あれからいったいどれほどの時が流れただろう──。
ここはかつて「江戸」と呼ばれた地である。が、いまは「東京」という名らしい。
と、藤原佐為は未だ見慣れぬ高層ビルとやらを視界に映して感嘆の息を吐いた。
およそ千年ほど前に終えたはずの人生だというのに、しかしながら浄土へゆくことも叶わず、もとよりそのような場所はないのか、はたまた神仏のいたずらゆえか。かつて在ったはずの身だけを失い、この世ともあの世とも分からぬところに魂となって留まってしまった。
もしや碁への執着が怨念となって残ってしまったのでは。と思い至ったのはどこぞの碁盤に取り憑くようにして宿って長い長い時が経ってからだ。
碁盤から顔を出すことくらいしか叶わぬゆえに時おり人の声がしては出て行ってみたりを繰り返したが、人なる者にはこの姿は見えないらしく。
たまに僧や陰陽師のような怪しげなものが来ては悪霊だなんだと怯えるものだから、もはや碁盤の中でジッとしていることに決めた。
にしても悪霊扱いとはなんたる無礼──と思うものの、自分で自分の姿は見えず。仮に鏡などあっても映るはずもなく。
生前は人に褒めそやされる容貌をしていたはずだが、それほど変わり果ててしまったのだろうか。と、髪に手をやってため息を吐く。
なんともみっともないが、結い上げていたはずの髪は解けてそのままになっているようだ。辛うじて烏帽子は被っているのだから恥にまではなるまいが──思いつつもう一度ため息を吐く。
まだ藤原佐為として現世に在った最期のことははっきりとは覚えていない。
誘われるように水に入って、いつの間にか意識が遠のいていた。
苦しかったはずだがはっきり覚えていないし、烏帽子など脱げたはずなのに被っているし。おぼろげな記憶がいま着ているものや姿を形取っているとすれば、自身は生前とは違うものになってしまったのやもしれない。
思いつつ、佐為は自身が唯一手に取ることのできる扇を取り出した。
「……」
これだけは離すまいと強く思ったせいだろうか。それとも碁の勝者は我だという証への執着か。遠い昔に、大切だったはずのひとから手渡されたもの──。
そうして何百年もの時が経ち、ついに自身の声を拾った幼子に佐為は取り憑いた。久々の現世は武士勢が力を得た時代だったらしく、江戸という地の将軍の前で御城碁を打つに至った。
しかしながら長年を共にした彼が不幸にも死に至り、佐為は再び碁盤へと戻ることとなる。
そしてまた百年以上を経て自身の声を聞く相手と巡り会えたわけであるが──。
高層ビルに囲まれた佐為のため息はより深いものに変わってゆく。
進藤ヒカル、と名乗った少年に取り憑いてから二、三ヶ月ほどが経つが、こたびの現世は一筋縄ではいかない世のようだ。
ヒカルは囲碁にはまるで興味なしといった普通の子供であったし、だが子供ゆえだろうか。自身が身の上を話すと純粋に同情を示したのが彼の意識を通じて伝った。
しかし実のところ、平安京で過ごした日々はあまりに遠すぎて全てを鮮明に記憶しているかと問われればそうでもない。
宮中に上がってあの御代の帝に仕えていたが、細かい作法はすっかり忘れてしまった。もはや着ていたはずの束帯すら思い出せず、いま着ている狩衣しか具体的に連想できない。
それさえも自身の記憶を頼りに形取られているらしいのだから、いま着ているものと自分が最期に着ていたものが同じであるかは自信がない。
現にあの当時は足袋などはいていなかった気がするが、江戸城で長いこと足袋を見てきたせいか気づいた時には自身もはいており、魂魄とはいい加減なものだと我ながら思ったものだ。
その調子で自身の生きた世よりも記憶の新しい江戸の世の方が詳しい始末で、ヒカルには謀られた末に京を追われて入水したとだけ伝えた。
その方が同情を得やすい、という計算がないわけではなかったが細かいことなどとても思い出せないし、そんな身の上話をくどくど聞かせてなんの意味があろうか。
その上、相手はまだ子供なのだ。大人が諭すように聞かせても説教くさくなるだけ。よほどのことでない限りは相手に合わせて言葉を交わすのが筋だろう。
