佐為が移送途中に行方知れず──という話は宮中に広まり、当初は逃亡を疑っていた人々も日を追うごとに物の怪の仕業やもしれないと恐れをなすようになっていった。
同時に佐為への同情も高まり、左遷はあまりにひどい処罰だったとの声も出始め、関わったものたちは祟りに怯えて秘密裏に加持祈祷などを行わせていた。
ほとぼりがさめれば佐為を呼び戻すつもりであった今上としてもまた、このような不測の事態が起こるとは青天の霹靂でしかなく心痛からやや窶れていた。
ともかくも佐為の消息さえ知れずこのような事態となった以上、顕忠の昇殿留任どころか予定通り巡爵させるのさえ取りやめた方がよいと考える今上の意向に異を唱える議政官は誰一人とておらず、本来ならば年明けの加階で巡爵の予定だった顕忠の従五位下への加階──つまり貴族階層への仲間入り──は見送られることとなった。
そして顕忠は正月の除目にて六位のまま下国の守として離島へ派遣される流れになった。
至極真っ当な任官とはいえ、誰の目にも左遷同然である。
顕忠にしても祟りや物の怪の累が自身に及ぶのを恐れ下向するその日まで物忌を続け、もはや出世の望みは絶たれたのだと失意のまま京を後にした。
あの重陽の日を境に、誰も彼もの命運が分かれてしまった。
その最たる人の一人が
あの日以降、積年の恋人を謀っただの逆に佐為の不正に手を貸しただのの謂れのないうわさを囁かれ続けた彼女は憔悴し、それにも増して自身の失態が佐為の左遷を招いた事実と、その佐為が消息をたったという話を聞いてついに倒れてしまった。
そのまま宿下りが続いて出仕も滞りがちになり──翌年の重陽が見えてきた頃に彼女はついに髪を下ろして宮廷を去った。
出家する前に彼女は栞に宛てて長い長い文を書いた。全ては自身が招いたことであると。この先の生涯を捧げ、佐為のために祈り過ごすことをどうか許してほしい、と。
栞には敵わぬと諦めつつもいつか妻の一人にと切望していた彼女にとって、その文を出すことがどれほど辛かったかは計り知れない。
ただ、才気豊かな宮仕えの花に世を捨てさせるほどの深い悔恨を残したできごとだったのだけは確かだろう。
もう一つ、あの日を境に変化したできごとがあった。
左大臣の中の君──
彼女もまた行方知れずとなった佐為のことに心を痛めており、同じように傷心の今上をそばで慰め続けた。どちらも佐為を失った痛手という点で似ていたゆえか、二人は少しずつ心を通わせ、図らずも左大臣の望み通りに
それがどのような結果をもたらすかは分からないが──、佐為が消息を絶って一年が過ぎた。
また秋が巡ってきてしまった。
と、四条の屋敷で栞は夕暮れに舞い散る紅葉をぼんやりと眺めていた。
佐為が近江の
あまりに不可解なことゆえ、みなは鬼か物の怪が連れ去ったと言っていたが、そんなことはあり得ないのだ。佐為自らの意志で領送使たちのもとから離れたのだろう。
あれほど京で碁を打つことにこだわっていた佐為だ。ひょっとしたらこの国に見切りをつけ、囲碁の盛んな唐土の都へ秘密裏に渡ったのでは──などとも考えた。そうでないなら、あるいはもう……と栞はよぎった考えを否定するように首を振るう。
「姫さま……、お外はもう寒うございます。お戻りあそばしませ」
そんな栞を案じ、命婦は妻戸を開いて栞を母屋に戻るよう促した。
栞は力なく返事をして戻り、命婦は妻戸を閉じる。そうして命婦は冷えないように栞に何枚か単衣を重ねてやりながら眉を寄せた。
あれほど快活で明るかった姫はあれ以来見る影もなく涙がちで塞ぎ込むことが多くなった。
それでもこの大臣家に仕える数え切れない数の使用人の生活が自分の肩にかかっていると自覚しているゆえだろう。財産管理だけはなんとかこなしてはいるものの、それ以外は臥せっている時間が日一日と長くなってきており、気が気ではない。
