藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第三話:目的

「栞殿、もう一局! もう一局だけ……!」

「先ほどもそうおっしゃって、これでもう三度目ですよ」

「これで最後にしますから……!」

 

 登華殿に響くやりとりを女房たちは遠巻きに、慣れたように見つめていた。

 

「栞殿がいらっしゃると佐為の君は必ず長居なさって……、すっかりお目当ては栞殿ね」

「栞殿というよりは、栞殿との対局が目当てと言った方が正しそうですけども」

「ああ刻一刻と栞殿のお顔が険しくなっていくわ」

「これまで容赦なしの連敗ですもの……、私なら石でも投げつけてやりたいところです」

「普段はお優しい佐為の君ですのに……栞殿には容赦のないこと」

 

 夏が過ぎ、京の都は秋へと移ろいつつあった。

 ──あの登華殿での佐為と栞の“打ち掛け”続きの対局後。

 佐為は登華殿勤めの女房に栞の参内予定を聞いては登華殿に詰めかけて碁を打つということを幾度となく繰り返していた。

 その内容は傍目にも情け容赦なく、今のところ最初の一局を除いて栞の黒星続き。ゆえにすこぶる楽しそうな佐為の前で、次第に凍りついていく栞という図が風物詩となりつつある。

 

「でもそこは負けん気の栞殿ですから、腕を上げているのが見て取れます」

 

 笑いながらそんな風に言ったのは清少納言だ。

 しかし、と他の女房が悩ましげにため息を吐く。

 

「せっかく佐為の君がお見えなのに、栞殿とばかりと打っていらしてつまりませんわ」

「そうね、そろそろ栞殿を助けて差し上げなくては」

 

 清少納言はきりの良さそうなところで二人に割って入った。

 

「あまり大臣(おとど)の姫を独占なさらないでくださいませ」

 

 佐為は囲碁のこととなると周りが見えなくなるきらいがある。その一言ではっと我に返ったらしき彼は自嘲気味な笑みをこぼした。

 

「栞殿がお強いので、つい」

「それは結構なことですが、私にとっても栞殿と過ごす時間は貴重なのですから。佐為の君はほかの方々のお相手もなさってくださいませ」

 

 言って栞を連れ出せば、彼女は相当に疲労困憊していたのかほっと大きく息を吐いた。

 清少納言にしても、あの初夏の夜のできごとがこのように発展するとは思っておらず、多少なりとも責任を感じてしまう。

 外で風にあたってくるという栞を見送り、清少納言は肩で息をした。佐為が栞本人に執着しているのならまだいいが、あれはおそらく──と浮かべた思いを掻き消すように首を振るう。

 

 

 一方の栞は弘徽殿を臨む庭のそばに座り込んでぼんやりと外を見ていた。

 それからどれほど経っただろうか。

 

「いけませんね、大臣家の姫ともあろうお方がそんな場所で姿を晒して」

 

 聞こえてきた声に栞は振り返らずため息を吐く。

 

「今さら佐為の君からそのようなお言葉をいただくとは思いもよりませんでした」

 

 女房たちとの対局は一通り終わったのか、振り返ると隣へと腰を下ろした声の主──佐為と目が合った。

 むろん彼が本気で咎めているわけではないのは見てとれ、いつも通りの穏やかな声を唇に乗せている。

 

「あなたを初めて見た時はなんと美しい少年かと思い、二度目にお会いした時は尊貴なしとやかさが流石は大臣家の姫だと思ったものですが……」

「なにがおっしゃりたいんです……?」

「いえ、よくもまああれこれお化けになると感心しまして」

 

 袖口で口元を隠しながら佐為は笑みを零し、栞はむっと頬を膨らませた。

 

「実態がこのような姫でがっかりされたやもしれませんが、それでも私が大臣(おとど)の姫であるということはお忘れなく。侍従の君」

 

 今度は栞が冗談めかしたのだが、佐為はさすがに不味いと感じたのだろう。取り繕うように栞の瞳をじっと見やる。

 