元よりヒカルは平安にも江戸にも全く興味を示さず、口を開こうものなら許可なく喋るなと訴えられる始末で現世に蘇った直後にこう誓った。あちらから聞かれない限り余計な口は挟まず喋らない、と。
人を宿主として間借りするのだから、共存のための掟と思えば安いものである。
それにしても──、と佐為は思った。
中学校とやらに進んだヒカルは毎日居眠りに勤しむ日々だ。
この少年はそれほど勉強熱心ではないらしく、ほとんどの授業で上の空か居眠りといった有り様。最初の頃は呆れもしていたが、ヒカルはあくまで宿主。余計な口は挟まない。
それに、佐為にしても自身が生きていた時代はおろか江戸の頃ともまるで違う勉学の内容にそこまでの興味は持てず──あるいはヒカルの意識に影響を受けたがゆえか──授業中はうわの空でいることが多かった。
それでも古典や漢詩の授業、歴史の一部分は馴染みがあり、興味を持って聞くこともあったが、自身の知識と教師の教える内容に差異を感じ頭が混乱すること数度。
今の世にも残る万葉や古今の
そうして現世に戻り、半年ほど経った日のことだろうか。
その日の歴史の授業を、常通りに眠りこけるヒカルのかたわらで佐為はじっと聞いていた。
前回の授業では平城の都から京への遷都の話が出たゆえに、今日はおそらく自身の生きた時代の話も聞けるだろう。
こんな機会でもなければ思い返すこともなく、思い返してさえ気の遠くなるほど昔のことゆえに今では夢か幻のような気さえしているが。
それでも古典の授業では清少納言や藤式部──彼女は紫式部と呼ばれているようだ──といった懐かしい名を耳にして、やはりあの京に自分は確かに生きていたのだと実感するに至った。
そして──。
「それで菅原道真は大宰府に──」
教師の話を聞きながら、はぁ、と佐為は感嘆の息を吐いた。
千年経った世でさえ道真公の騒動が語り継がれているとは、当の本人すら予想だにしなかったに違いない。
とはいえ、
だというのに、今の世の人からは同情と尊敬を集めているらしく、歴史とはわからぬものだ。
もっとも千年先の世がこれほどまでに様変わりするとは、それこそ想像だにしていなかったことであるが──。
教師が当時の習慣などを語り始め、「貴族は毎日日記を書いていた」などと述べながら今なお現存しているというあの時代の貴族日記を挙げ始めた。
佐為自身も例に漏れず書いていた記憶は薄ぼんやりとあるが、さすがに自身のものは伝え残っておるまい。浮かべつつ耳を傾ける。
「中でも価値が高いと言われているのは“二条左大臣記”だな。通称“二左記”と呼ばれるこの日記の作者は賢左府と称えられたほどの人物で、
そこまで聞いて、佐為は意図せず切れ長の瞳を極限まで見開いた。はるか昔に聞いた、覚えのある名だ。
「藤の中納言──!」
思わず声を張ったものの教師に聞こえるはずもなく、佐為は千年ぶりに聞いたその名に瞳を揺らして記憶を手繰った。
彼は自身が生きていた時分の摂関家の嫡男で、そして──と無意識に手にしていた扇を強く握りしめる。
聞けば、彼は最終的に左大臣に昇り詰めてその地位に長く留まり朝廷に尽くし、その思慮深さと優れた手腕で「賢左府」と称えられ人々に慕われたという。また長寿であった彼は欠かさず日記を書き続け、膨大な量のそれは今日の歴史学に多大な貢献をしているということだ。
「藤の中納言が……」
教師の言葉の真偽はともかくも、あれほどの権門の公達であれば歴史にその名が残るのも道理か。と、佐為は彼の姿形は思い出せずともいつも見ていた黒袍を浮かべて苦く笑った。
教師はなお続ける。
「二左記がこうも取り上げられるのには他にこんな理由がある。通常、この頃の貴族の日記に書かれるのは公のことというルールがあるんだ。例えば今日は朝廷でこんな行事をやってこういう流れで……と次世代にしきたりを伝えるマニュアルのようなものと言えば分かりやすいかな。二左記も基本的にはそうなんだが、一つだけ例外があった。この二左記は彼の若い日の大嘗祭の記録から始まるんだが……そこで彼は五節の舞姫の一人に恋をしたらしい」
ざわ、とそこで所在なげに聞いていた生徒たちが反応した。
佐為の方も同様で──生徒に釣られたわけでなく──息を呑んだ。
