藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第二十七話:形見

 あまりに過ぎる「陽」が不穏な出来事を連れてきてしまったのだろうか──。

 

 菊の宴での御前対局の一悶着はあの場にいた誰一人として──当の顕忠でさえ──想定外の出来事であったに違いない。

 

 

 しかしながら一旦起こってしまったことは覆しがたく、佐為は命じられたままに退出して牛車を走らせていた。

 

 未だ(うつつ)のこととも思えず、四条へ戻ってどう説明すべきかさえ少しも浮かんでこない。

 それでも牛車が四条へ着くと、予想よりも遥かに早い自身の帰宅に驚いたのだろう。中門廊のところで牛車を降りると家人たちが驚いたような表情を浮かべていた。

 

「佐為の君……!?」

 

 それは栞も同様だったのだろう。

 寝殿の妻戸から中へと入ると驚いたような声が上がり、佐為は俯きがちであった視線を上げた。

 すると、重陽の節句とあって着替えたのだろうか。黄菊襲ねの華やかな五衣(いつつぎぬ)を纏った栞の姿が目に映って佐為は少しだけ惚けた。

 こんな時だというのに、なんという美しさだろうか。その美しさがいまは遠く虚しい。と、佐為は口を開けずに再び眼を伏せる。

 

「お戻りは遅いと思っていたもので……。あの、どうかなさったの……?」

 

 こちらに歩み寄った栞の声に小さく首を振ると、佐為は彼女の横を無言で抜けた。

 しかし一人で引きこもれる場所などあるはずもなく、何も言わずとも女房たちが着替えの世話をしにやってくる。

 仕方なしにされるがまま束帯を脱ぎ、簡素な直衣を羽織ってから(しとね)の上に横になる。

 具合でも悪いのかと心配げな声がそばに来た栞から漏れたが、やはり佐為は口を開けない。

 今ごろ内裏はどうなっているのだろう。口頭で恐懼(きょうく)を言いつけられたが、そのうちに正式な処分が下るのだろうか。あの場で後々のことを顧みず声を上げたのは自身の落ち度でもあるし致し方ないのかもしれない。

 だが──、と顕忠が碁笥に混じった白石を我がものとした瞬間を思い出し顔が自ずと歪んでしまう。

 

 そんな佐為を見て栞は訳が分からず困惑していた。

 

 まだ陽が落ちて間もない。宴はまだ続いている時間のはずだ。

 もしや宴での御前対局で何かあったのだろうか。それとも体調が優れず退出したのか。

 

「佐為の君……?」

 

 状況が状況だけに放っておくわけにもいかず、栞は再度声をかけると(しとね)に上がって脇息(きょうそく)に寄りかかっている佐為の横に座った。

 そっと手を伸ばして額に触れてみるが、熱はなさそうだ。少しだけ安堵して手を離すと、その手を佐為に取られて栞は目を瞬かせた。

 佐為はそっと身を起こし、いまにも泣き出しそうなほどに顔を歪めたかと思うとそのまま栞の手を引いて強くその身を抱き締めた。

 目を丸める栞の耳に震え混じりの掠れた声が届く。

 

「そなたには……本当に申し訳ないことを……」

 

 え……、と全く状況の掴めない栞はわけがわからないままになおさら困惑するしかない。

 

 

 

 その頃の承香殿──。

 この殿舎の一部を尚侍(ないしのかみ)である左大臣の中の君が預かっていると同時に左大臣の直廬(じきろ)がある。

 

 その左大臣の直廬(じきろ)にて菅原顕忠は菊の宴での騒ぎについて尋問を受けていた。

 左大臣の他には彼の嫡男である藤の中納言もおり、顕忠はあくまで碁笥に不備があったことを強調して訴えておいた。

 もしも二人が石の並びを全て覚えているほどの囲碁強者であれば、アゲハマをどちらが誤魔化したか容易く露見してしまうのだ。二人が佐為と親しいとは思えないが、自分などの味方でないことは確かだ。被害者ぶるのは得策ではない。

 にしても厄介なことになったと思う。

 あの場を何とか誤魔化せたのはよかったが、予想外の騒ぎとなったせいで宴も三番勝負も中止となったのだ。佐為の方に恐懼(きょうく)の処分が下った以上、こちらが彼より重い処罰を受けることはないはずだが、無傷とはいかぬやもしれない。

 ともかく今は事を荒立てず、今上や公卿らの怒りが治まるのを待つしかない。

 

 決して碁を汚そう、佐為を謀ろうなどと考えていたわけではない。

 ということを重ねて強調し、しばらくすると顕忠は直廬(じきろ)からの退出を許された。

 

 残った藤の中納言は顕忠の背を見送ってから顔を顰めている父、左大臣を見やる。

 

橘内侍(きのないし)が碁笥の確認を怠るような凡庸な失態を犯すとは思えませぬ。やはり意図的ということでしょうか……」

「侍従と共謀して菅の蔵人を陥れようとした線もあろうな」

「しかし父上……、佐為殿にはそのような小細工など必要ないでしょう。私は彼と対局したことこそありませんが、彼の腕はみなが知るところですから」

「証拠がない以上、なにが事実かなどはどうでもよい。内侍が菅の蔵人に便宜を図ることなど無いことを顧みれば、筋としては“侍従が内侍と共謀するも露見し自滅”というのがもっとも通りがよかろう」

