紅き天使のレクイエム改訂版(ブログ投稿時のもの)   作:順砂

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第五章 アズラエル(下)

 祐巳さん!ゆみさん!祐巳さん!

 天上から乾いた音が聞こえたとき、頭より先に身体が動いて。

 そして、嫌な予感と焦燥感だけが身体の中を突き抜けていく。こんなヒヤリとする蠢くような気持ち悪さはあの大手術の前のように・・・。

 私はそういうのはもう嫌なの。だからそれで立ち止まらない、まっすぐ進む。

 

『なんだっ?!お前は!?』

 見張りをしていた男達は突然走り込んできた女――由乃にギョッとした。

「『对不起』、ごめんなさいね。私、中国語わからないの」

 そう言うが早いか、目を白黒させる男に持っていた木刀を打ち込んだ。

『なっ?』

 残り二人の男が混乱した頭で声を上げ、懐から拳銃を出そうとするがその一瞬隙を由乃は見逃さず、続けざまに打ち込んで、一人を倒し、もう一人の拳銃を強烈な小手でたたき落とす。そして、爆発的に足を止め、その力をつかって振り返りざまにその男の首筋に木刀をたたき込んだ。

 が、その時には何事かと、中にいた饕餮の部下達が殺到してきた。轟々と怒鳴り声をあげているが、残念ながら由乃は中国語など聞き取れない。

 数は前に集まって五人、後方にばらばらに十数人いるか。全員、拳銃で武装しているようだ。しかし、由乃はかまわずその中に突っ込んだ。

 男たちはその意図がわからず面をくらったが、ハッキリ言えばこんな女一人なんとでもなると、いざとなれば余裕をもって殺せるとふんだ。だが、それは甘かった。

 由乃は突然地面へ崩れ落ちた――ように見えた。しかし、その背後には拳銃を構えた黒服の集団が。

 男達が驚愕した。この女は斜線軸を作るために座り込んだのか、と気づく前に五人とも蜂の巣になった。

 それに驚いたのは撃たれた者達だけではなく、後方待機していた者達もだ。上ばかりに気が行って、最初は変な女が来たと思っていただけの男達もことの重大さに初めて気がついたのだ。つまり自分たちの、しかし警察ではない、明確な敵対勢力に。

 

 由乃は前の五人が倒れると迷わず飛び出して、後方で柱に隠れていた一人に向かって走る。怖くないわけではなかったが、それよりも身体が熱く燃えていた。憧れていたというのもあるかもしれないが、それだけではない。不思議と無謀だと思わなかった。

 ここまでくれば、相手は警戒している。

(当然、銃を向けてくる)

 由乃の思考は不思議とクリーンであった。

「ハァっ!」

 由乃は相手が引き金を引くその前に持っていた木刀を、気合いとともに投げつけた。

 それは簡単によけられたが、その予想もしていなかった攻撃に怯み、一瞬間が空いた。その隙に由乃は相手にぶつかるように懐に潜り込み、半ば強引に大外刈り決める。崩れた技で体重差もある。当然相手は体勢を崩して尻餅を付いただけであった。が、由乃はすかさず、うずたかい靴のヒールの男の鳩尾を踏み抜いた。

「ぐげぇっ!!」

 男は胃酸を吐いてそのまま悶絶した。

 しかし、息を付くことは許されなかった。チャキという音ともに由乃の後頭部に冷たく堅いモノが触れる。背後から銃口を突きつけられていた。由乃の動きが止まる。

『ちょろちょろ・・・目障りなんだよ、このアマぁ!』

 絶体絶命のピンチに由乃は目を閉じて覚悟・・・しなかった。そのまま振り返って、反撃をしようとした。が、

(間に合わない?!)