「栞殿のそのご性質により私はあなたと碁を打つ幸運に恵まれたのですから……、がっかりどころか神に感謝していますよ」

「大袈裟なことを……」

 

 栞は小さく息を吐いた。

 眼前のこの殿方(ひと)にとって、自分は優れた対局相手以外の何者でもないのだろう。

 

「私は佐為の君と出会ってすっかり自信をなくしてしまいました。碁では人より秀でていると自負しておりましたのに」

「なにをおっしゃいます。栞殿は十分にお強いですよ。私が手加減できないのもあなたの技量があればこそですから。できればもっと──」

 

 そんな会話をしていると、ふいに近場の木々が揺れる音がした。人の気配だ。佐為は慌てたように栞の腕を引いて自身の胸へと引き寄せる。とっさに栞の姿を隠そうとしたのだろう。

 

「──佐為の侍従……?」

 

 栞は不意に目の前が緋の袍で覆われ目を見開いたが、聞こえてきた声は見知ったもので、「あ」と佐為から身を離す。

 

「博雅さま……!」

 

 博雅の声だ。簀子の外に顔を向ければ博雅と目が合うも、彼の方は驚いたのだろう。窪みがちの目を大きく見開いている。

 

「栞……!? なぜ佐為殿と……」

 

 その反応から要らぬ誤解を与えたと悟った栞はしまったと額を押さえた。誤解を解くべく説明する。

 

「佐為の君と登華殿で碁を打っていたんです。それで……少しお話をしていただけなのですが……急に物音がしたので私を匿おうとなさったのですよ」

 

 たぶん、と佐為を見上げると彼はどこかバツの悪い顔を浮かべている。

 

博雅三位(はくがのさんみ)とは知らず……、姫君のお姿が白昼に晒されては、と慌ててしまいまして」

「なるほど。だがこの宮中で栞の顔を知らぬ者はそうはおらんぞ、佐為殿」

 

 博雅はというと、さして気にする様子もなく肩を揺らしている。

 聞けば彼は隣の貞観殿に用のあった帰りらしく、栞の様子もついでに見ていこうとこちらに寄ったということだ。

 

「私はこれで退出するが、おまえはどうする?」

「では私も。女御にご挨拶申し上げてきます」

 

 言って栞は彼らに背を向けて母屋の方へ向かい、残された二人はどちらともなしに顔を見合わせる。

 

「佐為殿と碁を打っている、とは栞に聞いてはいたが……。さすがにそなたからすると不足の相手であろう?」

「いいえ、栞殿との対局はいつも楽しませていただいております。栞殿に手ほどきをされたというお父上の(そち)大臣(おとど)は相当な打ち手なのでしょうね」

「うーむ……、栞は筋が良かったようで父君よりも上かもしれんぞ。父君に似て武芸にも秀でているんだが……悪いことに私に似たのか和歌(うた)の類はさっぱりでな。そなたには物足りぬであろうよ」

 

 佐為はやや首を捻る。武芸? どういう意味だ? 考えるも、博雅は宮中の「変わり者」の呼び声高い人物だ。深い意味はないのだろう。

 

博雅三位(はくがのさんみ)こそは神に愛された管弦の才をお持ちではありませんか」

「神とはまた大袈裟な。私はただ楽が好きなだけだよ」

「ご謙遜を」

 

 話をしていると栞が戻り、二人は揃って後宮をあとにして内裏を出、牛車に揺られた。

 

「しかし間近で見ると華やかな人だなあ佐為殿は。宮廷中の女官や女房がこぞってかしましいわけだよ」

 

 感慨深げに博雅が言い、栞は小さく息を吐いた。まさかこの博雅までもがあの美貌に魅入られるとはと空恐ろしく思っていると、博雅は面白げに軽口を叩く。

 

