藤原佐為が生きていた時代の物語   作:こうやあおい

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第九話:夏夜(かや)の契り

 貴族の婚姻は三日通えば成立するのが通例である。

 おおよその場合は結婚当初は通い婚で、夫は妻のもとに通うのだ。

 

 しかしながら通いの義務があるわけでなく、彼らの通いどころは一つと決まっているわけでもない。

 

 つまり屋敷の屋根の下から出られない妻にできることは、夫の通いをひたすらに待つことのみだ。

 

 

 ──これでは気に病みすぎて身体に不調をきたす女人が後を立たないのも致し方ないのかもしれない。

 

 と、栞は午後の暖かな日差しを受けつつ簀子に出て佐為と碁を打ちながら思った。晩春の気持ちのいい午後だ。

 佐為はこの屋敷をほぼ本宅のように使っているため夫の通いがないという懸念を抱く暇さえないわけであるが、それでも。

 パチ、と佐為の打った石の乾いた音を耳に入れていると「あ」と佐為がなにか思い出したように顔を上げた。

 

「明日は宿直(とのい)なので、次にこちらに伺うのは明後日になります」

 

 ──これだ。と、栞はつい今考えていたことをよぎらせて息を吐く。

 

 宿直とは宮中夜間の警備である。

 殿上人含め各官人持ち回りでの夜勤だ。

 が、警備とはいえ夜通し公務に勤しんでいるかというとそうではなく、宿直番でない者が宿直の友人を尋ねてお喋りや管弦に興じたり、馴染みの女官や女房の寝所に通ったりと様々に過ごすのが実態である。

 

 現に栞が初めて佐為に会った夜も、彼は知人の宿直に付き合い襲芳舎にいたのだ。

 夜通し宿直所に籠り一晩中管弦の相手をしている博雅のような例外もいるが、あれは例外中の例外。佐為もむろん「一般的に」過ごしているはずだ。

 栞は佐為をジッと見つつこう言ってみた。

 

「あなたが宿直なさるなら、私も参内しようかしら」

「え──!?」

「だって、以前は博雅さまが宿直の折には私も登華殿の友人のところに泊まったりしていたんですもの。佐為の君と出会った夜もそうでしたし。結婚後は一度もそういった機会がなくてつまりませんの」

 

 あからさまに佐為の狼狽する様子が伝った。

 

「こ、こちらも望んでの宿直ではないのですから……」

「ですから私もお付き合いしますと申し上げているのに」

 

 言えば佐為は一旦言葉を止め、碁盤の前から立ち上がって栞の隣に腰を下ろすと栞の両手を優しく取った。

 

「たった一晩離れることさえ寂しくお思いなら……、望まぬ宿直へ赴く私の方をこそ哀れんで欲しいものです」

 

 諭すように言われて栞は小さく息を吐いた。

 このような──心にも思ってなさそうな言葉がさらりと出てくる──部分はやはり彼も貴族の男なのだろう。

 

「うまくお逃げになりましたね」

「なんのことでしょう。ほら、続きを打ちますよ」

 

 佐為は宥めるように言ってから対局の続きを促し、栞は肩を落としてから素直に対局の方へ集中し直した。

 

 

「姫さま、御寝(ぎょし)あそばしませ」

 

 そうして翌日の夜、佐為が宿直で不在の(しとね)に栞は横になった。

 

「……」

 

 宿直、というものは以前は嫌いではなかった。父や博雅について内裏にあげてもらえる機会でもあり、友人たちと過ごせる日であったというのに。

 今では憂鬱なものになりつつある。

 

 結婚して初めて佐為が宿直でこの屋敷を空けた晩。

 慣れ親しんだはずの一人寝がこれほど寂しいのかと感じた自分自身にひどく驚いたものだ。

 

 それでも、佐為とは互いに想い合って妹背となったわけでないのだ。佐為にとっては都合のいい対局相手で、自分はただ断る理由もなかっただけ。だから平気だ……と思う気持ちとは裏腹に宿直や所用で佐為がこの屋敷にいない夜のたびになかなか寝付けない身体になってしまった。