 ゆっくりとした視界の中で男の指が引かれる。由乃は歯がみした。

 銃声・・・・・・・・・・。

 

 

 

紅き天使のレクイエム 第五章 アズラエル(下)-Giardino dell 'Eden-

 

 

 銃声が耳を抜けていった。

だが、それでも閉じずに見開いた眼で見たのは、指を文字通りまき散らして痛がる男の姿だった。何が起こったのか分からないが、それを考える前に由乃は落ちていた木刀を、素早く拾い握って、打ち込もうとした。

 しかし、そうする前に痛みに悶えていた目の前の男は糸が切れたようにガックリと崩れ落ちた。すると、その背後から人影が現れた。

「令ちゃん・・・?」

「由乃、無事なの?!・・・良かった・・・」

 それは令だった。令は由乃の無事を確認すると、由乃を抱きしめた。

「令ちゃん、ごめん」

「由乃・・・無謀すぎる・・・」

 先に謝った由乃に対し、怒ったように令は応えたが、身体は痙攣したように震えていた。

 いままで緊張して聞こえなかったが、耳を澄ますと至る所から、銃声と怒号が耳に入り込んでくる。まさに戦場であった。

 そんななか、二人の横から近づいてくる者があった。由乃はそれ気づくと、令を離して、

「ありがとうございます。ほんとダメかと思いました」

とぺこりと頭を下げて、その人に素直なお礼の意を伝えた。

 それはFive-seveNを右手に握った聖だった。聖ははにかんだように笑ってから、ただ、

「人を撃つものじゃないね」

とだけ、複雑そうな表情で言った。

 それをやはり同じような複雑そうな表情で見返した後、由乃は令を微笑みかけて、

「ありがとう、令ちゃん」

と言った。

「でも、私やりたいことがあるのよ。だから気分的に止まれないの」

「やりたいこと?」

 視界の端には、黒服を真剣の峰でうち倒した菜々が見えた。上手く立ち回る妹に憧憬とちょっとの嫉妬を感じるが、そんな気持ちは二の次。それに菜々は祐巳に面識がないのに、お姉さまのためにしてくれている。由乃は単純に嬉しかった。でも、人のことは言えないけれど、やはり危険だと思う。でも、由乃は進んで祐巳さんに言いたい事がある。大したことじゃないかも知れけど、自分の中では大切な意味がある言葉。

 それをこれから悪戯しようとするようなわくわくした顔で言う。

「うん。そうやりたいこと。旦那さんと佐那を祐巳さんに紹介して『ごきげんよう、お義姉さま』って言うの」

 由乃がそう言うと、令はぽかんと「そんなこと?」と言う顔をしたけど、聖は笑って頷いた。

「一緒に“新しく”進んでいきたいから、祐巳さんと」

 

 

「由乃ちゃんは大丈夫だったみたいね」

 遠くから、というか、出遅れて遠くから見ることがしかできなかった蓉子は、ひとまず肩の力を抜いた。自分の横にいた江利子が慌てて、由乃の方に向かっていた。

(ほんと、聖が言うとおり、猫かわいがりなんだから)

 ソレを見ていて、蓉子は急に寂しさを覚えた。別に江利子が向こうへ離れていったことではない。どうしようもない寂寥感だ。

 江利子も聖も誰かが側にいる。江利子には、令と由乃ちゃん、そして菜々ちゃんが。聖には、ここには居ないものの、志摩子と乃梨子ちゃんが。自分はどうだろう?

 もちろん祐巳はいない。祥子とは、基本的に仕事の中でないと話せなくなっている。だから、今日の、いや、もう昨日になるか、見舞いで、まるで昔のように話せたことにちょっとした嬉しささえ抱いていた。

 しかし、結局、元に戻ってしまった。

(リリアンに居た頃、ううん・・・祐巳ちゃんが居た頃・・・祥子と私、どうやっていたのかしら)

 自問するが、まったく思い出すことができなかった。漠然な記憶を掴んでも、すぐに現在の関係に上書きされて隠れてしまう、そんな感覚を味わった。

 代わりに思い起こされたのは、あのあとの妹の姿。

 祐巳というピースを失った祥子は高等部三年の六月の時のように、ふさぎ込み、自分で立つことすら出来なくなる、そうならなかった。悲しみをたたえつつ、気丈に日常をこなしていった。そして、その一方で全てを賭けて祐巳を探し続けた。金もコネも権力も・・・自分の身すら砕いて。それこそ盲目的と言えるほどに。