赤子の頃からこの手で育て、親以上の思いで仕えているこの姫にもしものことがあったら。──そうは思っていても、栞が佐為を今でさえどれほど愛しているかを思えばなにも言えず。佐為が再び京に戻る日を元気に迎えなくては、と繰り返し励ますしかない自身が口惜しい。
事実、栞はなにをするのも煩わしいと思う反面、両親が帰京するまではこの屋敷を守らねば──という気力でなんとか生きているようなものであった。
年が明ければ任期の明けた父が母とともに帰京する。
それまでは……、と考えているうちに日々は流れ、栞の両親はこれ以上ないほどの派手な大行列を成して帰京し、都もまた派手やかに彼らを迎え入れた。京にとっては久々の華やかな催しでもあった。
栞は帰京した父と母に長年守ってきた寝殿を返し、自身の住まいを北の対に移した。
もはややることもなく、生きていることすら虚しい。と、栞は立ち歩くことさえ滅多になくなり、屋敷の奥でただ過ぎていく時間に身を委ねた。
寝ても覚めても、佐為がいないことを思い知らされるのがたまらなく辛い。
いま彼はどこにいるのか、それだけでも分かれば──。そう願いながらも日一日と佐為のいない日が伸びていくのが怖い。
いつまで経っても慣れないというのに、一人分の
このままでどうやって生きていけよう──。
帰京した栞の両親はあまりに変わり果てた鍾愛の姫の様子に困惑しつつも為す術なく。
「源氏の
そんなある日、ふと左大臣に声をかけられた彼は立ち止まる。おりいっての話ということで二人は人気のない殿舎の一角で顔を突き合わせた。
「御娘の四条殿のことですが、お加減がよろしくないとか……」
当たり障りのない雑談を少々したのちに、左大臣はそんなことを切り出してきた。
「こちらの留守中に色々ありましたから……、心労もあるのでしょう」
「それは
「私どももどうにか姫を元気付けたいとは思っているのですが……なかなか」
源氏の
急な話に源氏の
その話を持ち帰って自身の北の方である栞の母に相談する運びとなった。
「どうだろうか、上……。昔ならば姫が生涯独身でもと考えていたが……、今の状態では私たちの亡きあとに一人残されるとなるとやはり誰か大切に世話してくれる人がいたほうがよいやもしれん」
「ですが……、あちらには四の宮さまという北の方がおいでですし……院もどう思われるか」
「院も中納言が姫に想いを寄せていたことはご存知だし、栞のことも案じておられるからそうご不快に思われることもなかろう」
男女がなし崩しに一緒になり時間をかけて世間に認められるという方法もあるが、正式な結婚となると親同士の承諾の元で行われるのが常だ。栞の再婚に積極的には賛成というわけではない二人だったが、それでも屋敷に籠りがちの栞の現状を見ていると将来的には誰かと縁づかせるほうが良いのではと考えてしまうのは親として責められることではないだろう。
しかしそのことは栞にとっては思ってもみない話であり──。
後日、源氏の
栞の方はまさか再婚など考えてもおらず、強くかぶりを振って拒否する。
「私の
「し、しかし……かの君は行方知れずでもう二年以上が経つのだし、そなたもその調子では誰かしっかりした者がそばにいたほうが良かろう」
「いやです!
栞は父に泣いて訴えた。
さして信心深くもない自分が髪を下ろすほどのこと。どれほどの拒否かは推して知るべしだろう。
幼い頃から落ちぶれることだけはあってはならないと教え育てられた栞としては一人娘の将来を案じる父の気持ちが分からないわけではない。が、再婚それも藤の中納言が相手など考えられもしないことだ。
中納言を嫌っているわけではないが、なにより中納言と文を交わすことにさえ難色を示していた佐為を思えばなぜ再婚などできようか。
中納言からは今も度々文が来るが、佐為が京を経ってからというもの返事の筆をとる気にもならずそのままにしているというのに。
「姫……、では気晴らしに御所に上がってみるのはいかがか?
