「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
霞かかる視界の中で、無垢な天使たちのさわやかな声が響いている。
――でもこれは夢、私はもうここにはいない――
「祐巳」
凛とした、優しい声。あのころと変わらない。
――夢だから、ね…―――
「タイが曲がっているわよ」
オガサワラサチコが私の胸元へ手を伸ばす。
「身だしなみはちゃんとしないとだめでしょ」
そうやって、決まって、私を楽しそうにたしなめる。タイは曲がっていないのに、でもそれを不条理とは思っていなかった。
――凄くうれしかった――
そして、霞の中で私はオネエサマにほほえみかけた……―――――――――
「また…この夢…」
祐巳は目を開けてひとりごちた。ベッドから半身を起こして、あたりを見渡す。が、なんてことはない、「現在の自分」の部屋だ。
祐巳は自嘲的に微笑んだ。
「…『仕事』のあとは、いつもこの夢だ…」
――あの無垢だった頃の自分の、通っていたあの学園の、お姉さま小笠原祥子の――
繰り返し…繰り返し…見る夢。
(夢は…所詮、夢…)
もう一度、自嘲の笑みを漏らした。
鬱陶しげに祐巳はベッドから出て立ち上がる。シーツの中から黒い悩ましげな下着に包まれ、引き締まった身体が姿を表す。
「あの頃」は望んでも得られないと思っていたプロポーション。「あの頃」が奪われた頃から、徐々にこういう体型へ、さなぎが蝶になるように変わっていった――それは『訓練』の結果ではあったが。もっともそのころには、祐巳にとって嫌悪はせども、好意を持つことはないものになっていた。
(『仕事』には役に立つけど)
苦笑いを浮かべた後、服を羽織ることもなく、電話機まで行き、留守電のボタンを押す。
一件のみ。
「…『ブラッド』…前の『仕事』が終わ…、次の仕事を…上海警…を殺…報酬等、くわし…は…で…」
それを静かに聞き終わると、すぐに削除した。
ふぅ、と、ため息をついたあと、
「もう血のにおいは消えない…そうでしょ、福沢祐巳?」
と、閉じられたカーテンのつくる薄闇に問いかけた。
――だって、夢の中の月日から十年もの悪夢の中にいるのだもの――
紅き天使のレクイエム 序章 聖母像
二日後の夜、上海の繁華街の裏手にある空きビルの駐車場。しばらく使われていなかったことを示すように埃が積もり、所々コンクリートの壁から大小の破片が崩れ落ちている。
さらに埃と腐った水の臭い。それだけでも顔をしかめるというのに、新しく加わった硝煙の鼻を突く臭いと生臭い鉄の香りが混ざり合い、胃の奥から食べたモノがせせりあがって来るような気がする。
(もっとも、半分は私のせいだけど)
感情のこもらない瞳で、そこに転がっている「モノ」を、祐巳は見つめた。すっと目を細め、そして、闇に詠うようにつぶやく。
「仕方ないよね。これが「私」の対価…でしょ?」
祐巳が振り返り、暗い壁に、今にも消えそうな青白い煙を吐く銃を向ける。
「ねぇ…饕餮?」
すると、壁の裏から神を東洋系の男がすっと現れた。歳は三十代後半頃、祐巳も詳しい年齢は知らない、多少大柄の体に丸い眼鏡にごくごく普通のスーツを着込んでいる。町中を歩いていたら、さもそこらへんにいる会社員にみえる風体である。
しかし、そんな生やさしい男ではない。男の名は杜世成、犯罪組織『蚩尤(しゅう)』の殺し屋にして、幹部。二つ名は「饕餮」。その男が祐巳をあざ笑うように声を発した。
「それは命の値段かね?ずいぶんとひどい女になったものだなぁ?」
「あなたがそうさせたんでしょうが」
「選んだのはお前だよ、フ・ク・ザ・ワ・ユ・ミ?」
「…」
この男と話しているといちいち吐き気がする。正直、そろそろこの場を離れたい。銃を下げて、饕餮に訊ねる。
「で、何の用?」
「次の仕事だよ、ブラッド」
「仕事?今、終わったばかりじゃない」
祐巳は足元のモノを軽く蹴飛ばし、怪訝そうに片眉をあげる。いくら人使い荒い組織とはいえ、これだけ立て続けと言うことは滅多にない。
