藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第二十六話:重陽

 太古の昔、唐土ではあまりに極まった『陽』は不吉だと言われてきた。

 陽──すなわち奇数の、その極地が重なる九月九日は不吉を運ぶがゆえに祓うための節句が制定されたほどだ。

 のちに吉祥に転じたその日は、海を渡った先のこの国でさらに意味合いを変えた。が──果たして()()()()が正しかったのか。

 

 

 

 ──九月九日、未明。

 

 佐為はなかなか寝付けない自身を恨みつつ、幾度となく目を開けて暗い屋敷の梁を眺めていた。

 

 裏腹に……と傍らで寝息を立てている栞を見やってわずかに口元を緩める。

 こんな風にこの人の温もりを感じて眠るのがいつの間にか当然のようになってしまった。本来なら望むべくもない高貴な人を……と目を瞑るも、やはり菊の宴での御前対局を気負ってしまっているのか。どうも落ち着かない。負ける気など微塵もないというのに。

 

 

 菊の宴は唐土より伝わった“重陽(ちょうよう)の節句”が宮中行事化したものだ。かの地では陽数の重なるこの日──九月九日──の意味合いは大きく、邪気を祓い無病息災や長寿を祈る重要な祭事であったが、ここ朝廷では菊を愛で詩歌を詠み宴を楽しむことを主にした娯楽の意味合いの強い行事となっている。

 

 今年も例年と違わず、紫宸殿にて今上が宴を催し親王・公卿らが参列して舞や詩を楽しみ酒を酌み交わす場となる予定だ。

 違っているとしたら、宴の余興の一つに御前対局が加わったことくらいだろうか。

 

 

 今年もきっと、舞や詩歌で華やかな宴の席となるだろう。と、栞はやや遅めに出仕の支度をする佐為を見守りながら幼い頃から慣れ親しんだ内裏の様子を思い浮かべた。

 もう二度と足を踏み入れることはない場所であるが、記憶の中の内裏はいつでも華やかな場所だ。

 

 重陽は唐土に倣い、長寿を願う節会でもある。

 もしも長い時を生きていられたら、いつか自由に外を走りまわって舞い踊れる世となるだろうか──。

 などという願いを口にすれば、また佐為を困らせてしまうから脳裏に留めておくが。

 やや自嘲しつつ佐為を見やる。どことなく緊張した面持ちだ。今日の宴での御前対局を気負っているのだろうか。

 

「今日は宴の場ですから、帰りは遅くなると思いますが……」

 

 支度が済んだ佐為は、見送りに妻戸の外まで出てきた栞に一度向き合った。

 

「お帰りになるまで起きています。博雅さまにくれぐれもお酒を召されすぎないよう言伝くださいませ」

「それは……、伝えても聞き入れていただけるかどうか」

 

 ふふ、と互いに小さく笑い合う。

 佐為はそっと右手を伸ばし、栞の左頬を優しく撫でた。

 

「では、行ってまいります」

「はい」

 

 栞は佐為の右手に一度手を添え、頷いてからその背を見送った。

 

 

 牛車に乗り込んだ佐為は先ほど栞の頬に触れた右手を口元に当てた。

 そして微かに眉を寄せる。温かかった栞の頬とは裏腹に指先がやや冷たい。緊張しているのだろうか。

 今上にとってはいつもと同じ御前対局だろう。庚申待の夜に頭中将と打った対局となんら変わりはないはずだ。

 ただ自分にとっては──。碁打ちとして雌雄を決する場で負けることは自身の存在意義さえ否定する死にも等しいものだ。

 これに負ければ帝の碁の師という立場を失っても致し方あるまい。甘んじてどんな職位も受け入れ、内大臣の婿に相応しく朝廷に尽くす以外に道はない。

 仮にも神の一手を目指そうと自負する自分がここで敗するなど、片腹痛いにもほどがあろう。

 

 だが、それは相手も同じはず──。

 

『菅の蔵人は年明けには加階巡爵ですので、あなたに負ければ予定通り地下に戻ります。お気をつけなさいまし』

 

