藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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四条の(そち)大臣(おとど)邸の規模=四町≒250m四方


第八話:変化

 博雅が親王たちを含めた親類を集めて四条の屋敷で露顕(ところあらわし)の儀を催した。

 

 という話は瞬く間に京中を巡ることとなった。

 

「四条の大臣(おとど)大君(おおいぎみ)が……」

「藤原佐為殿と──」

 

 大内裏でもそれは同じであり、次の日に佐為が参内するや否や不自然なほどに視線を感じて首を捻るに終始した。

 そうして二、三日が過ぎた辺りだろうか。

 今上への指導碁が済んだ後、典侍(ないしのすけ)を待つ今上のそばに控えていた佐為に彼はああと思いついたように声をかけた。

 

「そなた、四条の姫との婚礼を済ませたそうだね」

「は──!?」

 

 まさか今上の耳にまで届いているとは思わず、佐為は驚いた自身を誤魔化すように頭を下げた。

 

「は……もったいなくも身に余る御縁でございまして……」

(そち)大臣(おとど)が姫の宮仕えにも結婚にもなかなかに慎重で、よもや生涯独身を貫かせる気かと私も気を揉んでいたが……世にも麗しき佐為の君が背の君とは女官たちの嘆きが聞こえるようだよ」

「お戯れを」

 

 今上は軽い笑みを零したが、佐為はやや緊張して彼が去るまで頭を下げ続けて見送った。

 そうして清涼殿から出て弓場殿(ゆばどの)の方をぼんやりと眺める。

 若い公達が弓に興じており、見物者が囃し立てていて賑やかな様子にしばし身を委ねていると「佐為殿」と思いがけず呼び声がして佐為は振り返った。

 黒の袍が目に入り、あ、と佐為は目を瞬かせる。

 

「藤の中納言殿……」

 

 自分よりも幾分年若い摂関家の総領の姿が目に入るも、彼はどこか窶れたような顔をしていた。

 その理由を佐為は察したものの態度には出さずにいると、中納言の方が先に口を開いた。

 

「四条の姫君と……結婚なさったそうですね」

「……はい」

 

 頷けば、中納言は一瞬だけ眉を寄せてからぎこちない笑みを浮かべた。

 

「おめでとうございます。あのような素晴らしい方を妻としたこと、羨ましく思いますよ」

「恐れ入ります」

 

 中納言はそうしてどこか諦めたような顔をし、小さく息を吐いた。

 

「姫の婚礼の話を聞いて……私もようやく決心を固めました。そなたも存じているとは思いますが、院の四の宮さまのこと……ありがたくお世話差し上げたいと」

 

 佐為は返事に詰まる。

 栞への恋が破れたいま、中納言は内親王降嫁の話を受けるということだろう。

 とはいえ、自分が妻とせずとも栞は中納言との結婚は望んでいなかったのだし……と考えていると彼に伝ったのか中納言は自嘲気味に肩を竦めた。

 

「姫がそなたを選んだのだから仕方がないのだと言い聞かせてはいるのだが……なかなか思うようにはいかぬものです。せめて姫に婚姻祝いを贈ることくらいは許していただきたい」

 

 では、と告げてその場を離れた中納言に佐為は頭を下げて見送った。

 致し方のないことであるが、彼にとっては若い日の苦い思い出となるのだろう。

 

 

 事実、のちに左大臣へと進むこととなる彼は千年ののちにまで残る『二条左大臣記』に、若き日に恋い慕った五節の舞姫への苦い失恋の記録を残している。

 当時を知る貴重な史料となるとともに数多の研究者の興味を千年という時を経てなお誘ってやまないのだが、それはまた別の話である。

 

 

 一方の後宮は登華殿でも栞の婚姻の話は伝わり、女房たちのうわさの的となっていた。

 

