その日の月読少佐の姿は、公使館応接室にあった。そして、扇風機の小さな駆動音と庭の蝉の声のみが聞こえる室内にはもう一人。少佐と向かい合ってソファに座るのは、まだ幼さの残る少年。少佐とキャビネットの上の『むさし』の模型をチラチラと交互に見る彼は『ジャン・リュンヌ・マルソー』、ユーオソキ河都の小貴族次男だった。
「気になるか?」
沈黙を破ったのは少佐、ジャン少年の履歴書から目を上げるとそれをテーブルに置き、彼女の部下が組み立てた1/350『日本海軍
「我が国に4隻しかない世界最高の戦艦だ。君も見たか?」
ええ、凄い軍艦ですね。と応えつつ少年は来航当時のことを思い出していた。——あのときは大騒ぎだったな、父の話にあった『帝国』艦隊の河都来航もこれくらいのインパクトがあったのかもしれない。戦が始まるという噂で武具屋から弓、槍、銃、鎧が消えた話を冗談だと聞き流していたが、まさか再び同じことが起こるとは思わなかったな。
実際、河都王府内部には激震が走っていた。星央列強とは以前から細々と交易があったため、帝国艦隊の来訪はある程度事前情報があったが、日本とのファーストコンタクトは本当に突然だった。河都湾台場の海岸砲には弾が込められていたが、待機の命を守った兵は褒められるべきだろう。
「突然軍艦で押し掛けたことは悪いと思っている。だが、必要だったことだ、以前痛い目に遭っているものでな。」
百聞は一見にしかず、映像や紙の資料よりも動く軍艦はその国の国力を雄弁に語る。
もし、パーパルディアに外交官が護衛艦で渡っていたら、もし、先進11ヵ国会議出席時に護衛隊群を付けていたら、日本人観光客は死なず、巡視船『しきしま』を失うこともなかったかもしれない。だが全てはifだ、やり直しはできない。
政府と情報軍前身組織は戦争の早期解決と予防に力を尽くした。誰がカイオスに別冊宝大陸を渡したか?、誰がグラ・バルカス帝国情報部に日本の防衛白書を届けたか?そして誰がミリシアルに日本の
それは日本情報軍前身組織、新世界国家の情報収集能力の低さに呆れ果てた政府と前身組織は、広報活動と並行して敵対国家の諜報員の手伝いまでしていた。
『アレが
この少年の面接もその一環、現地住民を雇うことで少しでも日本のことを知る人間を増やす為のものだった。恐れられず、侮られず。転移後40年の歳月はこのバランスを鍛えさせた。
「まあ過去の話だ、この国には関係ない。」
——一体何があったんだ?ジャン少年の思いを無視して続ける。
「履歴書は読ませてもらった。正直、志望動機などはどうでもいい。我々は仕事さえこなしてくれれば文句は言わない、君は語学を専門に学んでいたそうだな?ここで翻訳を手伝ってほしい。」
どうだ?とほぼ同じ高さの目線を合わせた少佐に彼は答える。
「よ、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
少佐が差し出した手を少年は握り返した。後にユーオソキ近代化を裏から推し進める彼の運命が決まった瞬間だった。
就労条件についての質問をいくつか交わすと、彼は契約書にサインした。就業規則や日本の資料を受け取り、退室しようとする彼を少佐は呼び止める。
「ああそうだ少年、これを渡しておこう。」
忘れるところだった、と言って少佐が出したのは個人用情報端末とAR機能付きの眼鏡。黒いフレームのそれを掛けるよう促すと、ある名前を呼ぶ。
「サポートガイド、『結月シズ』起動。」
『
『起動中』の文字の後、光のグラフィックとともに少年のARグラスに映ったのは同年代か少し年下の少女。ベージュのカーディガンをセーラー服の上に羽織った彼女はゆかりによく似ていた。
驚いた彼がグラスを外すと、彼女の姿は消えた。少佐は悪戯っぽい笑みをうかべ教える。
「ふふっ、幻だ、実体はない。その板とメガネの使い方を教える精霊だと思え。」
クラキ=ニューロン発火反応こそないものの、クラキ理論を用いたAIは翻訳現象が適用される。倫理的問題から公的機関専用のサポートAIだった。
「ユーザ登録、登録名『ジャン・リュンヌ・マルソー』、網膜認証登録、運用モード『お友だち』、セキュリティクリアランスLev.1-Bを付与、上位権限者『×××大尉』、初期設定者『月読アイ少佐』以上。復唱不要。」
『初期設定完了。ジャンくんよろしくね?』
「あっ、はいシズさんよろしくお願いします。」
早口でAIの初期設定を終えた少佐に、魔法助士の肩書きを持つ彼は、——知らない魔術だ、どこの流派だろう?と呟く。
ニイッと口角を上げた少佐は、——科学だよ。我が国に魔術はほとんど存在しない。と、答えた。