 幸い、彼は何日も家を空ける事はないため大事には至っていないが、これが他の夫婦のように夫の通いを待つだけの身であったら耐えられたかすら今ではもう自信がない。

 無意識に眉間に皺を刻んだまま、栞は暗い天井を睨んだ。

 登華殿の友人と過ごした夜に、女房たちの局へ通う殿方を数え切れないほど見てきた。彼らのほぼ全てが妻を持つ身だ。ゆえに、佐為にしても宿直の夜に「宿直だけ」をしているとは思っていない。

 まして彼には宮中に馴染みの通い所が婚前から複数あるとのことだし、昨日のあの狼狽ぶりからして今宵はたぶん──。考えそうになった栞はきつく首を振るった。

 余計なもの思いはやめよう。考えてもなんの意味もない。そう思っているのに、何故こうも憂鬱なのか。

 はやく眠りに落ちれたらいいのに。願いながら栞は瞳を閉じて一度寝返りを打った。

 

 

 そうしてそろそろ夏が見えてきた頃──。

 

 やや汗ばむ陽気の気持ちのいいある日の午後に、源博雅は内裏の梨壺の辺りを歩いていた。

 この梨壺はその昔に博雅の父宮が部屋を賜っていた場所でもある。幼い頃に死に別れて父の記憶はほとんどないが、それでも梨壺に来るとどこか嬉しい気がする。

 その縁か、今上が春宮時代にこの梨壺で過ごした折にはそばで奉仕したものだ。父宮とは従兄弟で親友であった栞の父、先の左大将と共に幼い栞を連れて……、などと思いつつ歩きながら温明殿の方へ向かうと、どこからともなくゆかしい琵琶の音が聞こえてきた。

 

「ほう……風香調(ふこうじょう)……」

 

 笛の音も聞こえる。調弦しているのか黄鐘(おうしき)の調に合わせて琵琶は緩やかな弦の音を響かせている。

 内侍の誰かだろうか? なかなかの音だ。笛の音も悪くはない。

 博雅が誘われるようにして温明殿の近くへと歩いていくと、簀子に座る鮮やかな女官の装束が目に入った。

 お、と博雅は目を瞬かせる。

 

橘内侍(きのないし)か……」

 

 宮廷一の美姫と名高い掌侍(ないしのじょう)上首(じょうしゅ)だ。

 高位の女官ともなれば教養高いのは常だが、橘内侍(きのないし)もなかなかどうして。聴き応えのある腕だ、と近くでその音を聴こうと近づいた博雅だったが、(きざはし)に腰掛けて横笛を吹く人物を見て思わずその場に固まった。

 宮廷一と名高い内侍の美貌さえ霞むほどの水際立つ姿。見慣れた緋の袍。

 

「佐為殿──!?」

 

 思わず大きな声を出し、しまったと思った時には二人とも手を止めて博雅の方を向いていた。

 

博雅三位(はくがのさんみ)──ッ」

「まあ長秋卿……」

 

 佐為はやや焦ったような声を漏らしたものの橘内侍(きのないし)の方は落ち着いた様子で、博雅は首に手を当てると苦笑いを漏らした。

 

「あーその……すまん。琵琶の音に惹かれてつい」

「長秋卿に至らない音を聴かせてしまい、お恥ずかしゅうございます」

「い、いや。それはいいんだが……佐為殿はなぜ?」

 

 博雅が佐為を見やれば、彼はどこか気まずそうに笛を下ろした。

 

掌侍(しょうじ)の君が琵琶の調弦を望まれていたので、それでお付き合いを……」

「藤の侍従がこちらに書をもっていらしたので、公務もお済みだとお聞きして、それならばとわたくしが頼んだのです」

「ほー……。しかし佐為殿もなかなか、そなたの笛は初めて聴いたぞ。調弦が済んだのなら一つ合奏でもどうだ? そうだな、蘇合香を触りだけでも──」

 

 いずれにせよ博雅にとってはまたとない機会であり、いそいそと懐から横笛を取り出していると佐為は驚いたように立ち上がって慌ててこちらにかけてきた。

 

「それはまたの機会に……! 私もそろそろ退出しようと思っていたところですから」

「お、おい、佐為殿……!」

 

 そのまま強引に温明殿から連れ出され、博雅はわけがわからないまま佐為と並んで御所から退出する流れとなった。

 致し方ない、と切り替えて博雅はこう提案した。

 

