藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第五話:噛み合わない話

「いらっしゃいませ、佐為の君」

 

 佐為は夕方ごろにやってきて、栞は昨日と同じように彼を迎えた。

 しかし彼はどこか複雑そうな表情を浮かべている。

 

「佐為の君……?」

 

 どうしたのか問うと、いえ、と彼は苦笑いを漏らした。

 

「文の返事がなかったもので……、本当に来ていいものかと迷っていたんです」

 

 え、と栞は意外な返事に目を瞬かせた。あの和歌(うた)への返歌をしなかったことを、まさか気にしているとは思わなかったからだ。

 

「お帰りになる前に今日も来られることは了承していたので……改めてお返事せずとも問題はないと思ったのです。気を揉ませたのでしたらお詫びします」

「え、ち、違いますよ。そういう意味では──」

「それに私、苦手なんです……和歌(うた)

 

 やや気恥ずかしく目線を逸らすと、あ、と思い当たるように佐為はうなずいた。

 

「そういえば博雅三位(はくがのさんみ)がそのようなことをおっしゃったような……」

「私も博雅さまも和歌(うた)は苦手で……。ああでも、漢文はできるので、漢詩でよければお付き合いできますけど」

 

 念を押すと、佐為は若干残念そうな顔をするも得心がいったのかホッと胸を撫で下ろすような仕草を見せた。

 

 そうして夕餉を済ませてからさっそく碁盤を挟んで向き合う。

 

「栞殿と会う以前から私は登華殿へ行くと清少納言殿とよく打っていたのですが、清少納言殿の棋風は力碁なんですよね。大石を取って相手を打ち負かすことを好まれる」

「そうですね、宿直の殿方とも打たれているようで誰それを打ち負かしたという話はよく聞きます」

「栞殿も似た棋風ではありますが、もう少し手堅い守りもできるんですよね。まるで戦場の武人のようというか。とはいえ、私のように論立てて学んだという風でもなく……不思議です」

「それは……そうですよ。囲碁を学んだのは兵法のためですから」

「兵……ッ?」

「父が武官でしたから、あくまで馬弓を学ぶついでに教わったんです」

 

 佐為は手に持っていた碁笥の蓋を取りこぼすほど驚いた様子を見せ、どこか苦く笑う。

 

大臣(おとど)はいったいあなたをどのようにお育てしたかったのでしょうね」

「どうもこうも……」

 

 言葉を濁すと、佐為はなにか言いたいことでもあるのか緊張したように喉仏を上下させるのが見えた。

 

「栞殿には……入内(じゅだい)の話などもあったのではありませんか?」

 

 栞は少し肩を竦める。まさかそんなことを聞きたかったとは。

 

「そりゃ、あったとは思いますよ。でも見ての通り父は私にいっさいの(きさい)教育を施さなかったので、それが答えです。馬弓だって私が好きだったからで……やらせてくれた父には感謝しています。入内(じゅだい)なんて考えられませんから」

 

 言えば、佐為は少しだけ安堵したような息を漏らした。

 

「ええ、私も感謝します。もしあなたが女御ででもあれば、手は届きませんでしたから」

「佐為の君……」

 

 それはどういう意味なのだろう。

 殿上人の悪癖の一つに言葉を濁しがちだということがあるが、佐為も例に漏れずでいささか分かりづらい。

 とはいえ、佐為の言うように自分が女御であれば宮中で彼と出会っていても直接に顔を合わせ碁を打つことはできなかった筈だ。

 すれば対局が叶わず残念。──程度の意味なのだろう。

 佐為に出会って自信を失い気味とは言え、栞自身は自分の棋力が人より秀でていると自負している。それは自分より優れた対局相手がほぼいないことを意味するのだ。だからこそ、さらに人より抜きん出た強さを持つ佐為が対局相手に飢えているのはわかるが。

 ならばいっそ弟子でもとってそちらを鍛えた方がいいのでは?