「おまえも例に漏れずその一人か?」

「──美しい方だとは思いますけど! でも、佐為の君は私のことを(てい)のいい対局相手とお思いですから」

「佐為殿の指導碁は丁寧で分かりやすいと主上(おかみ)からも評判だぞ?」

「私とは勝負をしておいでなので、丁寧でお優しいところはございませんね」

「さりとて手加減されたらお前のことだ。それはそれでむくれるのだろう?」

 

 ははは、と博雅は肩を揺らし、栞は少々頬を膨らませる。

 確かに博雅の言う通りではある。その通りなのだが、黒星ばかりが続くと気も滅入るというものだ。

 彼の人となりを知ろうと世間話でもと思っても、二言目には「もう一局」。その繰り返しだ。

 いっそしばらく引き篭もって師でも付け、碁の腕を磨こうか。

 

「あ……!」

 

 そんなことを考えていると、あることを思い出して栞は「そうだ」と博雅を見た。

 

「先ほど女御に挨拶した際に言われたんです……久方ぶりに舞を見せて欲しいと。なので博雅さまも揃って近々お召しのようです」

「そうか。ならば今日はこのまま共に四条へゆこう、少しは心づもりをせねばな」

「はい。……私が登華殿へ上がると最近はずっと佐為の君と打っているものですから、女御もきっと飽きられたんだわ」

 

 栞は再び息を吐いた。

 この博雅の例を見るまでもなく近親者に「何々狂い」と形容される人物が多いものだから、佐為の囲碁狂いも理解できないわけではないのだが。

 むしろ……、と栞はそっと懐から自身の扇を取り出して目線を落とした。むしろ、素直に「何々狂い」をやれることは羨ましくもある。自分はどれほど望んでも()()()()()()()()()()のだから。無意識に眉を寄せつつ自嘲する。

 とはいえ、一つのことに情熱を傾けすぎると他が疎かになるのは世の常で、この目の前の博雅も楽狂いによって公務に支障をきたすことがままある。それでも彼の身分なればせいぜい軽い嫌味を言われる程度で済んでいるが、佐為はそうもいかないだろう。

 あの調子で通常の公務をこなせているのか不安……というのは余計な世話だろうか。

 

 

 佐為の主な職務は今上への囲碁指南であるが、それのみに従事しているわけではなく他の業務も担っている。

 基本は帝の側に控えての雑務であり、書の作成や同じく帝の側に控える内侍の女官との連絡のため内侍所のある温明殿と清涼殿を行き来することも多い。

 後宮への出入りも佐為自身の自由意思で行なっているというよりは後宮を取り仕切る中宮職を通して后妃たちから召されたゆえであり、決められた順でそれぞれの殿舎を廻っているに過ぎない。あくまで『公務内』に限ればの話であるが。

 

 ゆえに栞との対局が叶うのは公務が済んだあと、かつ栞自身が参内している日に限定されるのだ。

 それさえも登華殿に赴いての対局となり、そして登華殿にとって彼女は客人。とあらば、栞とばかり打っているわけにもいかず、できれば心ゆくまで対局したい。などと思うのは望みが過ぎるというものだろうか。と、秋も深まりつつあるとある日の午後、佐為は清涼殿を出て後宮へと続く渡殿を歩いていた。

 ──栞の棋力は間違いなく宮中でも一、二を争う上に打つたびに腕を上げているのだ。職務上、本気で打てる対局の機会に恵まれることは無きに等しい佐為にとっては得難い相手に他ならない。

 自身で最善の一手を追求し続けるのも乙であるが、やはり手応えのある誰かとの対局は心躍らされる。

 あの夏の夜に彼女と巡り合えた事はなんという幸運であったことか。

 できればもっと……と思う気持ちは、しかしながらやはり過ぎた願いだろう。なんと言っても栞は大臣家の姫。本来ならば生涯顔を合わすことすら叶わない相手である。

 そんな相手との対局が叶うだけでも幸運なのだ。それ以上の贅沢は──。

 

「おや……」

 