「ならば帰る道すがらなら良かろう?」

「え……?」

「合奏だよ。この後は四条へゆくのだろう? 私も久々にゆこう。こちらの車に乗ればいい」

 

 佐為はやや困惑気味だったものの、断る理由もなかったのだろう。博雅の提案通り共に四条へと向かうこととなった。

 

「にしても、そなたが橘内侍(きのないし)とああも親しいとは」

掌侍(しょうじ)の君に限らず内侍司(ないしのつかさ)の女官とは近くで接する機会も多いですから」

「ああ、侍従だからなあそなたは」

博雅三位(はくがのさんみ)こそ、中宮職ではそういう機会も多いのでは?」

「そうだなあ……。だが先ほどのような機会に合奏でもと持ちかけても、すぐに断られてしまうのだよ」

「それは己の拙さが露見してしまうと恐れてのことでしょう。私なども恐れ多くて……」

「そう言ってまた逃げようという腹なのだろう? だが今日こそは付き合ってもらうぞ!」

 

 言って博雅は笑い、笛を構える。すれば佐為も渋々と言った具合に笛を取り出して構えた。

 

 

 その音色は道沿いの屋敷の者たちをざわめかせ楽しませて、やがて牛車は四条へと差しかかる。

 

 四条の屋敷にも彼らの笛の音は届いており、そろそろ佐為も帰ってくるだろうと思っていた栞は意外な音色に目を見開いた。

 

「博雅さまの笛だわ……! それに佐為の君も」

 

 まさかとは思うが博雅の笛の音を間違えるはずはない、と栞は廂に出て渡殿の方を見やった。

 すれば予想通りに黒の袍と緋の方が見え、パッと栞の顔が華やぐ。

 

「博雅さま……! 佐為の君も、おかえりなさい」

「おお、栞。久しいな、変わりないか?」

「はい。お二人お揃いでどうなさったの?」

「御所でたまたま会ってな。せっかくならと久々に四条にも顔を出そうと共に来たのだ」

「それで道中合奏なさってたのね……」

 

 ちらりと栞が佐為を見れば、佐為はどこかぎこちなく言った。

 

博雅三位(はくがのさんみ)のお供は気の張る思いでした」

 

 さすがに博雅と笛を合わせるのは腕に多少の覚えがあろうとも気が引けるだろうと栞も頷く。

 

「でも博雅さまが来てくださって良かった。久々に馬弓にお付き合いくださいません? 佐為の君がなかなかお付き合いくださらないので一人も飽きてきたところなんです」

「馬弓か……うーむ、外はもう陽が高く蒸し暑い。今日はここの釣殿で涼みがてら佐為殿と話でもと思ったので、弓は次の機会にやろう」

 

 博雅はちらりと佐為を見やってから、とりあえず暑いので狩衣に着替えたいと周りの女房に言いつけた。

 衣装だけは山のようにあるのだから好きに選んでくれと寝殿の奥へ行きつつ栞は女房たちに釣殿に飲み物の用意などするよう言い付ける。

 

「私も狩衣に変えようかしら。袿を重ねていると暑くて……」

 

 夏用の生絹の単衣は薄いために着ている分には涼しいが、肌が透けて見えるゆえそれ一枚で人前に出ることは憚られるのだ。栞にしても見苦しくないよう常にやや厚手の袿を上から重ねていた。

 女房たちはというと、いそいそと多種多様な狩衣を運んできて彼らに選ばせている。博雅はもとより彼女たちは佐為を着飾らせることがこの上なく楽しいようだ。

 

「博雅の殿さまも佐為の殿も背が高くていらっしゃるからお見栄えがしますわね……」

「撫子の襲ねをあれほど着こなせる男君は殿をおいて他におりませんもの……! ほんとうに輝くようで、お見上げする私どもまで華やぐようだわ」

 

 着替えを終えて庭から釣殿の方へと向かう二人を見送り、女房たちはそう褒めた。

 博雅は着飾ることにあまり頓着がなく、言われるままに青を重ねた夏の青々と茂る木々を思わせる爽やかな狩衣に腕を通している。

 一方の佐為は白を基調としたものを着たいと言っていたが、撫子襲ねを推す女房らに根負けし、結局は彼女たちの言うままを着る羽目になっていた。が──日差しに透ける撫子襲ねの薄蘇芳と青が重なり、華やかな中にも気品ある色合いを着こなす佐為の様子は見慣れていてさえはっとするほどだ。