教師は反応が来るのを長年の経験で知っているのか、五節の舞姫とはどのような少女たちであるかを説明してから続けた。
「それ以来その舞姫のことだけはこの日記にたびたび登場するんだが、和歌の返事がいつも代筆で落ち込んだり、御所で会えた時は嬉しさで食事が喉を通らなかったり、求婚をいく度も断られて泣いたりと彼の恋する様子だけは生き生き描かれていて、“恋日記”とも呼ばれているんだ」
ははは、と教師は軽い笑みをこぼした。
女子生徒の一人がその恋は叶ったのかと質問している。佐為は人知れず苦く笑った。
「うん……。残念ながら、彼女は別の男性と結婚してしまったらしく……、その姫の婚礼の話を聞いた日からしばらくショックで日記が止まっているんだ」
「えー、かわいそー」
さすがに「それは私」などと茶化す気にはなれず、佐為はそっと目を伏せた。もう何もかもが遠い日に過ぎ去ったできごとだ。
教師はさらに続けた。恋の相手は清少納言の随筆の中にも登場する、時の大臣のお姫さま。舞の才能があってそれはそれは美しく賢い姫であったという。
「ただ……この姫が誰と結婚したかは、清少納言の随筆にもこの日記にも書かれてなくて、謎も多いんだが……。まあ10世紀の現存する史料は少ないから、分かることの方が珍しいんだけどな」
「この時代って女の人は名前も残ってないんですよね?」
「ああ、そうだな。この姫も実名を伝える史料は見つかっていないみたいだ。一般には
ドクッ、とそこで佐為は失ったはずの心臓が確かに脈打ったような気がした。
「栞…………」
ああ、その名を他者から聞く日など二度と来ないと思っていたというのに。
『佐為の君……!』
今も、彼女の声だけはこうして思い出せる。必死に思い出さないよう努めていた、自身のただ一人の妻──。
彼女が自分の亡きあとどう過ごしていたか、考えることすら恐ろしくてずっと思い出さないよう努めていた。
どうあっても哀れな姿しか想像できず、それは自分のせいだという咎から目を背けたかったのやもしれない。そうしていつしか本当に姿までも思い出せなくなって──。
佐為の心情など知るよしもなく、教師は話を続けている。
「どうもこの栞姫は晩年は身寄りもなくして、子供がいた記録もないから夫とも離婚か死に別れたらしく……、二左記でも度々気遣う話が出てくるんだ。そしてこの二左記が恋日記たる所以は、栞姫の死の記録を最後に途切れてるんだよ。左大臣はその後も生きていたから、意図的にそこで書くことをやめたんだろう」
え──!? と佐為は瞠目した。
栞が死んだ……?
思わず扇を開いて口元を覆う。
みな千年前に亡くなっているのだから当然なのだが……。
そうか。
彼女は亡くなったのか──と重く実感したせいで震えた頬を隠すようにそのまま扇で顔を覆った。
教師は藤の中納言に──左大臣に好意的なのか、栞への恋と共に始まり、恋の終わりと共に途絶えた日記はこれ以上ない一途な恋の証明である云々と熱を込めて語っている。
他の貴族の日記によれば左大臣は身分も顧みず泣きながら栞の葬儀に参列したらしく、佐為は小さく唸った。
今の世の人がどれほどの実感をもって語っているかは分からないが、左大臣ともなれば並ぶもののない天下人。それが親族でもないものの葬儀に参列し、しかも人前で泣き腫らすなど考えられもしないことだ。
中納言はそれほどまでに生涯をかけて栞を愛し抜いたのか──。
感じる反面、佐為は少しだけ安堵もしていた。
いま教師が語った話が事実ならば、自身の亡き後に栞が彼と再婚ということはなかったのだ。
こんなことに安堵する自分が浅ましいが、もしもあのあと栞が中納言と縁付いていたら……と知るのが怖くて考えることすら拒否していたのも事実。
しかしながら安堵する佐為の胸には、やや苦しさも飛来する。
子供がいなかったということは、やはり栞が自身の子を宿すことはなかったということ。
ならば、あの後の生涯を彼女は独りで過ごしたのだろうか。
あの広大な四条の屋敷で──。
見上げた太陽が眩い。
いまの季節は夏だろうか。と、佐為はその日の午後の体育にて蹴鞠に似たサッカーとやらに精を出すヒカルたちを見やりつつ思った。
