藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第七話:露顕(ところあらわし)の儀

「お目覚めでございますか?」

 

 うっすらと瞳を開けるとそんな声が聞こえた。命婦の声だ。

 見やると、まだぼやける視界に手水を持ってきた彼女の姿が見えた。

 辺りは既に明るい。自身が単衣を身につけていることを確認しつつ栞は上半身を起こした。

 

「私……」

 

 寝過ごしたのだろうか。まだおぼつかない頭で考える。

 ──確か、まだ夜が明けぬうちに三日夜餅(みかよのもちい)を口にした記憶はある。

 あのあとまた眠ったのか、と栞は辺りを見渡した。

 

「佐為の君は……?」

殿(との)なら夜明け前にご自宅へ戻られました。姫さまを起こさないようにと。今日は出仕が済めば直接こちらにいらっしゃるとおっしゃってましたよ」

「そう」

 

 手水で顔を洗っていると、(しとね)の横に置かれた紙が目に入った。ああ、と視線に気づいたらしき命婦が笑う。

 

後朝(きぬぎぬ)のお文でございましょう。発たれる前にしたためておいででしたから」

 

 そう、と頷き身支度を済ませてから栞はその文を手に取った。

 返歌を期待していないからこそこういう形で残していったのだろうが、彼は義理を通したらしい。

 

「私も文を出さなくてはね……」

 

 博雅さまに。と呟く。博雅が帰宅する頃合いを見計らって文を届けさせよう。

 佐為が直接ここに戻るならば一緒に朝餉でも取りながら話を……と思うも慌てふためいて飛び込んでくる様がありありと浮かんで苦笑いを漏らした。

 なんとも不思議な気持ちだ。

 実感が全くないが、三日夜餅(みかよのもちい)も済ませてもはや人妻となってしまった。

 ──ということは軽々しく博雅と対面できる立場でもないということになるが。博雅ならばその辺りをうるさくは言わないだろう。

 

 そうして昼に差し掛かり、ちょうど文を出したのと入れ違いで佐為が御所から戻ってきた。

 

 三日夜餅(みかよのもちい)を食べて以降初めて顔を合わすことになる。

 やや緊張した面持ちで、栞は佐為が寝殿の御簾を潜ってこちらへと入ってくるのを待った。──散々、命婦に「こう言え」と念を押され教え込まれていたことがある。

 緊張のまま待っていると宮中では見慣れた緋の袍が瞳に映り、栞は(しとね)から降りて頭を下げ彼を迎えた。

 

「おかえりなさいませ、殿(との)

 

 すると、佐為は驚いたように持っていた笏で口元を押さえた。

 

「これはまた……仰々しい出迎えですね」

「だって、あなたは背の君になるのですし」

 

 言うも気恥ずかしくて顔を背ければ、佐為がこちらに歩みよりながら小さく笑う声が伝った。

 

「ところで……、恐れながら博雅三位(はくがのさんみ)の弟君とは同僚ですので今朝それとなく博雅三位(はくがのさんみ)の居所を聞こうと思ったのですが……」

「ああ、四位侍従(しいのじじゅう)殿ですね」

「ええ。ですが理由を問われてもお答えできかねるので躊躇してしまい……今日の出仕でも結局お会いできませんでした」

「博雅さまのところには少し前に使いを出しましたので、もうじき来られると思いますよ。佐為の君が気を回さずとも──」

 

 そこではっとした栞は思わず佐為の顔を見て、次いでぱっと目を逸らす。

 

「いえ、と……殿(との)

 

 佐為はくつくつと抑えきれない笑みをこぼしつつ栞の手を取って顔を覗き込む。

 

「構いませんよ、好きに呼んでいただいて」

「で、ですが……」

「私もまだあなたのことを“上”とは呼びかねますから」

 

 そんな会話をしている最中にも辺りが騒がしくなり、慌てたように命婦が歩み寄ってきた。

 

「姫さま、博雅の殿さまがたったいまお着きに……!」

 