 相手の思惑がどうあれ、負けるわけにはいかない。

 清涼殿(あの場)から追い落とされるわけにはいかないというのは変わらないのだ。

 ふ、と佐為は息を吐いた。

 課試を受けた時でさえこれほど気が昂ぶることはなかったというのに。今まで数多の人と数えきれない対局を重ねてきたが、ここまで神経を尖らせる一局は初めてだ。

 唐土で皇帝に仕えたという棋官たちは、このような張り詰めた日々を送っていたのだろうか。あまりに時代も国も違うゆえに想像すらできないが、本気の打ち合いが続く日々という意味では少し羨ましくもある。と、緊張と高揚の入り混じった複雑な思いを巡らせていると牛車は大内裏に到着した。

 

 ともあれ、今日は菊を愛でる日でもある。

 内裏中がすっきりと落ち着いた菊のにおいに包まれているのが分かる。そこかしこで邪気を払う名目で菊の花を鑑賞しているのだろう。

 宴の催される紫宸殿では観菊の用意や菊花酒の用意で今も官人たちが忙しなく働いているに違いない。

 

 

 昼に差し掛かればいよいよ菊の宴──重陽の節会が始まる。

 今日の節会で内弁──奉行役──を務めるのは一上(いちのかみ)たる左大臣だ。

 彼は今上の紫宸殿への出御を待ち、尚侍(ないしのかみ) ──娘である中の君──に召されて紫宸殿へと上がった。そうして参列した親王・公卿らを饗座につかせる様子はまさにかの藤家の栄えを見せつけるようですらあったが、今日は何を置いても菊を愛でながら長寿を願うめでたき場だ。

 今上は母屋中央の御座に、親王・公卿らの席は母屋東第二間に斜め行きに配置され、舞や詩歌が順に披露されて雅やかに菊の花びらを浮かべた酒に酔う。

 今上も親王たちや公卿らも、この優雅な席をただ楽しんでいた。

 こうして今上が臣下たちと空間──この場合は母屋──を共にするのは紫宸殿ならではと言えるだろう。観菊の場というのも相まって、いつもは政務に目を光らせている者たちも今日は肩の力を抜いているようにさえ見えた。

 

 

 そうして宴が進み、佐為と顕忠の三番勝負も近づいてくる。

 碁盤を運んできたのは上臈の内侍たる橘内侍(きのないし)だ。

 彼女は南廂の母屋との境目に沿って設置された座具の上に碁盤を置き、黒石の碁笥を下座に、そして白石の碁笥を上座に置いた。

 対局するのは自分ではないというのに、いやでも緊張してしまう。橘内侍(きのないし)は汗ばむ手を袖に隠し小さく息を吐く。

 佐為の宮廷での立ち位置はなんとも複雑だ。栞と結婚したことでそれなりの後ろ盾は手に入れたとはいえ、かえって彼の台頭を警戒し始めた公卿らもいるに違いない。

 今さらながら、彼はなぜ大臣の姫に妻問いなどしたのだろう。当時はさまざまなうわさが飛び交っていたが、彼は一度も自分に()()を話すことはなかった。

 出世のためだろうか。それとも本当にあの姫に心を奪われたというのか。

 こちらから訊けるはずもないというのに、平静を装ってめでたきことだと取り繕う以外にどう道があったというのだろう。

 

「……」

 

 こんな時になぜ今さらなことを、と橘内侍(きのないし)は心内で自嘲しつつ碁盤を一瞥してからその場を去った。

 

 そうして準備が整い、佐為と菅原顕忠が参入して座すれば“余興”の始まりである。

 三番勝負で二局勝った方が勝者となる。位階が上の佐為が上座で後手番だ。

 

 御帳の倚子の御座に座した今上は碁盤を挟んで向かい合う二人を見下ろしながらほんの少し口元を緩めた。

 こうしてやや離れて眺めていると、改めて下級官人からよくもあのような美しい廷臣が現れたものよ。と、観菊の場がこの上なく似合う臣下(佐為)を見て今上は感じた。物語の中にはこの世のものとも思えぬ美貌の貴公子が登場するが、まさにそのような表現が似つかわしい。

