人生の定めなのやもしれない。
考えていると、栞が不安げにこちらの頬にそっと手を添えて心配そうな目をした。
「余興とはいえ、職位を賭けるとは行き過ぎに思います。
「
「でもあなたと対局なんて……。互先なのでしょう? そんなにお強い人なの?」
「お強いといううわさは聞いています。手合わせしたことはないですし、私たちをよく知る
それに打ってみなければ真の技量は計れない。と言うと、栞は不安げな表情のまま佐為の肩に頭を預けた。
「無事に済めばいいのですが……」
「ええ。必ず勝ってみせます」
もとより碁をもって今上に仕えるという立場を失うわけにはいかない。と栞の髪を撫でつつ佐為は目線を鋭くする。
そうして佐為は菊の宴までの数日間は出仕している間以外のほぼ全ての時間を碁盤の前で過ごした。
一人で石を並べ考え込むのはもちろん、栞にも心ゆくまで対局に付き合ってもらった。
栞にしても、普段の対局以上に一局一局に神経を集中させた。いつも以上に佐為を負かす気で打った。
その中の何局目だっただろうか。
ふと佐為が盤面を見下ろして手を止めた。
白を持っていた栞は首を捻る。
左上の隅に白地がつきそうな局面だ。黒としては阻止しない手はない。上辺との連絡も睨んで打つ手に迷うところではない気がするが、どうやら長考に入ったらしい彼を見て栞も再度盤面を睨む。
一見して迷うような場所でない時に佐為が長考に入る場合、こちらには考えも及ばない一手を打ってくるのが常だが、果たして。
などと栞も同じように考え込んでいると、しばらくして佐為の選んだ一手は左下の白石に割り込む形で置かれ、反射的に栞は目を見張った。
全くもって考えていなかった手だ。思わず佐為を見るも、彼は険しい顔を崩さない。──嵌められようとしているのだろうか。思いつつ当て押さえ、慎重に手を進めて十手ほど重ねたところで栞ははっとした。
──やられた、と気づいた時には見事にダメに嵌っており唸るしかない。
「よくこのような手を思い付かれますね……」
いっそ恐ろしいとさえ思う。もう一人の今上の師がどれほどの腕かは知らないが、この人を上回るなどあり得るのだろうか。
「そなたのおかげでもあります」
佐為の方は感心したように言う栞に少しだけ笑ってみせた。
栞の棋風は力強い歴戦の武者を思わせる。本人は兵法のために碁を学んだからだと言っていたが、そんな栞とずっと打っているためだろうか。自分の方は局地戦を凌ぎ全体を見渡す術が大幅に向上したように思う。
惜しむらくはこの人が碁打ちではなく、妻であったことだが──。一瞬だけよぎらせて佐為は再び鋭い目線で碁盤へと向かった。
一方の菅原顕忠も迫る御前での対局について考え込んでいた。
なんとしても勝たねばならない一局だ。
地方官として山陰にいた頃、唐人から聞いた様々な話を懐かしく思い出す。
碁打ちは唐土では重んじられている。ゆえにその地位にしがみつこうと悪どい手を使う例も過去にあった。
という言い伝えに過ぎないだろう事例をいくつも聞いた。
唐よりもはるか昔の王朝時代のとある皇帝がことさらに碁を愛し、その彼の寵を競って宮廷内では陰謀めいた策略があまた張り巡らされていたという話も中にはあった。
むろん史実ではなかろうし、仮に似たような事例があったとしてもだいぶ尾ひれがついて説話化しているものであろうが。そうまでして自身が得た職と地位にしがみつきたい気持ちは分かるというものだ。
一つ違いがあるとしたら、ここは唐土ではなく京ということだろうか。
いくら今上が囲碁を愛でていようが、師の地位は政務には何も影響せず議政官含む上達部たちは誰がその地位に就こうが気にも留めない。
しかも。──と顕忠はさらに思いを巡らせた。
あちらは囲碁が一定の公的地位を持っているゆえに囲碁絡みの事件、つまるところ政争は特定の誰かを謀って組織的に起こるのだ。
が、ここ京の朝廷ではせいぜい囲碁道具に小細工くらいしかできることはないだろう。
しかもその道具を用意するのは内侍の仕事。──上臈の掌侍である
結局のところ、自力でなんとかするしかないのだ。
実力で勝てればそれに越したことはないが、勝算があるかと問われれば厳しいと言わざるを得ない。
もしも盤面劣勢となればどうすれば良いのだろう?
素早く石の列をズラす術などを取得しておくべきやもしれない。
菊の宴が催されるのは紫宸殿。それも正式な御覧対局となれば今上や公卿がたから盤面は遠いのだ。細かい石の並びなど恐らく見えまい。つまりは誤魔化しやすいと言える。
なに、罪悪感に苛まれることはない。どうせ佐為は負けてもその地位に影響はないどころか出世の話さえあるのだ。
裏腹にこちらは負ければ地下送りに加えて地方送りがほぼ決まったようなもの。
これほど理不尽なのだから、勝つための手段など選んではいられまい。
並べた石を巧みに袖で隠しつつ一路ずらしてみて顕忠は口の端を上げた。
盤面はみなから遠く、盤面複雑となれば初手から覚えているだろう打ち手はいない。仮にいても誰が佐為を庇うのか。しょせん我らの対局など公卿がたにとっては宴の余興でしかなく、公事を荒立てることなど望むまい。
例外はせいぜい博雅だろうが、あの楽狂いが我らの対局に口を挟めるわけがない。
うまくやれば確実に誤魔化せる。そう、誤魔化せるはずだ。落ち着いて、冷静にやればいい。
そうして顕忠が策を巡らせていることなど知る由もなく、菊の宴は明日へと迫った。
明日の御前対局で使用する碁盤と碁石の用意は内侍の仕事である。
内侍所で預かっているそれらを見つめて、
明日は佐為と顕忠の御前対局。佐為のことだ、囲碁以外でならば顕忠を哀れんで情けをかけるやもしれないが、碁ではまずないだろう。彼にとっても自身の矜持を賭けた対局のはず。
ふ、と橘内侍はさらに息を吐いた。
佐為とはもう二、三か月ほど
彼とは長い付き合いになるが、こんなことは初めてだ。
昼間に顔を合わせることはあるし、たまに文のやりとりはするが……見たところ彼は他の通いどころにも寄らず毎日公務が済めば四条へと戻っているらしい。
先日は休暇をとって
内侍として宮仕えをしている以上、世間並みの家庭を築けないのは承知している。それに、いつ通うかも分からない夫をただじっと待つだけの人生などこちらの方から願い下げだ。
だから
だけど、でも。
いつか……彼はせめて自分を妻の一人としてくれるだろうか──?
一瞬だけ浮かんだ考えに
やや心の乱れが出たせいだろうか。
彼女は碁盤と碁笥の入念な最終確認を失念した。
そのことを、生涯に渡り悔やむ結果となるなど知らずに──。