 同時に渡殿から凄まじい勢いで足音が近づいてくる。そして母家の御簾が破れるほどの勢いで揺れた。

 

「栞!! 佐為殿と結婚したとはどういう──ッ!」

 

 焦ったように走り込んできたのはつい今二人が話していた博雅その人だ。

 その博雅の表情がこちらを見て固まるのが見えた。

 

「博雅さま……」

「は、博雅三位(はくがのさんみ)……」

 

 とりあえず博雅を落ち着かせて座らせ、ここに至るまでの諸々の経緯を説明するもさすがの博雅もため息を吐いて難しい顔をしている。

 

「こうなった以上は今さら詮無いことであるが、せめて私にだけでも事前に相談してくれればもっとやりようもあったというのに」

「も、申し訳ありません」

「いや、まあ。栞の結婚についてはそれとなく世話するよう父君も一任してくださっていたからいいものの……」

「あの、それで…… 露顕(ところあらわし)のことなど博雅さまにご相談したくて」

「そうだな……。幸い、明日は吉日のはずだ。今日中に急ぎその旨の使いを出させよう。まずは叔父上たち……式部卿の宮や(げん)の中納言など」

 

 うんうん唸りつつ博雅がいえば、佐為は驚いたような声を漏らす。

 

「し、式部卿の宮さまにまでおいでいただくと……?」

 

 すれば博雅はきょとんと佐為の顔を見返した。

 

「宮は管弦の名手であられるから、露顕(ところあらわし)の儀の映えにもなるだろう。それに私にとっては叔父だし、栞の父君や母君ともいとこ同士であるし」

「そ、それは……。いえ、はい。……恐れ多いことです」

 

 露顕(ところあらわし)の儀はいわば婿の顔見せの場。参列するのは妻側の者のみである。必然的に皇族筋ばかりになることが佐為には重いのだろうか。やや複雑そうな顔をした佐為だが、こればかりは致し方ないことである。

 

「とはいえやはり急なのだし、あとで私の家からも応援を出させよう。ああそれと筑紫におられる父君に火急でお知らせせねば……」

 

 博雅には娘はおらず、婚儀を整えるのは今回が初の経験だろう。

 

「博雅さま……」

 

 父がそばにおらずとも博雅がついていてくれることは幸運だと思いつつも、本心で博雅はこの結婚をどう感じているだろうか。栞がやや不安に感じていると彼は敏感に察したのか、少し肩を竦めて冗談めかした。

 

「しかし佐為殿がいよいよ結婚となると……都中の女人が出家しかねん騒ぎになろうなあ」

 

 ははは、と肩を揺らす博雅に佐為は自嘲気味の表情を浮かべた。

 あながち冗談とも思えない、と栞も苦笑いを浮かべれば博雅もゆるく笑った。

 

「お父上も私も、栞……そなたの望まぬ結婚はさせまいと心を砕いてきたのだから、そなたが佐為殿を好いているならこれ以上の喜びはないよ」

「博雅さま……」

 

 栞は佐為と顔を見合わせて、そして微笑みあってから強く頷いた。

 

「はい」

 

 

 夜も更け、露顕(ところあらわし)の儀の指示も一通り終えた博雅は佐為と酒を酌み交わしていた。

 

「しかしそなたと栞を登華殿で見かけた時はまさかと思ったものだが……」

 

 笑う博雅は、佐為が博雅と気づかず栞をとっさに自身の袍で隠したあの一件を思い出しているのだろう。

 しかしながら佐為の方は申し訳なさげな声を漏らす。

 

「自分でも大それたことだとは承知しております。本来なら入内して国母さえあり得た姫だというのに」

「おいおい、私は責めているわけではないよ。それに、我々はいつどうなるかわからん身だ。血筋だけは良いが、それだけだよ」

 

 はは、と博雅は軽く笑ったが博雅自身も時流が自身に向いていれば帝位さえ望めた身である。

 そう多くは望んでいないのだ。博雅の言葉の意味を察した佐為はなおのこと眉を寄せた。

 