「御所にはもう二度と上がる気はありません!」
以前は結婚にも宮仕えにも積極的でなかった父がこんなことを薦めてくるとは。それほど今の自分は頼りなげだというのだろうか。思う反面、もはや自分でもどうしようもないことだ。佐為がいないというのに、どうやって以前通り笑って過ごせというのだろう。
「私はここで、佐為の君のお帰りを静かに待ちたいのです。父上……どうかお聞き届けくださいませ……!」
そう懇願すれば、父の
父にしてみればもう何年も行方知れずの相手など、いないものとして切り替えろということなのかもしれない。
無理矢理に縁談を進められるとは思いたくないが、と寝殿へ戻る父を見送ってから栞は女房の中でも特に信頼のおける複数人を集めた。
そうして今後は自身の寝所のそばで宿直を務めるよう言う。万が一にも両親や女房の誰かが自身の寝所に中納言を手引きするという強硬手段に出られた場合の阻止手段としてだ。
それでも夜が近づくたびに身がすくみ、栞はその日以来夜がくると怯えてほとんど眠れない日々が続いた。
心労が祟ったゆえか何かの拍子に気を失うようなことが何度も続き、見かねた命婦が栞の様子を見にきた源氏の
「私どもでさえまだ佐為の殿のことを忘れかねておりますのに、姫さまはどんなにお辛いことか……! あの殿の代わりなど、どれほどご立派な方でもつとまる気がいたしません……」
そして佐為と栞の仲がどれほど睦まじかったか、どれほど栞が佐為を愛していたかを切々と語るも、当の本人に会っていない
事実、
たった一人の、それもこの大臣家の一の姫だというのに──。
そう強く思うものの、日に日にやつれ衰えていく栞を見て
それでも栞が夜に寝付けるようになるまでずいぶんと時間がかかり、とは言え心から安堵して眠れる日は一日もなく。定期的に博雅にも宿直を頼むようになっていた。
当の博雅は今も時おり人を手配して佐為の行方を探させてはいたが一向に見つからず。これほどまでに情報が出ないのであれば、やはり鬼か物の怪の仕業であると思った方がよいとまで考えるようになっていた。
栞やここの
そのことを酒を酌み交わしつつ源氏の
「
「
「うむ。逃げおおせたか、それとも死したか。結果はいつも
「わからぬとは……?」
「陰陽寮の役人が言うには、この世にも常世にもおらぬゆえにわからぬということらしいが……。まあ、占いだからな」
やはり佐為は人ならぬものが連れ去ってしまったのだろうか。
「佐為殿は……、男の身から見上げても鬼神さえ魅入られると思えるほどの美しさでしたから……神が彼を哀れんで連れ去ったとも考えられましょう」
「そうであろうか? 私には我が姫を見捨て逃げた不実な男に思えるがな」
あっさり言い返されて博雅は言葉に詰まる。
佐為のことを不実とまでは思っていないが、確かに彼には栞よりも己の意志や何より碁を優先する利己的な部分はあったが──でも。それでも。
『私のわがままで……栞には望んでいたことをずいぶんと諦めさせた』
『栞は私と出逢ったがために人生を狂わされた気がしてならないのです』
もしも本当に源氏の
今もおそらく、佐為がいつの日かこの京に戻るという僅かな可能性をよすがに懸命に生きている状態なのだ。
だから今は気の済むまで待たせてやって欲しいと博雅は陰ながら
「姫さま、寝殿のお庭の紅葉がとても見事だと北の方さまからのお届けものでございますよ」
とある秋の日、命婦は寝殿から届けられた鮮やかな紅葉の枝を
「紅葉ならこちらも変わらないのに……」
「でもございましょうが、北の方さまからのお心遣いですから」
「もう寝殿の南庭も久しく歩いていないけど……この紅葉は佐為の君と一緒に見た紅葉かしら……」
ふ、と栞が力なく笑って命婦はその儚げな様子に思わず眉を寄せた。
いつも若々しく頬はほのかに赤く艶めいて夏の陽のように明るく美しかった姫だというのに、すっかり痩せて線も細く弱々しくなってしまった。
それがかえってほっそりした清らかさが加わったようにも思うが、それでも今にも消え入りそうでやるせない。
「佐為の殿がお帰りあそばしたら、また宇治へお連れくださいませ。あちらの紅葉はもっと美しいことでしょうから」
「ええ、そうね……」
頷いて、栞は脇息にもたれかかって目を閉じた。
佐為と別れたのも秋だが、浮かんでくる思い出はどれも幸せなものだ。
佐為との婚礼の日も紅葉の舞い散る美しい夜だった。博雅や宮たちの奏でる楽の音色を遠くに聞いて、生涯をこの人と過ごすのだと誓った。
二人で宇治の野を馬で駆けた秋も、
もう何度、こうして一人の秋を迎えただろうか。