千年の時を経ても陽の光は眩いものだ。
──栞……。
この夏の日差しのように明るく、爽やかな気質の
派手やかな、やや昔じみた百合襲ねの衣装が似合う可憐で華やかな……と佐為は柳眉を寄せた。
彼女が好んで着ていた百合襲ねの
交わした数々の言葉や最後に触れた額のあたたかさ、手にかかった涙の感触は覚えているというのに。
『必ず……必ず帰っていらしてね……、私のところへ』
よく笑うひとだったはずなのに、おぼろげにでも思い出せるのは別れ際の泣き濡れた顔だけだ。
彼女と打った何千という対局の石の並びは今もはっきり覚えているというのに、妻だったひとの顔さえ忘れてしまうとは。我ながら本当にどうかしている。彼女が愛してくれるほどに愛していたかはともかく、大切だったはずだというのに。
今さら考えてもどうにもならないことではあるが──。
事実、栞のことを浮かべても、苦しさや後ろめたさといった感情はあれど、激しく狂おしいまでに彼女を求めるような衝動はもはや完全に忘れ去ってしまった。
それは囲碁だけのためにこの世に留まっているがゆえか、既に身をなくして碁を打つ以外の欲をなくしてしまったためか。
だが、それでも。
彼女と離れたかったわけではないのだ。
あのまま京の都で、生涯をあのひとと過ごすのだと信じて疑わなかった。
だというのに、なぜ私はあのような……と霧がかる最期の風景を思い出して佐為は小さく首を振るった。
そうして少しずつ日々は過ぎ──。
最初はそれほど熱心には囲碁に興味を示さずにいたヒカルは少しずつ碁を覚え、佐為自身もこの時代の定石を覚えて思いのほか棋力の向上を実感した。
が、満足いく日々とはほど遠い。
江戸にあっては生前に夢みた唐の棋待詔のように碁を持って仕え碁に捧げる日々──自身の形代となってくれた人を通してだが──を過ごし、多様な棋士たちと研磨し合って充実した幸せな生活を送っていたというのに。
だがそれも夢半ばで潰え、今度こそはと久々の現世で意気込むも、ヒカルは前の人のようには身を借してはくれない。
彼はまだ子供とはいえ平安の世なら元服してもおかしくない歳ゆえに自我があったせいか、それともこの現世の特徴なのか。生前の貴族という身分意識が抜けきれず思い通りにいかないことに最初は戸惑ったが、是非も無いと切り替えた。こちらには無限の時間があるのだし、ヒカルが死ねばまた次の誰かを待てばよいことなのだ。
だから間借りしている立場上、余計な口出しはしない。そう最初に決めた掟は囲碁に関しても同様であったが、意外にも今以上の碁の上達を望むヒカルに請われて徐々に教え導くようになっていった。
自身で思い切り碁を打てない不満はあれど、誰かを教え鍛えるのは初めてのことで思いのほか楽しく、碁にのめり込み上達していくヒカルを見ながら思ったものだ。遠い昔、自分にもこのような時期があった気がする……と。
もうはっきりとは覚えていないが──。
『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい』
我が子がいたら、このような感じであったのだろうか。
ついぞ子を育てる機会には恵まれなかったが、と碁盤を挟んでヒカルを見つつ、負ければ素直に悔しさをあらわにする様子に佐為は笑った。
そうしてヒカルは院生となり、ますます碁漬けの日々となる。
ヒカルが高みを目指すことは、自身にとっても強い棋士が近づくゆえに都合がいい……と思ってしまうのはどうしようもない己の性質であるが、一方で本当にヒカルの成長を見守りたいとも思うようになっていた。
そんな冬の日のことだ。
書店に用があるというヒカルと街を歩いていると、ふと空から白いものが舞い落ちてきた。
「うはっ、雪! 今年はホワイトクリスマスだな!」
ほわいとくりすます? 聞き慣れない言葉に頭を悩ませつつ雪に手をかざすヒカルを眺めていると、どこからか聴き覚えのある音が響いてきた。笛の音だ。佐為は思わず立ち止まって耳を澄ませた。
「? 佐為ー?」
ヒカルに呼ばれたのも知らず、流れてくる旋律を聞きながら佐為は僅かに瞳を見開いた。