「実は今日の朝参に先立ち両親にこのことを話しましたところ……、出家して大臣(おとど)に詫びるなどと大騒ぎいたしまして」

「そりゃまた難儀な……」

「こちらに不備なく仕えるよう再三言い渡されましたが、博雅三位(はくがのさんみ)の方にも文など届くやもしれません。どうかお気になさらずいてくださればありがたく思います」

 

 佐為の話しぶりから、彼の両親は息子が無理強いしての婚姻だと感じているのだろう。

 三日通えば婚姻は成立するとはいえ大臣家の、それも姫のいる寝所に忍び込むなどと仮初の一夜でもそう容易ではない。ましてこの屋敷は通常より警備が厳重で、無理やり押し入るなどは不可能なのだ。仮に押し入ったところで貴族以外なら検非違使に引き渡され牢獄入りが関の山。貴族であっても大臣家の姫が親の承諾もなしの結婚などあり得ない。──ゆえに自分が正式な婚姻として大々的に世間へと公にしなければ大臣家にとっての恥。考えて博雅は低く唸る。

 

 正式な婚姻となると、夫の世話は妻側の責任となる。佐為の実家への援助もしなければならない立場となるだろう。

 

 実弟から聞いた覚えがあるが、佐為の家は下級官人の出で従五位下以上(叙爵しているの)は佐為だけのはずだ。つまりはこの大臣家の家司(けいし)に取り立てられるか否かという身分と出自──となると息子のしたことに恐れをなして出家しかねないというのもあながち嘘ではないに違いない。

 とはいえ佐為は歴とした殿上人。四位や五位の者が殿上を許される例はそう多くなく、五位に限ればほんの数名。まして彼の出自と年齢を思えば異例とも言えるのだ。

 いくら貴族に列していても地下(じげ)であればさすがに結婚の許可は出せなかったが……彼ならば。きちんと説明すれば父君の大臣(おとど)や北の方を納得させられるだろう。

 

 それとなく自分がうまく取り計らっておくゆえ心配無用だと博雅は佐為に告げ、その夜はお開きとなった。

 

 

 

御寝(ぎょし)あそばしませ」

 

 そうして(しとね)の準備が整えば女房たちに促されて栞と佐為は寝所に入る。

 昨夜は佐為が予め女房払いをしてくれていたようだが、今夜は普段通り女房たちに衣装を取り払われ寝間着となる単衣のみで栞たちは(しとね)の上に腰を下ろした。

 

「明日の露顕(ところあらわし)……、なんとかなりそうでよかったです」

 

 急とはいえ年頃の姫がいる以上それなりの用意は元々してあり、きちんとした形に整えられそうだとほっとした様子の栞は早々に一人寝床につこうとした。

 対する佐為は少々首を傾げる。

 

「栞殿……」

「はい?」

 

 声をかければ燈台の灯にきょとんとした表情が照らされるも、佐為はすっと栞の頬に手を滑らせた。

 

「私たちは妹背になるのですから……」

「え……」

 

 そのまま口付けようとした佐為だが栞が不審そうに瞬きをしたため止め、内心どうしたものかと頭を抱える。既に枕を交わして三日夜餅(みかよのもちい)さえ済ませたというのに、まだまだ世慣れぬ『深窓の姫』のままらしい。

 すればこちらの困惑している様子が伝ったのだろう。なおさらまごついたように彼女は呟いた。

 

「え、あの……もう三日夜餅(みかよのもちい)の儀も終えましたし……その」

「終えたからこそ、ですよ」

 

 まさかこの人は共寝をするのは「三日夜」のみだと思っているのだろうか?