これから何度、巡る季節を一人で過ごさねばならないのだろう。
あとに残して気がかりな子供もいないのだから、もういっそこのまま世を去ってしまいたい──などと思う反面、もしも佐為が戻ってきたらと思うと、せめてその日までは生きていたいとも思う。
だが、いつまで待てばいいのだろう。
いつまで──、と移りゆく季節さえも屋敷の奥に引きこもって滅多に見ることもなくなっていた栞だったが、秋が深まり冬が来たとある朝のこと。
珍しく栞は北の対の簀子に出て外を見てみた。
「雪……」
冷えると思ったら、と東の対を臨む庭は一面白く覆われており白い息が空へとのぼっていく。
そういえば佐為は冬を好んでいた。寒さを厭わず、雪が降れば子供のようにはしゃいで……と寒さに肩を震わせる栞の視界にふと赤いものが目に入った。
「あ……」
椿だ。栞は誘われるように庭に降りてみる。
遣水の先に植えてある椿は今が盛りのようで、雪化粧をした赤い花が鮮やかに色づいている。
そばに寄れば雪の重みでいくつか地面に落ちているのが目に映り、栞はしゃがみ込んでそのうちの一つを手にしてみた。
椿は佐為が格別に愛でていた花だ。
『栞……!』
『ひと枝手折っても構いませんか……?』
『美しいでしょう?』
『ああやはり、よくお似合いですよ』
いつかの冬の朝、彼は口の端から白い息をのぼらせながら嬉しそうに椿を差し出して髪に飾ってくれたのだ……と思い浮かべた栞の瞳から手の中の椿に涙が伝い落ちた。
直後、堰を切ったように涙が流れ出す。
雪に散らばる椿にすがるようにして嗚咽し、何度も何度も佐為の名を呼んだ。
いったい彼はどこにいるのだろうか。
せめてもう一度、一目だけでもいいから逢いたい──。
そのうちに吹雪いてきたことにも気づかず、栞は雪に臥したままいつのまにか意識を手放していた。
あまりにひどい雪ゆえに格子は降ろされ妻戸も閉じられ、女房たちが栞の不在に気づいたのは結構な時間が経ってからであった。
「姫さま……?」
普段は母屋の奥で一人じっとしている栞だ。普段どおりに過ごしているだろうと思っていた女房らは栞の不在ににわかに取り乱し、北の対は元より栞が以前はよく使っていた西北の対もくまなく探した。
しかし栞はどこにもおらず、慌てた命婦が寝殿に駆け込む。
「北の方さま、姫さまが──!」
栞の母に栞の不在を知らせ、ちょうど顔を出しにやってきた博雅にもその旨を知らせて屋敷中で捜索が行われた。
昔の栞であれば馬場殿に籠もっているなどもあり得たが。と、博雅は吹雪の中を外に出て走り探した。視界が悪い。寝殿の庭から東の対の簀子に上がり、北の対側の庭に出て辺りを見渡す。
「栞──!」
まさか栞までもが鬼に攫われたなどということは、と一瞬縁起でもないことを浮かべて青ざめ、雪を払うようにして走る。
そうしてふと、遣水のそばに大きな白い塊が見えて博雅は走り寄ってみた。
「栞!?」
すればあろうことか雪を被った栞が倒れており、博雅は慌てて雪を払う。
うめき声が小さく聞こえた。ひどい熱だ。
「栞! しっかりいたせ!!」
博雅はそのまま栞を抱き上げると急ぎ北の対に駆けて手当をするよう指示を出した。
薬師が屋敷に呼ばれるも熱は引かず。栞の母たっての要望で徳の高い僧が何人も呼ばれ栞の寝所の横で絶やさず加持祈祷を行わせるも一向に病状は快復せず、熱が下がったと思えばまた上がるを繰り返して両親や女房らは生きた心地すらしない。
栞の母に至っては北の対に泊まり込んで看病を続けるも、栞の方は響く祈祷の音さえ耳に入らずいく日もいく日もうなされ続けた。
──佐為の君。
──もしももうこの世にいないというのなら、迎えに来て下さってもいいものを……。
佐為のいない世に生きていることが辛くてたまらない。自分を哀れんでくれるなら同じ場所へ連れていって欲しい。それとも、迎えにくるほどには愛されていなかったのだろうか。
だから去っていってしまったのか──。
「佐為、の……君……ッ」
朦朧とする意識の中で佐為の名を呼んでうなされ続ける栞を女房たちが取り囲み、栞の母が涙を溜めて栞の手をとった。
「しっかりなさい……! あなたに先立たれてどうして老い先短いこの母に生きてゆけというのです……、まだお若い盛りだというのに……」
それが栞の耳に届いたかは分からない。
しかしひと月を過ぎても病状は良くならず、もはや快復の見込みがないやもしれないと薬師に告げられた源氏の
もはや佐為はこの世のものではなく、死したのだと。
「
そんな源氏の
「しかし、これでは姫が前に進めぬ……! 背の君を見送った日からもうずっと時が止まったままではないか!」
「