 もしも彼が権門の出で自分に内親王(ひめみこ)がいたとしたら、彼のところに降嫁させて娘婿にしたいと思うほどの優美さだ。

 

 そういう意味では(そち)大臣(おとど)が羨ましくもある、と今上は遠い地にいる従兄弟を浮かべた。

 

 彼に()が生まれたのち、何度か内々で話をしたことがある。もしも自分が春宮に立てば、姫を入内させていずれは中宮に立てよう。すればより良い親政を執り行えるようになる、と。

 娘が中宮に冊立される。全ての公卿の夢だろう。が、彼は源氏一族からの悲願の立后と、藤家との勢力争いとを秤にかけ、ついに首を縦には振らなかった。

 そうして内親王(ひめみこ)の如く生涯を独身で、とさえ大臣が考えていたらしきことを顧みれば、あの姫()のためにはこうなって良かったのだと思う。

 佐為にしても、どれほどの才覚があろうと栞と縁続きになっていなければ生涯に渡り一切の昇進は不可能だっただろう。彼は本来、いまの地位にすら遠く及ぶべくもない出自なのだ。だが内大臣の婿なら話は違う。摂関家の公達ほどはかばかしくはなくとも、それに見合う出世は必要だ。

 佐為自身は出世意欲を見せてはいないが、この三番勝負を制すれば録という形で後押しがしやすくなる。職位を変えずとも加階なら可能だろう。

 万に一つもなかろうが、もしも負けるようなことがあれば本当に弁官にしてしまうのも有りかもしれない。佐為は難色を示しているが、いずれは経験してもらわねばならないことであるし、慣れれば碁の指導を頼む時間も増やせるだろう。

 それに、佐為のこととは別に顕忠が長年に渡り尽くしてくれたのもまた事実。正月の巡爵及び除目で彼には国司の任が下るだろうが、昇殿の勅を出し碁の指導を続けさせれば遙任という形で京に留まったとしても文句は出まい。

 

 

 などと考えを巡らせている今上の心内など知る由もなく、佐為は盤面に意識を集中させていた。

 

 

 それは見守る博雅も同じであり──。

 まだ序盤。どちらが優勢かは分からない上に盤面もはっきりとは見えない。と、公卿の座の博雅は難しい顔をしていた。

 私的な宴席であれば堅苦しい座でなくもっと碁盤も近いというのに公事ゆえに遠すぎる。年配の親王・公卿がたは盤面の石の並びなどとても見えないだろう。

 今上ですら見えているかどうか。と、博雅は目を凝らした。石自体はなんとか判別できるが、自分は栞のように碁が達者なわけではない。

 佐為は後手番ゆえに黒を追いかける形で石を置いている。黒は攻めながら左下辺に地を作ろうと励んだようだが、どうやら白に相殺されたように見える。──が、心許ない。と博雅は碁の上手に解説を求めたい気になるも、この距離でも目視可能な年齢かつ碁の腕が良さそうな参議陣は全員下座におり、彼らの席からは佐為の後ろ姿しか見えていないはずだ。

 うむむ、と博雅は唸った。

 彼が碁に対して並々ならぬ情熱を注いでいるのはよく見知っている。私的な御遊の席でさえ勝ちを譲ったことなどないのだから、このような公事の席で負けるなど彼にとってはあってはならないことだろう。

 まして神の一手を極めるなどと大それた願いを口にする彼ならば──、と思うも否が応でもはらはらしてしまう。

 はやく管弦の席となれば良いものを。思う間にも盤面は着々と進んでいく。

 

 

 一方の顕忠は眉を寄せつつちらりと佐為を睨んだ。

 対局するのは初めてゆえに彼の棋風はほぼ知らない。算道で暦学をかじった影響なのか、大胆でいて盤面全体の調和を睨んだ常人には思いつかないような手を打ってくる。一見すると奔放なようで、打ち進めると手筋となり無駄な石さえ一つもない。

 打ちやすいはずの先番でこうも打ちにくいとは。まだ勝負の行方は分からないが、右上辺はこちらが生き勇んでしまい白に上手く打たれ、左下にもまとまった地を作らせてしまった。

