栞が起きる頃には四条の屋敷中がにわかに騒ぎとなっていた。
それもそうだろう。
ただでさえ主人の結婚は
そのうえ諸々の準備を早急にしなければならない彼らの焦りようも理解できようというもの。
とはいえ、結婚相手が誰であれこの家は都一と言っても過言ではない莫大な資産を有しており、臣下の住処や給与も申し分ないものを与えているためか代々長く勤める
それだけに赤子の頃から仕えた姫を最高の人に、という親心めいた気持ちもわからないではないが。
と、栞はそわそわと落ち着かない女房たちを見て思う。
入内が無理なら摂関家へと彼らは思っていたかもしれないが──でも。それが務まる姫に育たなかったことは彼らこそよく知っているはずであるし。
「姫さま」
考えていると、命婦が漆塗りの立派な皿を手に携えてこちらに歩いてきた。
「
「え!? え、ええ……お願い」
「博雅の殿さまにもご相談しませんと……、
「ええ……、明日にはお知らせするわ」
なにせ博雅は後見人でもあるため父に代わり
おそらく博雅にとっても晴天の霹靂だろうし、使いを出した直後にすっ飛んでくる姿が目に浮かぶようだ。それに本来ならば自分は父の代わりである『博雅の認めた』相手と結婚する必要があるのだ。事後承諾の例はままあるとはいえ、その場合も「予め博雅に許可をもらっていた」等と前後関係を逆にした話が事実として公にされることとなる。とあらば、さすがに博雅を怒らせてしまうだろうか。
「姫さまの晴れの日であらせられますのに……。
「命婦……」
父や母を気遣う命婦に栞は少しだけ目を伏せる。
「そなたは良いの? 佐為の君とのことを」
「まあ、姫さま……」
実際の佐為を見て意見を変えたらしいとはいえ、彼を迎え入れることに最初は乗り気ではなかったはずだ。含ませれば彼女は朗らかに笑った。
「ご身分がさほどでなくとも……まだお若いのですし、何よりあのお美しさですもの。私どもの姫さまは都一美しい背の君をお持ちになると誇らしく思います。きっと
そしてそんな風に言い、つられて栞も少し笑った。
「これからは佐為さまも主人とお見上げして、精一杯お仕えいたします。何より姫さまが望まれたことですから」
「──ありがとう」
「ですから、姫さま」
「え……?」
「入念にお支度なさいませんと……!」
え、と目を瞬いているうちに命婦はじめ複数の女房に連れられ湯殿へと入れられ「入念」な「お支度」とやらをさせられる羽目になる。
「
「
「
女房たちはしきりに衣装や髪に焚き染める香は何にすべきかで白熱しており、栞はこれらが
だってそうだろう。あまりに突然なのだ。心の準備さえできていない。
『あなたはもしや……私が本当に対局のため
佐為からすればこの屋敷に足を踏み入れた時点で察しろという意図だったのかもしれないが。
だったら最初から分かりやすく言ってくれと思うのは間違いなのだろうか。
──とはいえ。
佐為とは初夏のあの夜に出会って以来の付き合いだ。
長い付き合いとは言えないが、顔を合わせて言葉も交わした相手という意味では心情的に恵まれている方だろう。
しかし──。佐為自身の身分は下級貴族とはいえ出自は下級官人、大臣家との差はやはり覆しようもない。
中流以下の貴族ができうる限り身分の高い姫をと望むことはままあることではある。ひとえに生活と出世のためだ。
大国の国司を預かるような受領層は
生活にしても夫の面倒は全て妻の家が見るわけで──生活が心許ない者は身分の高低より相手の資産を見て結婚を決める。この場合は逆に
栞の家はそのどちら──身分と資産──も兼ね備えているが、佐為の狙いは……。栞は苦笑いを浮かべた。彼の場合、出世や資産が目当てということはまずないだろう。
仮に
栞自身にしても、夫を持てば求婚相手に悩まされる日々からは解放されるのだ。
ただ──と栞は思う。
今後はもう今までのような自由を許される身ではなくなるだろう。参内も叶うかどうか、と登華殿の友人たちを浮かべて少しだけ眉を寄せた。
裳着、叙位、そして婚姻。少しずつ何かを諦めることに慣れてきた。
それよりも、だ。
この人こそと思った男君が三日目に来ず捨て置かれるなどという事態は世間にはままあること。