「それではこの先の一生をありもしないものに縋らせて死んだように生きよと言うのか……?」
「さもありましょうが……、栞がそれほどまでに佐為殿を好いておるのを知っていればこそ……」
偽りでも生きるよすがを与えねば。と、暗に仄めかす博雅に
栞と佐為がどのような生活を送っていたかを直に知る博雅がそう言うのならば、それもまた理にかなっているのかもしれない。
しかし──と葛藤するも病状の重い栞を思えば僅かでも快復の見込みにすがるしか術はなく、
「源氏の
自身の姿を見つけた藤の大納言──中納言から権大納言に昇進した──が駆け寄ってくる。
「
栞が病に臥していると聞いて案じたのかやつれ気味の彼に首を振るってそのまま今上に謁見した。
今上の方も栞の様子を訪ねる文を何度も四条に届けるほどには栞の容体を案じており、
佐為のことだ。陰陽師たちがあの世にもこの世にもいないなどと意味のわからぬことを曰うゆえに宙に浮いたままだった処置をはっきりさせて欲しいと奏上したのだ。
そうして源氏の
登華殿でもまた今上の公式の赦しを知って安堵すると共に、栞が生死を彷徨っていると聞いた女御は秘密裏に僧を呼び祈祷を続けさせていた。
彼女にとってもあの重陽の日の御前対局はにがく苦しい出来事だ。
「いまも時おり思うのです。わたくしが
過ぎ去ったときを省みて、あの時こうしていれば、と悔いることは誰しもあるだろう。
女御もさることながら、清少納言もまたすっかり沈みがちになり自身の部屋で大人しく書きものをする時間が増えていっていた。
佐為の左遷と、それ以来塞ぎ込みがちでもはや生死すら危ういという栞のうわさを聞くにつけ、後悔に苛まれる日々だ。
もう何度、いつかの夏に交わした会話を悔いたことだろう。
『どこかで
『まこと時鳥なら見逃すわけにはいきません。栞殿、確かめて見てきてくださいませ』
あの時になぜ、ああも気安くあの姫を行かせてしまったのか。
なぜ戯れに佐為と引き合わせ、対局の続きを打たせてしまったのだろう。
なぜ──。
「私があの時……行かせていなければ……!」
佐為と出逢い、恋をした彼女は変わってしまった。
『私は今回を最後にもう二度と御所に上がることはないと考えています』
『離別など……、七度生まれ変わってもまた逢いたいと思っていますのに』
あの新嘗祭の日に言葉を交わした彼女の姿が今生の別れとなってしまうのだろうか。
何もかもに恵まれた姫だったのに、このように慈悲もない結果を招いて命を終えねばならないのか。
もしも御仏がおわすなら、あの夜に戻してほしい。今度は時鳥など探しに行かせず、佐為にも逢わせずにやり過ごすから。
筆をとった清少納言は、まだ裳着も済まさぬ少女だった頃の栞の姿を浮かべた。
可憐で美しく、自由闊達な少年のようだった頃の栞の記憶を脳裏に蘇らせ、一心不乱に書き記していく。
光り輝くこの御所にあって舞の才能豊かな美しいお姫さま。何もかもに恵まれて、憂うことなどひとつもない。悲しいことなんてなにもなく、この中であなたは永久に輝き続けるの。
私たちがこの世を去っても、いつまでも──。
自責の念への罪滅ぼしか、栞を哀れんだゆえか。
清少納言は栞との美しく楽しい思い出のみをひたすら紙に書き残した。その散文の中には幼少の頃から成人後まで多岐に渡る様々な話が描かれたが、彼女はいっさいの佐為の話を記していない。意図的にそうしたのだろう。
そうして佐為の記憶だけを取り除いた、美しく装飾された栞の姿がまさに筆者の意図通りに後の世に残ることとなる。
麗景殿でもまた栞が危篤状態ということは伝わっており、それにも増して今上が佐為に大赦を出したことが話題となっていた。
「これで少しは佐為の君の汚名もそそがれるでしょう。よかったこと」
誰とはなしにそんな声をかけられた宰相の君は、喜びよりも気疲れをして部屋で深いため息を吐いていた。
その様子を仕切りを取り払って休んでいた隣室の藤式部が気遣う。
「みな好き勝手にこちらのことをおっしゃって……、もともと佐為の君になんの汚名があったというのでしょう」
「わたくしもそうは思いますが……
宰相の君も佐為の左遷当初はやつれていたが、それにも増して北の方の焦燥はいかほどかと感じたのだろう。栞を気遣う文を書いては出しあぐねているのを何度か見ていた藤式部は友人として彼女を哀れに思っていた。佐為と先に出逢ったのは彼女の方だというのに、なまじ身分の差と正式な婚姻という事実を前にはこうも弁えなければならないのか、と。
むろん彼女のゆかしい考えは嗜みにかなってはいるものの──。
