都を追放される者は夜が明けきらないうちに京を出なければならない。
佐為を乗せた簡素な
佐為も東への追放者が粟田口から京を出ることは見知っており、うつろな頭で考えた。西への追放であれば遠目にでも七条の自宅を見ることが叶ったやもしれぬが、ついに両親とは顔さえ見れぬままの別れとなってしまった、と。
考えている間にも粟田口へ着き、
まるで罪人のような扱いのまま、住み慣れた京を発つことになるとは。過去に無実の罪で都を追われる憂き目にあった人々もこのような気持ちだったのだろうか。
それとも、やはり碁に負けたことこそが罪なのか。佐為は悲観さに苛まれる自身に抗うように栞の扇を無意識に強く握りしめていた。
次第に外が白んできたのが牛車の中にも伝わる。
このまま近江国を目指すのだろうか。ならば、かの有名な逢坂の関も通るのか。
このような旅路でなくば少しは心躍る道ゆきであったろうに。
これからどう生きて行けばいいのだろう。京外で暮らしたことはなく、京の外に出たことさえ数えるほどしかないのだ。まして遠国など、陸奥国など想像もつかない──と考える佐為の脳裏にふといつぞやの春に交わした会話がよぎった。
『佐為の君は“かい沼の池”をご存じ?』
『
あれは確か藤式部から聞いた話だ。
あの時は自分には生涯関わりのない遠い地の話だと思ったものだが、まさかその地に他ならぬ自分が送られようとしているとはなんの因果なのか。
なんの縁もゆかりもない地で、表向きだけは権守という肩書きであるが実態は謹慎蟄居。権限などなにもないのだ。頼りになる人もおらず従者の一人さえ連れてくることも許されず、生きる術さえない。
まして碁を極めるなど、どうしてできよう。
京から離れ、いったいなにを成せばよいのか。
頭に浮かぶ全てのことがあまりに絶望的で、京を発ってまだ半日も経っていないというのに既に千里をこえた先までやってきたような気さえしてしまう。
物見の御簾からうっすら差し込む陽の傾きを見るに今は午の刻あたりか──と佐為が薄ぼんやり思っていると牛車が揺れ始めた。山道に入ったのだろう。
護衛の領送使の役人たちの声を聞くに、どうやら逢坂の関に着いたようだ。
上洛する者たちもいるようで、佐為を乗せた車はしばし彼らが通り過ぎるのを待つ。
こちらはこれから京を追われるというのに、行き違う彼らは喜び勇んで京へと帰るのだ。なんと羨ましいことか、とすれ違う者たちを羨む佐為を乗せて牛車は本格的に近江国へと入り、いよいよ畿内から離れた。
佐為は思う。ここはもはや『
佐為はそっと栞の扇を取り出し、開いてみる。
今上の怒りが溶け、赦されて再び京に戻れる日は来るのだろうか。
来たとして、果たして再び栞と逢える日が来るのか──。
きっと栞はいつまでも変わらず自分を待っていてくれるだろうが、彼女は内大臣の姫。元々身分違いの婚姻だったのだ。いくら栞の父が寛容な人物であれ、一度都を追われ京での官職も失った自分を再び婿として迎え入れるかは……、考えて佐為は瞳に影を落とした。
国母さえ望めた姫が自分などを受け入れてくれたというのに、いま思い返すとずいぶんと彼女を苦しめてきた。快活で華やかだった彼女を屋敷に閉じ込め、こちらのわがままで色々なことを諦めさせて……そして別れの時まであれほど嘆かせ、と最後に見た彼女の泣き濡れた顔が脳裏によぎる。
栞のことを考えれば考えるほど、いつもそばで見ていたはずの彼女の笑顔すら遠く、昨晩この腕に確かに抱いていたというのに、あの温もりさえも今は思い返すことすら遠い気がしてやるせない。
せめてこの扇くらいは──、思いつつ佐為は扇の持ち手を強く握りしめた。
そうすることで無意識に込み上げる不安から気を逸らそうとしたのかもしれない。
だってそうだろう。このような狭い牛車に閉じ込められ、いったいいつまでこうして過ごさねばならないのか。何日ここにこうしていればいいのか。遠い昔、まだ学生だった頃に目を通した主計式の記憶を手繰り寄せる。遠国と呼ばれるほどに遠く、また広大であるという陸奥国は確か京から三十日かそれ以上はかかるということだったはずだ。