 いやさすがにそんなはずは……との思いが錯綜するも、説き伏せるのもかえって興醒めだと感じた佐為は栞の肩口を押してそのまま(しとね)に押し倒した。

 

「佐為の君……?」

()()()()()()にも慣れていただかねば」

 

 そして抱きしめて耳元に口を寄せて言えば、さすがの栞も理解はしたのだろう。戸惑う様子を見せたのも一瞬で、素直に応じてくれ佐為は安堵の息を吐いた。

 ──もしも彼女が表向きの夫婦関係で、純粋に囲碁の相手として受け入れてくれていればどうなっていただろうか。一瞬浮かべたことを今さら意味がないと切り捨て、佐為は意識を目の前のことに集中させた。

 

 

 そうして翌日──。

 

 朝から忙しなく、栞の屋敷の釣殿とそれに続く東の対の中門廊(ちゅうもんろう)には宴のための席のしつらえが施された。

 いまが盛りの紅葉が映えるよう趣向を凝らして灯りも設置され、雅やかな雰囲気に色を添えている。

 

 博雅は数人の息子とともに昼にはやってきてあれこれ指示を出し、客人を迎える準備を進めた。

 さらには近隣の民に酒など振る舞い、佐為の従者たちも盛大にもてなし、日も落ちた頃には博雅や栞の親類が集まり始める。

 

「やあ、またこれは見事なしつらえだな」

「あの姫が結婚とは驚いたが……、大臣(おとど)もこの晴れの日に京におられないとはお気の毒な」

「それにしてもなんと見事な紅葉……、これほどの庭は藤家(とうけ)の屋敷でも見られますまい」

 

 源の中納言や式部卿の宮、いずれも宮家や臣籍降下した皇族筋の面々が集い──この中に一人混じる藤とは。と、佐為は秋模様の庭を優雅に歩く客人たちを寝殿の御簾の内から見て無意識に息を呑んだ。

 公卿ならいざ知らず、中流以下の貴族にとって皇子とは軽々しく接せる相手ではない。まして多くの親王皇子の中でも役職付き、特に式部卿を預かる親王は皇族の最上位に位置する雲の上の存在。そんな彼らが博雅や栞にとっては祝いの場に集うような「親族」なのだ。こちらとてただの五位(地下)ではなく歴とした『殿上人』だという矜持など彼らの前ではなんの意味もなく、ただ臣下として見上げるのみである。

 父や母がこの光景を見たらきっと卒倒してしまうだろう。自分ですら未だ現実のものと思えない、などとよぎらせつつ衣装を整える女房たちに身を任せる。

 葡萄染(えびぞめ)の唐の綺の直衣に菊の下襲(したがさね)を合わせ纏えば、晴れの席にふさわしい優雅な直衣布袴(のうしほうこ)姿となって女房たちが感嘆の息を漏らすのが伝った。

 

「宮さまがたにも勝るほどの高貴なお姿ですこと……!」

「なんと大袈裟な……」

「いいえ殿、本当によくお似合いでございます。姫さま、いかがでございますか?」

 

 話を振られた栞の頷く様子が佐為の目に映った。

 

「本当に……あなたには高雅な色がとてもよくお似合いになります」

「宮さまがたの前では恐縮ですが、今日ばかりは許されるでしょうか」

「そうですとも」

 

 小さく笑い合い、佐為の緊張が少しだけほぐれる。

 そうして栞たちに見送られ、(きょ)を長く引きながら佐為は寝殿から東の対へと向かった。

 細殿や廂に控える女房たちの衣装も今日の儀に合わせ整えてあり、灯篭や庭の至る所に置かれた篝火がいまを盛りの紅葉を鮮やか浮かび上がらせている。

 その光景は目を奪われるほど美しく、東の対、中門廊を通って釣殿に足を踏み入れ客人から声をかけられた佐為ははっと意識を戻した。

 

「婿君のお出ましだ」

「さすが宮廷一の美丈夫と名高い君だけあって今宵はまた格別な美しさよ」

 

 みなが囁く中、佐為は主催の博雅を始め客人らに礼をして席へと着いた。

 

「しかし博雅がこのような儀を取り仕切る日が来ようとは……、我らの兄宮が生きておられたらどれほど喜ばれたことか……」

 