「佐為の君、栞殿がいらっしゃる時はずっと栞殿と対局ばかりされていると思っていたらいつの間に……」

「でも佐為の君って色々うわさがおありよね。橘内侍(きのないし)や麗景殿の宰相の君など」

「そうは言っても宮仕えじゃ家庭は難しいし、相手が大臣(おとど)の姫じゃとてもとても……」

「佐為の君をお慕いしてる女人は多そうだけど、大臣(おとど)の姫だと諦めもつくというものよね」

「かえって佐為の君の方が恨まれているのではないかしら。なにせ(そち)大臣(おとど)の一の姫で、縁付きたい公達は多かったはずだもの。ほら藤の中納言さまとか──」

 

 その辺りで女御がみなを嗜め、自身もこう口を開いた。

 

「わたくしも祝いの品など贈ろうと思うのだけれど……、栞の君の参内はしばらく難しいでしょうか」

 

 女房たちも各々が顔を見合わせる。

 めでたきことなれど親しく付き合ってきた人が急に遠くなった気がして、みなの胸中に一抹の寂しさがよぎった。

 

 

 三日夜餅(みかよのもちい)及び露顕(ところあらわし)の儀が済めば夫は妻の元へと通うのが通例であるが、佐為は出仕後は栞の屋敷へ戻ってそのまま過ごし、翌日は栞の屋敷から出仕するようになった。

 四条からの方が大内裏に近く便利であることと、なにより広大な屋敷の主人は栞のみで同居するのになんの不備もなかったからである。

 

 婚礼よりしばらくは祝いの使者などで忙しく過ごす日々が続いていた栞だが、ようやくひと段落したある日の午後──筑紫からの使者がひときわ豪奢な祝いの品を届けに訪れた。

 

「父上からだわ……!」

 

 栞自身も事の成り行きを文にしたためたが、博雅が相当に心を砕いて取り繕い、佐為のことから露顕(ところあらわし)の儀の様子まで詳細に書き記した文を筑紫へと出してくれたことは知っている。

 ──貴族にとって娘というのは宮廷政治を生き抜くための重要な道具である。まして大臣家ともなれば帝の外戚となれるまたとない機会。という常に反し、父はたった一人の娘である自分を政争から遠ざけた。その昔は五世女王までは臣下との婚姻は禁止されていたのだから、と未婚を貫いても構わないとさえ示唆していた。要は摂関家と縁づく必要はないという事だったのだろう。

 もしかしたら入内はともかく皇族(血縁)と結婚しろという意味だったのかもしれないが。しかし。博雅の言うように「望まない」結婚をする必要なはいという親心だったはず……などと錯綜する考えを浮かべつつ父からの文に目を通した栞だが、心配は杞憂だったとホッと胸を撫で下ろす。

 

「佐為の君にもはやくお会いしたいと書いてあります」

 

 出仕から戻ってきていた佐為に手渡すと、佐為も同じ心境だったのだろう。一通り目を通して安堵したような息を吐いている。

 

「恐れながら……私からも返事を差し上げて構わないでしょうか」

「ぜひそうなさって」

 

 笑って言い、送られてきた品々を二人で眺めていると「姫さま」と命婦が声をかけてきた。

 

「お文が届いております。登華殿の女御さまから」

「え、女御から……?」

 

 栞は受け取りつつ瞳を瞬かせた。

 女御からは祝いの品と文を既に受け取っているし、私用だろうか。

 思いつつ文に目を通せば、久しく参内していないため折りを見て歓談に来ないかという誘いの文だった。

 思わず栞は佐為を見る。すれば彼はやや首を傾げた。

 

「女御さまはなんと……?」

「あ、いえ……顔を見せに参内して欲しいと」

「参内……登華殿にですか」

 

 きゅ、と栞は持っていた文の端を握りしめた。しばらく登華殿の友人たちの顔も見ていないし、ありがたい誘いだ。

 でも、と探るように佐為を見上げる。

 

「お許しくださる……?」

 

 面倒にも思うが、結婚して失った自由の一つが()()だ。

 

「参内を……ですか?」

 