祥子にとって、その行動の根底にあるのは絶対的な正義だった。それは『確信犯』とも言うべきものであった。どんなことでも、『祐巳』の前では正義になった。―――どんな罪でさえ。

 私は検事であるのにも関わらず、そう言った事実に対して目を閉ざした。

そして祥子の場合、そういった歪曲した事でさえ、力で無理に正位置に持ってくることができた。その力を十分すぎるほど保有していた。祐巳一人を助けるためだけに何人犠牲なり、何人を犠牲に捧げたか、私は知らないし、おそらく祥子自身でさえ知らないだろう。『祐巳』のためなら些末なことなのだ。事実、今だって自分を庇って死んだ護衛のことなど、頭の片隅にないはずだ。何人死のうが、誰が死のうが、たった一人が戻ってくればそれでいいのだろう。それでこれっぽっちの罪悪感もない。

祥子は壊れている。ううん、もしかすると、自分も・・・。

 ――それは静寂なる狂気―――。

 ―――ねぇ、祐巳ちゃん?あなたが戻ってきてくれたら、私達は元に戻れるのかしら?

 それとも・・・――――

 抜けだせない苦悩の海に落ち込んだ蓉子は、らしくもないうつろな目をして上層階から響く銃声を聴いた。

 

 

(蓉子・・・)

 聖はそんな彼女の様子を少し離れたところから思案げに見つめていた。

 手は引き金から緊張によって硬直して動かないが、思考は不思議とクリアであった。

 蓉子がそんな顔している理由をなんとなく知っていた。

(・・・祥子)

 だから、その原因――祥子の凛とした瞳の奥に映る暗黒の正体もうすうす気づいていた。

(祐巳ちゃん・・・)

 その名を唱えると胸の奥が熱くなる。だから知っていった。素人である自分たちがここにいる理由。こんなところにいるわけ。

 漠然と。

 そうただ漠然と。

 

 居場所はここにあるんだ、と。

 

 

 

「これで形勢逆転?」

 祐巳は目の前の男に銃を突きつけて凄惨な笑いを向けた。だが、心の奥では何か腑に落ちないものを感じていた。言い表せない不気味さ。相手はあの饕餮だ。このまま終わるはずない。だから祐巳のこの笑みはその懸念と焦りの裏返しでもあった。

 そう思った矢先、その腑の落ちなさが現実となる。饕餮は口が裂けたのかと見間違うような笑みを祐巳に返した。

「!!」

 祐巳は自分が引き金を引いていないのに、彼女の耳は銃声を聞いた。左肩が異常な熱さと衝撃を受けて、自分の虎の子を取り落とし、一瞬、力が抜けた。身体がよろめき、跪いてしまう。

「なっ・・・?!」

 饕餮が嘲笑の笑みを浮かべて立っていた。左手にはどこから出したのか小型の拳銃を掲げて。

「ぅっ」

「くくくくくくくく、ふはははははははは。愚かしいなぁ、フクザワユミぃ!何故、私が隠し持っていると予想しなかったのかね!まぁ、こうも君が私の如く素早く使えるというのには、むしろ感嘆に値するがね。自分の手品を見たようだったよ。だがそれまでだったようだな・・・・くくく」

「ち・・・・く―――――ほんとに手品ねっ!」

 苦し紛れに祐巳は右手の袖口から出したメス状の小型ナイフを嘲笑の声を上げる饕餮に向かって投擲した後、自分の身体を叱咤して走り、停まっていたワゴンの影に逃げ込んだ。無論、ナイフは饕餮には当たらなかったが、とりあえずの余裕を得ることが出来た。

(いや・・・余裕を得ているのは、私じゃなくて―――悔しいけど、あの男)

 祐巳は歯がみした。拳銃を握り、まだ何かを隠し持っている可能性がある饕餮、それに対して祐巳は、拳銃もナイフもすでに手元にはない丸腰――絶望的だ。

 そして、祐巳も気がついたように、この男も下で交戦が行われていることを認識しているはずだ。そして、それに気づいていて、この自信――おそらく、もしもここまでそれらが進入してきたところで、それに対処すること出来るという表れだろう。

(もちろん、それは論外だけど・・・)

 だからといってどうする?