 

 そうして栞も衣装替えをしているころ、佐為と博雅は釣殿に腰を下ろして涼をとっていた。

 

「夏になるとここの釣殿が恋しくなるよ」

 

 釣殿から真下の池を見下ろして博雅は満足げに笑った。

 この屋敷は泉の湧き出る地に恵まれそこから直接に池を作っており、常に清涼で爽やかである。

 夏にはこの釣殿で庭を眺めながら饗宴を催すのが習わしでもあった。

 

「なあ佐為殿」

「はい……」

 

 博雅は運ばれてきた高坏(たかつき)の上の酒を手に取り、自身の盃に注いでから佐為へと視線を向けた。

 

「そなたと栞が睦まじくやっているという話は私も伝え聞いてはいるが……。なにせあの通りの跳ねっ返りな姫だ、物足りぬことも多いだろう?」

 

 佐為の手がぴくりと反応する。

 彼は何を言いたいのだろう? 先ほど橘内侍(きのないし)と二人でいたところを見咎められたゆえ牽制されているのか。はたまた他意はないのか。

 いいえ、と佐為は笑う。

 

「私の方こそ不足な相手であると思っています。現に栞の方が私よりも……馬弓などよほど達者で……」

 

 答えた言葉はしかしながら本心で、ははは、と博雅は肩を揺らした。

 

「あれが()の子であれば父のような武官になっただろうと父君である大臣(おとど)もよく嘆いていたよ。せめて舞ならば、と栞が興味を持ったのをいいことにやらせてみたら殊の外に才があったというのに……身分柄それも結局は難しくなり……。哀れなことだよ」

 

 博雅としては、自身が管弦という己のしたいことを堪能しているというのに栞にはそれをさせてやれないことが不甲斐ないのだろう。盃を煽る博雅を横目に佐為は頷いてみせる。

 

「ですがあのご気性があればこそ父君が不在でも立派にこの屋敷を守っているのでしょう。深窓の姫君には難しいことをしておいでですから」

 

 事実、佐為からしても想像がつかないほどにこの家の財産管理は難儀なはずだ。所有している荘園や牧場なども膨大であろうゆえになおさらだ。

 これらの管理ができずに落ちぶれていく宮家や貴族もままいるというのに、都に一人残って管理し維持している栞には相当の能力があるのだろう。

 ああ、と博雅が頷く。

 

大臣(おとど)は風雅を愛でるよりも現実的なところがおありだから、栞は一人娘でもあるし、その辺りは厳しく仕込んだらしい。荘園などの管理書の不備も目ざとく見つけるゆえに昔から大臣(おとど)も舌を巻いていてな。安心して任せているのだろう」

「そういえば去年の暮れにも書物庫に籠もって一日中うんうん唸っていることがありましたね。私も少しだけお手伝いしましたが……」

「おお、そうであった。そなたは算道を修めたのだったな」

「はい……」

「それはいい。算道のような技官養成科は低く見られがちであるが、その実、腕のよく信頼できる算師を雇うのにはみな難儀しておるのだ。大臣(おとど)は詩歌や儒学を軽視しているわけではないが実のある算術をより評価していてな。栞にも師の君をつけて計数など学ばせていたよ」

「それは……大臣(おとど)が風変わりなお方とはお聞きしていましたが、さすが都一の物持ちとも言われるわけですね」

「これからはそなたが手伝ってくれるのならこの家も心強いだろう。私の方でも手伝いを頼みたいくらいだ」

 

 ははは、と博雅が冗談めかし、佐為もゆるく笑った。

 

「私などでも少しはお役に立てるのでしたら気が楽になる思いです」

「やはり大臣(おとど)は良い婿君を持ったということだな」

 

 言われて佐為は目を伏せ頬を緩めた。

 貴族の男は妻の家に生活の全てを世話になるのが当然とはいえ、やはり自身で何か返すことができれば少しは気が楽である。

 

 にしても、と佐為は思う。

 この目の前にいる源博雅は、先の帝の第一皇子の嫡男だ。神に祝福された楽才とまで言われ、箏などは祖父帝に直々に伝授されたとは彼と言葉を交わす遥か以前から聞き知っていた。