 もちろん自分の意思だけで参内することは可能であるが──。見やった佐為はやや逡巡するような素振りを見せている。おそらく彼は積極的には賛成しかねるのだろう。

 それもそのはず。女人()を喜んで公の場に出したがるのはせいぜい父や博雅くらいだ。

 が、佐為の立場上はっきり反対するのは憚られるに違いない。

 もう身軽な身でもないのだし、と小さく栞は肩を落とした。

 

「これから新年の準備で忙しくなりますし……年が明けて落ち着いてからとお返事します」

「ああ、もうそんな季節ですね」

 

 文を仕舞い、話を変える。事実、新年の準備はことさら妻の側は忙しい。

 

「新年用の衣装など整えさせますので、佐為の君のご実家の趣味に合うといいのですが」

「ありがとうございます。みな喜ぶと思いますよ」

 

 夫の実家の家族、使用人含めて正月の衣装等の全ての面倒は妻がみるのが慣例だ。

 正月といえば、と栞は手を合わせた。

 

「父が長く左大将を務めていたので、お正月の賭弓(のりゆみ)の節で勝った際はこの屋敷で還饗(かえりあるじ)を催していたんです。私も父方が勝った際は陵王を舞ったりして……とてもいい思い出です」

 

 今ではもう叶わないが。と一瞬だけ眉を寄せる。

 賭弓(のりゆみ)の節とは、左近衛府と右近衛符に分かれてそれぞれから射手を出し競い合う宮中行事だ。勝利した側の大将は自身の屋敷にみなを招き饗饌(きょうせん)を振る舞うのが習わしである。なお左方が勝った場合は陵王を、右方が勝った場合は納曽利を舞うため栞は陵王を特に得意としていた。

 公の場で陵王を舞う──もう昔のことだ。浮かべた栞の顔がやや曇る。

 

「栞殿……?」

「あ、いえ。せっかくですし……今度のお正月には私たちも屋敷で弓など射って競ってみましょうか」

「え──!? わ、私は弓はあまり……」

「訓練なさったらいいのに、せっかく馬場があるんですから」

「うーん……」

 

 苦笑いを浮かべる佐為を見つつ、栞は小さく笑った。

 余計なことを考えている場合ではない。

 正月の衣装、佐為にはどのような織物が似合うだろうか。

 きっとみな佐為にいい衣装を着せようと競って励むに違いない。

 

 

 などと日々を過ごしているとあっという間に時間が過ぎていく。

 ただでさえ忙しい師走、今年はことさらに忙しい。

 屋敷の家人(けにん)たちはもちろん栞自身もだ。監督責任は栞にある上に、そもそも()()が……と見ていたのは帳簿だ。

 

「これはまた……、圧巻ですね……」

 

 ある日の午後、栞は佐為を連れて屋敷の御倉を見て回っていた。

 西の対及び北の対の裏手に造られた御倉町はこの屋敷の膨大な財が貯蔵されている場所でもある。

 この御倉町の敷地だけでも佐為自身の自宅よりも広く、さすがに佐為は圧倒された。

 この大臣家の富の象徴──それでもまだごく一部に違いない。

 栞曰く危機管理及び分散のため、かなりの財や荘園の名義は父の大臣(おとど)ではなく栞になっているという。定期点検も常に怠らないということだ。

 並の大臣家よりも遥かに物持ちだという(そち)大臣(おとど)を世間は不思議がりもしているが、おそらく常日頃から厳しく管理している結果なのだろう。

 それにこの御倉町に仕えている使用人の数。自身の自宅と比べることさえおこがましい。改めて身分差とはいかに越え難いものか。頭を下げる彼らの出自は、自分とそう変わらない者も多いはずだ。

 

 だというのに、この屋敷の大臣(おとど)の婿というだけで自分にまで傅いてくれるのか──。

 

 しゃんとしなければ。佐為は改めて背筋を伸ばした。

 

 

「お手伝いしましょうか」

 

 気になった点を洗い出し、帳簿を積んで山にして北の対の書物庫に籠る栞に佐為は声をかけた。

 結局は主計寮や主税寮に召されなかったとはいえ、帳簿の照会・財政管理は佐為にとっては専門分野だ。栞は頷き、いくつかを任せてくれた。

 