「……長慶子……」
そうだ、この旋律──間違いない。
博雅が作り、長慶子と名付けた曲。
「
博雅の奏でる音色でないのは自明だったが、佐為は思わずそう呟いてあたりを見渡した。
すると目線の先の店に置いてあるテレビという箱の中で横笛を奏でている人物が映る。
「佐為……?」
近寄れば、後ろからヒカルが覗き込んできて興味なさげな顔を晒した。
「なんだコレ、雅楽とかいうヤツ?」
「……この曲は長慶子といって、源博雅というお方が作られたものなんです。とても現代的な音色だと評判で──」
「げ、現代的ィ!?」
これが? という反応に佐為は肩を竦めた。
この長慶子を笛、笙や太鼓等々で揃えて奏でればそれはそれは華やかで先進的な音色なのだが。今の世の人──いやヒカルが興味を持てずとも仕方のないこと。
それ以上は述べず、佐為はそっと空を見上げた。
江戸の世でも管弦がまだ息づいているのは聞き知っていたが、まさか長慶子まで今に伝わり奏でられていようとは。
『それになあ佐為殿』
『私はいま譜を書き記しておるのだよ。それを読めば、私ではない誰かも同じように奏でられる』
『この譜が百年ののち、いや千年ののちまで残ればその世の人は楽を奏で、この博雅を知るのだ。私はそれを天から見守ろうぞ』
──あなたはいま、天から見守っておられるのか。
碁がためにこの世に在り続けている身ではあるが、千年の時を経て彼の言葉が真実であったと知れるとは……なんと感慨深い。
あの頃はこうして自身が千年ののちまでこの世に留まるなどとは分かるはずもなく、ずいぶんと軽々しく千年という言葉を口にしていた気がする。
『千年……』
『私はあまり前世や来世など信じていないのですが……そうなったらあなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』
『佐為の君は千年先の世でも囲碁ばかりかもしれませんが……』
千年先の世までも共に過ごそう。いつかそんな会話をした時の栞がどこか苦笑い気味だったのは、あまりに軽々しい言葉だと思われていたせいか。
それとも彼女には見透かされていたのだろうか。
『あなたにとっての私の価値は棋力の高さ……というのは分かっていますが、それでも足りない自分が恨めしいです』
妻にしたいと思ったのは囲碁のため。
だから碁のことは記憶していても、彼女の顔さえ思い出せないのか。
そう思う反面、
そもそも逢ってどうするというのだろう。
あれほどまでに愛してくれたひとを、独り残してきた自分だというのに。
「栞……」
死して、彼女はどこへ行ったのだろうか。
おなごは、初めて身を任せた男に手を引かれて
だとすれば、いまも彼女は彼岸へ渡れずに川岸で私を待ってくれているのか。
ふ、と佐為は自嘲した。
なにを都合のいいことを考えているのだ。
あのひとは神仏など少しも信じていなかったではないか。
仮に待っていたとして、自分は神の一手を極めるまで成仏する気はないのだ。あと千年、二千年とかかるやもしれない時間をただ待たせるなどは哀れ。こちらのことなど早々に忘れて──と考えつつグッと扇の持ち手を握りしめる。
こちらを忘れて生まれ変わりどこかで好きに生きて欲しいと思う一方、本当に忘れられ捨ていかれたらと思うと辛く感じるのだから自身の身勝手さにほとほと呆れ返ってしまう。
もうどこにも居ないひとだというのに──。
考えても詮無いことだ。
せっかく現世に在るのだから碁のことのみを考えていればいい。
そうして過ごしているうちにヒカルはとうとうプロという碁を職にする試験を受けようというところまで来た。
碁ではないが生前に受けた課試もなかなか大変だった記憶があるため、意気込む心情も我がことのように分かるというもの。
ちょうど夏休みに入ったこともあり、ヒカルは院生仲間やヒカル自身で碁会所に通い腕試しをするようになっていた。
そんな夏の日の午後。昼食後に公園を歩きながら自販機でジュースを購入したヒカルは一人ベンチに座って一息ついた。
佐為も彼の隣に座り、午後の日差しを受けてしばらく。うとうととまどろむような不思議な感覚に陥る。