 つまるところ佐為にとっては雲の上の存在に等しく、そのような人物とこうして親しく話をするまでになったことが佐為には今でも不思議であった。

 

「そういえば……博雅三位(はくがのさんみ)の北の方のことなど聞いたことがありませんね」

 

 何気なく佐為が聞いてみれば、博雅は目を丸めてきょとんとした。

 

「いやあ私は……そなたと違い色めいた話など誰の口の端にものぼらんからな」

「またそのような……」

「いや、実際に私はどうにもその手の機微に疎くてな。元服後にいつの間にか結婚相手も日取りも決められていて、気がついたら婚礼という有り様だったぞ」

 

 まあ妻とはそれなりに仲も良いが、と続けられて佐為は口元を狩衣の袖で覆った。

 権門の嫡男には元服と同時に同等の家の姫が添臥(そいぶし)に立つというが、似たようなものだろうか。

 いずれにせよ宮中で彼の名を聞く時はもっぱら管弦絡みかせいぜい酒絡みで、当人が言うように浮いた話などいっさい聞かないのは事実である。

 彼は栞の親代わり兄代わりであり血縁でもあるのだから、やはり似ているのだろう。と、自分たちの三日夜のあれこれを思い出しつつ自嘲していると、当の本人がこちらに歩いてくるのが見えた。

 

「博雅さま、佐為の君……!」

 

 やや昔めいた百合襲ねの──栞が好んでよく着ている取り合わせである──赤と朽葉の色目が派手やかな狩衣だ。

 はっとするほど目を引くのは色合いのせいだろうか。相も変わらず男衣装の方が匂い立つような華があるのは単に物珍しいせいなのか、それとも──と佐為が栞を見つめていると隣で博雅が肩を竦めた気配がした。

 

「ずいぶんと派手な狩衣だな」

「陵王を舞おうかと思いまして。やはり殿方のご衣装は動きやすいです。夏に冠や烏帽子は蒸すので困りますが……」

「確かになあ」

 

 ははは、と博雅が笑った。

 烏帽子を被らず髪を緩く結っただけのその姿は少年のようでさえあり、佐為は出会った夏の夜を思い出して目を細めた。

 

 栞は陵王を舞うという。

 唐由来の左舞の代表作である。

 左右に分かれての弓での勝負などで左方が勝てば舞われる定番の舞でもあり、栞の得意としているものの一つだとは佐為も聞き知っていた。

 

 笛だけでは寂しいが、と言いつつ博雅が横笛を構える。

 栞は陵王の舞の際に持つ(ばち)の代わりに自身がよく使っている扇を逆さにして持っている。朱色の鮮やかな陵王の衣装に見立て、百合襲ねを選んだのも道理だろう。

 

 陵王とは『蘭陵王』と呼ばれた北斉の王──。

 才智豊かで武芸に優れた彼は世にも稀な美貌だったため、仮面を付けて闘いに臨んだと伝えられている。王の美貌に気もそぞろとなる兵の士気を下げないためだ。

 

 ──ああ、これぞまさに栞が得意とするわけだ、とこの場では仮面をつけずに舞う栞を見て佐為は感じ入った。

 艶やかな黒髪が揺れ、紅が冴える唇に涼しげな目元がえも言われぬ艶麗さを放っている。凛として勇壮で、それでいて普段は仮面に遮られ見ることの叶わない陵王の艶かしい視線に意識を絡めとられて動くこともできない。

 

 今上をはじめ登華殿の女御や多くの上達部が栞の舞を褒めそやすのも無理はない。

 まして楽聖とまで称えられる博雅の音に乗せてとあらば……と目の前の光景を見つめつつ佐為は思う。

 もしも今のように仮面をつけずに人前で舞うなどと栞が言い出せば、おそらく胸中穏やかではいられまい……と。

 そう感じてしまったのは妹背の仲だからか。それとも──、と考えていると博雅が笛をおろした気配がして佐為はハッと我に返った。

 舞い終えて口元を緩めた栞と目が合い、思わず佐為は目を瞠る。『美貌を晒した北斎の王』を前に目を逸らせないでいると、眼前まで歩いてきた栞が首を傾げた様子が映った。

 

「佐為の君……?」

 

