藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第四話:それを世間(ひと)は妻問いと呼ぶが鈍い姫には伝わらない

 財産の管理。

 というのが貴族の、とりわけ上達部(かんだちめ)ともなると大仕事であった。

 

 男手のない屋敷ともなれば荒れて盗賊などに押し入られる例も多く、いかにして財を守るかというのは家主にとって、特に女主人にとっては必須の技である。

 

 栞の屋敷も例に漏れずで、父の(そち)大臣(おとど)の莫大な収入に加え栞自身の収入、代々受け継いできた資産や荘園の管理など目眩がするほどの膨大な仕事をこなさなくてはならないのは在京の栞自身である。

 

 幸いにも栞は財産管理に関する教育は受けており、家臣も代々仕えてくれている忠臣を父が屋敷に残していき、時には博雅も手助けしてくれて問題なく過ごせていた。

 

 

 皇族生まれにとってどう生活の糧を得るかというのは悩ましい問題だ。

 品位を保たねばならない立場に反し、その政治的立ち位置はあまりに不安定だからだ。

 博雅にしても、もしも父宮が生きていれば──考えて栞は首を振るう。

 博雅は神に愛されたと称される楽の腕があり、楽さえあれば良しとして政治的野心は持たず見せず、摂関家の脅威とならない立場でうまく立ち回っている。

 栞の家もそうだ。父は武芸に恵まれ才覚もあったが一人娘の栞を宮廷政治に利用することを是とはしなかった。

 いずれは春宮妃に、と囁かれていた自分に(きさい)教育は施さず、むしろ武芸を教えたり舞を舞わせたりと周囲からは奇異の目で見られる行動をとっていた。

 ただ、彼のその振る舞いを見て同じように入内可能な娘を持つ大臣家の者たちは安堵したに違いない。彼が脅威となることはない、と。

 だからこそ父に内大臣を贈ると決めた今上に臣下から異論が出なかったのだ。

 

 ゆえに──と栞は思う。

 頭によぎったのは藤の中納言のことだ。

 彼から求婚を仄めかされていることには気づいている。未だ彼が未婚でいる原因もおそらく自分。

 先帝である院は内親王を彼に降嫁させたい意向だというのに、色良い返事をしない彼に院も彼の両親も焦れているという。

 中納言は間違いなく将来の天下人だ。

 だからこそ、そのような人物の北の方に収まる気は栞にはなかった。父の意思に反すると理解しているし、望んでもいない堅苦しい生活を強いられることは目に見えているからだ。ましてや内親王と寵を競うなど想像すらできない。

 どのように断ればいいのかと悩み続けて既に数年が過ぎているが……出てくるのはため息で、考えるのは止そうと栞は頭を振るう。

 

 

 それよりも、だ。

 もうそろそろ本格的な紅葉が始まる季節だ。

 博雅を誘って宇治の別荘へ紅葉狩りにでも行こうか。

 あそこなら京からは遠く、乗馬などに興じても見咎められることはあるまい。

 

「姫さま、お文が届いております」

 

 そんなことを考えていると、女房の一人であり乳母(めのと)でもある命婦(みょうぶ)が文の入っていると思しき箱を携えて栞の方へとやってきた。

 またか、といつものことながら栞は肩で息をした。

 

「どなたから? 返事が必要なようなら、いつものようにそなたがお返事差し上げて」

「それが……取り次いだ女房たちが少々騒がしいので確認しましたところ、藤原佐為さまからだと」

「え──!?」

「お使者の方が外でお待ちのようで、返事を控えるようでしたらそう伝えさせますが……いかがなさいますか?」

 

 一瞬驚いた栞は「ああ」と先日に登華殿で交わした会話を思い出した。

 一晩中でも対局したい──。あの碁狂いと言っても過言ではない人は確かにそう言っていた。

 おそらくは彼は囲碁のことしか頭がなく、大臣家の姫を訪ねることの意味など気づいていないに違いない。

 