 ギリ、と歯軋りしつつ顕忠は石を中央に打った。

 昔、佐為が学生だった時分に打ったという対局図を並べてもらった時にも手強いと感じたが、あの時より遥かに棋力が向上している。

 もしも先番のこの対局を落としたら、次の後手番はもっと厳しい戦いとなるだろう。

 そうなれば──、考える顕忠の背に汗が伝った。

 実力で勝てればそれに越したことはないが、もしもという時のために何度も何度も人目を欺き盤面を操作する術を修練してきた。が、手を加えるには終盤まで行き盤面複雑にならねばやりづらい。万が一にも中押しとなればもはや手立てはなくなるのだ。

 それは避けなければ……と、碁笥から次の石を掴んだ顕忠は思わず眼を見開いた。

 一瞬だけちらりと目の端に捉えた碁笥の中に白石が一つ見えたのだ。

 なぜだ、と真っ先に顕忠の脳裏は不可解さに支配された。

 碁笥に相手の石が混じることが全くないとは言わないが、これは公事での御前対局なのだ。しかも、碁盤と碁石の用意を預かっていたのは内侍所で、準備をしたのも運んできたのも橘内侍(きのないし)。──佐為とは昔からの皆に知れた仲だ。

 だからこそ、事前に対局道具に小細工をするなど不可能だと断念したというのに。

 なぜだ、と重ねて考える顕忠の頭はとある答えを弾き出した。

 わざとではないだろうか、と。

 佐為には内大臣の姫という揺るぎなく寵愛も深い北の方がいる。その上、お気に入りの通いどころとうわさなのは彼女ではなく麗景殿の女房。表向きは睦まじくしていたとしても橘内侍(彼女)は才気豊かな宮仕えの花なのだ。内心どう感じていたかは分かったものではない。

 とくれば、御前での対局で佐為に恥の一つでもかかせてやろうと悪戯めいた仕込みをしていても不思議ではないだろう。

 であれば……、と顕忠は掴んでいた碁石を碁盤の上辺に打ち込んだ。佐為の視線を少しでも佐為側の辺に留めておくためだ。

 そうして顕忠はごくりと息を呑む。この碁笥に混じった白石を自分のもの(アゲハマ)にしてしまおう。おそらくは一目、二目を争う際どい勝負となるのだ。アゲハマは一つでも、二つでも喉から手が出るほど欲しい。

 なに、臆することはない。きっと上手くいくはずだ。この碁笥の場所は今上からも親王・公卿席からも死角で見えないうえ、仮に咎められても真の咎人は準備を怠った橘内侍(きのないし)。そうだ、彼女に懇願されたとでも言えばいい。

 自分に靡かぬ恋人への仕打ち──、皆が食いつくだろう。

 

 などと顕忠が思い巡らせているなど知らず、佐為は盤面をじっと見ていた。

 先ほど顕忠が放り込んできた一手──、黒は右辺下に勝負を仕掛けたいらしい。ここを競り勝ったとしても中央がどうなるか、と先を読みつつ序盤に置いた白石に繋げる。

 そしていったん手を膝に戻した佐為はふと顔を上げた。その視界にたまたま、本当に偶然に目線が黒の碁笥を捉えた。刹那、佐為の切れ長の眼がやや見開かれる。視線が捉えた黒石の碁笥に白石が一つ混じっているのが映ったのだ。

 滅多に起こらないことゆえに佐為は首を傾げた。この碁盤と碁石を用意したのは橘内侍(きのないし)のはずだ。彼女がこのような失態を犯すとは思えないが──、ともあれ、そのうち顕忠も気づくだろう。

 目についたゆえになんとなく黒石の碁笥を見ていた佐為は、次の瞬間に信じがたいものを目にした。

 顕忠が碁笥に混じった白石を掴んだあと、あろうことか自身の碁笥蓋の上に移動させたのだ。

 アゲハマと混ぜた──、目を見開いた佐為は考えるより先に口を開いていた。

 

 

「そなた、今──」

 

 