三十日……、具体的に想像した佐為はめまいを覚えた。それほどの日数を耐えた旅路の先に待っているのは孤独な蟄居の地だ。
いったい自分がどれほどの罪を犯したというのか。
官職を解かれ、京を追われて妻とも引き離され孤独に追いやられるほどの罪だったというのか。
碁打ちとして心の動揺を抑えきれずに負けたことは甘んじて未熟だと受け入れもするが、しかし──。
と、狭い牛車の中で自問自答する佐為にはこの左遷が左大臣を始めとしたさまざまな人間の思惑が絡み合った結果だとは知る由もなく。また、そう思い至るほど宮廷内の事情にも長けておらず、今上の前であるまじき不正をしたと他ならぬ今上が思い憤っているがゆえだと思い込んでいた。
そのことが佐為の精神にどれほどの影響を与えたかは定かではない。
しかし、菊の宴のあとから食事も睡眠さえもまともにとれずにいた佐為は京を離れてたった一日で既に限界が来つつあった。
領送使たちの態度が特に悪いというわけではない。彼らが『罪人』に対し普段どう接しているかは分からないが、仮にも殿上人だった貴族の護送役という最低限の礼節は保っているのだろう。しかし、領送使に護送されているという状況そのものが佐為の精神を蝕んでいくことまでは止められない。
食事も提供されるが、佐為の方が手をつけたいという気にならず、日が暮れて夜が来ても眠りさえ訪れてはくれず、こうなるといよいよ平静を保つのが厳しい状態に陥ってしまう。
なぜこうなってしまったのだろう──。
この一日でもう何度同じことを考えたことか。
幼い頃から両親は自身に栄達の望みをかけて身の丈以上の教養を身につけさせてくれ、自身もまた励んできたというのに。その中で夢中になった囲碁にて今上に取り立てられたことは自身のなによりの誇りだった。
そして栞と出逢い、
あまりに過ぎたことゆえに、神が罰を与え給うたのだろうか。
栞との間に子ができずにいたのは、いずれこうなる定めだったからなのか。
『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』
そうなれれば、と心から願っていた反面、やはり今でも分からないのだ。
碁で誰かの下になってしまうなど考えることさえ疎ましい。神の一手を極めるのは他ならぬ自分でありたい。
『私も管弦を極めたいという志を持ってはいるが、私などではその領域には至れぬことも分かっているつもりだ』
『私の楽は息子たちに伝えてゆくつもりだ。私にできることは、おそらくそこまでだよ』
あのように偉大な楽聖が言うのならば理なのかもしれない、が。やはり自分は博雅の心情にはなれそうもない。
ただこうして京から遠ざかり、
陸奥国での蟄居中にも碁は打てるのだろうか。打てるとして、誰と打つのか。
もしもずっと一人であれば、いつの日か赦されて帰京できる日をひたすらにただ孤独に待ち続けるのみなのか。
牛車の御簾からうっすらと光が差し込んできた。どうやら夜が明けたらしい。
外から話し声が聞こえてくる。何とは無しに耳に入れていると、「
うっすらと霧がかった風景の先に山らしきものが見え、ふと誦じている万葉の一首が頭を掠めた。
「
──私の名を聞かれても決しておっしゃらないでください。
──このように不名誉な私の名を……。
ああそうだ。もしも自身の名が残ってしまえば、御前対局で恥を晒して都を追われたという耐えがたい記録まで残ってしまう。
それならばいっそ、なにもかもを消し去ってほしい。
悲観的な思考に苛まれていると、しばらくして牛車がひどく揺れてから止まった。
領送使たちだけでなく牛にも食事を与え休息を取らせるつもりなのだろう。先ほどの揺れは牛を車から放したゆえか、とぼんやり考える。
ここが
越えれば美濃国に入るのか。思い巡らせる佐為の脳裏にふと思い出せないほどの昔に読んだ史書のことがよぎった。
不破の関、
この地は、そうだ。ここは壬申の年に大海人軍と大友軍が戦い、後者が大敗して逃げ惑ったという場所だ。