「佐為の君は私と碁を打ちたいとおっしゃってるの。その文もたぶんそのことだと思うわ」

「碁……、でございますか」

「ええ。先日、御所でお会いした時にそう言われたから」

 

 命婦はやはり恋文の類だと思ったのだろう。訝しげに箱を見つめ、栞は苦笑いを漏らす。

 開けて読むよう促せば、やはり思った通りの内容で明後日に訪ねたい旨が記されているという。

 命婦がやや不安げに言ってくる。

 

「目的がなんであれ……殿方をこの屋敷に迎えるとなると要らぬうわさも立ちましょう。この方はまだ侍従でいらっしゃいますし、姫さまがお相手するにはふさわしくございません」

 

 乳母(めのと)とは実母よりも近しく、かつ絶対的な腹心だ。自分の仕える主人()に最高の相手をと思うのは無理からぬこと。

 暗に身分違いだと苦言を呈す命婦に栞は肩を竦めた。

 

「ただ対局に来られるだけなのに、そんな風に言っては失礼よ」

「でもございましょうが……、姫さまには藤の中納言さまからのお話に加えて未だ入内の可能性もあるのですから」

「それは父上の望みとも私の望みとも違うのだから。それに……」

 

 栞は手を差し出し、文を受け取って一度目を通した。

 佐為の書く文字を見るのは初めてだ。

 想像通りの美しい手蹟()。菊を思わせる白と紫を重ねた薄様には香が焚き染められているが、このくゆりは菊花ではなく『侍従』だ、と栞は口元を緩めた。わずかに麝香(じゃこう)を混ぜたのか艶かしさが鼻腔をくすぐり、やや心が騒いでしまう。

 ただの連絡事項だというのに、彼は相当に心を砕いて届けてくれたらしい。

 もしこれが恋文なら、どんな女人も舞い上がってしまうに違いない。

 さすがはああみえて貴族の男らしいものだ。と、栞は自嘲めいた笑みを僅かばかりこぼした。

 

「姫さま……?」

「それに、私には佐為の君をお断りする理由が思いつかないもの」

「姫さま……」

 

 命婦ははっとしたような顔をしてからしばし口を噤んだ。

 

「了承のお返事を差し上げて」

「かしこまりました。姫さまがそうお望みなら……」

 

 命婦は頭をさげて下がったが、相手が相手ゆえかその日のうちから屋敷内は騒がしくなった。

 

「まあ藤原佐為さまが……!?」

「うわさでは輝くばかりに美しい方だと」

「お見上げする機会に恵まれるなんて!」

 

 佐為が宮中の女人のうわさの的だとは聞き知っていたが、どうやらその規模は宮中に留まらず都中に響いているらしい。

 その彼が訪ねてくると聞き知った、特に年若い女房たちは色めき立って客人を迎える準備に精を出した。

 この屋敷に迎える殿方と言えばもっぱら博雅や親族のみであり、屋敷の規模に反して華やかな催しも滅多に行わないため彼女たちも腕の見せ所と張り切っているのだろう。まだ若い、宮中でうわさの殿方のためとあらばなおさらだ。

 

 とはいえ、当の本人は単に碁を打ちに来るだけだが。

 

 と、当日が来てますます落ち着かない様子の女房たちを見やって栞は苦笑いを漏らした。

 そして思う。出会ってからというもの、佐為とはそこそこ頻繁に顔を合わせているが、やっていることは全て対局に終始しておりじっくり話し込んだ事はない。

 登華殿の女房曰く佐為の人格評価は「お優しい」であったが、いったいこれのどこが優しいと言うのだ。と、先日あまりに無慈悲に一刀両断された対局の棋譜を並べて栞は盤面を睨んだ。

 

『あの君は橘内侍(きのないし)とのおうわさが……』

『あら、わたくしは麗景殿の宰相の君にお通いだと聞きましてよ』

 

 ふいにそんな言葉がよぎって栞は息を詰めた。

 うわさの真偽は定かではないが、でも。

 