「くふふ、ハァハッハッハはは・・・手詰まりかねぇ、フクザワユミぃ!」

 勝ち誇ったような饕餮の低く澱んだ声が反響する。しかし、その変わらない張りつめた空気が一寸もこの声の主が油断していないことを端的に表していた。

 注意して影から一瞬だけ顔を出して、確認する。中央の開けた場所に饕餮、その背後に祐巳の取り落としたAMTbackup、饕餮の落とした銃は車の下に入ってしまったのか、確認できない。そして、ちょうど祐巳と饕餮との中間に、Kimber Custom TLE Ⅱが落ちていた。

 が、それを拾うことはできない。そんなことすれば、必ず出来る隙のためにねらい打ちされる。だが、このまま飛び出しても、ここで怯え隠れた続けたところで結果は同じ。それ故、祐巳に残された時間は極少ない。しかし、手詰まりだった。

(手詰まり・・・・?いや・・・一つだけ・・・・・・―――――)

 もう一度、自分の愛銃の位置を確認する。そして、そっと息を潜めて静かに決断を下す。

(上手くいかない可能性が高い・・・というか、無理。でもやらないよりかは、五十歩ぐらいはましか、っふ)

 祐巳は深呼吸して、饕餮に向かって飛び出した。

 

 

 

 耐え難い硝煙の匂いと血生臭さに顔をしかめつつ、祥子は駐車場の二層目にきていた。そこに最前線にいたはずのメリッサが近寄ってきて、報告を行う。

 着ていたスーツは激しい運動でよれて汚れていたし、化粧も汗で流れていたが、本人には怪我一つなかった。

「三層目までは制圧いたしました。一層目で、七人を射殺、六人を捕縛。二層目で四人を射殺し、三人を捕縛。三層目で二人を捕縛し、四層目には敵影は確認できません。こちらの被害は一人―――死亡。重傷七人、軽傷五人。軽傷者と合わせて九人はまだ働けます」

「それで祐巳はどうしたの?!」

 祥子は肩を担ぐ部下まで戦闘要員に回したため、片腕のみの力で松葉杖をつきながら辛そうな顔でメリッサを問いつめた。しかし、当然の如く死んだ部下のことは意に返さない。

「確認されていません。四層目の入り口までに、我々が撃ったのではない死体を確認していますので、おそらく五層目かと」

「そう・・・ありがとう」

 安堵とも落胆とも言える嘆息とともにいまいち心のこもらない礼を言った。

「いえ、では私は五層目へむかいます」

 メリッサは簡単な敬礼をしてから、立ち去ろうとすると、祥子が呼び止めた.

「私も行くわ」

「え?!でも・・・・」

 あまりに急なことなので、口調が素に戻っていた。

「危険です・・・」

「あなたはいまさら何を言っているの?」

「たしかにそうですが・・・・・・はい」

 メリッサは何か腑に落ちないものを抱きながら、しぶしぶ了承した。軍でテロ対策班にいたメリッサも現在の雇用主で、それ以上に『小笠原祥子』の有無を言わせぬような自然すぎる威圧感には勝てなかった。

 そして、それよりも祥子の意思は固いことが見て取れた。祥子の脳裏にあるのは、お祖母様が死んだあと、すれ違って、嫌われたと思ったあの時のこと。ひどいことをしてしまったのに来てくれた祐巳のこと。

 だから―――

「私が行かなければ、ならないのよ。あの時はあの子のほうから来てくれたから」

(祐巳、待っていて。生きて待っていた。もう少しだから)

 祥子の思いはとても純粋だ。それだけに一方でひどく冷徹で、冷酷である。そのことに祥子はすこしも気がついていなかった。

 だから、ただ祐巳を求めて、コンクリートの天井を眺め、それから、上へ向かって進軍を始める。

 

 その先で目にすることをも知らずに。

 

 

 

 突如として飛び出した祐巳に饕餮は片眉を上げて軽い驚きを示した。

(む?・・・ナニを・・・!?)