「さすがは算道出身……お速いですね」

 

 貸借文書、売渡状、寄進等が逐一記載された書類と照らし合わせ計算違いや漏れがないかを見ていく作業を共に進めていると、栞が驚いたように言った。

 ふ、と佐為は笑う。さすがにこればかりは負けてはいられない。

 

 にしても。漢詩ができるとは聞いていたが、おなごがこうも漢字(真名)を使いこなし漢書さえ読めるとは。このようなことばかりに神経を費やしているからこの人は和歌(うた)が苦手なのだろうか……と一区切りつけて少しばかり休息を取りつつ佐為はちらりと栞を見やった。

 博雅にしても栞にしても万葉や古今を誦じてはいるらしいが、いかんせんそれに感じ入ることがないらしく……。(そち)大臣(おとど)和歌(うた)が苦手など聞いたこともないため、栞の場合は博雅本人も言っていたように彼の影響か。

 などとやや無礼なことを思いつつずらりと並べてある古めかしい書物を佐為はなんとなく眺めた。

 おそらく貴重な書が山のようにあるはずだ。触れていいか許可を取り、いくつか手に取り捲っていく。

 そして何冊目だっただろうか。手に取った一つの書を開いて佐為は思わず声を上げた。

 

「これは……梁武帝の棋書では……!?」

 

 梁の武帝は囲碁好きで著名な太古の唐土(もろこし)の皇帝である。

 驚いたように栞が振り返って見上げてくるも佐為は高揚した自分を抑えきれず、栞は瞳を瞬かせる。

 

「た、たぶん……。碁に関する古書でしたらその辺りに色々あると思いますよ」

「ほんとうに……!? 見ても構いませんか?」

「ええ」

 

 どうぞ、との返事を待って佐為は古書を次々に探っていった。

 そうして見ているうちに、漢や隋、唐の碁の専門書のまとめ、格言集などが──原書ではなく写しであろうが──見つかり佐為は息を呑んだ。もちろん全てが揃っているわけではなく欠本も見られたが、それでも信じられないくらいだ。

 侍従として様々な御書を手に取る機会はあるが、これほどのものは大学寮にも、いや内裏にさえあるかどうか……とよぎらせはっとする。

 そもそもこの屋敷の所有者だった栞の祖父は故一品式部卿の宮だ。歴史に必ずや名が残ると言わしめた才ある親王で、薨るまで歴代の帝の信任が最も厚かった人物でもある。

 栞の母方の祖父母にしても双方共に帝の御子。祖母に至っては斎宮まで務めた大宮だ。であれば、これほどのものが受け継がれ揃えられるのも不思議ではなく──書を持つ手が震える。自分のようなものには一生目を通す機会にさえ恵まれなかったに違いない。

 栞を妻にしてどれほどの僥倖であったか──と、利己的に感じてしまう自身を叱咤しつつも佐為は口元を緩めた。

 

 これらに囲まれて育った栞が棋力に恵まれているのも道理というもの。

 

 さすがに書物庫から持ち出すのは父から禁じられていると言われた佐為は、しばらくの間は栞と共に北の対に篭もって帳簿の管理を手伝う傍らひたすら書を読み耽った。

 出仕の時間さえ惜しいほどだ。

 博雅が楽に夢中なあまり職務が疎かになることを同僚の弟君がたびたび愚痴っていたが。今度からは多めに見て差し上げてほしいと言おう。と、佐為は楽狂いの博雅に強い共感を覚えつつ誓った。

 

 

 そして佐為も少しずつ四条の屋敷での生活に慣れていく。

 

 出仕が済めば大内裏を出て大路を下り、四条に差しかかった辺りで豪奢な四足門が見えて来る。大路に面した四足門──大臣(おとど)の住処の証だ。

 その西門が開かれ、その先の西中門近くに牛車を止めて降りた佐為の視界にまず映るのは侍所だ。西門から西中門までの区画には使用人たちの住まいである雑舎群もある。

 