「ですが佐為殿は既に恐懼(きょうく)の処罰を受けておりますし、これ以上となると北の方……栞殿があまりに不憫。主上(おかみ)も同じようにお考えでしょう」

 

 左大臣は公事を乱した佐為に厳しい処置を取りたい様子であったが、中納言はそんな彼をどうにか取り成そうと試みた。

 

 佐為自身のことはともかく、夫が厳しい処罰を受けることになれば栞にとっても恥となるのだ。

 そんな哀れなこと──。

 

 などと考えているらしき息子を見やって左大臣はため息を吐いた。

 想い人を慮る気持ちは分からないでないにしても、なぜこうも甘いのか。将来の藤家長者となる男だというのに。

 この調子だから佐為のような取るに足らない身分の者に四条の姫を奪われたのだろう。そのことに憤るでなく、未だあの姫に懸想している様子なのが哀れでもどかしくてならない。

 その上──と考えていると、左大臣の()()()()()()()()()が几帳で仕切られた部屋の先から現れた。

 

「おとうさま、おにいさま……!!」

 

 尚侍(ないしのかみ)である左大臣の中の君だ。

 彼女もまたこのような騒ぎを目の当たりにして動揺しているのだろう。内侍も関わる不祥事でもあり、彼女は橘内侍(きのないし)に聞いたという話を伝えてきた。

 

橘内侍(きのないし)はひどく憔悴なさっていてお気の毒ですが……対局道具の確認を怠ったことはお認めでした。ですからどちらかの碁笥に対局相手の石が混じっていた事実はあれど、あの二人が……まして佐為の君が謀をなさったなどとんでもない誤解です……!」

 

 言動にあからさまに佐為をかばっている様が見えて左大臣は再びため息を吐いた。

 橘内侍(きのないし)が道具の確認を怠ったことは事実ではあるのだろう。が、偶然か故意かはこの際どうでもいいことである。

 裏腹に中の君は懇願するように訴えてくる。

 

「内侍の不手際で佐為の君が恐懼(きょうく)に処されるなどと、わたくしとても申し訳なくて……。おとうさま、処罰ならばどうか内侍にお下しになさってくださいませ」

「中の君……、そうは言っても侍従が潔白だというのなら、あのような敗北を喫してはおらんだろう」

「佐為の君はご動揺なさっただけです! 無理もないことです……、掌侍(しょうじ)の君があのような失態を公事で犯すなど想像すらされておられなかったはずですから」

 

 中の君が佐為を庇い立てしたい気持ちはいやというほど伝ったが、()()()()()()()なのだ。

 いつまで経っても今上の寵さえ得られないこの姫は、あろうことか他人(ひと)()に淡い想いを寄せている。今まではあの程度の下級貴族などどうでもよいと考えていたが、今上は佐為を出世させたい意向を示しているし、あと一年もすれば(そち)大臣(おとど)の筑紫での任期が明け帰京するのだ。すればおそらく、参議程度にはそのうちに昇るはずだ。

 そうなれば今の北の方以外に妻を迎えても差し障りはなく、あくまで尚侍(ないしのかみ)であり未だ未婚の中の君ともし間違いが起これば我が藤家の栄華が──と左大臣はこめかみを押さえた。

 

 いっそしばらく佐為(あの者)を京から遠ざけておこうか──。

 

 今上が首を縦に振るかはともかく、公事で謀をした挙句にあの失態はそれなりの処罰が必要なのもまた事実。

 もしも彼が貴族でさえなければ問答無用で収監して、今月末の流人送り出しの際に京外に流してしまえるが。仮にも殿上人を相手にそんな真似はできない。

 それに()となれば律令にて嫡妻の同行が定められているのだ。あの姫()を縁座の形で処するなど、源氏一族どころか今上も全力で反対するに違いない。

 その上、と左大臣はちらりと息子である中納言を見やる。

 あの姫()のことさえなければ──思い巡らせる左大臣の脳裏にふと全く別の考えが浮かんだ。

 要は佐為を京から出して栞を京に残せばいいのだ。()にするのはおおよそ不可能だが、合議で源氏を脅し今上を説得する方便には使える。

 そして佐為を何年か京外に留めおけば栞は彼と離別せざるを得ない上、中の君の目も覚めるだろう。すれば今度こそ京に戻った栞の父を説得して我が息子(中納言)と再婚させれば全てが丸く収まるではないか。

 

 

 

 などと左大臣が考えている頃、栞は佐為から菊の宴で起こった一連の出来事を聞かされ愕然としていた。

 出世のかかった場面で不祥事が横行するなど史書には散見される出来事であるし、それこそ先帝の末期は荒れていてこんな騒ぎは度々起こっていた。

 が、まさかこんな身近で──と眉を寄せる。

 佐為が囲碁で不正をするなどあり得ない。それにきっと、橘内侍(きのないし)が故意に碁笥に石を混ぜたということもないはずだ。あの人とて佐為を心底慕っているはずなのだ、そんな佐為の大一番にそのようなことはすまい。

 だからおそらくは不幸な偶然。

 それを顕忠が利用して露見し取り繕って騒ぎとなった。──というところだろう。

 佐為にしても、佐為の棋力の高さは毎日打っている自分が誰よりも知っているのだ。顕忠の棋力は知らないが、普通に打てば間違いなく勝てていたはず。

 が──、自分が佐為に唯一勝った一局も、思えば彼にとっては想定外の事態となった中での対局であった。碁とは思っているよりもはるかに心の持ちようが盤面に現れる。御前で、よりにもよって囲碁で濡れ衣を着せられようという時に心乱れが出たとしても誰にも責められまい。