 綾織物の下襲(したがさね)で佐為よりさらに豪奢で威厳のある直衣布袴(のうしほうこ)姿をした博雅を見つつ彼の父である夭折の親王を思い出したらしき一人が涙ぐめば、もう一人も同じように袖で涙を拭いつつ頷いた。

 

「兄宮の楽才を受け継いだ長秋卿こそは当第一の管弦者……、今宵もそなたの箏が楽しみでね」

「もったいのうございます。叔父上こそは主上(おかみ)もご寵愛なされる腕をお持ちですのに」

「私などまだまだそなたの父宮にも及ぶまいよ」

「ご謙遜を」

 

 一通り祝いの言葉を述べた彼らは音楽談義に華を咲かせ始めた。

 政務から弾かれがちの彼らの管弦の才は他の追随を許さず、皇族のみに伝わる演奏術なども独占しているのだ。佐為にしても管弦は趣味としているために興味深く聞いていると、ああ、と親王の一人が佐為の方へ目線を送ってきた。

 

「佐為殿は確か……主上(おかみ)へ碁の指導などされておるのだったな」

「はい」

「碁の上手というと……、我が式部省にも腕達者がいると聞いた覚えがあるが……」

 

 親王──式部卿の宮がそう言い、佐為の頬がぴくりと反応する。

 ああ、と別の宮が応じた。

 

「確か、六位の蔵人にも任官された式部の丞でしょう。菅家(かんけ)の者だったかと」

「ああ思い出したよ。秀才試に及第した碁の達人がいるとうわさになっていた覚えがある。それでかな、主上(おかみ)が雑務の合間に碁の指導を請うているということだったが……、佐為殿はご存知か?」

「あ、はい……。私も大学寮におりましたので、菅原殿のことはその時から」

 

 話をふられた佐為はやや端切れ悪く答えた。

 裏腹に式部卿の宮は興味深げに佐為を見て微笑む。

 

「侍読のような地位に就く者は菅家(かんけ)江家(ごうけ)からは多く出ているが……藤家(とうけ)からは珍しい事例だと思うと、佐為殿はよほどの腕だとみえる」

 

 それを受けて謙遜する佐為に博雅が口を挟んだ。

 

主上(おかみ)も佐為殿の指導を楽しんでおられるようだからなあ。栞も昔から碁才に長けていると評判でしたから、この婚姻もその縁でございましょう」

「なるほど、失礼ながらこちらの姫が佐為殿とご結婚とは意外に思っていたが……そういうこととは」

(そち)大臣(おとど)も風変わりな方だから、確か佐為殿は算道を修めたということだし大臣(おとど)の好きそうな良い婿君となろうな」

 

 話がそのように進んだことで佐為はほっと胸を撫で下ろした。

 

 宴が進み、それぞれ琴や箏、横笛などを持ち出して弾き鳴らす音が屋敷に響き渡る。

 

 その音は寝殿にも届いており、女房たちはうっとりと耳を傾けている。

 裏腹に栞は少し寂しげに言う。

 

「この(きん)(こと)……、式部卿の宮さまの音だわ」

 

 (きん)は皇族を象徴する楽器だ。その弾き手は限られており当代の名手は式部卿の宮である。

 

「宮さまの(きん)の音が聞けるとは……多福の限りにございます。博雅の殿さまの箏も一段と冴え渡って……姫さまのご婚礼に相応しい宴となってこれ以上の喜びはありません」

 

 命婦などは感激のあまり涙を滲ませており、他の女房たちも同様のようだ。

 しかし、と栞は思う。

 さすがに親王たちを前に、しかも婿の顔見せ(婚礼)の最中に自分がのこのこ出ていくなど許されず、流れてくる音を寝殿の奥で聴くことしか叶わないのは寂しいものだ。

 あれほど管弦の名手が一堂に介しているのだから、舞いに行きたい……。思う気持ちをなんとか抑えて流れてくる音に耳を傾ける。

 