「お帰りなさいませ、殿」

「お帰りなさいませ」

 

 みなが頭を下げて迎えてくれ、佐為は西中門をくぐった。いつもならここで屋敷に上がるが、今日は庭を歩こうとそのまま進んでいく。

 昨夜からちらちら降り始めた雪が出仕前には積もっており、御所から戻ったら雪景色を鑑賞しようと決めていたのだ。

 

「あ、殿! お帰りなさいませ」

「お帰りなさいませ!」

 

 歩いていると西の対付近で使用人の子供である童女たちが雪遊びをしている様子が見えた。一同こちらの姿を目に留めて手を止め挨拶をし、佐為も口元を緩めた。

 

「ええ、ただいま」

 

 聞けば外で遊びたいとせがんだ彼女らに栞は快く許可を出したらしい。

 愛らしい様子に目を細めつつ、遣水にかかった橋を越えて銀世界の広がる広大な庭を見渡してみる。

 光が反射して眩いばかりだというのに、視界を覆う景色はどこまでも荘厳で幽玄だ。

 

「おや……」

 

 しばし銀世界を堪能してから今を盛りの椿の木に視線を移せば、雪をかぶった真紅の花がよりいっそう鮮やかに映える様が目に映った。思わず頬が緩み、近づいてみる。

 なんという美しさだろうか。香り豊かな梅も優美な桜も心惹かれるが、椿ほどではあるまい。雪を手で払い、露わになった椿の姿に佐為は笑みを深くした。

 あまりにはっきりした色は慎みがないなどと言われはするが、美しいものは美しい。

 このようなはっきりと鮮やかな色が栞にはよく似合うのだ。一枝手折って彼女の髪に挿してやりたいが、さすがに無断で手折るのはまずいだろうか……などと思いつつぐるりと屋敷を見渡してみる。

 

 見慣れたとはいえ、改めて見ても広大な屋敷だ。

 

 大学寮と同規模の広さを持つだろうこの大邸宅は、主殿である寝殿を中心にいくつもの対の屋が連なっており全てを見て回るのは骨の折れる作業である。

 今でこそ栞は寝殿を主に使っているが元々は北の対に住んでいたようで、事務仕事をするための部屋や書物庫があるのもここだ。

 その北の対の西に位置する西北の対は栞が舞の稽古に使う場所にしていて管弦に覚えのある女房が控えており、彼女が寝殿をあけている時は十中八九この西北の対にいる。

 先ほど童女が遊んでいた西の対は西一の対と西ニの対の二つの対の屋が連なっており、女房たちの局があり、方違え等でやってくる親族や客人を寝泊まりさせるのに使う場所でもある。

 東の対及び東北の対はもっぱら宴に使われ、隣接する馬場殿も合わせて──今は栞の馬弓遊びの場と化しているが──大臣(おとど)が在京の頃は公達を集め華やかな催しをよく行っていたらしい。

 そんな東の対に連なる釣殿はこの屋敷でもっとも見所のある場所で、広大な庭の清涼な水の流れる池は船遊びも楽しめ、中島には幾つもの橋がかかり、四季折々にさまざまな花が咲き乱れている。

 

 佐為自身はほとんど寝殿で過ごしているものの、この屋敷の主としてあちこちを忙しなく動き回る栞が並の姫より活動的なのも致し方ないのかもしれない。

 そういう姫を妻としたのだから、寝殿の奥でじっとしていて欲しいと言う気はないが──だが。矛盾しているようだが、出会った夜のようなことはさすがにもう控えていただかなくては。幸いこの屋敷の広さがあれば、彼女が退屈することもあるまい。

 考えているとさすがに身体が冷え、かじかんだ指に息を吹きかけると息が白くなって辺りを包んだ。

 そのまま佐為は寝殿の方へと歩いていく。

 

 

 そうして新年が訪れ、寒さも和らいで梅の花が盛りの季節となった。

 