 顕忠はというと、慎重に慎重を重ねた白石の移動をまさか見咎められるとは思っておらず、反射的に立ち上がって佐為の言葉を遮った。

 

「侍従殿! 碁笥に混じった私の黒石をアゲハマにするとは……見損ないましたぞ!」

「な──!? な、なにを言う。それは今そなたがしたことではないか!」

 

 佐為の方もまたそのような反論が来るとは露ほども思っておらず、反射的に反論した。

 

 そうして始まった突然の言い合いに辺りがざわつき、公卿席で見ていた博雅も困惑するしかない。

 碁笥の石を? 見ていたか? などと周りの公卿たちも囁き合っている。

 いったい何が起こったのかは知る由もない。が、いくら対局で熱くなっているとはいえ御前でやったやらないの言い合いは悪手ぞ。と博雅は二人へと脳裏で訴えたが、声を出せない場であることが口惜しい。

 誰か、親王でも大臣でも誰でもいい。はやく二人を取りなしてくれ、と博雅が上座を見やるも誰よりも先に今上が帳台の御座から二人を一喝してしまった。

 

「これはいったいなんの騒ぎか! この紫宸殿での一局を汚すなどあってはならぬ!」

 

 そして今上は顕忠に座するよう告げ、そのまま続けるよう命じた。

 ハッとしたように顕忠はその場に座する。

 佐為はというと、公卿たちが何かを囁き合っている気配が背に伝い、つ、と額から汗が流れ落ちるのを感じた。まだ脳裏が眼前の出来事を処理できていない。

 黒の碁笥に白石が混じっているのを確かに見たのだ。それを顕忠が自分のアゲハマにした。だというのに、彼はこちらがそうしたと訴えたのだ。

 なぜ──?

 

『菅の蔵人は年明けには加階巡爵ですので、あなたに負ければ予定通り地下に戻ります。お気をつけなさいまし』

 

 顕忠にとっては背水の陣ゆえに何を仕掛けてくるか分からない。そう橘内侍(きのないし)が忠告してくれた言葉が佐為の脳裏を掠めた。

 だが、あの碁笥を用意したのは他ならぬ彼女なのだ。ゆえに、黒の碁笥に白石が混じっているなど有り得ない。ではなぜ……?

 もしや、故意なのだろうか。彼女との仲が変わらないと思っていたのは自分だけで、恨まれていたというのか。

 いや、そんなはずは──。

 

 

 動揺を隠せない佐為を知らず、今上は御座の上でしたたかに眉を寄せていた。

 佐為との対局を奏上してきた顕忠はもとより、佐為にとってもこの対局が重要であることは百も承知だ。

 しかし醜く勝ちにしがみつく様など誰が見たいというのか。

 そもそも囲碁という遊戯は、言わば言葉を介さぬ会話だ。手談と呼ばれる所以でもある。今上たる自分が臣下である彼らと席を同じくし手談を交わす。碁を打っている間だけは眼前の彼らは師であり友であるとさえ感じていた。

 特に佐為は、今上たる自分に臆することなく勝ちを譲る姿勢さえ一度たりとも見せなかった。それでいて無理な手は打たず、鮮やかに軽やかにかわして先導していく打ち筋にどれほど心打たれてきたことか。そう、未だ見ぬ神の一手とやらでさえ本当に極められると信じさせるほど。

 そんな彼が相手の石を故意にアゲハマにしたなど、とても考えられぬ。そんなことをせずともいつもの調子で勝てるであろうに。

 それとも、自らの手を汚してまでも勝ちにしがみつきたいというのだろうか。

 佐為を内裏(うち)から出したくないと考えていたが、このような騒ぎを起こした以上、国司に任じ下向させて廷臣の自覚を促すのも将来のためによいやもしれぬ。あれほどの打ち手なのだから碁の方を優先させたい思いを甘んじて見逃してもよいと考えていたが、そもそも朝廷に尽くすのは廷臣たる彼の義務。

 しかし国司とならば嫡妻たる栞もついていかざるを得ず、父の大臣に恨まれるだろうか。

 

 いや、そうではあるまい。──と今上は御座から対局の場を鋭く見下ろした。

 

