パーパルディア皇国首都エストシラント、その郊外の海を望む霊園に一人の老婦人がいた。彼女の名は『エルト・レイヴン』、外務局局長を務めたこともある戦後パーパルディアの功労者の一人だった。
彼女は老齢の身体に厭わず、毎週ある人物の墓参りに来ていた。
霊園の隅にポツンとある墓の周囲にはゴミが散らばり、墓碑にはペンキが撒かれている。エルトはいつものこと、とでもいった様子でゴミを持参した袋に詰め、洗剤を含ませたスポンジで墓碑を磨く。
黒いペンキの薄まった墓碑には、こう短く刻まれている
『慈悲を違えし女、ここに眠る レミール・マートル 16××』
彼女に家名はない。日パ戦争の開戦を招き、パーパルディアを列強の地位から転落させた大罪人として皇族の籍を剥奪されたのだ。
かつて、皇国旧第一外務局ではエルトの上司にあたる人物だった。日本人観光客203名の殺害命令を下し、日本を激怒させた彼女は戦後、身柄を彼の国に引き渡され長い裁判の後死刑に処された。
「この国も随分と変わってしまいました…。あなたと私のせいです。彼の国を見誤ってしまった…、五十七万六千九百二人…彼らの命は私たちが奪ったのです。」
彼女が掃除の手を止めて見つめる先、遠く、皇城パラディス城とそれを見下ろすようにそびえる高層ビル群は、パーパルディアと日本の力関係を示すようだった。
第三文明圏最大の列強国は、その属領を全て失い、一時はかつての共和国時代まで国土は後退した。戦争ののち第三文明圏の盟主の座は日本へと移り、パーパルディアは地域大国へと転落。
蛮族、蛮族と蔑んでいた旧属領や文明圏外国からの復興支援と敗戦の衝撃は、皇国民のプライドを粉々に打ち砕いた。
支援を引き出す為にエルトやカイオスを始めとする新政権メンバーがどれほどの恥辱を受けたか、講和直後の混乱期に何度苦渋の決断を迫られたか、立場の逆転した相手から地面に頭を擦り付けかき集めた食糧、日本軍上陸のデマで暴徒と化す民衆、停戦の連絡を無視して進軍する73ヶ国連合軍を相手に、律儀に停戦を守り壊滅した属領統治軍の部隊もあった。
旧第一外務局の上層部、レミールなどたったの数人で決められた日本への対応、その結果があの戦争だった。
列強としての驕り、第三文明圏の覇者という慢心はその目を曇らせ、致命的な過ちを犯した。
「『情報は上に行くほど簡素化され、都合のいいように解釈される。』だが、私たちは生の情報を自ら欺瞞だと言って切り捨ててしまった。」
進駐してきた
今でも、日本人殺害事件の経緯を調査したときの開戦時のあまりにもお粗末な情報収集、解析能力を目の当たりにした将校からの侮蔑的な眼差しが忘れられない。
彼に『ゴミの掃除も満足にできんのか?』と抗戦派貴族の刎ねられた首を会議室で投げ出された際は、卒倒しかけた。
それでも持ち堪えたエルトが辛うじて絞り出した『や、野蛮人め…』という言葉に彼はこう応えた。
『何を言っている?正当防衛だ。貴様ら蛮族と一緒にするな。我が国の国民は無抵抗で殺された。』
心底不思議そうな顔で、道で挨拶されたら返すだろう?程度の調子で言った。——命の扱いが軽すぎる。抗議しようと思った瞬間、ふと彼女は我に返った。——皇国が散々してきたことでは無いか。同席している第三外務局と臣民統治機構の幹部は、顔面蒼白で小刻みに震えていた。
彼らが、今まで文明圏外国や属領にどんな仕打ちをしてきたか容易に想像できる様子だった。
「因果応報、洗いざらい聴取が終わったら処刑されるものだと思っていました…。」
しかし彼女は生き残った。エルトの外交手腕を買った暫定国家元首のカイオスの必死の尽力で、新外務局に留まることを許されたのだ。
『生きろ、恥を晒せ、
それからパーパルディア新政府が軌道に乗るまで、身を粉にして働いた。もちろん道のりは平坦ではなかった、売国奴と後ろ指を指されても気丈に振る舞い、日本や旧属領を相手に祖国のために渡り合った。
そのためにレミールにすべての責任を負わせ、新政府と国民の団結のための生贄とした。——私が皇族だからと甘やかしたばかりに、皇族のすることと、傍観したばかりに。
後悔と自責の念は、数十年が過ぎても薄まらなかった。
「殿下、もういいでしょう、私の役目は終わったのです。」
取り出したのは、戦後混乱期にカイオスから護身用に、と渡されたフリントロック式ピストル。規制の厳しい昨今、エルトが持つ中では楽にそして確実に死ねる道具だった。
「やっと、やっとそちらへ向かうことができます…。」
タァ———ン
乾いた銃声が木霊する、目をつぶっていたエルトは驚いて銃を取り落としてしまった。——今の音は?
「動くな!ゆっくりとこちらを向け!」
言われたとおり振り返ると、そこには38口径リヴォルヴァーを空に向ける
初めて銃を抜いたのだろう、震える手で無線機を握り応援を呼ぶ警官を横目に、頬に涙を伝わせ彼女は呟く、
「まだ、まだ私に生きろと言うのですか…。」
彼女がなぜ涙を流すのか、戦後世代で元属領の州出身の若い警官には解らない。