 

「アゲハマの騒ぎが起きるまでの手を……、主上(うえ)に並べて見せて差し上げたらいかがですか。すればどちらに非があるか、一目瞭然でしょうから」

「盤面は主上(おかみ)から遠く、公卿がたからもはっきりとは見えていなかったはずですから……。私が初手から並べたところで信用されるかどうか」

 

 打ちひしがれた様子の佐為に栞は眉を寄せる。

 恐懼(きょうく)処分では弁明の機会も与えられていないとはいえ、このまま黙していていいものか。上達部は、特に藤家はどんな機会に何を仕掛けてくるか分かったものではない。先帝の末期、彼らの氏族間闘争に故意に巻き込む形で父の筑紫への下向を決め中央から遠ざけたのも彼らだ。

 むろん佐為は権力争いからは遠い存在ゆえに何事もないとは思うが──、と栞は拳を握りしめる。

 

「あなたが参内できないのでしたら……、私から主上(うえ)に奏聞いたします。主上(うえ)もあなたが囲碁で不正をなさったなど本気でお考えではないでしょうから、すぐにでも文を差し上げて──」

 

 そうして(しとね)から降りようとした栞の両肩を佐為は掴んで制した。

 ふるふると首を振るう様を見て栞は困惑する。

 佐為は眉を寄せつつそのまま栞を抱き寄せた。

 

「潔白を証明する手立てがあるわけでなく、そなたから言い訳めいた文をもらっても主上(おかみ)をいっそう失望させるだけでしょう」

「で、ですが……!」

「私の心乱れのせいで負けたのは事実。その処罰は受けねばなりません。今はただ……主上(おかみ)のお怒りが溶けるまで待つしか術はありません」

 

 耳に届く佐為の声が震えている。彼はこの処罰を()()()()()と思って受け入れ納得しようと自身に言い聞かせているのだろうか。

 だが──彼は自身の出自ゆえにきっと公卿たちのさかしさを真の意味では知らないのだ。隙を見せれば喰われる。それが朝廷の、その中枢に居るものの定め。

 負けた処罰ではなく、もしも御前での謀の嫌疑がかけられたら。栞は強く佐為を抱きしめ返してきつく眉を寄せた。

 それとも自分が考えすぎているのだろうか。過去に賜姓源氏の台頭を嫌った藤家からこちらがどんな目に合わされてきたかを知っているだけに、どうしても恐ろしく感じてしまう。

 

 

 このまま恐懼(きょうく)のみで済めばいいが……と栞が祈っている頃。

 博雅は叔父の源の中納言の屋敷にいた。

 

 あの後、議定のための手続きが早々と進められ、菊の宴だったこともあり既に揃っていた議政官(諸卿)が招集されて、左大臣は内裏の諸門を閉じると勅令という名のもとで合議に入った。

 予想よりも遥かに大事になっている様子に不穏さを感じ取った博雅はいっそ自身の役職を活かし今上の母后に取りなしてもらおうかと考えもしたが、関係者以外は外に出されて諸門が閉じられたゆえに後宮には入れない。

 となれば帰宅した叔父を捕まえて状況を聞くしか手はないのだ。

 

『私は……! 私はアゲハマを誤魔化してなどは……ッ』

 

 あの時の佐為の様子を思い浮かべた博雅は低く唸る。

 佐為が不正をしたなど思ってはいないが、彼らが御前で騒ぎを起こしたのは事実であり。佐為が敗したのも事実。

 今回の御前対局はただの対局ではなく二人の矜持と今上の師という栄誉を賭けたものだったことはみなの知るところだ。であれば、いらぬ嫌疑をかけられるのも避けられないと言える。

 しかし──、とぐるぐると考えているうちに夜も更け、もはや夜明けが近いという時分になってようやく中納言が帰ってきた。

 

「叔父上……!」

「博雅……、来ておったのか」

「合議の結果は……!? 佐為殿は……」

 

 博雅がやや焦って問いかけると、源の中納言は小さく首を振るった。結論はまだ出ていないということだ。

 しかし……、と中納言は女房たちに席を用意させて博雅と向き合った。

 

「左大臣が相当に憤っていてどうにも手がつけられん様子なのだ。というより……内侍と結託して侍従の勝利を確実にしようと謀ったのは我ら源氏ではないかという嫌疑まで吹っかけてきおったわ」

「な──ッ!? そんな、無茶苦茶な……!!」

「藤家としてはこの機会を使って源氏にどうにか損害を与えたいという腹なのだろう。我々は佐為の侍従にとって婚家筋となるからな」

 

 中納言は苦々しい息を吐いた。その表情は燈台の灯火を受けてさえ陰っており、彼は逡巡するようなそぶりを見せた後にゆっくりと口を開いた。

 その言葉に博雅は瞠目した。

 今上の御前で、まして公事で謀をしたとして佐為を()に処すこともあり得る、と。そうなれば縁座の形で共謀したと思しき人間──つまり源氏の者──も京外に流す可能性を左大臣は示唆したという。

 当然、中納言は反論した。冤罪もいいところであるし、全くもって筋の通らぬ話だと。

 

 結論はまだ出ていないが、今日もまた参内して合議を続けなければならない、と中納言は強い口調で言うも博雅としては困惑するしかない。

 