 少しばかり暖かくなってきた時分、内裏の梅の花を見逃さぬうちにという名目で栞は久々に参内することにした。

 公務もひと段落したこの時期、公達や殿上人も今を盛りの梅の香に気もそぞろなことだろう。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく……」

「よくおいでくださいました、栞の君」

 

 女御に挨拶をし、見知った女房たちから歓迎されて栞は懐かしさに頬を緩めた。

 

「登華殿までの道すがら、梅の良い香りが漂っていて立ち止まっては梅を見て……と時間がかかってしまいました」

「四条の屋敷の梅も素晴らしいと聞いておりますよ。一度拝見したいわ」

「では明日にでも一枝折って届けさせましょう」

 

 そんなさりげない話をしつつも、彼女らはおそらく佐為とのことで聞きたい話が山のようにあるのだろうと栞は感じた。うずうずしている様子が見てとれる。

 事実、佐為は仕事柄この登華殿にはよく訪れるが栞とのことを聞くのは憚られてほぼ聞けていないらしく。そのうちに誰かが切り出してきた。

 

「私たち、とても驚きましたのよ。突然に栞殿が佐為の君と、と」

 

 栞は肩をすくめてみせる。

 

「それは私も同じです。気がついたら……というか、たまたま縁があったというか」

 

 まさか二日目の夜まで佐為にその気があるなどいっさい分からなかった。とはさすがに言えず。

 それでも彼女たちは興味深そうに次々と口を開いた。

 

露顕(ところあらわし)の儀は長秋卿が取り仕切られて、宮さま方がご参列されてそれは見事だったそうですね」

「私、上野(かんづけ)親王(みこ)さまに聞きましたのよ。長秋卿や式部卿の宮さまをはじめ当第一の楽の上手が集って秋の夜に響く音色はそれはそれは素晴らしく……それにもまして佐為の君の婿姿は比類なき美しさだったと」

「羨ましい……! その日だけでもそばでお仕えしたかったわ……!」

 

 女房らの色めく様子を見つつ、確かにあの露顕(ところあらわし)の儀は後世の語り草にもなりそうだと栞自身も我が事ながらに思う。

 

「博雅さまが立派に取り仕切ってくださって、急な事でしたのに感謝してます。でも……せっかくの楽の音を私は寝殿の奥で聴いていただけでしたので口惜しい思いもしました」

 

 すれば、さすがの栞も自分の婚礼で舞ったりはしないのかと周りは笑みを漏らした。

 そうして新婚生活はどうかと聞かれ、さしもの栞もやや気恥ずかしく目線を泳がせる。

 

「あんなにお美しい方が背の君なんですもの、お通いが楽しみでしょう?」

「通い……というより、佐為の君は四条から出仕されて四条にお戻りになるので……」

「まあ……!」

「佐為の君のご自宅は七条の賑やかな場所という事ですし、四条の方が出仕もしやすく……それに私一人であの屋敷に住まうには持て余していたので、かえってありがたく思っています」

 

 おおよその場合、結婚当初はまず通い婚となるため物珍しいのだろう。彼女たちはますます瞳を輝かせる。

 

「佐為の君はお優しい?」

「や、優しいは優しいですけど……。相変わらずいつも碁を打たれてるし、私と結婚なさったのも対局相手欲しさというか……」

 

 栞はやや気恥ずかしさも感じつつ扇を開き、扇いだ。

 

 ──突き詰めて考えれば、佐為にとって自分は好都合な相手ではあったのだろう。

 結婚相手として釣り合う歳で独り身で、碁の相手もできて。佐為は身分違いを気に病んでいたが、裏を返せば妻側のこちらは十二分な援助ができる力を有していることに他ならず。そもそもの話、貴族の婚姻は常に経済、権力、そして名誉の均衡と等価交換で成り立っているのだ。

 

 だとすれば、自分たちはどうなのだろう──。

 

 沈思していると、清少納言から「栞殿」と囁かれてはっと栞は顔を上げた。

 