「マァ、そう言うな…せっかく『フクザワユミ』にやらせてやろうという、私のやさしいやさしい親切心なのだからね」
「……?」
「仕事は日本だ」
「日本?」
それはひどく懐かしい響きだと、祐巳は感じた。「あれ」から一度も日本の土は踏んでいない。大規模な『市場』とそれに伴うアジトもある日本でも『仕事』はあるはずだが、今まで祐巳に振り当てられることはなかった。てっきり、わざと外されているのだと思っていたのだが。
しかし、その大したモノではない郷愁も疑問も次の饕餮の一言ですべて吹っ飛んだ。
「標的は、小笠原綜合警備保障取締役社長兼情報統括主任小笠原祥子だ」
一瞬、祐巳は理解できなかった。
――え?今、なんて――
――誰…?―――
――オガサワラサチコ…?―――
饕餮がクツクツといやらしい笑いをこぼしたの聴いて、はっと祐巳は我に返った。
「ククク、まさか、そんなに喜んでくれるとは思わなかったな、うれしくて笑いが止まらんよ……。マァ、そう睨むな…。その女、我らのこと色々と探っているのだよ。なんでか、わかるか?」
冷たい笑みを含んだその問いの奥にある「答え」が思いつき、胸がサッと冷えた。聴きたくない。言わないで。
「君をな、捜しているのだよ。なぁ、面白いと思わないか?」
「…………何で?」
祐巳は絞り出すように口から疑問を漏らした。答えは知っていた。でも、信じたくなかった。
そのつぶやきが聞こえたのか、それともその前からそうしていたのか、祐巳には分からなかったが、目の前の男が愉快そうに笑っている。
「その探している“フクザワユミ”に、最期の最期で感動の再会・・・私の考えたシナリオとしては傑作だとは思わないかね。そう傑作だよ」
祐巳は知らないうちに下唇を噛んで、男を睨んでいた。まるで自分の弱い部分を爪でなぞられているような不快感。この男に弱みなど見せてはならないのに。
「それに、君だって、他の者にとられたくはないだろう?大事な大事な『オネエサマ』を。これは私の優しさだよ、今まで、そしてこれからも組織のために、私のために働いてくれる君への」
祐巳はこの男に優しさの一かけらも無いことはよく知っていた。それに、それを考えるまでもない。もとよりない優しさなどではないことぐらい、殺せといっているのだ、分かり切ったことだ。こんなクソみたいな組織のために…つまりこれは――
「―――踏み絵」
つまり祐巳の組織への忠誠心を図るために小笠原祥子というマリア像を踏ませようというのだ。
「そうとるのは君の自由だ。まぁ良い、引き受けるも受けないのも君の自由―――どうするかね?」
饕餮は祐巳に問いた。しかしながら実質拒否権のない選択だ。拒否すれば、ブラッドという猛獣は、この目の前の饕餮という妖魔の獲物に成り果てるだろう。別にそれは良い。
(そんなのはいまさら…いまさら…でも…)
――でも、なに?――
祐巳はのどの奥から言葉を絞り出す。いつもなら簡単な言葉なのに、ひどく重い。
「・・・・・殺る、わ」
「ふむ、では。細かいことは呉二に聞け。…ああ、そうそう、ついでにあっちで一人始末しといてくれ、内通者だ。泳がせておいたが、少々邪魔になったんでね」
それだけ言うと男は闇へと溶けていった。
その暗闇を見つめながら祐巳は自問する。自嘲だったかも知れない。自分自身が闇に成っていくような気がする。
「私が・・・小笠原祥子を殺す?」
自然と笑いがこみ上げてきた。自嘲なのか苦笑なのか意味がないのかもしれない、もしかすると泣いているのかもしれない。それは祐巳自身にもわからない。
(私は小笠原祥子というマリアさまを踏めるのかな?)
(踏まなきゃならない、私のマリアさまを)
(お姉さまを・・・殺す・・・・・)
――そうすれば、私は私を、福沢祐巳を殺せますか?――
ビルを背に佇む一匹の魔獣が嘯く。まるで置き捨ててきた獣の苦しみを嘲笑うかのように………
「ふっ、せいぜい苦しめ、あがけ、潰しあえ―――いまさら嘆いたところでもう遅い…」
嗤い。冷たく淀んだ哄笑がビルの谷間に沈む。
「さて、私も……」
闇の中、いつまでも饕餮の忍び笑いが聞こえていた。
序章 聖母像 終
第一章に続く・・・