「る、流罪だなどと……、()大臣(おとど)は正気なのですか!?」

「道理が通じる相手ならば、我々源氏が過去に謂れなき仕打ちを受けることもなかったであろう。……博雅、そなたも知っておるだろう? 我々が藤家にどのような煮え湯を飲まされてきたか」

 

 言われて博雅は押し黙る。

 藤家が賜姓源氏の台頭をよく思っていないことは知れたことで、ひとたび権力の上澄みに到達すると謂れなき謀を捏ち上げられ左遷などの憂き目に遭わされてきたのは事実である。

 

「し、しかし……」

「もしも佐為の侍従が流罪とならば四条の姫も共に流されることとなる。(そち)大臣(おとど)の居ぬ間にあの姫をそのような目に合わせるわけにはいかぬ」

「しかし叔父上、栞は──」

「我々も、我々を守らねばならん。主上(おかみ)は親政を望んでおいでなのだ。我ら皇親が藤家にいいようにされることは、決してあってはならんのだ」

 

 栞は佐為と引き離されることより罪人とされても共にいることを望むだろう。言おうとした博雅の言葉は中納言に遮られた。

 博雅は強く歯を食いしばる。源の中納言の言わんとしていることは分かるのだ。栞やこの目の前の中納言、自分や息子たちや弟たち、そしてその家族に累が及ぶことは避けねばならない。

 だが、それでは──と博雅が脳裏に打ちひしがれていた佐為を浮かべていると中納言が苦々しく眉を寄せた。

 

國手有輸時(名人さえ負ける時有り)、と碁の盛んな唐でさえ詩に詠まれたほどなのだ。今回の敗北が佐為殿の碁打ちとしての評価を下げるとは私は思ってはおらぬ。かの君は才もあり、御所にいるだけで光が差すような得難い青年だとも思っている。が……(そち)大臣(おとど)が京に居られぬいま、私一人ではどうしようもない……」

 

 博雅もまたきつく眉を寄せた。

 今から筑紫の大臣のもとへ知らせを飛ばしても合議結果が出るまでに間に合うはずもない。藤家の勢いに源氏は勝てず、自身を守ることを最優先にせねばならない。

 しかし、それは佐為を見捨てることに等しいのだ。

 悟って博雅は血が滲むほどに拳を握りしめた。

 

 

 

 一方の左大臣宅。

 普段は正妻・院の女四の宮の住まいである三条に住んでいる藤の中納言も今日ばかりは実家に戻り父に今日の合議について問いただしていた。

 

「実際に不手際のあった内侍に処罰を下すならまだしも……、佐為殿に加えて婚家筋の面々も縁座にしようとは……正気ですか父上!」

 

 合議の場は往々にして位階が下の者から発言していく習わしがあるが、左大臣に口を挟まないよう言われていた藤の中納言だ。ようやくという具合に語調を強めれば、左大臣は何食わぬ顔でいなした。

 

「侍従を()に処するという案はただの布石。そなたも四条殿が縁座に処されるのは賛成できかねるだろう?」

「そ、それは……むろんです! 主上(おかみ)も、いくら公事での不祥事とはいえ栞殿を巻き込むような真似は望んでおられないでしょう」

「であろうな。源氏一族も自らに累が及ぶようであれば侍従を庇うことは諦めるであろう。それに、()ではなく菅公や他の例のように遠い地の権守(ごんのかみ)にでもして左遷という形であれば……妻子の帯同は許されぬ」

「そ、それは……」

 

 藤の中納言は思わず口ごもる。

 流罪とそれに伴う縁座をちらつかせての左遷という処置ならば筋が通るのかもしれないし、これならば栞は京に残れる。

 だが、やはり処罰としては重すぎないだろうか。確かに職位を賭けた、ある意味では出世争いと言える対局ではあったが。いやでも、そう考えると今上を謀ったとも取れるのだろうか。とあらばしばし京外で蟄居謹慎を強いられても致し方ないのか。

 だが──、と中納言は直衣の裾を握りしめた。

 

「背の君が左遷とあらば……あまりに栞殿が不憫に思います。主上(おかみ)のご意向は分かりませんが、しばしの停任で十分なのでは……」

 

 あまり栞を悲しませるようなことはしたくない。と含ませれば、左大臣が小さく笑ったような気配が伝った。

 中納言はバツの悪さにやや頬を染める。未だに彼女を忘れ得ない自分はいい笑いものなのだろう。

 しかし左大臣の次の言葉は中納言にとってあまりに予想外のものであった。

 

「中納言よ、そなたも知るように左遷にて京を追放とあらば離別となるのが常。まして四条殿にはまだお子もおらぬのだから……、そうなれば今度こそそなたが室に迎えればよいではないか」

 

 父のその言葉に中納言は極限まで目を丸めた。

 全く考えてもいなかったことだからだ。

 だが──、そうだ。離別も再婚もままあること。彼らが()()ならないと決まったわけではなく、まして父がいま述べたような理由があれば()()()()のも道理だ。

 が──。

 

「し、しかし……私には……四の宮さまが……」

「いくら内親王(ひめみこ)を貰い受けたとて、そなたであれば正妻格が二人いても不都合はあるまい。まして四条殿は再婚……、今度は内大臣も応じるであろう。大臣(おとど)が帰京したら申し込むがよい」

 

 中納言はとっさに返事ができずにいた。

 今も考えるだけで震えるほど、あの人に……あの遠い日に見た五節の舞姫に恋焦がれているのだ。一度は叶わぬ恋と諦めようとしたが未だ忘れられず、もしもあの人を本当に妻にできるならどれほどいいだろうか。