 饕餮は祐巳を過大評価も過小評価もしていない。だからこそ祐巳がこんなにも早く策無しに飛び出すと思えなかった。

(まだ何かを隠しているのか?いちかばちかで銃を拾うつもりか?それともはったりか?)

 が、饕餮にも考えている暇はない。

祐巳は饕餮にまっすぐ銃の落ちている方に向かっている。

(やはり銃を・・・?ついにやきが回ったのか?)

 饕餮は祐巳が銃を持った瞬間に殺すことにした。しかし、胸騒ぎは止まらない。

 そして、祐巳が銃を・・・

(拾わない?!)

 饕餮は軽い驚きに襲われながら、冷静に祐巳に銃を向けると、祐巳がおとなしく立ち止まる、饕餮は軽い失望を覚えた。

(単なる愚行だったのか・・・こんなもんか・・・小笠原祥子の死体を見せつけて殺してやりたかったが、そんな価値もな・・・・・っ?!)

 祐巳を複雑な落胆を感じて見ていた饕餮は、突如として眼を見開いた。顔が歪む。

 その視線の先には――

 

――肩から流れた自分の血で濡らした左手で一瞬前まで床に座していたKimber Custom TLE Ⅱを掲げた祐巳の冷笑――

 

 それが社会の暗部にその名を轟かす饕餮がこの世で見た最期の映像だった。

 

 

 ――――――銃声が交差した―――

 

 

 

(あっけない・・・こんなもの・・・なの・・・あはは)

 祐巳は頭蓋から血をまき散らして斃れる男を見ながら笑いがこみ上げてきた。まさかうまく行くとは思わなかった。床に落ちた拳銃を後ろ足で蹴り上げて、それを受け取る。しかも、それを右手ではなく、ほとんど力の入らない左手で受け取り、引き金を引けるなど予想さえできなかった。まさに奇跡と言うしか―――

 祐巳はだらりとした左手から役目を終えた銃を取り落とした。そして、笑おうとして・・・

 

 口から、何かが吹き出た―――

 

「?」

紅かった。

(薔薇の花弁・・・・?・・・あ・・・)

 鮮血だ。それを確認すると同時に祐巳は体中から力がすっと抜けて前のめりにゆっくりと崩れ落ちた。他人事のようにドサリと自分が地面に倒れた音を聴いた。

 胸から血が流れ出している。

 饕餮が咄嗟に放った銃弾が右胸上部を撃ち抜いていたのだ。

(奇跡が起こったところで、こうなんだ・・・・は、はは)

「・・・かはぁ・・・ぐ、ごほっ・・・く」

 悲痛なおかしさがこみ上げてきた。しかし、笑いは血として吹き出し、喉にからむ、口に広がる血の味など意識もできない。

(ははは・・・これは、ダメかなぁ・・・。私・・・死ぬんだ。・・・・・・死ぬ・・・・・・―――死ぬの・・・?)

 祐巳は自分の命なんて軽いモノだと思っていた。死ぬことも怖くないと、そう考えていた。人の死をみて、人を殺して、死に慣れきっていたから、死なんて大したことではない、そう思っていた。そして、そんな自分が殺されても文句は言えないと。

(死ぬ・・・・死・・・・・・・・)

 もう用は済んだ、そう思っていた。志摩子さんに別れを告げたとき。でも違った。

 死んだこと無かったから、自分の死に直面したことなかったから・・・・。

 ちゃんと考えたこともなかったから。

 だから――――悲しい・・・・。痛い、嫌だ!せっかく、せっかくここまで戻ってきたのになんで?・・・なんで?!・・・・・なんで?!!!!!