 呼ばれるまで惚けていた佐為は、動けずにいた自分を取り繕うように栞の手を取って笑ってみせた。

 

「そなたがあまりに美しくて……見惚れていました」

「え……」

「仮面をつけねばならなかった陵王の状況が手に取るようにわかるというものです」

 

 栞の方は意外だったのだろう。目を見開いて瞬きをし、そしてはにかんだ様子を見せた。

 

「佐為の君こそ、鬼神さえ愛でそうなお姿ですのに」

 

 うっすら頬を染めた姿があまりに可憐で、思わず栞の手を引き掻き抱こうかという衝動に襲われた佐為だが、聞こえてきた博雅の笑みで何とか思い留まる。

 

「蘭陵王は創作舞にも明るかったらしいから、確かに栞には合っているなあ」

 

 栞も笑い、そうだ、と彼女はまっすぐ佐為を見てきた。

 

「陵王の後は納曽利を舞うのが習わし。お付き合いくださる?」

「え──!?」

 

 納曽利とは右方──高麗楽を代表する一作だ。陵王の番舞(つがいまい)としておおよその場合は陵王ののちに舞うのが流れである。

 二人舞であり、舞われる機会も多いために一端の貴族であれば大まかな流れは頭に入っているものだ。栞も当然、佐為が舞える前提で話しているのだろう。

 むろん舞えるし舞そのものは嫌いではない佐為だ、が。

 

「私が相手では見劣りしてしまいますし……」

 

 遠慮してみるものの、栞は重ねていた手を引っ張って佐為を立たせた。

 わ、と声を漏らした佐為は一つ息を吐いて観念する。

 

「ひとさしだけなら……」

「では“破”の部分のみを……。博雅さま」

「ん。……しかし都中の女人に恨まれそうな光景だな。私がそなたたち二人を独り占めとは」

 

 そうして自身の笛の音に合わせて舞う二人を博雅は目を細めて見つめた。

 栞の舞は天賦の才だ。舞台上での「華」も含めて才能である。

 裏腹に、ただそこに「居るだけ」でこうも華やぐとは末恐ろしい。と博雅は佐為をそう評した。男の自分さえ魅入られそうなのだ、女人ならなおさらだろう。宮廷一の花と謳われる理由がよく分かるというものだ。

 それに、彼の舞は及第点といったところか。技術的なことなら栞に及ぶべくもないが、危なげなく舞えている。普段からそれなりには嗜んでいたのだろう。

 二人の様子を見つつ、博雅はどこかホッとしていた。

 先ほど栞が陵王を舞っていた時──佐為は確かに目を奪われていた。まさか彼があのような熱っぽい目を栞に向けるとは、と我が目を疑ったほどだ。

 佐為はなにかと宮中ではうわさの絶えない人で通いどころも複数あるらしいと聞き及んでいたため気にかかることもあったが。あの様子を見るに一番に寵愛しているのは栞で間違いないのだろう。

 ならば下手に口を出すのも無粋というもの。うまくやってくれればそれでいい。

 

 ──そうして自宅へと帰る博雅を見送る頃には四条の屋敷はすっかり薄闇に包まれていた。

 

 せっかく身軽な格好をしているのだから散歩でもしようと栞と佐為は屋敷の池にかかる橋を渡って中島へと出た。

 この時期は池の周りを飛ぶ蛍が見られるのだ。

 

 佐為はどことなく栞と出会ったあの夏の夜を思い出していた。

 あの夜、蛍の光に照らされた水干姿は現世(うつしよ)のものとは思えないほどに妖美で……と遠くの篝火にぼんやり映し出された栞の横顔を見つめていると、どうかしたかと彼女が見上げてくる。

 

「いえ、そなたと出会った夏の夜を思い出していたんです」

 

 ああ、と少し栞がはにかむ。

 

「あなたは私を小舎人だと思われていましたね」

「もしくは夏の夜の精か……と」

 

 栞はそっと佐為へと身を寄せ、佐為は彼女の肩を抱き寄せた。

 するとふわりと水辺から辺りを照らす光がいくつも浮かび上がってきて、あ、と照らされる互いの顔を見合わせる。

 

「あの時は……こうして今年の蛍もあなたと見ることになるとは思いもしませんでした」

 