あれは確か崩御した帝の弟宮と皇子とで帝位を争ったがゆえの戦いだったか。
いにしえの闘諍にそれほど深く思いを寄せることなどなかったが、いまこの地に立って考えれば疑問にも思う。
あれは必要な戦いだったのだろうか──と。
「雨……?」
外からふと雨音がした気がして、佐為は牛車前方の御簾をめくって外を見てみた。
牛車の外に人の気配はない。役人たちは見張りも残さず休息に行ってしまったのだろうか。
外が少しずつ靄がかってきている。霧雨のようだ。まだ日中のはずだというのに、まるで夕暮れ時のように薄暗い。
みるみると見通しさえ全く利かないほどの深い霧が辺りを包み、そのあやしげな光景に誘われるようにして佐為は無意識に、本当に意図せず牛車から降りた。
その昔に闘諍が起こった場所──。
考えれば考えるほど、霧の奥にけたたましい合戦の音を聞いた気がして佐為は眉を顰めた。
この
今の世は穢れを嫌い血を不浄だと避けるが、同じ地にあっても太古の世では皇子さえ血を流して戦っていたのだ。
『佐為の君は“かい沼の池”をご存じ?』
『そのかい沼の池に身投げしたという伝承の一つが歌となっているようで』
あの時に藤式部の語った、これから自分が向かおうとしている陸奥国の話に自分は恐れおののいた。あまりに仏道に反するおぞましいことだと、考えることさえ拒絶したのだ。が、思えば我が藤原氏でさえ落ちぶれる前は射殺されたり毒をあおっての自害などを繰り返していたではないか。
ならば、
霧のせいかぼやける視界を見ていると思考さえ混濁してきて、佐為はあてもなく霧の中を歩いた。
手酷い敗北を喫した大友軍は歴史の中でも敗者の位置づけだ。かの皇子は壬申のいくさ前に即位さえしていたと聞くが、史書にそのことは記されていない。
帝……あの頃は
そもそもいま歩いているこの場所は
その昔、この場で朽ちた大友軍が呼んでいるのか。我らと同じ敗北者よ、ここで果てよと。
霧の向こうにゆらゆらと揺れるような水の音が聞こえる。
霧が濃く前が見えないが、水は澄んでいるだろうか。ならば、その水底にはどんな景色が広がっているのだろう。と、佐為はいつかの春に藤式部の呟いた
「世にふるに……なぞかい沼のいけらじと……思いぞ沈むそこは知らねど……」
──この世に生きていてなんの
──いっそこの身を沈めてしまおう。その
あの時も思ったのだ。この
もはやその望みがこの
ただもっと、もっと碁が打ちたかっただけだというのに──。
無意識のうちに佐為はぬかるみに誘われるように歩き続け、ついには膝辺りまで水に浸かってなお足を奥に進めた。水圧で重いなどという感覚さえなく、ただ霧雨に濡れる中で冷たい水へと身を沈めていく。
それでも心のどこかに僅かばかりの罪悪感が飛来したからか、それとも制勝の証というよすがゆえか、佐為は栞の扇を開いて強く握りしめた。
いつの間にか髪が乱れ烏帽子を被っているかさえ定かではなくなったが、それでも意識ある限りこの扇だけは手放すまいと強く念じた。
その佐為の面窶れて打ちひしがれていた姿はいっそ凄みを増して美しく、
そのうちに霧が全てを包み込み飲み込んで、この閉ざされた濃霧の中で起こったことを知るものは誰一人としていない。
ひとたび迷い込めば二度と生きては出られないと思えるほどの、この世のものとも思えぬ幻のような光景のなかでなにが起こったかは──。
やがて霧が晴れ、
牛車に向かい声をかけても返事はなく、車を持ち上げようとすれば軽く、慌てて御簾を捲ると中は無人。一同は互いの顔を見合わせて押し黙った。
逃げたのか、はたまたあの霧に紛れ鬼でもやってきて連れ去ったか。
ともかく陸奥国まで護送する任を負った彼らが護衛すべき本人を見失ったとあらばとんでもない失態であり、一同は散り散りに辺り一帯を探しに出た。
そして佐為が京を発ち、三、四日ほど経っただろうか。
四条の屋敷で二日ほど泣いて伏せっていた栞はようやく起き上がって少しは動こうという気になっていた。寝具にも佐為が着ていたものにもまだ彼の移り香が残っていて片すのさえ忍びなかったが、そのままではかえって亡くなった人のようだと命婦に諭され、仕方なしに佐為の衣装は丁寧に仕舞った。