「長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ」

「清少納言殿……」

「私どもも、夫とは実のところよく知らぬまま結婚したのですし……、栞殿の場合は珍しくすらあります」

 

 すれば他の女房たちもそれぞれにどこか複雑そうな顔色を浮かべた。

 ──貴族の婚姻は個人の選択とはおおよその場合遥か遠い場所にあるのだ。

 それでもこうして宮中にあがれば公達との恋も楽しめようというものだが。その恋も所詮は「遊び」でしかない。

 それに栞自身は父がもし宮廷政治に乗り気であれば入内していた身である。そうでなくても摂関家との絆を強めるため藤の中納言と結婚させられていたら、佐為と会うことなど一生なかったに違いない。

 よぎらせた栞は少しだけ肩を竦めた。

 

「そうですね」

 

 ゆるく笑えば、周りも明るく笑った。

 

「それにしても、お二人の間に若君がお生まれになればさぞや美しい公達におなりでしょうね」

「まあ気が早いこと……! あの佐為の君が父親になんて想像もつかないわ」

 

 盛り上がる周囲の声を聞きつつ、せっかく来たのだから和琴や琵琶でも弾いて一曲舞わせて欲しいと言おうとした時だった。

 

「佐為の君がこちらへおいでです……!」

 

 庇の方からそんな声が聞こえて、急なことに一同互いの顔を見やった。

 今日は佐為が登華殿へ来る日ではないというのに。ざわつく中で女御がこう言った。

 

「背の君がお迎えにいらしたようですね」

 

 ぴく、と栞の頬が反応する。

 今日は登華殿へ参上するとは告げたが、なにもわざわざここに来なくても──と思う間にも巻き上げられていた御簾の先から見慣れた緋の袍と姿が顔を出した。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく……。突然に申し訳ありません。妻がこちらへ上がるとのことで、退出の供にと参りました」

 

 栞は佐為のもとへと歩み寄り、小声で訊く。

 

「どうなさったの?」

「私も所用が終わりましたので、迎えにと思いまして」

「迎えにって……私はまだ……」

 

 ごくごく小さな声で話していたものの、栞はそこで言葉を切った。

 久々ゆえにもう少しゆっくりしたい。できれば舞の一つも舞いたいと思っていたが、背の君が迎えに来た以上は退出せざるを得ない。心内でのみ小さく息を吐くに留めた。

 

 また近々参内するとの旨を挨拶とし、栞は渋々登華殿をあとにした。

 

「やはり羨ましいわあ……佐為の君が背の君だなんて」

大臣(おとど)の姫と並んで劣らぬお美しさですもの。(そち)大臣(おとど)は寛容なお方ですし、いい婿殿におなりね……きっと」

「栞殿は気苦労もありそうですけれど……」

 

 口々に話す女房たちの声など届くはずもなく、栞は渡殿を歩きつつちらりと佐為を見上げる。

 次からは迎えに来なくていいと予め言っておくべきか。いや『次』があるのだろうか。おそらく佐為は自分が参内することをあまり良しとしていないのだから。

 彼は博雅や父とは違うのだ。佐為の方が一般的で博雅や父が変わり者とはいえ。と、考えあぐねつつ歩いていると承香殿に差し掛かったあたりで佐為が歩みを止めた。

 かと思うと低く言う。

 

「栞……!」

 

 え、と思うより先に誰かの足音が聞こえてハッとした栞は急ぎ扇を開いて顔を覆い隠した。

 

「これは藤の侍従殿……。そちらは四条の北の方ですかな?」

「──ええ」

 

 誰だ? と思うも聴こえたのは聞いたことのない声だ。

 見れば、佐為はどこか強張ったような厳しい顔を浮かべている。栞が首を捻っていると屈んだ佐為に「行きましょう」と促され、顔を見られないよう注意しつつ承香殿の方へ向かった。

 そうして扇で顔を覆ったまま後ろ目でちらりと見やる。青色の──麹塵(きくじん)の袍が目に入った。禁色(きんじき)だ。

 