さすがに佐為の場合それはありえないはずだが、と栞の身支度が済んで日も落ちた頃。ようやく佐為は四条の屋敷に参上した。
「いらっしゃいませ、佐為の君」
支度に手間取ったという佐為が御簾の先から寝殿の母屋へと入ってきて、栞は迎えつつも気恥ずかしさに目を逸らしがちになる。
裏腹に佐為はすこぶる落ち着いた様子で、彼が何も知らない若者ではないことを改めて栞は悟る。
女房たちが恭しく席を整えて酒など運んで傅き、応じる彼の様子がなんとも様になっていて、さすがは五位でありながらも殿上を許された身といったところだろうか。
思えば宮中でも彼は
そっと自身の座る上座の座具から佐為のそばへと移動する。
今さらに何を話せばいいのかまごついていると、微かに首を傾げた佐為がほんのり口元を緩めて手を差し出してきた。
その手を取れということなのか。伸ばした手を佐為に引かれてそばへと腰を下ろす。
「今日、宮中で
佐為の方でもいきさつを博雅に話そうとしてくれていたらしく、ああ、と栞は彼を見上げる。
「博雅さまの出仕状況はまちまちですから……」
博雅は佐為の碁狂いに勝るとも劣らない楽狂い。楽のために出仕が疎かになることは珍しいことではない。考えていると、佐為は持っていた酒盃を
「え……」
「私たちは妹背となるのですから……」
戸惑っていると、やや呆れたように呟いた佐為は栞の肩を抱き寄せ自身の胸に寄りかからせるようにした。
僅かに目を見張った栞が見上げれば穏やかに微笑まれ、栞の頬に少し赤みがさした。
すれば、おや、と佐為が肩を竦め案じるように言う。
「あなたが世慣れないというのは分かっていますが、その調子では……今宵は三日夜だというのに」
持ってまわった言い方だが、はっきりと
「そう言われましても……!」
そもそも昨夜まで口を開けば碁のことばかりだった佐為だというのに。
「さ、佐為の君はずいぶんとお変わりというか……昨夜までとは別の方のようです」
思ったままを言えば、佐為は心外だとでも言いたげに涼しげな切れ長の瞳を見開いた。
「私は変わったつもりはないのですが……」
「そ、そんなことはありません。だって……あれほど囲碁囲碁、と」
「……。囲碁のみ、ということでも構いはしませんが」
そして佐為は一瞬だけ栞から視線をそらし、改めて視線を合わせた。
「あなたにその気がなければ、しばらくは……いえ、ずっと表向きの夫婦仲であっても構いません」
「え……」
「対局にはお付き合いいただきたいですけど」
表向きの夫婦仲でいい、とは文字通り実態は『ただ対局するだけの相手』でいいということだろう。
つまり、実際は
「栞殿……?」
「わ、私は……その、世間並みの妹背に……と思っています」
ややしどろもどろになった言葉の意味を佐為は理解したのだろう。
「では、そのように」
微かに愉悦めいた息を佐為が漏らし、栞は目を合わせることが適わず伏せ目がちに視線を下げた。すれば頭部が露わになったせいだろうか。佐為が額から髪に唇を落とし埋めてきて栞の鼓動は痛いほどに跳ねる。
「これは……上等な
佐為の方は右手で栞の左頬を撫でつつ焚き染められた香に感じ入っているらしいが、栞はというと──。佐為の言うとおり、この調子で夜を越せるのだろうか。と、脈打つ胸がいっそ恨めしくて目尻に涙が滲んできた。
「栞殿……?」
心の準備ができていない。などと、この状況でこれなのだから、ある夜突然に男君が寝所に押し入ってきた不幸な姫はどれほど痛ましかったのか。
それに比べたらこちらは自らの意志で承諾したのだ。これ以上ないほどに恵まれているというのに、情けない。
目線を上げると、間近で切れ長の美しい瞳がやや心配げに揺れる様が映った。
おそらく佐為にしても自分のような相手は初めてなのだろう。彼が普段相手にしているだろう手練手管の女官女房たちとは違うのだから。
深窓の姫は身分ばかり高くてつまらない。──などと世間でまことしやかに言われるのもやむなしなのだろうか。
ただ、やっぱり『断る』選択肢だけは浮かんでこない──。
栞は自身の頬に添えられていた佐為の右手にそっと左手を重ねた。
「もう少しだけ……一人にさせてください。夜には……その、きちんといたしますので」