 対局以外では佐為のことをほぼなにも知らない。

 もしも和歌(うた)の詠み合いなどを望まれた場合はどうすればいいのだろう。とてもではないがまともには付き合えない。

 いっそ乗馬や弓に誘ってはどうだろうか? どちらも得意だし、あとは蹴鞠……野外でのことなら十二分に付き合えるのだ、が。

 

『いけませんね、大臣家の姫ともあろうお方がそんな場所で姿を晒して』

 

 冗談めかしていたとはいえ、あんな風に言う人の前でそんな特技を披露したら卒倒されかねない。

 やはり大人しく碁を打つしかないのだろうか。

 考えているうちに昼がすぎ、栞は寝殿の庭から太陽を見上げて首を傾げた。

 既に宮中での公務はとうに済んでいる筈だ。いったい彼は何をしているのか。

 どうせならば帰宅途中に寄って夜前には帰ってくれればそう大袈裟になることもあるまいに。まさか「一晩中」と言うのは比喩ではなく本気なのだろうか。

 にわかに頭が痛んできてこめかみを押さえていると、ようやく来客の旨が伝えられた。

 

「姫さま、いらっしゃいました」

「お通しして」

 

 今さら御簾を隔ててよそよそしく話をする間柄でもなく、栞は自身のいる寝殿の母屋に直接通すよう言いつけた。

 女房たちがそわそわと落ち着かないのが伝わってくる。

 そのうちに女房の一人が御簾を巻き上げ、客人がそれを潜って入ってくる。

 

 瞬間、遠巻きに見ていた女房たちが息を呑んだのが確かに伝った。

 

 紫苑色に金糸で鮮やかな雲鶴文(うんかくもん)の織り込まれた艶やかな直衣を身に纏った彼は、今日は冠ではなく烏帽子を被っている。

 それがまた長身の彼をひときわ大きく華やかに見せ、ある程度は見慣れていた栞でさえ一瞬言葉をなくして見入ってしまった。

 

「栞殿……?」

「あ…… い、いらっしゃいませ佐為の君。どうぞ」

 

 ハッとした栞はとりあえず自身のそばの座に腰を下ろすよう促す。

 佐為は礼を言ってこちらに歩み寄り、物珍しげに周囲を見渡した。

 

「うわさには聞いていましたが……、玉の御殿とはまさにこの事ですね。いざ門をくぐると圧倒されました」

「住んでいるのは私だけなので、あまり広すぎるのも……とは思うのですが」

大臣(おとど)馬場殿(うまばどの)もお持ちだとお聞きしました」

「ああ、馬場(うまば)でしたら東の対の裏手にあります。ご覧になります?」

「いえ、私は……。ですが、さすがは先の左大将で都一の武才だと称えられていたお方ですね。私はずっと昔に遠くからお見上げしただけですが……あなたの父上のお姿はそれはご立派でした」

「ありがとうございます。私もよく父に──」

 

 父について流鏑馬(やぶさめ)など嗜んでいた。とうっかり口にしそうになり栞は慌てて口を噤む。

 

「栞殿……?」

「あ、いえ。佐為の君はお酒は嗜まれます? ご存知とは思いますが博雅さまがよくお呑みなのでこの屋敷にも多種多様の用意があるんです。珍しい唐菓子などもありますので、お好きだといいのですが」

「お気遣い感謝いたします。どれもありがたい申し出ですが……栞殿」

「はい」

「碁、打ちましょう!」

 

 ね! と力強く言われて栞は脱力した。

 彼の目的は最初からそれなので当然なのかもしれないが。

 とりあえず言われた通りに碁盤と碁石を持ってこさせ、対局用の座の用意をさせて互いに向き合った。

 佐為の表情に先ほどよりも明らかに正気が宿り、よほどこの対局を心待ちにしていたことが見て取れる。

 

 ──が。

 

「栞殿、もう一局!」

「もう休ませてください! あれから何局打ってると思ってるんですか」

 

 予想通りの展開と予想通りの碁の内容で栞は登華殿でも幾度となく繰り返した会話を再び繰り広げるに至った。

 

「姫さま、佐為さま、夕餉のお支度ができましたのでしばしご休憩なさいませ」

 