「わたくし、北の方さまのお気持ちが……数ならぬ身ながら分かる気がいたしますの。わたくしもいつの日か佐為の君が京にお戻りになるのをお待ちしたいと……そう思っておりますから」
「まあ……」
佐為が消息不明となり、宮中は物の怪だ鬼だと騒いでいたが、物の怪というのは心理的なものであるし鬼も空想上のもの。物語を彩る添え物にはなっても現実にはあり得ないと心のどこかで察していた藤式部だ。おそらく佐為が戻る日は二度とない、と彼女は誰に告げずとも自分ではそう結論づけていた。
それでも幼少の頃から親族や友人といった身近な人々を幾人も亡くした彼女は人の死に敏感でもあり、また佐為がそうなっただろうことに際しては残された友人の方へ深い同情を覚えていた。
あの人が宰相の君を少しも愛していなかったとは思えない。おそらくは北の方のことも。それでも左遷の憂き目に合い、京を追われて碁での栄達が叶わぬことを苦にしたのか。
貴族であればあるほど、自ら命を絶つなどあり得ないゆえに誰も考えすらしない。佐為もそうだろうと思う反面、あの人ならあるいは──と藤式部はいつかの春に桜を眺めながら交わした会話を思い出した。
『我は寂しも……君としあらねば……』
あなたがいなくて寂しい、と桜を見上げて呟いていた彼は、無意識下で愛する誰かを想い浮かべていたはずなのだ。
だというのに、それに気づくことなくこの世から去ってしまったのだろうか──。
だとしたら
──と考える藤式部もまた後の世に残る物語を書き上げ、歴史にその名を残すこととなる。
その事実を誰が知らずとも、あの重陽の日を境に歴史さえも変わったというのだろうか。
それとも元からそうなる定めだったのか。
今上が佐為に大赦を出し、博雅を始め父の
もはや今上にも赦され、帰京すれば元の官職を取り戻せるのだからなんの憂いもなく佐為を待てばいい。
と、励ます博雅も
その甲斐あってか栞はなんとか一命を取り留めたものの、すっかり身体も弱り病みがちになってしまい、
その度、博雅は諭した。
おそらくは入内してもいずれ宮中で佐為と出逢い、栞はきっと道ならぬ恋に落ちてしまうと。そんなことになるよりは、束の間だけでも幸せな時をすごせた。それで良かったのだと語る博雅だったが、やはり娘とも妹とも思い見守ってきた姫がこのように弱りきった姿でいるのが不憫でならず、度々袖を涙で濡らしてはこうなった運命を呪った。
そうして一年、また一年と時が過ぎ、やがて十年、そのまた十年、二十年と数えきれない月日が流れた。
長寿であった両親が世を去り、博雅やその弟たちも見送って、もはやもうこの世に在るのは自分一人──と栞は両親亡き後に再び寝殿に戻って広大な四条の屋敷の主として日々を過ごしていた。
立ち歩くことさえ思うようにいかぬというのに、生き永らえている自身がいっそ恨めしい。
もはや佐為の帰る日まで死ねないという執念のみでこの世に存在しているのだろうか。と、栞は時おりすさび書きで佐為との思い出を筆にのせた。
若い時期のほんのひと時を過ごした幸せだった時間の、その記憶が薄れるのが恐ろしくて、ただ殴り書きすることでどうにか記憶を留めようと努めたのやもしれない。
「
今日もいつものように筆を走らせていると、几帳の先から声がした。
「
「そうおっしゃいますな。
左兵衛府の次官を務めている博雅の孫だ。
栞は子がおらず跡継ぎもいないゆえ、博雅の孫の一人を養子にしてこの四条の財産のほとんどを継がせるよう既に手配していた。
また広すぎる屋敷には身寄りのない親類の女王や宮家筋のものを引き取って面倒も見ていた。
「私のことは構わず、私が世を去っても葬儀などは最低限でよいですから、くれぐれもみなのことを頼みましたよ。北の対にいる姫たちをはじめ、この屋敷に長く勤めている身寄りのない者たちのこともどうか見捨てずに」
「
「いいえ。それから、そなたの祖父君の……博雅さまの遺されたものは全て後世に伝え残すようそなたがしっかり努めなければなりません。あのように偉大な方はこの先ももう現れることはないでしょうから」
晩春の過ごしやすい夜、栞は重ねて
普段は東の対に住んでいる彼がこのところ訪ねてくるたびに同じ話をしてしまうのは年を取ったがゆえなのか。それとも、もうじきこの世を去るのだとどこかで悟ってしまっているからか。
ただ心残りがあるとすれば、今も佐為に逢いたくてたまらない。一目だけでもいいのだ。一目逢えたら、それを最期に事きれても構わぬと思っているのに。
そう思い続けていったいどれだけの月日が流れただろうか。
佐為はいまどこにいるのだろう。
どこか遠くに逃れて、例え他の誰かと家庭を持っていたとしても、生きていると一言知らせてくれればもうそれでいいのに。