 

『私は幸せに過ごしております』

 

 佐為が咎めるゆえに参内しないのか、幸せに過ごしているのか、と五節の舞師として実家に足を運んだ栞を訪ね、問うたら彼女はそう答えた。もはや御簾に隔たれ、直接に顔を見ることも叶わぬのが苦しくてたまらなかったが、昔のままの声で──と思い出す中納言は身体の芯が震えるのを感じた。

 毒を孕んだような甘い誘惑だった。

 栞はおそらく佐為との離別も自分との再婚も望まないに違いない。頭では分かっているというのに、痺れるような誘惑に抗うことができない。

 それに、そうだ。左大臣の嫡男とはいえ自分はまだ中納言。佐為の処罰を止めるほどの力などない。結局のところ最終判断を下すのは今上であり、自分にはどうしようもできないのだ。

 そして何より、咎を受けるべきは佐為のみで、栞や源氏の面々に累が及ぶことに反対であるというのは正しいに違いない。

 だからこれは自身のせいではない──、と中納言は喉を上下させた。

 

 そんな息子の様子を見て左大臣は口の端をあげた。

 こうなればあとは今上が首を縦に振るか否かである、が。今上とて公事での不祥事にはそれなりの落とし所が必要なことは理解しているだろう。

 しかしながら左遷と言っても舅のいる筑紫に飛ばすわけにはいかず、そもそも京より西は(そち)大臣(おとど)の勢力が強く待遇も良かろうし、そうなってくると栞とは離別に至らず(そち)大臣(おとど)の帰京に伴い佐為にも赦しが出て帰京する恐れがある。

 であれば東──いっそ遠国まで行かせてしまうか。権守ゆえ権限はなく蟄居処分ではあるが、大国であれば文句もでまい。

 佐為が栞と離別すれば後ろ盾を失うこととなり、帰京しても元の官職は取り戻せまい。昇殿はおろか官位も打ち止めのまま生涯を過ごすこととなるだろう。

 裏腹にこちらは中の君が今上の寵を得られずとも、栞が中納言との間に姫を産めば麗景殿の女御の皇子を春宮に立てて入内させればいいのだ。

 そうなればこの摂関家も安泰。全てが丸く収まるというもの。

 

 

 

 そうして翌日の議定にて源氏や他の公卿も佐為の左遷処分ということでおおよその合意をし、その次の日には御前での議定で今上の裁定を待ち詔勅を賜る流れとなった。

 

 四条ではそんな内裏の動きを知る由もなく、すっかり意気消沈して食事さえままならない様子の佐為を栞は案じていた。

 佐為の実家にもこの騒ぎが届いたのか、こちら宛に長い詫び状が届いている。が、佐為は両親への弁明はおろか謹慎処分ゆえに実家に帰ることすらできない状態だ。

 

 一度だけ博雅が様子を見に来たが、どうやら佐為の処分に関して議定が行われているらしく、博雅は言葉を濁していたが状況が芳しくないことは見て取れた。

 

 佐為は対局に負けたことと碁に関して謂れなき疑念をかけられたことを殊更に気に病んでいる様子であったが、おそらく議政官(彼ら)は佐為が碁で不正をしたか否かなど問題にしていないはずだ。

 どう先例に倣い起きてしまった不祥事にカタをつけるか。あるいは──と考えて栞は眉を寄せた。佐為はともかく、藤家にとって目障りな源氏は佐為の婚家筋になる。これを理由に源氏の力を少しでも削ごうと躍起になられたら面倒なことになるやもしれない。

 

「……」

 

 佐為の望みは出世よりなにより今上のそばで碁の師でありたいということだ。

 なにより今上の怒りを買い失望させたと佐為自身が感じているゆえに、佐為自身は一層辛いのやもしれない。

 しかし栞の知る今上は狭量な人物ではなくこれを理由に佐為を遠ざけるとは思えない。が──親政を望む今上が一番に頼りとしているのは自身の父である大臣だ。それさえ筑紫に下らせられている今、仮に上卿が処罰を望んだ場合、佐為本人ではなく()()婿()()()()()()を今上が庇いきれるかは疑問が残る。

 父の居ぬ間に権力を盤石にしたい摂関家の思惑はそれほど上手くいっているとは思えないし──と内裏の現状を思いつつ栞は眉を寄せる。

 ともかく、しばらくは佐為が落ち着くのを待つしかない。

 自分も佐為の望まぬ出世など望んではいないのだから、どうかこのまま過ごさせて欲しい──。

 

 

 

 そんな栞の想いは届いたのか否か。

 菊の宴から三日後の朝──、清涼殿は御前にて議定が執り行われていた。

 諸卿がずらりと揃い、まずはこれまでの合議でのそれぞれの発言を書にしたものが今上に向けて読み上げられる。

 

 今上は黙して聞いていた。

 公事での不祥事ゆえになんらかの処罰が必要という意見は一致しているものの、やはり佐為の婚家の源氏の者や全く無関係のもの、源氏に対抗する藤家では見え隠れする思惑が違っている。

 左大臣に至っては佐為が橘内侍(きのないし)と共謀して顕忠を陥れようとした疑いありと発言しており、今上は眉を寄せた。

 橘内侍(きのないし)からは既に内々に自身の落ち度だと、処罰なら自分にと訴える書が届いている。おそらく彼女が対局道具の確認を怠ったのは事実なのだろう。しかし謀だの恋人への恨みだの確証もないことを女官や群臣たちの間でうわさされている様子なのは哀れに思う。