 そんなことを考えつつ、清涼殿を出て右手側へと向けようとしていた足を佐為は止めた。

 ふいに北の方から横笛の音が聞こえてきたのだ。登華殿の方角だ。

 

博雅三位(はくがのさんみ)……?」

 

 その音色は間違いなく博雅の奏でる笛の音で、佐為は私用で向かおうとしていた麗景殿への予定を切り替え登華殿へと急いだ。

 

 “長秋卿”と呼ばれている博雅はその通り名の通り中宮職──長秋宮は帝の正妃が住まう御殿の漢名──の要を務めている。

 ゆえに彼が後宮にいることは珍しくはないが、それでも登華殿に上がっているということは。もしや栞も参上しているのではという淡い期待があった。

 

 弘徽殿から登華殿への回廊を通り東廂へと臨む渡殿へ出る。

 すると佐為の瞳に思いがけず黒の袍に身を包んだ男が廂に座っている姿が映った。その男は熱心に母屋を見つめており、佐為は無意識に足を止める。

 

(とう)の中納言……」

 

 その人物が誰かを確認して佐為は呟いた。自身よりも幾分若い摂関家の嫡男だ。

 

「佐為殿……」

 

 彼の方も気づいたのだろう。目線を送ってきて、佐為は一度頭を下げた。

 すれば彼は刹那の間でも惜しいとばかりに視線を母屋に戻し、佐為は少しばかり首を捻る。

 中に何かあるのだろうか?

 博雅の笛の音と共に床を踏み鳴らすような音が聞こえる。

 下ろされた御簾のせいで中が見えないが、誰か舞でも舞っているのだろうか。

 思いつつ中納言のそばまで歩いていき、上げられた御簾の先を見やる。瞬間、あ、と佐為は目を見張った。

 水干の袖が翻されて舞い、見覚えのある特徴的な扇がパッと視界に飛び込んでくる。

 

「……栞殿……」

 

 軽やかにその身を博雅の笛の音に委ねる姿は、彼女を初めて見たあの夜を佐為に思い起こさせた。

 凛として上品で、現世(うつしよ)のものではないと思わせたほどにどこか浮世離れしていて……と立ち尽くしていると、中納言が座るよう促してくる。

 そもそもなぜ彼はここにいるのだろう。思いつつ従うと、目線の先の彼は目を細めた。

 

「こちらの女御さまに請われて長秋卿が栞殿と舞を披露されると聞き及び、これは見逃せぬとついてきたのですよ」

 

 栞の舞が目当てで来たと言う中納言は、さらに頬を緩めてどこか懐かしむような目をした。

 

「大嘗会での五節の舞が忘れられなくてね」

「大嘗会で……栞殿が……?」

 

 栞から視線を離さないまま中納言が呟き、佐為は思わず彼を凝視した。

 その反応が中納言には意外だったのか、中納言は一瞬だけ視線を佐為に戻す。

 

(そち)大臣(おとど)の……先の左大将の姫が舞の上手というのは内裏中に響いていたし、主上(おかみ)は春宮時代から見知っておられたから左大将に是非にと請われたのだよ。そして帳台試から豊明節会(とよのあかりのせちえ)までそれは素晴らしい舞を披露して……感嘆された主上(おかみ)が栞殿に四位(しい)叙位(じょい)されたことは宮中の誰もが知っていることと思っていたが、そなたが初耳とは意外な」

「大嘗会の折は私はまだ宮中に上がっておりませんでしたので……」

 

 そうか、とさして気に留めた様子のない中納言の視線は栞に縫い留められたままだ。

 ──聞き覚えのない楽曲。おそらく博雅自身が作ったものだろう。栞の舞も、知る限り見覚えのない振りだ。

 まるで少年のような──。本来は深窓の姫であるはずだというのに。だが凛々しいその姿に不思議と魅せられていると、笛の音が止んで栞は女御に挨拶をした。

 

「栞殿のあのお姿はやはりどんな男君より素敵ですわあ」

「佐為の君に勝るとも劣らずで……、あら」

 