 私、死ななきゃいけないの・・・・?何で――――――

 

(――――死にたくない・・・私、死にたくないよ!)

 

死にたくない、

死にたくない、

死にたくない、

死にたくない、

死にたくないよ・・・・・・!

 

 その思いに反して、身体から祐巳の全てが流れていく。血も、温かさも、力も、気力も、そして意識も・・・全部が流れ出して、ゆっくり自分が者から物へなっていくそんな感覚。

 

 ぼやける視界、薄れていく聴覚。

 

その中で祐巳はたしかに聴いた。

 

 

 

 

「「祐巳っ!?」」

 

 

 

 自分の名を呼ぶ悲鳴――聴いたことがある声。その声で、自分が少しだけ、戻ってくる。でも、その名を呼ぼうとするが声が出ない。

「ぅく・・・・・うぅ・・・ぅぅぁ」

(お姉さま・・・・・・・・)

 駆け寄ってくる足音だけが聞こえる。もうなんだよく分からない雑音の中、大切な人の足音だけが耳に届く。

(怪我をされているのだから、走っちゃだめですよ、お姉さま・・・)

(その怪我は私が・・・・)

(言わなきゃ・・・)

(無理なさらないでください)

(最期だから・・・)

(いや!死にたくない)

(もう言えないから・・・)

(お姉さまと会えたのに!)

 様々な思いが支離滅裂して、祐巳の鈍った思考を駆けめぐった。

「祐巳・・・祐巳!」

 祥子が必死の形相で祐巳を抱きかかえた。冷たくなりかけていた祐巳の身体に祥子の温かさが少しだけ移る。

(泣かないで下さい、お姉さま。私みたいな人間のために)

「祐巳、祐巳、祐巳、祐巳・・・・」

 祐巳を抱いたまま、祥子が譫言のように名を呼ぶ。

「・・・・ぇ・・・か、ふは・・・・」

それに呼応するように祐巳が何かを呟くが、紅い息が吹き出しただけで言語として成り立たない。

「祐巳?!喋ってはダメ!祐巳・・・お願いだから」

(喋らせて下さい、お姉さま。もう伝えられないから。伝えたいから!)

 美しい相貌を崩して泣き叫び懇願する祥子に対して、少しの嬉しさを祐巳は抱いた。しかし、痛みも分からなくなり弛緩して萎えた身体に宿る心地よさから、祐巳は死を実感していた。

(言わなきゃ)

(死ぬの?私、死ぬの?)

 

――――言わなきゃ―――

――――謝って―――

―――そして・・・それから・・・―――

 

「――――お姉さま、ごめんなさい・・・・私・・・・ぁ・・・・・」

 しかし、そこまでしか言えなかった。祐巳は力を失い、五感は閉じて、黒く静かな場所へ、あらがいたくてもあらがえない場所へゆっくりと沈んでいく。

 言いたかった言葉をも飲み込んで―――

 

意識が消える前に大好きなお姉さまの悲しい響きを聴いた―――気がした―――――

 

 

 

 

 目を閉じて、まったく動かなくなった妹の顔を、一瞬の静寂と共に祥子は撫でるように見る。そして、瞬間的に感情という感情が祥子から消失した。

「祐巳・・・・?ゆ、ゆみ・・・・?あ、ぁ、あ・・・・いやよ、祐巳!祐巳!ゆみぃぃぃあああああああああああああああああぁぁぁ・・・・・・・・!」

力無い祐巳の身体を抱えた祥子の絶叫と悲鳴が夜明け前の空にこだました。

 

そして―――祐巳の固く閉じられた目から静かに一筋の涙が朝露のようにこぼれて床に消えた。それに気づいた者はいない。

 

第五章 アズラエル(下) 終

     終章に続く・・・

 

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