 この際、どちらが何をしたかなど瑣末な問題だ。

 なんと言ってもこの場は公事。重陽の節会という、めでたき場だ。

 この一局が済めば、騒ぎを理由に大臣や納言たちが対局の中断を上奏してくるだろう。事実、先ほども左大臣が二人の退出を示唆してかこちらに視線を送ってきたため気づかぬふりをしてやむなく対局の継続を指示した。

 今上はちらりと親王・公卿席に目をやる。博雅を始め親王たちや源氏の一族が不安げな顔をしている。

 それもそのはず。ここに菅原の者はいないが、佐為には婚家の親族が数多いるのだ。

 ゆえにこのようなケチのついた対局で負けることは許されぬぞ。と感じる心に今上は矛盾も覚えていた。

 もう何年も忙しない政事(まつりごと)の合間に時間を作り、佐為と打ってきた。その鮮やかで優美な、いっそ神々しいほどの打ち筋に感銘を受け、ずいぶんあの君を引き立ててきたつもりだ。

 その彼が囲碁で──佐為と顕忠のどちらの言い分が是にせよ──過ちを犯す(負ける)ところを見たくはない。

 

 

 一方の北廂──女官の控え所──では母屋の様子がおかしいことに一同ざわついて御簾で隔たれた内部を遠目に見ていた。

 

「そなた……対局道具になにか不手際でもあったのですか……!?」

 

 小声で左大臣の中の君である尚侍(ないしのかみ)に責められていた橘内侍(きのないし)は顔面蒼白でつい今しがたの騒ぎを遠くに聞いていた。

 突然に言い合いを始めた佐為と顕忠の話を聞くに、どちらかの碁笥に相手側の石が混じっていてどちらかが故意に自身の取り石としたらしい。

 むろん佐為がそんなことをするはずがない。確信を持って言える──が。碁笥に不手際があったのならば、それは用意をした自身の失態だ、と橘内侍(きのないし)は懸命に昨夜からの行動を顧みる。

 明日は佐為の一大事だと入念に確認をしたはずだ。──いや、本当にそうであったか? 昨日、今日ときちんと中身を隅々まで調べただろうか。

 先ほど碁盤と碁石を運んだ際にも余計な物思いに思考が支配され、蓋を開けて中をきちんと確認する作業を自分は怠った。思い至って橘内侍(きのないし)は愕然とした。

 このような失態、宮仕えを始めてから一度たりともなかったというのに。他でもない佐為の大事な場でこんな……と橘内侍(きのないし)は思わず両手で自身の口元を覆った。

 

 佐為はきっとこちらが故意にやったことだと誤解しているだろう。

 

 一瞬でも感じた考えを橘内侍(きのないし)はすぐさま消し去った。誤解され疎まれるなど瑣末な問題だ。何事もなくこの一局が終わればそれで構わない──と震えながら御簾の先を見つめるが佐為の表情までは見えず。

 

 

 佐為は心の動揺を抑えられずにいた。

 ここでもし顕忠に打ち負けたらどうなるのだろう。

 濡れ衣を着せられ、今上の御覧対局を汚した下賎な存在と見なされるのか。

 なぜ顕忠はあのようなことをしたのだ。一目、二目を是が非にでも欲する気持ちは分かるが、だからといって碁笥に混じっていた石を故意にアゲハマにするなど碁打ちとして常軌を逸している。

 そもそもなぜ碁笥に石など混じっていたのだ。橘内侍(きのないし)にそれほど憎まれるようなことをしてしまったのだろうか。

 なぜだ……と巡る思いに呼応するように身体に響く心臓の音が大きくなっていく。

 石を持つ手が震えて感覚さえおぼつかない。

 目の前の盤面、下辺の白石を繋ぐべき局面だ。頭では分かっていたというのに見当違いな場所へと打ってしまい、佐為は自分で放った悪手に驚愕した。

 眼前の顕忠が嘲笑ったような気配が伝う。顔を上げられずに佐為は小さく震えた。

 

 ──集中しなくては。

 