それともやはり、もう既にこの世の人ではないのか──。
こうして長い時を独りで生きて、つくづく思い知ったことがある。
人は生まれ出ただけではどうにもならないことがあるのだと。
佐為も、博雅も、そして自分も生涯この身を捧げたいと思うものに出会い、またはからずもその才能を持って生まれた。
だが自分は身分と、なにより女であるがゆえに、今の世では外に出て、まして舞い踊るなど許されることではなかった。
佐為にしても、囲碁に巡り合い才豊かで、時の帝さえその才能を認めて彼に地位を与えた。とはいえ、この国のいまの造りでは碁に邁進する環境など整ってはいないのだ。もしも彼が唐土に逃れ、かの地で碁才豊かな者たちと共に競い合って碁にのみ邁進できる場に身を置いたとすれば。きっと彼にとってはその方が幸福であっただろう。
対する博雅はどうだ。あの生まれでこそ数多の管弦者から楽を受け継ぐ機会に恵まれ、仕えたすべての帝に重用され、また本人も驕ることなく生涯を管弦に捧げて生き抜いた。それは朝廷が何よりも楽を重んじ、また藤家が
おそらく人とは何かを成すには全て揃わねばならないのだ。才も、時代も、環境さえも全てが。だとすれば、きっと神が真に愛し時代に選ばれたのは博雅──。
そのことを後世に伝える一助ができるだけで、もう思い残すこともない。
思いつつ栞はやや自嘲した。神だなどと、少しも信じていないというのに。
これも年を取ったがゆえなのだろうか。
神も仏もいまは詮無いことだ。もう自分にはそれほど時間は残されていないだろう。
だから、ただ一目だけでいいのだ。
ただ最期に一目だけでも佐為に逢えたら……。
考えて臥せがちに過ごし、暑さが身体に障る季節が見えてきた。
今年は酷暑となるのだろうか。そんな予感のするある日の夕暮れ、栞はふいに寝殿の簀子に出てみた。
夏が来ると佐為はいつもここに碁盤を持ち出し、庭を眺めながら打っていたものだ。
夜が来れば、時おり共に庭に出て池に舞う蛍を追って──と懐かしい思い出が脳裏を掠める。
ああそうだ、佐為に出逢ったのもそんな夏の夜だった。
夏が来るたび、出逢った夏のことを二人で懐かしく語り合った。
『あの時は……こうして今年の蛍もあなたと見ることになるとは思いもしませんでした』
『今年と言わず……一度契った仲なのですから、
あれは出逢って一年が過ぎた夏の夜のことだ。
あの時の佐為の声さえまだはっきりと覚えている。
蛍の光に照らされて、この世のものとも思えぬほど美しく。互いに夢中で夏の
もう二度と戻れぬというのなら、あの時の思い出の中で眠りにつきたい。
二度と覚めることのない、あの
「御方さま……ッ!!」
遠くで女房の慌てたような声が響いた。
みなが集まり、誰かが
「
必死に呼びかける
胸が苦しい。
なぜなのだろう。
なぜ──。
夏だというのに、佐為に出逢ったあの時以来、
なぜいまそんなことを考えるのか。
「……佐為の君……ッ」
時鳥は冥界からの声を伝えるという。
佐為がもうこの世にいないというのなら、なぜ時鳥は鳴かないのか。なぜ声さえ伝えてはくれないのか。
いま彼はどこにいるのだろう。
どこを彷徨っているのだ?
どこを──。求めるように伸ばした手を誰かが掴んだような感触が伝った。
時鳥よ、哀れに思うならせめて最期に聞かせて欲しい。
あのひとはいったいどこにいらっしゃるのか──。
「佐為の……き……み……」
握っていた手から力が抜け、
控えていた女房たちが一斉に泣き崩れる。
そして四条の屋敷が騒然となっている頃、誰かが慌てたように左大臣家に駆け込んで告げた。
「左大臣さま!! 四条の
知らせを受け、書に向かっていた左大臣は思わず瞠目した。
しばしそのままで硬直していた彼は次第に身を震わせ、双眼からは大粒の涙が溢れ出す。
居ても立っても居られず、左大臣は身分も顧みずに簡素な衣装に身をやつしてごく少数を連れ四条へと駆けつけた。
すれば既に葬儀の準備が進められており、指示していた人物──
「
「すまない、四条殿がみまかられたとお聞きして……今日のことだと聞いたというのに、もう納棺を進められているのか」
「故人のたっての願いでございまして……」
そうして穢れに近寄らないよう告げる
本来ならば栞の身分であれば死後に幾日か安置した上で陰陽師に日を選ばせての葬儀となるが、栞の遺言に従い準備ができ次第ここから直接に鳥部野に運ばれ荼毘に付されるという。
女房たちに棺に収めるものなどの指示をしている
「
「背の君の……」
左大臣は自身の声が震えたのを自覚した。
そうとは気づかず、
「