眠いという感覚などあるはずもないというのに、ヒカルの影響なのか。魂となっても午後の日差しが眠りを誘うのは変わらぬのか。
まどろむ脳裏はどこか懐かしい光景を連れてきた。
『佐為の君……!』
絹のような黒髪に赤く鮮やかな
「しおりーーー!!」
その白昼夢をふいに響いた声が掻き消し、はっとした佐為はバッとベンチから立って声のした方を凝視した。
するとヒカルと同い年くらいだろうか。少女が手を振る先にもう一人の少女が駆け寄る様子が映り、佐為は力なく肩を落とす。
きっとあの少女の名を友人が呼んだのだろう。
「佐為……?」
だが、確かに栞に呼ばれた気がしたというのに──と佐為はなんとなく少女たちの方を目で追った。
はっきりとは覚えていないが、派手やかな
あまりに私を想うがゆえに、夢に現れてくれたのだろうか。と佐為はそっと呟いてみる。
「……みをつくし……」
「は……?」
「心尽して思へかも……ここにももとな……夢にし見ゆる……」
そう切なげに漏らしてしばらく。はっとした佐為はぽかんとするヒカルの方を向いて何事もなかったかのようにパッと明るく笑ってみせた。
「万葉集の一首です。古典の授業で出てきたでしょ」
「そーだっけ?」
「
「??? ふーん……?」
さっぱり意味が分からない。と言いたげの顔をさらすヒカルを見て佐為は苦笑いを浮かべた。
栞の
『な、なにごともよろしくお導きくださいませ……』
婚礼の日の夜にその
「けど、おかしいよな?」
「え……?」
「会いたいと思うから夢に見たんじゃねーの?」
「え──!? ち、違いますよ。夢とは……相手がこちらを想うから夢の中にまで現れるものなんです」
「なんだソレ、ぜったいヘン!」
「へ、変……?」
「オレたまに分かるんだよなー夢見てる時のこと。ラーメン食いたいって思ってたらラーメンの夢見るし、ゼッタイ願望だぜソレ」
ドサッとヒカルはベンチの背もたれに勢いよくもたれかかり、佐為は唖然とした。
なぜヒカルはああも正反対のことを──、思いつつそういうこともあるのだろうかとも思う。
そうであれば、
『これを……、せめて私の形代にお連れください』
だが、実はそうではなくて私の方が彼女を──。
考えているとベンチの背後から急にブワッと水飛沫が上がって佐為はハッとそちらを向いた。
公園の池の噴水だ。太陽に反射した水がきらきらと眩しく光っている。
水の欠片が佐為の身体にかかりすり抜け、その煌めきが佐為の脳裏にいつぞやの春の日を思い起こさせた。
このように池を題材に
「心ゆく……水のけしきは今日ぞ見る……」
──こや世に経つるかい沼の池、と下句を継いだのは藤式部だった。心が晴れ晴れする景色を見て生きる甲斐もあろうと。彼女が気の滅入るような恐ろしげな
あの日の夜明けに、栞と四条の屋敷の池を眺めながら強く思った。
美しいあけぼのの風景を抱きながら、彼女とともに生涯を生きていこうと。
だというのに、なぜ──。
例え何があったとて栞と別れる気などなかった。
別れたくなかったのに──。
あの時、左遷の地へと送られる最中の絶望の中でふいに目の前を霧が覆って自分でもわけがわからないまま誘われるように水の中へと入った。
まるで誰かにいざなわれていたかのように──、などと感じるのは自分の選択を誰かのせいにしたいだけなのだろうか。
江戸の時分に長く共にいた人と死に別れ、少しは残される辛さを知ったつもりだ。
栞にはきっと、あれよりも遥かに辛い思いをさせたに違いない。たった独り残されて、帰らぬ私を待ち……。そもそもが彼女に色々なことを諦めさせてきた私だったというのに。
『栞の才は惜しいが、おなごではどうしようもないこともある』
『栞は生まれる時代を違えたのかもしれんな』
もしも私が彼女の人生を狂わせてしまったのならば、やはり次の世では全てを忘れて生きて欲しい。
千年後の世はこれほどまでに様変わりしたのだ。女人も外で学び自由に動き回って、身分というものさえなくなっている。
きっとこのような世に生まれた方が、あのひとには合っているに違いない。
だが、もし叶うならば──。
『必ず……必ず帰っていらしてね……、私のところへ』