 そう考える佐為の脳裏に一瞬だけ、初めて栞と打った登華殿での対局の記憶がよぎった。

 そうだ、あの時も碁盤に向かうべき気持ちに乱れが出て、結果勝てずに終わった。あれも自分の未熟さゆえだ。まして今は絶対に勝たねばならない一局なのだ。

 勝たねば。──思う心とは裏腹に焦りと動揺が手となって盤面に表れてしまう。ちゃんと読まねば。全体を見渡せば勝てるはずなのだ。際どい一局とはいえ、勝てる碁だ。そう思い勇むほどに脳裏に描いていた読み筋が歪んでいく。

 裏腹に顕忠は調子を上げているようで、それがいっそう佐為の思考から冷静さを奪った。

 少なくとも彼自身は自分こそが不正を犯したと知っているのだ。見咎められたことさえ分かっているはずだというのに、なぜこうも迷いなく打てるのだろう。

 このような場面ですら臆せず打てるのが真の碁打ちというのなら、自分は顕忠に劣っているとでもいうのか。

 いや、そんなはずはない。碁打ちを自負するならば、碁に誠実でないなどあり得ないはずだ。

 ここで負ければ不正に屈したことになる。

 負けてはならぬ、と気持ちを立て直そうと必死に応手を続ける佐為は既に中央に自身の生きがないことを悟った。序盤に得た右上辺の地では足りない。

 元より思い描いていた図とは程遠い並びとなった盤面のその先に既に活路は見出せず、佐為は握っていた白石を力なく碁笥に落とした。

 唇を噛んだ先で顕忠が再び嘲ったような気配が伝った。

 

 紫宸殿は水を打ったような静寂に包まれている。

 親王・公卿席からは盤面の様子までは見えていないだろう。

 

 いっそこのまま時が止まってしまえばよいものを、と佐為は小さく唸る。

 

 

 ──いっそこの場で消えてしまいたい。

 

 

 込み上げる恥辱に耐え、佐為は頭を下げた。

 その投了の宣言に静まり返っていた紫宸殿が大きく揺れた。

 

 

 そんな紫宸殿のざわめきを心あらずで遠くに聞いていたのは今上その人であった。

 盤の様子ははっきりとは見えないが、佐為の様子は御座の上からでも見えていた。

 佐為と顕忠が一悶着起こしたのち、佐為は狼狽を隠せず顔色も徐々に悪くなっていったように感じられた。

 そのことが未だに信じられない思いだ。碁盤を前にした彼のあのような様子、今まで一度たりとも見たことがないからだ。

 自身のよく知る藤原佐為はいつも優美で上品で、そうだ先日に彼が引用した『棋登逸品』という言葉通り、彼の指から描き出される石の動きは流麗で気品に満ち、どれほど無茶な手を仕掛けても軽やかにかわしていく。

 だというのに──。

 目線の先で、顕忠に敗してうなだれている姿は本当に自身の知る藤原佐為なのだろうか。

 あの佐為が負けるなどと、時に無邪気に時に恐ろしいほど真剣に神の一手を極めるのだと語っていた彼の言葉さえまがい物に思えてしまうではないか。

 

 主上(おかみ)、と呼ぶ声にはっと今上は意識を戻した。

 見れば、御座の前までやってきて座した左大臣がこれ以降の対局及び宴の中止を奏上してくる。

 

「重陽はめでたき席。それをこのような不祥事が起こったとあらば……あの二人は、特に侍従の方は相応の勘事を受けさせねば示しがつきますまい」

 

 加えて左大臣は負けた佐為に勅勘を出すよう暗に言い、今上は眉を寄せる。

 眼前の結果に自身がひどく失望したことは確かだが、勅勘を出すほどのことではあるまい。

 が、公事でのことゆえに議政官としてはそうもゆかぬのだろう。

 一上(いちのかみ)がこう言う以上、自身が命じて議定を開かせねばなるまい。そして議政官(彼ら)は合議結果を近日中に上げてくるはずだ。

 今上は宴の中止を了承し、その場を左大臣に任せて自身の紫宸殿からの退出を決めた。

 

 左大臣の方は今上の紫宸殿からの退出を待って、親王・公卿席を見やる。

 