 仮にどちらかの碁笥に相手の石が混じっていたにせよ、使わなければよいことなのだからこの件に橘内侍(きのないし)は関わりがないと言っても過言ではない。

 では佐為と顕忠のどちらが相手の石を故意にアゲハマにしたのか。──というのももはや真実は分からぬだろう。負けた佐為が処罰の対象となるのは避けられないとはいえ、顕忠に咎めはなく予定通りに巡爵させた上で殿上に留まらせるのもまた非であろう。

 上卿たちがどうしても佐為に処罰を、というなら顕忠にもそれ相応の……と考えている今上の耳にとんでもない言葉が届いた。

 左大臣が佐為を()に処し、源氏の幾人かも縁座に処するというのだ。

 最初の議定はそこで終わったらしく、聞いていた今上はまさかそこまでの話になっているとは思っておらず目を丸めた。

 

 ──左大臣の狙いは佐為ではなく源氏の縁座の方か。

 

 悟った今上であるが、真っ先に浮かんだのは栞のことだ。

 ()に処されれば妻子も流されることとなる。(そち)大臣(おとど)の居ぬ間に鍾愛の姫が罪人に落とされたなど、いくら玉座に座る身とはいえ申し訳が立たない。

 それだけは避けねば、と感じたのは他の源氏や当の藤家の面々その他も同じだったのだろう。佐為一人を処すればいいという意見が出、加えていくら出自が低くとも殿上まで許されている人物に罪人の烙印を押すのは忍びないという流れとなっていった。

 そうして遂には左大臣が左遷という形でしばしの蟄居謹慎に処すればどうかとまとめた。

 殿上・公卿を罪に問う代わりに左遷という形で京外に下向させるのはままあることではある。先帝の御代など上卿でさえ左遷で地方送りになっているし、佐為より位階も遥かに上の者が処されている前例がある以上、できないということはないだろう。

 今上にしても、罰というわけではないが、一応の責任を取らせ地方官に任ずるのもよいと考えていたし京外に出すのはやぶさかではないが──しかし。

 左遷での蟄居となると権限がなくなるのだ。あまりに哀れではないだろうか、と思う反面、栞や婚家に累が及ぶよりも数年ほど佐為に耐えてもらうしか手はないのか──とも思う。

 議定は長引きとうに昼を過ぎ、なんとか少しでも佐為に温情をと今上は粘るも左大臣は譲る姿勢を見せず、ついに彼はため息を吐いた。

 ここで左大臣のまとめた合議をはねつけても後々厄介なことになるやも知れぬ。

 ならば、と左大臣の意見を飲みつつ前例に多くあるように大宰府への左遷を今上は示唆した。が、間髪入れずに舅の管轄下では謹慎にならないという意見を左大臣が上奏し、西ではなく東側の遠国への左遷を推してきた。

 大国であれば表向きは佐為の官位相当であり、権守として下向させ蟄居に処する場としてこれ以上のものはない。という意見にもはや異を唱えるものもおらず……今上は最終的にはその合議結果を認めた。

 

 そうして速やかに作成される詔勅の様子を見ていた左大臣はわずかに口の端を上げた。

 

 今上や源氏は、栞をはじめ皇親を守るために仕方なく佐為の左遷をのんだと思っているのだろう。

 しかし左大臣(こちら)の狙いは端から佐為の左遷なのだ。

 これで宮中から佐為を追い出し物理的に中の君を佐為から引き離せる上、栞も佐為とは離別となるはず。(そち)大臣(おとど)が帰京すれば藤の中納言との再婚をまとめやすくなる。さすがの彼も左遷された出自の低い、まだ見ぬ婿に執着することもなかろうし、一度夫にまみえた姫を差し出すのを渋ることもないはずだ。

 

 

 

 これでよかったのだ、と左大臣が考えている頃──。

 博雅は大内裏の自身の詰所で源の中納言から御前議定の結果を聞き、驚愕のままに退出して四条へと牛車を走らせていた。既に陽は西にだいぶ傾いている。

 

 夜明け前には検非違使が詔勅を伝えに四条の屋敷を取り囲むはずだ。

 そうなれば──、気だけが焦って博雅は空を掴むようにして拳を握りしめる。

 過去にも謂れなき嫌疑で左遷の憂き目にあった賜姓源氏はいたが、まさか佐為が……といくら頭で問答を繰り返したところで詔勅が出てしまえば覆すことは叶わないのだ。

 ならばせめて一刻も早く知らせねば、と見慣れた四条の屋敷に着いた博雅は中門廊に駆け上がり寝殿へと急いだ。

 

「佐為殿──!!」

 

 母屋へと入ると、すっかり窶れた様子の佐為が顔を出して博雅の顔は居た堪れなさに無意識に歪んだ。

 

「佐為殿……」

 

 一刻もはやく伝えねば。そう勇んでいた博雅の決意は本人を前にして呆気なく崩れ去ってしまう。

 

「博雅さま……?」

 

 不安げな栞もこちらにやってきて、博雅はなおさら言葉に窮した。

 どう伝えればいいというのだ。とても言い出せぬ。

 だが、何も知らぬまま突如としてやってきた検非違使に連れ出されるよりは──と博雅は一度息を吸い、吐いた。

 

主上(おかみ)が合議の裁定を下された。佐為殿は──」

 