聞かれて左大臣は歪む顔を見られまいと檜扇を取り出し、なんとか取り繕ってみせる。
「もう昔の……私がまだ中納言だった時に、あの君は侍従を務めておいでで、男の身でさえ目を奪われるような美しい殿方だったよ。それにもましてそなたの
言葉に出せば涙が滲むのを堪えきれず、そんな左大臣を不思議そうに
「そうですか、
栞が御所から遠ざかったのは結婚したがゆえだが、病みがちとなってしまった原因は──考えて左大臣は眉を寄せる。
結局、どう請うても栞は自分との再婚を拒否し続け、ついには身体まで壊してしまった。誰よりも幸せを願っていた人だというのに。左大臣はきつく首を振るう。
「
「ああ、いや。……四条殿は、最期になんと? もしも私にできることであれば、遠慮せず言ってほしい」
取り繕うように言った一言を受け、
「なにやら息苦しいご様子でして……。懸命に最期は……ご
左大臣は大きく目を見開いた。自身の想い続けた人は生を終えるその瞬間まで佐為を愛し続けたのだと思い知らされ、ただただ頬を震わせた。
そのうちに親族が揃い、出棺の準備が整って霊柩車が四条から出る運びとなった。
女房や女人たちは牛車に乗り栞の棺を乗せた車の後に続き、親族の殿方は歩いてその後を追う。左大臣もまた最後まで付き添いたいと願い、月明かりの照らす京の夜を鳥部野に向かい歩いていく。
その左大臣の脳裏を追想の記憶がとめどなく駆け抜けていった。
もう何十年前になるだろうか──。
最後にあの方と言葉を交わしたのは──。
遠い少年の日に見たあの五節の舞姫への恋は、けっきょくは成就することの叶わなかったというのに。なぜ──。
記憶は徐々に色鮮やかに、若かった日の宮中でのさまざまな出来事がまるで昨日のことのように蘇ってくる。
いつの日か彼女の心が溶ければと熱心に声をかけ続けたこと。だというのに突然に佐為と結婚して永久に捕まえられぬ人となったこと。それでも諦めきれずに、折に触れて文を交わすだけでも心躍り、彼女が妹のために舞の教習に来ると知った日には勇んで駆けつけた。
ついにあの日があの方と今生で言葉を交わした最後の機会となってしまった──と考える左大臣の目からはいつしか涙が溢れ、視界さえおぼつかないまま歩いていると霊柩車が鳥部野へと着いた。
そうして葬送の儀が終わり、鳥部野一帯を月明かりが照らす中で栞を送る煙が空へと立ち上っていく。
『中納言さま……』
『私は幸せに過ごしております』
もはや左大臣は体裁を取り繕うのも忘れて地に伏せ咽び泣いた。
なぜあの時、佐為の御前での失態にかこつけて策を練る父左大臣を止めなかったのだろう。
栞が自分との再婚など望まぬと知っていながら、なぜ。
あの父を自分程度で止められたかはともかくも、なぜ佐為を遠国へやることに異議を唱えなかったのか。
なぜ──。
「あ、あなたの……誰より美しかったはずの人生を……私は……ッ」
誰よりも幸せを願った人だというのに、失意のまま辛いだけの生涯を過ごさせてしまった。こんな結果など望んでいなかったというのに。
どれほど悔いても、もう取り返しもつかない。と、煙となって天へと還る想い人に左大臣は咽び泣いて請うた。
「あなたにも……佐為殿にも……、許してください……」
ひたすらに天に向かって訴え、左大臣は心から祈った。
どうか浄土で再びあの二人が巡り逢えるように、と。
そして二度と離れず、いつまでも幸せに過ごして欲しいと。
やがて全てが終わり、遺骨を納めた瓶を首に懸けた
その頃には左大臣は涙で頭さえおかしくなって生きているのかすら定かでない心地がしていた。
もはや夜も明けたというのに、空の色さえ分からない。
ただもう、自分も生きるよすがを失ってしまった。
あの方が亡くなられたいま、自分の人生もまた終わりを告げたのだ──。
のちに賢左府として称えられる彼の残した、この時代を知る貴重な史料となる『二条左大臣記』は「四条殿薨去」という五文字を最後にこの日で途切れている。
左大臣はその後もしばらく生きたが、皮肉にも彼の次世代で摂関期は全盛期を迎え、瞬く間に院政と武士の台頭によりその栄華は途絶えた。
栞や佐為、博雅たちの生きた時代は王政・王朝文化のもっとも鮮やかに花開いた世として煌めき、輝いて、そして多くを語られることなくひっそりと時の流れの中に儚く消えていった。
そうして百年が過ぎ、千年という時を経ても変わらぬ月明かりが今日も地上を照らしつける。
誰が真実を知らずとも、彼らは確かにその時代に生まれ、愛し、ただ懸命に生きた。
その語られない物語を知る術はなく、ただ一陣の風のようにあの時代を駆け抜けた人がいたという事実がそこにあるのみである。