 などと思うのは的が外れているだろうか。

 考えつつ、何度目になるか分からない投了を宣言した栞は肩を落とした。

 

 

 そうして明け方にはいま少しという時分になり──。

 栞はそろそろ休もうと、ちょうど終わった対局を最後に切り出した。

 

「私はもう休もうと思いますが……、どうなさいます?」

 

 佐為が普段いつ寝ているかは知らないが、こうも夜更かしが続けば身体を壊すというものだ。

 今さら佐為がいつ帰ろうが栞としてはどうでもよかったが、彼は返事に窮したのか煮え切らないといった具合にまごついている。

 半端な時間に女人(ひと)の家から出るのは後ろ暗い関係の場合も多く、見咎められるのを気にしているのかもしれない。

 

「まあ、こちらで休んでいただいても構わないので。なにがあれば女房に言いつけてください」

 

 では、と碁盤の前から立ち上がると彼は昨夜と同様に呼び止めてきた。栞は振り返り佐為を見やる。なにか言いたそうにする佐為の表情を見て少しだけ怯むも、促されて仕方なしに佐為のとなりに再度腰を下ろした。

 なにを言いたいのだろう。また今宵訪ねたいなどと言われたら──。

 

「また……、ここを訪ねても構わないでしょうか」

「……いつに?」

「あなたさえ良ければ、今日の出仕が済めば参ります」

 

 ──やはり。と栞は首を振るう。今日の夜はもう三日目となる。昨日とは違うのだ。

 

「私と打ちたいと思ってくださるのはありがたいのですが……。今日も来られたらお困りになるのは佐為の君かと」

「そ、そんなことはありません」

「ただでさえあなたがここに来られた事はもう人の口の端にのぼっているでしょうから。今日も来られたら私も言い訳できなくなります」

「栞殿……」

「三夜続けて通うことが……どういうことかお分かりにならないわけではないでしょう?」

 

 見上げれば、佐為は少し眉を寄せて視線を流した。

 

「それは……私では身分違いだということでしょうか」

「──え!?」

 

 なにを言っているんだ。と思わず佐為を凝視すれば佐為はますます柳眉にしわを刻んで苦く呟いた。

 

「自身の立場を……弁えてはいるつもりです。あなたは後朝(きぬぎぬ)の文への返歌をくれなかった。それが答えだと、ですから私は──」

「は──!?」

 

 後朝(きぬぎぬ)……? と栞は思わず間の抜けた声でおうむ返しをした。

 

「あの、私たち……碁を打っていただけでは……?」

「ですが世間は一夜を共にしたと見るはずです」

「そ、そんなことは存じております。だから言っているのです、今宵また来られたら取り返しがつかないと。ですから、碁を打ちたいのならばもう少し間を置いて──」

 

 それにさっきも言ったが和歌(うた)は苦手で返歌をしなかったのに他意はないと念を押すと、佐為は神妙な面持ちでこちらに向き直ってしっかりと栞の瞳を見つめてきた。

 

「あなたはもしや……私が本当に対局のため()()に一晩を過ごしたいと言ったと、今でもお考えなのですか?」

「え……、え、でも、そうおっしゃいましたよね?」

「ああもう。なんと情けない……」

 

 ついに彼は落胆したように懐から檜扇を取り出して頭を押さえてしまい、栞はにわかに混乱する。

 

『誰にも邪魔されずに打ちたいのです。できれば一晩中でも』

 

 あれのどこに艶めいた要素などあっただろうか?

 いやでも、通常ならば彼の行動は間違いなく妻問いであるとは言え。

 ──無理だ。この家系は()()()()()()には疎くできているのだ。はっきり言ってもらわねば、最低でも藤の中納言くらいの意思表示をしてもらわねば分からない。

 

「で、でも……この二晩はひたすら打っていただけで、そのようなそぶりは一度も……」

「あなたにその気がないのは見てとれましたから、こちらもそうしただけです。そのうちに気づくだろうと。許しもなくの無理強いは本意ではありませんから」

「で、ですが……じゃあ碁を打ちたいとおっしゃったのは方便だと?」

「碁を打ちたいというのは偽りない私の本音です」

「……」

 

 いよいよ分からなくなってきて、栞は瞳を数度瞬かせてから小さく息を吐いた。

 つまり、この人は碁を打つために妻問いをすると言っているのだろうか?

 

 ああ、でも。

 仮にこれが博雅であっても、目的が「(がく)」であれば手段は選ばないはずだ。

 これだから「何々狂い」は……と頭がくらくらしていっそ目眩がしてきた。

 それに、この人は本当の意味で自分が言っていることを分かっているのだろうか?