 女房たちは女房たちで声をかける頃合いを見計らっていたらしく。すっかり陽は落ちて夜も更けてきたところでようやく夕食にありつける運びとなった。

 ──食に執着するのは、はしたない事。などと言われるが、これだけ神経を使って飲まず食わずでは耐えられるものではない。

 幸か不幸かこの家には筑紫から送られてくる珍しい食材がふんだんにあり、佐為は物珍しげに見ていて栞はホッと胸を撫で下ろした。

 

「地方には珍しい食材が色々あると任地から帰京した知人に聞いてはいましたが……これはまた見事ですね」

「佐為の君は京をお出になったことはないの?」

「父が以前に下国(げこく)(かみ)上国(じょうこく)(すけ)を預かっていたこともありましたが、私は下向せず京に留まっていたので外に出たことはないのですよ」

「そうですか。……ああそういえば大学寮で学ばれたとのおうわさを聞きました」

「ええ。碁もそこで本格的に学びました」

 

 一瞬だけ複雑そうな顔をした佐為は学生(がくしょう)の時分に色々あったのかもしれない。

 大学寮は大学寮で複数の派閥が睨み合う場所でもあり気苦労もあったのだろう。でも。

 

「私には少し羨ましい」

「え……」

「私は大学寮には入れませんから、父に師の君を付けられこの家で色々学びました。(きさい)教育とは程遠いので相当に変わり者呼ばわりをされたようですが」

「先日、登華殿で舞われていた舞もお父上から?」

「いえあれは……。父が左近衛府に詰めていましたので、私もよく大内裏に上がっていまして、お隣が内教坊ですから舞そのものはそこで学んだのです」

 

 なるほど、と佐為は笑った。

 

 内教坊とは舞踊や音楽を主として女人に教える機関である。

 栞の才能自体はそこで見出され花開いたものの、内教坊への出入りが許されたのも人前(公の場)で舞を披露できたのもせいぜい成人を意味する裳着の儀までであった。

 私的に舞は続けているが、内教坊に所属する女人たちは──市井の人でないとはいえ──貴族ですらない下層の官人や妓女たち。公卿の娘がいていい場所でもない。

 

 ── 裳着の儀などしたくなかった(大人になどなりたくなかった)

 

 あの頃の心情を思い出して複雑さが胸に飛来するも、佐為の方は薄く笑う。

 

「私は学業中の身で見逃してしまいましたが、大嘗会の折に主上(おかみ)から四位(しい)叙位(じょい)されたそうですね。素晴らしい五節舞であったと」

「ええ。光栄なこととはいえ、身分が重くなるたびにますます動きづらくなってしまって……。もっと人前で舞えたらとは思っているのですけども」

「先日は登華殿で披露されていたではありませんか。それもご自分で振り付けて舞ったのでしょう?」

「披露の場を下さる女御には感謝しています。どのような舞も喜んで観てくださいますし」

 

 ──実は今上も栞の舞見たさにたまに忍んで登華殿に来ることがある。知っている栞であるが、あくまで非公式である。

 

 やはり窮屈なこの都を飛び出して筑紫に行くのも悪くないかもしれない。

 

 だが……。そうしてしまえば、この人との縁もここまでになるだろうか。ちらりと佐為を見やる。

 目が合い、ふ、と微笑まれてわけもなく鼓動が跳ねたのも束の間。

 

「まだ時間はたっぷりあるのですから、食事を終えたらまた打ちましょう!」

 

 満面の笑みでそう宣言され、栞は固まったのちに小さく苦笑いを漏らした。

 

 

 そうして、もはや夜明けさえ近くなり──。

 

「まだ打つんですか?」

 

 掠れた声で問えば肯定する佐為に栞は深く追求することをついに放棄した。

 今さら帰れと言ったところで時すでに遅しである。

 もうこの際、この人の気が済むまで付き合ってやろうと応じているうちに夜明けまであと少し。さすがに思考回路がおぼつかなくなってきた。

 

「佐為の君……、お休みにならなくてよろしいの……?」

 