主上(おかみ)は宴の中止を決定された。親王がた及び上達部はすみやかに南殿から退出されよ。菅の蔵人はこの後すぐに我が直廬(じきろ)に参るがよい。そして侍従藤原佐為朝臣──そなたは内裏(うち)からの即刻の退出としばしの恐懼(きょうく)に処する」

 

 恐懼(きょうく)とは出仕の停止処分だ。

 恐懼(きょうく)自体は貴族・官人隔てなく職務怠慢等で処されるありふれた戒めではあるが──。

 

 

「叔父上……!」

 

 眼前の出来事が未だ信じられない博雅は思わず叔父の源の中納言を捕まえて聞いた。

 御前であのような言い合いをした以上、恐懼(きょうく)は甘んじて受けるにしても左大臣の様子を見るにそれで済むのか。

 源の中納言は難しい顔をして博雅に耳打ちをする。

 

「左大臣は主上(おかみ)に議定の勅を出されるよう奏上した様子だ。佐為殿に何かしらの処分を下すつもりなのやもしれん」

「し、しかし……、なにも対局の結果でそのような」

「いまここでそれを言ってもどうしようもなかろう。とにかく、佐為の侍従をすぐに四条へと帰すように」

 

 そしてくれぐれも外出せぬよう言い聞かせておくようにと念を押して源の中納言は去り、博雅は頭を抱えた。

 振り返ると、佐為は未だ碁盤の前で心ここに在らずと言った様子で博雅は眉間に皺を刻んだ。

 

「佐為殿……!」

 

 歩み寄って声をかけると、佐為の肩が少しだけ反応した。

 彼自身にも眼前の出来事が信じられず受け入れ難い心地なのだろう。感じ取って博雅の胸に苦みが走る。

 

「佐為殿、辛かろうが今は四条に戻って──」

 

 佐為はというと、博雅の言葉をさえぎるようにしてきつく柳眉を寄せた。

 

「私は……! 私はアゲハマを誤魔化してなどは……ッ」

 

 顔を歪める佐為の様子を博雅は哀れに思うも、どうにもできず。佐為の腕を掴んでどうにかその場に立たせ、この場からの退出を促す。

 

「そなたのことは信じておる。だが……とにかく今は退出せねば」

 

 内裏からの退出を命じられた佐為以外は勝手に内裏を出るわけにはいかない。博雅は佐為に真っ直ぐ四条へと戻るよう言い聞かせて、今にも倒れそうなその背を見送った。

 

 佐為の方は顔もまともに上げられず、廂を出てどうにか簀子を歩きつつ未だ思考回路の機能しない頭でなんとか懸命に考える。

 顕忠ではなく自分に恐懼(きょうく)の処分が下されたということは、左大臣はもとより今上さえも自分がアゲハマを誤魔化し対局を汚したと思っているのか。それとも負けた罰なのか。

 負けたことが罰というならば甘んじて受け入れもしようが、アゲハマを誤魔化すような真似をしたと思われるなどとうてい耐えられるものではない──。拳を握りしめる。

 なぜなのだ。

 なぜ黒の碁笥に白石が混じっていたのだろう。

 なぜ気づいてしまったのか。

 なぜ心を鎮めて打てなかったのだ。

 なぜ……。

 出ない答えを巡らせたまま、外に続く軒廊(こんろう)に向かおうとしていると東簀子からこちらに近づく布ずれの音が聞こえた。

 

「あなた……!」

 

 焦ったような声に目線を上げると、泣き出しそうなほどに顔を歪めた橘内侍(きのないし)がいた。

 何か言いたそうな様子だったが今の佐為に応える気力はなく、一瞥しただけで彼女に背を向けるとそのまま紫宸殿を後にした。

 

 

 その背を見送った橘内侍(きのないし)は両手で口元を押さえて震えたまま目尻に涙を溜めた。

 対局道具を用意したのは自分なのだ。

 自分が確認を怠らなければこんなことには──、こんな不名誉な退出をする彼の背を見送らずに済んだというのに。

 なぜあのような過ちを……とひたすら自身を責めて震え続けた。

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