「六位の蔵人……?」

 

 六位の蔵人とは六位でありながら昇殿が許されている蔵人所の官人だ。

 たいていは若い権門の公達が出世の足がかりとして任じられるが、たまに学者などの秀才がこの官職に就く場合もある。

 公卿家の公達なら見知っているし、いまの声は若者ではなかったような……などと思案しつつ扇を閉じる。

 

「今の方……、どうかなさいました?」

「いえ」

 

 佐為は小さく首を振るい、栞は微かに息を吐いた。単に他人に軽々しく姿を晒すなという意図だったのかもしれない。

 にしても、と渡殿を歩いていると内裏の内郭門である宣陽門が見えてきて栞は佐為を見上げた。

 

「私、内裏外郭門(建春門)からは車を使用しているのですが……」

「え──! ああ、そうですよね……では私は随身しますので、呼び寄せましょうか」

 

 基本的に大内裏内は牛車の使用は禁止されているが、女人の場合は自身の身分に応じて多少の例外があるのだ。

 

「いいです。手間ですので……、徒歩(かち)で行きます」

 

 予定外に佐為が迎えに来たために予め牛車を呼び寄せておらず、このまま歩いていこうと準備を済ませて建春門へと向かい、大内裏へと出た。すると。

 

「姫さま……!?」

大君(おおいぎみ)さま……! 徒歩(かち)でなどと、御車をお待ちください」

 

 内裏の方へ向かう途中だったらしき顔見知りの左近衛府の武官たちから声が上がった。みな佐為を伴って現れたことに驚いたのか、急ぎ駆けて近くまでやってきた。

 

「構いません。大内裏外郭門(陽明門)までこのまま参ります」

「し、しかし……!」

「車を呼んでも、大内裏(ここ)では夫を同乗させるわけにはいきませんから」

「では、お供をお許しください」

 

 佐為はというと、ついてくる武官を気にしつつ栞に並んだ。

 

「やはり車を待った方が良かったのでは……?」

「いいえ。……久々にこうして左近衛府を見ることができましたから。やっぱり懐かしい」

 

 少し歩けば左近衛府の殿舎が見えてきて栞は笑った。父に連れられ、この大内裏内でもっとも足を運んだ場所でもある。

 あの頃に戻りたいと思っているわけではないが、やはり感慨深いものがある。殿舎に気を取られつつ歩いていると陽明門が見えてきた。

 佐為と一緒に参内したわけではないので、乗ってきた牛車はそれぞれ別だ。栞が檳榔毛車(びろうげのくるま)、佐為が網代車(あじろぐるま)──檳榔毛車は格が上──である。

 

「私の方に同乗なさいます?」

「そうですね」

 

 それぞれ自身の従者を呼んで告げ、乗車準備が整うと佐為は栞を抱きかかえて栞の牛車へと乗り込んだ。

 そうして本来なら男君が座るべき上座(右側)に彼女を下ろし、自身も座る。

 殿方のみであれば御簾をあげ、道中は笛などに興じることも可能だが女車ではそうもいかない。実のところ暇で仕方がないのだが、同乗者がいるだけ通常よりはいいだろうか。栞は佐為をちらりと見やった。

 

「佐為の君、四条に着いたら笛を吹いてくださいね」

「え……? ええ、構いませんけど」

 

 藪から棒になぜ、という佐為に栞は少しばかり拗ねてみせる。

 

「私、今日は登華殿で舞うつもりだったんですから」

 

 邪魔だてしただろう。との気持ちが通じたかは定かではないが佐為はやや言葉に詰まり、栞は苦笑いを漏らす。

 

「そのあとでしたら、気の済むまで対局にお付き合いします」

 

 そんなやりとりの末に佐為がパッと華やかに笑い、ふ、と栞も口元に笑みを浮かべた。

 

『長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ』

 

 この人とそうなれればいいが……、一瞬だけよぎらせた栞は小さく首を振るった。




佐為の好きな花は椿(blanc et noirより)
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