叶うならばもう一目だけ────。
佐為は感じたことを心の奥の奥に仕舞い込み、なるべく考えないように努めた。
それ以外にどうしろというのか。自身がここに在るのは神の一手を極めるため。それさえヒカルの元では叶わないかもしれないのだ。
今はヒカルの成長を見守り導くのも悪くないと感じているし、次に誰かの元に蘇った時こそもっと打たせて欲しいとせがもう。
だから今はヒカルの成長を……と過ごす日々を楽しく思うと同時に佐為は少しずつ不安めいたものも覚えるようになっていた。
こちらはヒカルを通してしか打てないというのに、自らが碁打ちとして生きると決めた彼は彼を通してこちらの存在が世に知れるのを嫌った。
よくよく考えれば自分自身の生はあろうことか自身で絶ってしまったのだから言えた義理ではないが、それでも江戸にあっては好きに打てていたし、それを当然として享受してきたために焦るなという方が無理な相談だ。
この人生は自分ではなくヒカル自身のもの。ということに気付かぬふりをして、それでも打ちたいと我を通せば考慮してくれる優しさを見せる彼だったが、それでも己の身を明け渡そうなどとは微塵も思わなかったのだろう。
オレの心はオレのもの。最初に言われた通り、そこは聞き入れ弁えるしかないのだ。
だが、この身がなく誰と会話できるでなく碁石にさえ触れられないことが言い表しようもなく辛い。
などとまさに身から出た錆。ヒカルと打つことは楽しいし、時おり他の誰かと打てればそれで──。
と、ついにプロにまで昇り詰めたヒカルの元に蘇って二年余り。
現世に蘇って、いつかこの者と対局が叶えばと切望し続けた一局が叶った時のできごとだった。
会心の一局を打てた、と感じた直後に、ほんとうに急に雷に打たれたように悟った。
自身がヒカルの身を借りて打つためでなく、自分こそが彼に碁を教え導き、そしてこの一局を見せるためにここに在ったのだと。
神がそうした──、と解釈したが、それがまことであったかは分からない。
ただ、自身がそう悟ってしまったがゆえに、もう現世にはいられないのだとも悟った。未来永劫に存在し続けると思っていたのは誤りで、もう残りの時間がないと自覚した時、一度はこの手で終わらせた「未来」がどこにも無いことに抑えきれない口惜しさを覚えた。
ヒカルのように数多の人と碁を打ち競い切磋琢磨したかったというのに。ヒカルのようにその才をみなに認められ、対局を渇望されたかった。ヒカルのように──。
自分の成し得ないことを誰かが成すということがこれほど苦痛を伴うとは思ってもみなかった。
神の一手は自分こそが極めるのだと自負していたのに。まだ誰にも負けない自信さえあるのに、なぜ。
『私も管弦を極めたいという志を持ってはいるが、私などではその領域には至れぬことも分かっているつもりだ』
なぜ博雅はあのような境地に至れたのだろう。悔しく感じなかったのか。それとも……、と葛藤する中でこうも感じた。
ヒカルの一手が段々と自身に似てくるたびに、教え導くとはこういうことかと喜びも感じたではないか、と。
それは遠い昔に博雅から諭すように言われたこと。
『私の楽は息子たちに伝えてゆくつもりだ。私にできることは、おそらくそこまでだよ』
『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』
千年前に成せなかったことを神が哀れんでくれたのならば、こういうことだったのかもしれない。
もしも千年を永らえたことに意味があったとすれば、少しなりとも自身の碁を誰かに伝えられた。そうしてまた彼が、彼らが次の世に伝え継いでくれるのだろう。
その気づきに至れるまでに千年もかかってしまった──。
今ようやく、誰かに残される辛さも、誰かを残していく気がかりも知った。
己だけでは成せない、人と人との繋がりこそが人を、時代を作っていくのだと……未熟ゆえに広大な時間を要してしまった。
自分が消えたらヒカルは悲しむだろうか──。
だがきっと、彼なら前を向いて歩いていけるだろう。
今度はそれを天から見守ろう。
この千年が神の定めたものでも、運命のいたずらだとしても、楽しかった。