 そんな声を上げた女房たちは佐為の姿に気づいたのだろう。ハッとしたように自分たちの口元を扇で覆って口をつぐんだ。

 そのせいだろうか。あ、と廂の方を振り返った栞がこちらに気づく。

 

「中納言さま……、佐為の君も」

「忍んで観ているつもりが、あまりの美しさにそばに寄らずにはいられなかったのです。栞殿……いつ観てもあなたの舞は素晴らしい」

 

 佐為が声をかけるよりも先に中納言が栞に歩み寄り、彼女は困ったように肩を竦めた。

 

「博雅さまの笛の音があればこそです。私などまだ……」

「もちろん長秋卿の笛も抜きん出ているが、あなたの舞が観たくて来たのですから」

 

 中納言は栞の両手を取って熱心に語りかけ、佐為は少しだけ眉を寄せた。

 熱っぽく彼女を見つめる中納言の気持ちは明白に見てとれ、とあることを思い出す。

 

 ──彼には、先帝が内親王を降嫁させたいと強く望んでいた。話が出た当時はまだ宰相だった彼が中納言に進んだのもそういう背景があると認識している。

 

 だというのに彼は未だ首を縦に振っていない。少なからず皆が不審に思っていたが、もしかすると栞が原因なのでは。と息を飲む。

 摂関家の跡取りともなれば妻を複数持っても障りはないが、内親王(ひめみこ)大臣(おとど)の姫を同時期にというのはいささか外聞が悪い。

 そうでなくとも未婚の彼には宮家や他の権門から数多の婚姻話があるというのに。考えて佐為はハッとした。

 自分からはあまりに遠すぎる世界の話ではないか、と自嘲する。

 そうだ……、栞は大臣家の姫なのだ。こうして目通りが叶うだけでも信じられないほど本来ならば遠い存在。もし彼女が誰かの妻となれば、もはやこうして顔を合わせることさえ叶わなくなるだろう。

 彼女にとて求婚の話は数多来ているはずだ……と目の前の二人のやりとりを見やっていると、博雅もこちらへと歩いてきた。

 

「わざわざお出ましいただいた甲斐はあったかな、藤の中納言?」

 

 その一言に、中納言はああと頷いてようやく栞の手を離した。

 

「今日ここに居合わせた幸運は明日にもみなの羨みの的となるでしょうね」

 

 そりゃ良かった。と笑った博雅は今度は佐為を見た。

 

「……で、そなたは何を?」

「あ、ええ……」

 

 ええと、と話を振られた佐為は口籠ってしまう。

 

「その……麗景殿に行こうと向かっておりましたら博雅三位(はくがのさんみ)の笛が聞こえたもので……」

 

 栞がいるやもと思いこちらに来た。というのは言わずにいた佐為だが、直後に今の言葉を後悔した。

 ああ、と意味ありげに中納言が檜扇を開く。

 

「麗景殿といえば、麗景殿いちの才ある女房と名高い宰相の君はそなたの馴染みだそうですね」

 

 え、と佐為は目を見張った。いまそこに触れるとはなんと無粋な。反論が脳裏を巡ったが、むろん中納言には通じない。

 

「そんな方との逢瀬をも邪魔だてするとは、長秋卿の奏でる音の魔力には恐れ入る」

「いえ、その……」

 

 博雅も軽い笑みを零しており、はっと佐為は栞を見やる。

 すれば、一瞬確かに目が合った彼女はパッと顔を背けて母屋の方へと踵を返してしまった。

 

 

「栞殿……!」

 

 その後、中納言と博雅がともに清涼殿の方へ戻るのを見届けてから佐為は栞を探した。

 彼女は水干から小袿に着替えており、北廂に面した簀子の隅に座ってぼんやりと外を見つめていて声をかければこちらを見上げてくる。

 