 二人の前に腰を下ろし、博雅は詔勅の内容を告げる。みるみると佐為と栞の顔色は驚愕で染まった。

 全てを伝え終えた後も二人はうまく理解できないとばかりに瞳を揺らしている。

 

「権守として……陸奥国へ……?」

「左遷……ということですか」

 

 震える声で栞が呟き、色なく佐為が零した。

 博雅も低く唸る。博雅にしても信じがたく、源の中納言をずいぶんと問い詰めたのだ。

 そして左遷が避けられないならば、せめて西の国々であれば支援もしやすいというのにと訴えれば、源の中納言はそれを嫌っただろう左大臣が東の遠国へ決めたのだと述べた。

 栞が悲痛と困惑混じりの声を上げる。

 

「あ、あまりにひどい処罰です……! いくら公事でのこととはいえ、左遷だなんて……!」

「私もそうは思うが……力及ばず……。すまない、佐為殿」

 

 佐為の方は彼らの声を聞きながら柳眉を寄せていた。

 これが今上の決断なのか。それほどまでに許しがたいことだったのか。碁打ちとしての矜持を賭けた一局とはそれほどまでに重いのか──。

 おぼつかない頭で考えていると栞が焦ったように立ち上がった。

 

「左大臣に目通りして参ります! 私が出向けば……中納言さまがおいでならあるいは……!」

 

 瞬間、はっとした佐為は思わず栞の腕を掴んで制止していた。

 振り返った栞に向かい、きつく首を振るう。

 一度下った詔勅を覆すことはどう足掻いても不可能だ。まして藤の中納言のところへ妻をなど──。

 そんな恥辱には耐えられないと無言で訴えた佐為の意志が伝ったのか、栞は言葉をなくして力なくその場にへたり込むも声を震わせた。

 

「でも……このままでは……ッ」

 

 栞の瞳に涙が滲んでいく様子が佐為の目に映った。そうして悟る。

 

 ああ、そうか。そうなのだ。

 左遷の詔勅(みことのり)が下ったということは、この人とは別れなければならないのだ──。

 

 おぼつかない意識の奥で自覚して、佐為はかける言葉を失っている博雅に向き直った。

 

博雅三位(はくがのさんみ)、最後に頼みがございます」

「な……なんだ? 私にできることならなんでもするぞ」

 

 相変わらずの気さくさに、こんな時ながら佐為は少しだけ笑った。

 この人との付き合いもこれまで……、思いつつ頭を下げる。

 

「朝まで……、どうか栞と二人だけで過ごさせてください」

 

 刹那、博雅が言葉に詰まった気配が伝った。

 一瞬の静寂の後、博雅は立ち上がると佐為の隣に再度腰を下ろして力強く肩に手を置いた。

 

「しばし辛い生活となろうが……主上(おかみ)は必ずお赦し下さる。私も力の限り支援するから、気を落とさずにおるのだぞ……!」

 

 心から励ましてくれていることが伝わるように力強く言ったあと、博雅は佐為の望み通りその場を後にした。

 二人きりとなり、佐為は栞に向き直る。

 

「そなたにも、頼みが……」

 

 そっと栞の頬に触れ、涙を拭いながら真っ直ぐ目を合わせた。

 

「こんなことを頼める筋ではないと承知で……、どうか、残される両親のことを見捨てずにいてもらえればありがたく思います」

 

 戸主が左遷とあらばあっという間に屋敷は荒れるのが常だ。故意に壊される例もあり得る。詔勅次第だが縁座もないとは言い切れない。

 暗に七条の自宅をこの大臣家で買い取った上で両親を保護して欲しいと訴えれば、栞は何度も強く頷いた。

 そうして縋りつくようにして佐為に抱きつく。

 

「私……、一人で残されるのはもういやです……! あなたと離れるなんて……ッ!」

 

 自分も連れて行ってほしい。と訴える栞に佐為はやるせなさに目を瞑って首を振るった。

 菅原道真やその他の例を見るまでもなく、妻子の帯同が許されることはない。まして子もおらず妻のみであればなおさら──と佐為の寄せられた柳眉の皺が深くなる。

 

「このような……不甲斐ない夫に連れ添い、そなたには本当に申し訳ないことを……」

 

 碁のために望んだこととはいえ、博雅も(そち)大臣(おとど)も自分のようなものにたった一人の姫を許してくれたというのに。結局、この人の人生を狂わせただけで終わってしまう──と、佐為は栞を抱きしめる腕に力を込めた。

 腕の中で栞が首を横に振るったのが伝わる。

 

 左遷された者が必ずしも赦され帰京が叶うわけではないことは、これまでの事例が克明に告げている。

 自分にしても帰京できる保証などどこにもないのだ。佐為は涙で濡れる栞の頬を拭いつつ思った。

 仮に戻れたとて、全てが元通りというわけにもいくまい。

 ましてこの人とはもう──、よぎらせつつ佐為は濡れた栞の頬に唇を寄せ、その温かさを確かめるようにしながら唇を重ねた。

 こんな時でさえ生きていることを確かめさせるほど互いの身体は熱く、脈打つ鼓動が重なってうるさいほどだ。

 佐為は自身の両手を栞のそれと強く絡ませあって願った。

 

 せめてこの人に子を残していけたらよいものを──。

 

 しかしどれほど願っても、それが叶う望みはそう多くはあるまい。

 これは初瀬でさえ碁のことを祈ってしまった自分への罰なのか。いくら棋力に惹かれたがゆえとはいえ、望んで妻にした人を不幸になどしたくないというのに……。

 