 こうも多くの親族が私的に集う機会は滅多になく、まして博雅は酒豪で名高い人物だ。おそらく彼らは夜明けまで宴を楽しむのだろう。思いつつ夜も更けてくると佐為が寝殿へと戻ってきた。

 

「いささか酒をいただきすぎてしまいました」

 

 既に用意の整っていた寝所に佐為を迎え入れ、栞は労いの声をかける。直衣布袴(のうしほうこ)を取り払い単衣一枚で目元を酒でうっすら上気させた様子は言い表しようもなく艶かしいが、佐為には気の張る場でもあったことだろう。

 

「宮さまがたの楽の音を間近で聴かせていただき、恐縮しきりでした。これほどの名手が集うのが自身の婚礼の儀であることが光栄というよりは現実のものとも思えぬようで……もし父の耳にでも入れば恐れ多さに明日にも出家しかねないというか……」

 

 そうして真面目に言い下す佐為に栞は苦笑いを浮かべる。彼の両親は未だにこの結婚をなにかの間違いだと思っているらしい。

 

「でも、宮さまたちの奏でる音をそばで聴けて羨ましいです。私は御簾のうちから出られなかったので」

「宮さまがたはご親戚筋でしょうから、お咎めにはならないのでは?」

「そうですが……さすがに今日は、と」

 

 なぜ出てこなかったのかと言いたげな佐為に栞は自嘲した。

 佐為はというと、そのうちに宮たちとも碁を打とうと言い交わしたらしく楽しんだ様子で栞はほっと胸を撫で下ろす。

 微かに聴こえてくる東の対からの音色にどちらともなく顔を合わせ、微笑みあった。

 これでこの関係は晴れて公のものとなるのだ。

 

「それはそうと……今宵は()()()()()()ちょうど三日夜にもなりますね」

「え……」

「昨夜のあなたはそのつもりでなかったようですが」

 

 苦笑いを漏らされ、栞は昨夜のことを思い出して思わず目を逸らした。相変わらず彼の中での自分は「世慣れない姫」なのだろう。

 しかし佐為の言うとおり、これで名実ともに妹背となるのだ。──栞は再三『こうしろ』と命婦に言い付けられていたことを思い出し、一度すっと息を吸い込むと佐為に向かって手をつき頭を下げた。

 

「な、なにごともよろしくお導きくださいませ……」

 

 佐為の方は瞬時にそれを命婦に仕込まれ言わされた台詞だと理解して笑みを漏らす。

 

「そう硬くならずとも、これから長い付き合いになるのですから」

「そうは言っても……。あ……!」

 

 そういえば、と栞は口元を覆う。

 露顕(ところあらわし)の儀を済ませ、この目の前の人は公私ともに夫となるのだ。ならば伝えねばならないことが……と栞は佐為に身を寄せそっと耳打ちした。

 

「私の()は──」

 

 佐為は少しだけ目を見開いた。

 高貴な女人の真の名を知ることができるのは両親と夫くらいのものである。その行為は彼女が自分の存在をこちらに預けたと言っても過言ではなく、さすがの佐為も感じ入って少しの間を置き口元を緩めた。

 

「そうですか……。それで(あざな)を”栞”と……」

 

 道しるべ、という意味だ。大臣(おとど)はなにを思ってこの名を姫につけたのか──。

 

「私があなたを導くのではなく、導かれることになりそうですね」

(いみな)といっても……、たかだか名前ですのに」

「あなたは言霊など信じないのかもしれませんが」

 

 言って佐為は一度栞のことを(いみな)で呼び、そっと自身の手を栞の頬に滑らせる。

 

「この先でどれほど道に迷おうとも……私の帰る場所にはあなたがいるということです」

 

 遠くに楽の音が聴こえる。

 見つめ合いつつ二人はどちらともなく唇を重ねた。

 

 

 おそらく明日にも都中にこの露顕(ところあらわし)の儀の話は巡るだろう。しばらくは騒がしい日々となるに違いない。

 

 だがいまは楽の音を遠くに聴きつつ、末長く共に……という想いに身を委ねた。

 

 

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