それにこれから遠い地で精進の日々を送る佐為に服など送り届けさせないといけないのだ。落ち込んでばかりもいられない。そうだ、とびきり質のいい碁盤と碁石も送ってあげよう。きっと慰めになるに違いない。
四条には自分を案じた博雅が宿直を務めに来てくれており、栞は佐為に頼まれた通り佐為の両親の様子を見てきてほしいと博雅に頼んだ。
博雅はすぐに七条に使いを走らせ、報告を聞くと、佐為の両親ともに既に出家した後だったということだ。縁座ではなく自らの判断であったという。
栞は自ら七条に出向くことは身分柄叶わない。本来なら博雅も軽々しく出向ける身ではないが、佐為のたっての望みということで七条の屋敷を大臣家の庇護下におく旨の文を出し、その上で博雅が直接彼らの元へ出かける運びとなった。
公卿どころか先の帝の御孫を下級官人の家に迎えるなど本来ならば起こり得ないことであり、佐為の実家に足を運んだ博雅は彼らのあまりの恐縮ぶりにかえって哀れな気がした。
ともかく、博雅自身も栞も佐為は無実であると確信しており、一日も早い帰京を待つつもりだと彼らを励まして、これからの生活の心配などせず勤行に精進するよう告げて七条を後にした。
「兄上……!!!」
そのまま博雅は一度自身の屋敷に帰ったが、そこには意外な来客が待ち構えていた。実弟の源の侍従だ。
寝殿の母屋で彼の姿を見た博雅は首を捻った。なにやら血相を変えている様子だ。
「珍しいな。なんぞあったのか……?」
「なにを呑気な……! 今日の出仕で小耳に挟んだのですが──」
座していた源の侍従は焦ったように立ち上がり博雅の方へ駆け寄ってきた。
そうして告げられた話に博雅は目を見開く。聞けば、検非違使別当が今上にこう告げていたという。不破の関を前にして領送使が佐為を見失った、と。
「み、見失ったとはどういうことだ!? 佐為殿は……!」
「分かりませぬ。聞いた話によりますとどうやら霧が濃くて動くこともままならず……晴れた時には佐為殿が煙のように消えていたと。
「占いも結構だがまずは探索であろう!? 検非違使を派遣せぬというならこちらの荘園から幾人か向かわせようぞ」
あまりにも突然な話に博雅は焦りつつ思った。栞のことだ。
佐為が移送途中で行方知れずだなどと、ただでさえ憔悴している栞に話すべきことだろうか。
もし話してしまえば、自ら探しに行くと言い出しかねない栞だ。だが佐為を乗せた牛車が畿内を既に発っていた以上それは不可能。自分たちが畿内を無断で離れることは固く禁じられているのだ。
しかし──もしも騒ぎが広まれば自ずと栞の耳にも入るだろう。その時に黙っていたことを悔いるよりは、と博雅は屋敷を出て四条に牛車を走らせた。
「佐為の君が……行方知れず──!?」
そうして栞に実弟から聞いた話を告げると、栞はその場に倒れかかり博雅は慌ててその身を支えた。
物の怪や鬼の仕業など万に一つも考えない栞だ。
佐為自身が自らの意志で牛車から出たか、あるいは役人が故意になにかしたか。どちらにせよ案の定自身も近江へ探しに行くと言い出したため、博雅は既に自分の配下を手配したと言い聞かせてなんとか彼女を落ち着かせた。
それでも真っ青な顔でへたり込んで震える栞が哀れでならず、博雅は居た堪れなさに強く拳を握りしめた。
ほんの少し前まで、あれほど仲睦まじく幸せそうな二人だったというのに──。
左遷を嫌ってどこぞに逃げおおせたというのだろうか。
あてもなく逃げても生きる術などあるまいに。
であれば、まことに鬼の仕業なのか……それとも彼を憐れんだ神か御仏が連れ去ってしまったか。
「栞……」
もしもそうであれば、栞はどうなるのだろう。
あれほどまでに佐為を愛し、その身を尽くしてきたこの姫は──。
博雅も栞も一抹の望みを託し、ひたすら吉報を待った。
しかしその願いも虚しく、十日経っても、ひと月がすぎても佐為の行方が知れることはなかった。