そうして佐為からそっと身体を離して立ち上がる。
「もし対局相手が必要であれば打てる女房を呼びますのでおっしゃって」
佐為は小さく首を振るった。
「大丈夫、しばらく一人で石並べでもしていますから」
その返事に栞も頷き、一度外へ出て気持ちを沈めようと妻戸を開いて外へと出た。そうして簀子からそっと庭を見つめる。
じき冬だ。
夜風はもうだいぶ冷たい。
だが火照った身体にはかえって心地が良い。と、灯籠の灯が照らす先の闇に紛れた庭を見ながら遣水の音に耳を傾ける。
こんな時だからか、浮かんでくるのは子供だった頃の記憶だ。
生まれてまだ二十年にも満たないが、故一品式部卿の宮の内孫として、そして斎宮の大宮の外孫としてそれは高貴な身に生まれついた。そのような血筋ゆえか、
ただ、あの頃に戻ってしまえばおそらく佐為に出会うことはなかっただろう。
仮に出会ったとしても、彼は『侍従』そしてこちらは『
だから──。ならば、これがさだめなのだろうか。
栞は苦く笑う。運命など微塵も信じていないというのに、おかしなことを。
全て自分で選んだことなのだ。佐為を拒まなかったのも自分の意思。ならばなにを憂うことがあるだろうか。
考えていると、「姫さま」と命婦の声が聞こえた。
「まあ姫さま、お身体が冷えてしまいますよ」
「ええ、そろそろ中へ戻るわ」
「もうじきお
その一言にまたも狼狽した自分を栞は自嘲した。
自分以外のみなが落ち着き払っているというのに。他の宮家や大臣家の姫たちはこういう時どうしていたのだろう? むろん自分にしても閨での振る舞い方は習ってはいるが……。いや習いはしたが生涯独身を貫く覚悟であったし、あまり真剣には聞いておらず記憶がおぼつかない。今日も身支度中にこんこんと言って聞かせられたが、昨日の今日で心構えなどとてもとても。
ただ、望まぬ婚姻を強いられる貴族の娘の方が多いことを顧みれば、恵まれているではないか。再度強く思う。
そのままぼんやりと外を眺めていると、ずいぶんと時間が経っていたのか足音が近づいてくるとともに心配げな声が後ろから響いた。
「栞殿……」
佐為の声だ。振り返ると、灯籠の火に照らされた彼がそばまで歩いてきてこちらの手を温めるようにとった。
「ああ、やはりこんなに冷えて」
その温かさに栞が頬を緩めると、佐為も小さく口元を緩めた。
「戻りましょうか」
「はい」
そのまま佐為に手を引かれて中へと戻り、燈台の灯がうっすら照らす寝殿の奥へと向かう。
御簾が巻き上げられた先の几帳で仕切られた寝台には
二人が中へ入ったのを見届けた女房たちが御簾を下ろす音が伝う。こうなれば完全に二人きりだ。
「みっともない姿を晒すことになりますが……」
佐為は
すれば
「見事な
烏帽子を置いた佐為は
「栞殿の髪も美しいと思いますが……」
「私は……、それほど長くもないですし」
舞を舞う際や外出時に不便なため、栞の髪は比較的短い。長ければ長いほど良しとされる美の基準には合わず、今さらながらにやや恥ずかしく感じていると佐為は優しく笑った。
「あなたを初めて見た時…… 私には夏の夜の精が人の姿を借りて舞い降りたとさえ思えたんです」
「佐為の君……」
「まことにそうであれば、こうして触れることさえ叶わなかったでしょうね」
佐為は栞の頬をそっと撫でてから、手を首筋へと滑らせて栞が重ね着ていた細長と袿を肩から落としながら器用に細長の当て帯を解いた。すれば単衣のみとなりさすがに栞の身体が震え、佐為は指貫の腰紐を解きつつ栞を自身の胸へと抱き寄せる。
あたたかい、と感じていると袴帯を解かれた気配が伝い、栞は一度ごくりと息を呑んでから顔を上げた。
「私の方こそ、あの夜にあなたをお見上げして……」
まるで月読が地上に降り立ったようだと感じた。との言葉を続けられずにいると、佐為は少し笑って栞の頬を捉える。
「あの夜に……なんです?」
耳元に口を寄せて続きを促されるも栞は口籠もり、佐為は低く笑みを漏らした。
そのまま彼はそっと栞と自身の額を合わせ、栞は佐為の手に自分の手を重ねて彼の瞳を見つめる。
これから生涯をこの人とこうして過ごすことになるのだという実感は未だ沸かないまま目を閉じ──栞はそのままその身を佐為に委ねた。