 

 夜が明ければ今生の別れとなるやもしれない。

 

 

 佐為と離れて生きていくことなど考えられない。

 宿直で一晩会えないだけでも辛いというのに、と栞は未だ現実のこととも思えず、佐為の腕の中で刻一刻と夜明けが迫ることに怯えていた。

 こうして互いの体温を感じてまどろむのも最後かもしれない……とよぎる思いを振り払おうと小さく首を振るう。その度に佐為が慰めるようにして髪を撫でてくれるのがいっそう栞には辛く感じられた。

 なぜこのようなことになってしまったのか。なにもできない自分がもどかしく情けない。

 このまま朝が来なければいいのに……と祈る気持ちとは裏腹に、まだ暗い時分だというのに遠くから地を鳴らすような牛車の音と足音が近づいてくるのが響いた。

 

「佐為の君……」

「……」

 

 検非違使だろうか。どちらともなく重ね合っていた手を離すまいと無意識に力がこもる。

 そうしていると寝所の几帳のそばまで命婦がやってきて、やはり門のところまで役人が来たことを告げた。

 

 

「詔勅、藤原佐為朝臣────陸奥国にて権守に処する。速かにいでしめ給うべし」

 

 

 静寂の中で寝殿までも届く声で詔勅が読み上げられ、几帳の先からは命婦を始め女房たちのすすり泣く声が伝った。

 これに応じなければ、いくら大臣家といえど検非違使たちが無慈悲に乗り込んできてしまう。佐為は身を起こして単衣を身につけ、無言のまま身支度を始めた。

 栞も身を起こし、手早く単衣を身につけて何枚か衣を羽織ると今日ばかりはと佐為の着替えを自ら世話した。

 表向きは左遷とはいえ流人に等しい扱いゆえ、身軽な狩衣に袖を通し烏帽子を被った佐為は他に持つものもなく母屋を出る。

 そしてかける言葉に詰まって泣いている女房たちを見渡した。

 

「私のようなものに……、これまでよく仕えてくれました。どうかみな息災で……、上のことを頼みます」

「殿……!」

「殿……! なんとおいたわしい……!」

 

 大臣家に仕え、その姫の()が検非違使に連れられ京を出される場に立ちあうなど思ってもみなかった出来事だろう。

 誰も彼もを嘆かせてしまう。と、佐為は妻戸を開けて灯籠に照らされるまだ暗い庭を見た。

 この庭を歩くのも今は限りか、と(きざはし)から庭に降りた佐為の隣を栞もついていく。

 こうしていつも共にこの景色を眺め、愛でて来たというのに。

 あの門を開ければ自分は咎人も同然となるのか──、と佐為は中門廊をくぐったあたりで一度栞に向き直った。

 

「栞、もうここまででけっこうです」

「佐為の君……?」

「あの門を出れば私は都を追われる身。そんな姿を見せたくはありませんから」

「でも……ッ」

 

 夜明け前に屋敷を出る恋人を見送るように、そなたの夫のままで別れさせて欲しい。続けた佐為の言葉に栞の顔が歪むのが篝火にうっすらと照らされた。

 泣いて縋って何かが変わるならばきっとそうしただろう。栞はしばし口籠ると、そっと自身の懐から何かを取り出して佐為の方へと差し出した。

 

「これを……、せめて私の形代にお連れください」

「これは……」

 

 佐為は少しだけ目を見張った。

 檜扇や蝙蝠扇ともやや違う、栞に初めて目通りした時から彼女が持っていた愛用の扇だ。舞っている時も外出の際もいつも離さず携えていたもの。

 栞は自身の身代わりにと差し出したのやもしれない。しかし佐為は違う意図も感じ取って僅かに頬を震わせる。

 扇は囲碁の負態(まけわざ)の象徴──。碁にて勝ち星をあげた者のみが受け取る栄誉に預かる制勝の証だ。

 この扇を戯れに欲したこともあった。その度にはぐらかされていたというのに──まるで真実の勝者は自分なのだと励ましてくれているようではないか。

 佐為は手を伸ばしてその扇を受け取り、丁寧に懐へと仕舞った。

 

「必ず……必ず帰っていらしてね……、私のところへ」

 

 涙を堪えて必死に見上げてくる栞の言葉には、しかし答えることは叶わず、佐為はそっと両手で栞の頬を優しく包む。

 

「そなたの夫で……幸せでした」

 

 栞の瞳から涙が溢れたのを佐為の目は捉えたが、そのまま佐為は栞の唇を己のそれで塞いだ。

 栞の涙が佐為の両手を伝い濡らす。

 しばしの間をおいて唇を離すと、佐為は濡れたままの栞の瞳を見つめながらそっと額を合わせた。

 このまま永遠にこうしていられればどれほど良いだろう。慣れ親しんだその温かさから後ろ髪を引かれる思いで静かに身を離す。

 

「では……、今宵また」

 

 ほんの少しだけ微笑んでみせ、佐為は栞に背を向けた。

 

 後ろで彼女が崩れ落ちた気配を感じるも気づかぬふりをし、そのまま振り返ることなく開かれていく門の先の検非違使たちを見据える。

 そうして数えきれないほど通った四足門を出れば、門の先に佐為を残したまま、いっそ悲痛なほどの音を響かせながら屋敷の門は固く閉ざされた。

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