 公務は昼前には終わるぶん朝が早い。寝ずの出仕は堪えるだろう。

 

「ああ、もうそんな時間ですか。夜が明けるののなんとはやいことか」

 

 そう言って切なそうな表情を浮かべる佐為を前に栞は瞳を擦った。対局での夜明かしだというのに、逢瀬のあとのような物言いも囲碁への情熱が為せる技だろうか。

 

「私はもう休みます……」

「では、私は家に戻るとします。出仕の準備もありますから」

「分かりました。お見送りさせますので、しばしお待ちを」

「あ、栞殿──」

 

 そうして栞が立ち上がり、女房を呼ぼうとすれば後ろから手を引かれて振り返る。

 なんだ、と眉を寄せた視界に燈台の灯に揺らめく佐為の神妙な眼差しが映る。

 

「今宵また、訪ねても……?」

「え……」

 

 まだ打ち足りないのか、この人は。と、半ば呆れて栞は頷いた。

 

「構いませんよ。お待ちしてます」

 

 すれば灯に揺らめく佐為の顔がパッと笑った。

 

「では、今宵また」

 

 そこで佐為が手を離したため、栞は今度こそ控えていた女房に声をかけて寝台へと向かった。

 

 

 それから栞の目が覚めたのは実に昼前だった。

 手水(ちょうず)で顔を洗い身支度を整えていると、命婦が漆喰の箱を抱えてこちらへとやってきた。

 

「佐為さまからお文が参っております」

 

 瞬間、栞は首を捻る。

 確か寝る前に今日もここへ来たいとは言っていたが、律儀に文で確認しようというのだろうか。

 

「開けてみて」

 

 言えば命婦が紐を解いて箱を開け、「まあ」と感嘆の息を吐いた。

 栞も見やれば、佐為の家の庭にでも咲いていたのだろうか。紫苑の花──昨夜に佐為が身に纏っていた直衣の色でもある──が添えられた文らしきものが入っていた。

 

「まあ姫さま、これは後朝(きぬぎぬ)のお文ではございませんか」

後朝(きぬぎぬ)って……、碁を打っていただけなのに」

 

 戸惑いつつ文を手に取った栞は、う、と思わず呻いてしまった。よりによって和歌(うた)である。

 

「“明けぬれば…………“? よくわからないけど、今日も来ていいかお尋ねになっていたから、たぶんそのことじゃないかしら」

「お見せくださいまし」

 

 和歌(うた)詠みだけはからっきしな栞は一瞥しただけで眉間を押さえ、その文を命婦に手渡した。

 すれば、「まあ」とまた彼女の声が跳ねる。

 

「夜が明けるのが恨めしく、次に逢うのが待ち遠しくて、あなたにも私を思い出して想いを同じくして欲しいという意味ですよ。わざわざ紫苑を添えて……まあまあ!」

 

 興奮気味の命婦に栞はますます眉間に皺を刻んだ。

 

「まあ、佐為の君は対局を楽しんでらしたから……にしても本当にすごい情熱だこと」

 

 碁に対する。と言葉を濁せば、命婦が返事を書くように急かしてくる。

 

「いいわ、もうだいぶ時間が経ってるし。昨日ちゃんとお返事したもの」

「ですが……」

 

 命婦はまごつき、渋々と言った具合に引き下がる。

 あれほど佐為が来るのを懸念していた様子だったというのに、一晩ですっかり彼に魅せられてしまったらしい。

 だが……と思う。

 碁に対する情熱には舌を巻くが、この文や昨日の文の手慣れた感じを見るに、彼が橘掌侍(きのないしのじょう)や麗景殿の女房と関係があるといううわさは事実なのだろうな。と、察して栞の胸に一抹の苦みが飛来する。

 

 佐為は自分を(てい)のいい対局の相手としか見ていないのだから、彼が誰とどのような間柄であろうがこちらには何の関係もないことであるが。

 

 だが。

 もし明日も来たいなどと言い出したらどうしようか──。

 

 栞はもう一度深い深いため息を吐いた。

 

 

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