「佐為の君……、なにか? 博雅さまはどちらに……?」

「あ、博雅三位(はくがのさんみ)なら中納言殿と話し込んで、そのまま二条の中納言殿のお屋敷で宴を催すなどとおっしゃって退出されましたが」

「え──!? もう、博雅さまはお酒が絡むとこれだから……」

 

 栞は目を見開いた後に頭を抱える。博雅が天下の酒豪でもあることは佐為を含めた宮廷中が知っている周知の事実である。

 

「せめて一言言って下さってからでもいいのに置いていくなんて……」

「まあ、博雅三位(はくがのさんみ)もお付き合いがあるでしょうから……」

「佐為の君は……?」

「え?」

「ご一緒に行かれなくてよかったのですか? せっかくの機会でしたのに」

「いえ、私は」

「それともこれから麗景殿へ行かれるの……?」

 

 ふいと栞が視線を逸らし、隣に腰を下ろした佐為はギョッとする。

 麗景殿へ行こうとしていたことは事実であるし中納言が暴露してくれたことも事実だが、なんとも決まり悪い。

 それに──。

 

「私はあなたに会えると思って登華殿へと足を運んだのです」

「……え?」

博雅三位(はくがのさんみ)の笛の音が聞こえたので、栞殿も一緒に上がられているかと……それで」

「そ、そう……ですか」

 

 こちらを見上げた栞がわずかに目を伏せた。

 それはなぜ? とは聞かれなかったが佐為は思ったままを口にする。

 

「私はもっとあなたと碁を打ちたいのです」

 

 瞬間、栞が大きく目を瞠った。

 

「は──?」

 

 碁……? と呟いた栞に佐為は力強く頷く。

 

「はい!」

 

 すれば何をどうしたのか栞は頭を抱えるような仕草で右手を額にやり、小さく首を振るった。

 

「佐為の君とは既に十分に打っていると私は認識していますが」

「ですがこの登華殿では栞殿とばかり打つわけにもいきませんし、誰にも邪魔されずに打ちたいのです。できれば一晩中でも」

 

 佐為の方は強く訴えるようにして言葉に力を込め、額を押さえていた栞の手を取る。一瞬だけ表情の固まった栞は呆れたような息を吐いた。

 

「それは……、四条に、私の屋敷に来て打ちたいという意味でしょうか」

「え……!?」

 

 場所までは考えていなかった。言いかけた佐為は口を噤む。

 どこでも良い、言ったところで栞が佐為の家に出向くことは身分柄不可能だ。

 残る手段はせいぜい博雅の屋敷にお互い出向くくらいで、実質の選択肢は栞の言う通り四条の屋敷しかない。

 

 だが、それの意味するところは──。

 

 意味するところは、と佐為はもう一度ジッと栞を見た。

 なんの疑いもなく、()()()()()と思っている。栞は美しく可愛らしいし──歳のわりにややあどけなさが残ってはいるが、なにより碁の腕は申し分ない。

 問題は自分程度の身分ではどうこうできる相手ではないということだ。

 それでも、この人が他の男(ほか)に取られれば二度と対局が叶わなくなる──、佐為は栞の右手を包んでいた手に力を込める。

 

「私は……。ええ、もし許されるならば」

「まあ、私は構いませんけど……」

「え──!?」

 

 が、やけにあっさり承諾されて佐為は内心目を剥いた。裏腹に栞は小首を傾げている。

 

「佐為の君は本当にそれでよろしいの?」

 

 この人はいまの口約束が()()()()()()()()()分かっているのだろうか?

 やはりどうも頼りないような……。やや彼女の頬が染まったように見えるのも暮れてきた陽のせいかもしれない。

 世慣れない娘にしても、このような女人(ひと)は初めてだ。それとも深窓の姫とはみなこうなのだろうか?

 いずれにせよ、説明するのも野暮だろう。藪蛇になれば厄介だ。

 素知らぬふりで栞に合わせていれば、そのうちに気付くはず。

 

「では……約束ですよ」

 

 言って、佐為は薄く笑った。

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