──その気持ちのまま静かに眠りにつこう。
白みゆく視界の中でヒカルを見つめながら穏やかな心地で身を任せていると、次に佐為が気づいた時には辺り一帯を霧のような靄が覆っていた。
まさかこれは千年前の最期の光景か……と身構えるも不思議といやな感じはしない。
耳を澄ましていると、遠くに響く笛の音が聞こえた。
懐かしい、聞き覚えのある旋律と音。
弥勒菩薩の曲と言われる『萬秋楽』だ。
「
間違いない、これは博雅の奏でる笛の音色。
そうだ、あの人は何度生まれ変わろうと萬秋楽を奏でたいのだと語っていた。
そうか──では、彼は浄土で今なお楽を奏でているのか。
思う脳裏にはっきりと鮮明に、今までは思い出せなかった博雅の顔が浮かび上がってきた。
遠かったはずの記憶が蘇ってくる──。
ああもしも博雅に会えたら、きっと伝えよう。ようやくあなたの言葉を理解するに至ったと。
笛の音に導かれるように歩いていると、川のせせらぎのような音が聞こえてきた。
少しずつ視界が晴れてくる。
さらりとした布ずれの音が聞こえた。
靄の先に鮮やかな赤い衣が見える。
忘れもしない、やや昔めいた百合襲ねの
佐為はゆっくりと大きく瞳を見開いた。
「……栞……?」
呟くと、記憶のままの、千年前に別れたあの頃のままの姿が靄がかる視界の中で嬉しそうに頬を染めたのが見えた。
佐為はおぼつかない足取りでその人に近づく。あちらも駆け寄ってきて、目の前に来た相手の頬に佐為は震えながらそっと手を伸ばした。
触れられたことに驚き、一瞬だけ手を離してからもう一度そっと触れてみる。
柔らかい。感じながら悟った。彼女は千年もの間、ここで待っていてくれたのだ。
「長い間……、苦労ばかりをかけて……ッ」
申し訳なかった、と紡ごうとした言葉は声にならず、目の前の彼女は瞳に涙をためて首を振るいこちらの胸に飛び込んできた。
「お逢いしたかった……!」
佐為も感極まったように栞を強く抱きしめた。
この手にかかる髪の感触、荷葉のにおい、何もかもがあの頃のままだ。
実感して目頭が熱くなり視界が滲む。
こんなにも愛しく思っていたとは──。噛み締めるように佐為は告げた。
「本当に、苦労ばかりをかけました。これほど長い間、そなたを独り待たせて」
「いいの、いいんです。今こうして逢えたから……もういいの」
確かめるようにして互いの身を抱きしめ、佐為は身をかがめてそっと両手で栞の頬を覆い溢れた涙を拭ってやる。栞の方もこちらの頬に触れながら涙を拭ってくれ、そして小さく笑った。
「やっぱり私の思ったとおりでした」
「え……?」
「あなたは千年先の世でも囲碁ばかり」
戯れるように笑う彼女は、ここから現世を見ていたのだろうか。
ややばつの悪い思いもしつつ佐為は首を振るう。
「それだけじゃないですよ。色々なことがありすぎて……話すことがたくさんです」
そうだ、ようやく大事なことに気づいたのだから。いったい何から話せばよいのだろう。考えていると栞はなおも笑う。
「私もです。積もる恨み言が千年分はありますから」
「そ、それは……、はい」
お手柔らかに、と観念し、二人でひとしきり笑い合う。
そうして栞がすっと佐為の方へ手を差し伸べてきた。
「そろそろ参りましょう。博雅さまたちがお待ちです」
佐為はほんの僅かに切れ長の眼を見開きつつ、そっとその手を取る。
しっかりと手を繋ぎ合い、二人して目の前の川に入り渡ってゆく。冷たさも重みも感じない、不思議な川だ。
この流れの先に彼岸が待つのか。思う佐為は栞に手を引かれながら遠い昔のことをよぎらせた。この人の
道しるべ──という意味の
どれほど道に迷っても、きっとこのひとの元へ導かれ帰るのだ──と思ったものだ。
きっと栞はその
長い長い旅を終え、ようやく帰り着けた。
そっと栞の
「ただいま」
もう二度とそばを離れない。想いを込めた声に栞は幸せそうに頬を緩めた。
「おかえりなさい……」
美しい靄があたりを包み込み、清らかな水の流れが心地よく響き渡る。
もう二度と離れない──。
二人はただ満たされた心地で、久遠に続く常世の中へと静かに入っていった。
──── 完 ────