 自分へ妻問いすることがどういう結果を生むか。栞はぎゅっと膝の上に置いていた手を握り締める。

 

「佐為の君、先ほど身分のことをおっしゃいましたが……。私は大臣家の娘です。その私を妻にするということがどういうことか本当にお分かりですか?」

「──身分が違いすぎることは十分に承知しています」

「そういうことを言っているのではありません。あなたには……色々とお相手もいらっしゃるのでは?」

 

 佐為はハッとしたように栞を見やる。

 今度は栞の方が佐為から視線をそらした。

 

「あなたが……もし他の方を妻に迎えたいと思っても、おそらく世間は許さないでしょう。例え好いた方がいらっしゃったとしても……、私の上に誰かを置くことはできない」

 

 言い下した意味は佐為に通じたのだろう。

 彼が息を詰めた様子が伝った。

 栞は少しだけ息を呑む。自分の上となると、もはや血筋では内親王以外にはいないのだ。それでさえ結婚に際してはおそらく『同等』。

 だから……と考えていると、佐為はそっと両手で栞の両手を包み込んだ。

 

「生涯、あなた以外を妻に迎える気はありません」

 

 ふ、と目を細めた佐為が「でも」と言い淀む。

 

「栞殿の方こそ、良いのですか?」

「私は……」

 

 栞は佐為の眼を見やって口籠った。

 ここでこの人の手を振り解けばどうなるのだろうか。

 世間は佐為の手がついたと見るのだから、さすがに入内の話は霧散するはず。だが求婚に煩わされる日々は変わりなく続くはずだ。

 裏腹に、受け入れればその煩わしさからは解放されるだろう。が、人妻となれば失うものも大きい。生涯未婚で通した方が……。さまざまな考えが瞬時に巡って栞はまごついてしまう。

 そういうことではないのだ。

 そういうことでは──。

 

「私は……、断る気であれば……例え対局のためでもこの場にあなたを招き入れるような真似はしておりません」

 

 細く呟くと、一瞬だけ佐為は目を見張った。次いで、ふ、と柔らかく口元を緩める。

 

「分かりました」

 

 そうして彼は握っていた栞の手を少し引いて自身に引き寄せ、栞の額に温かい感触が伝った。

 口付けられたのだと理解したときには、手を離した佐為がそっと包み込むようにして頬を撫で息さえかかりそうな距離で艶っぽく言った。

 

「では、今宵また」

 

 そのまま佐為は立ち上がり栞に背を向け──しばし硬直していた栞は佐為が御簾の外へと消えてからようやくはっと我に返った。

 

 今ごろになって一気に頬が熱を持ち、唸りつつ両手で自身の顔を覆う。

 

「わ……わかりづらい……ッ」

 

 彼が最初から()()()()()()()だったとは。

 ただ、目的はやはり囲碁なのかもしれないが。でも。

 

 博雅に、いや父や母にどう伝えようか。

 あまりに突然で、どう反応したらいいのだろう。

 三日夜餅(みかよのもちい)も用意せねばならないだろうが、全くなんの実感もない。

 

 ともかく色々なことが起こりすぎて。

 いまはきちんと考えられない。起きてまた考えようと栞はそのまま寝所へと向かい、しばし夢の中へと旅立っていった。




※「和歌(うた)は苦手」という作中の源博雅の実際(史実)の和歌力はというと。


一例を挙げると応和二年五月四日の御所での歌合の際の一首。

『夜もすがらまつかひありて時鳥あやめの草にいまもなかなむ』

この時のお題は『明日は五日時鳥を待つ』だったのですが、博雅氏はその意図を読み違えたとして無事敗北しております。(たぶん‘いつか’も‘あす’もないため)

詠みっぷりも「夜通し待ったんだから端午の節句なんだし鳴いてほしいよ!」というようなことを言いたいのか、適当感が否めない印象を受けます。
状況的には私的な性格の強い歌合で、和歌の専門家でもない事前準備したわけでもない身内の集い(珍しく藤原佐理が参加してますが他は源保光や延光などのいつメン)、お題もあって内容も制限されみんなでわいわい盛り上がっていた(たぶん酒も入ってた)と思われるため、それらを加味して判断すべきではありますが……。とっさに古今集(夏歌137)を引用してる(かなりズレてるけど)と見受けられるので、和歌の知識も貴族の常識として普通にあったでしょう。一番手だったのに、五日=端午の節句=あやめ、もすぐ分かっています。
しかしながら、「和歌は(できるけど)取り立てて得意ではない」と解釈しても差し支えないのではないかな、と。こういう場にしょっちゅう呼ばれていた博雅氏ですが、そこは天皇の身内かつ管弦の天才ゆえで歌合はついでというか。


なのでこの連載の博雅ひいては栞の和歌力はお察しください。
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