 微笑む栞の頬に佐為はそっと手を添えた。

 

「今年と言わず……一度契った仲なのですから、千年(ちとせ)の先までをもともに過ごしたいものです」

「千年……」

 

 そのようなありふれた言葉は栞にはあまり響かなかったのか、彼女は少し肩を竦めた。

 

「私はあまり前世や来世など信じていないのですが……そうなったらあなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか」

「え……」

「ああでも、人は七度生まれ変わるなんて言いますから……その度にあなたと逢えるかな」

 

 栞は頬に触れていた佐為の手に自身の手を重ねた。

 

「佐為の君は千年先の世でも囲碁ばかりかもしれませんが……」

 

 そうしてほんの少しだけ苦笑いを漏らした栞はそっと佐為から手を放して離れ、蛍の光を追うように水辺の方へと視線を送った。

 

 あの夏の夜──栞の姿に目を奪われたのも、栞の棋力に惹かれたのも事実だ。

 

 彼女が大臣家の姫だと知った時は、まさか妻にしたいなどと大それたことを思ったわけではない。

 だが、もしも栞が摂関家の北の方にでもなれば──おそらくもう二度と会うことは叶わない。そう思った時、手の届かない人となる前に……と妻問いをしたのは碁のためだった。少なくとも彼女との対局が叶わなくなるのは惜しいと思った。

 だが……と佐為は蛍の光に照らされる栞の横顔を見つめる。

 あれが栞でなくとも、栞と同等の棋力を持った別の誰かであったとしても、果たして自分は同じように妻問いをしただろうか。

 

「佐為の君……?」

 

 ぼんやりしてどうしたのかと問われ、佐為はああと取り繕う。

 

「いえ……。蛍の光とそなたの美しさに少々酔ったようです」

「まあ……、どうなさったの? 今日はそんなことばかりおっしゃって」

 

 なにか後ろめたいことでもあるのかと問われ、佐為は誤魔化すように笑った。

 ──いま目の前にいるこの女人(ひと)を外に出さず自分だけに留めおきたい。などと、今まで情を交わした相手に思うことなど一度たりともなかった。

 してみれば、やはり栞を慕わしく思っていることは疑いようもないだろう。

 ああいっそここで蛍の光をくすぶる情炎に例えた和歌(うた)でも口ずさめば風雅なやりとりもできようが、伝えたい相手に和歌(うた)は通じず佐為はいよいよ自嘲した。

 すれば、ますます訝しがった栞がそばまで歩いてくる。

 

「佐為の君……?」

 

 佐為は迂闊にも自分へと近づいた相手に焦れたように手を伸ばした。

 

「蛍も恋に身を焦がす夜だと思っただけですよ」

「え──」

 

 そのまま顎を捉えて上向かせ性急に唇を重ねれば、栞は驚いたのだろう。が、すぐに応じてくれ……まるで物言わぬ蛍のように吐息だけを零して互いの熱を伝え合う。

 

 

 夏の短夜(みじかよ)なのがなんとも惜しく、今宵はひときわ暑い夜となりそうだ──と意識の奥で思ったままに寝殿に戻って夜明け近くまで睦み合い、ふと佐為は意識を戻して瞳を開いた。

 腕に抱いたまま眠ったはずの栞は寝暑かったのか少し身体を離して寝息を立てており、ふ、笑う。

 この暑さではさわりはあるまいが。思いつつも単衣を掛け直してやる。

 

「栞……」

 

 ふと、佐為は夕闇の池のほとりで交わした言葉をよぎらせた。

 

『千年……』

『あなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』

 

 次の世でもこの女人(ひと)に巡り逢いたいと思うほどの想いを自身が抱いているかは分からない。

 こと男女のことは(いにしえ)からの(えにし)というのだから、想いの強さに関わらずにそのような縁で結ばれていれば次の世で逢うこともあるのだろう。

 

『この先でどれほど道に迷おうとも……私の帰る場所にはあなたがいるということです』

 

 そうであれば、婚礼の夜に栞の(いみな)を知ってああ感じたことが(まこと)となることもあるのか。と、そっと佐為は栞の頬を撫でた。

 千年先の世など想像さえできないが、それでも……とぼんやり思いつつ、佐為はいましばし微睡みの中へと戻っていった。

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