じりりりりりり―――――
けたたましい目覚まし時計の音で祐巳は、いつもの通りに目を覚ました。ひどくけだるいが、普通の朝だ。
起きる直前まで何か夢を見ていたような気がするが、忘れてしまった。
「あれ?」
目を軽くこすると、手の甲が濡れている。
(悲しい夢でも見たのかな?)
何か大切なことを忘れているような気もする。首をひねっても何も思い出せなかった。
紅き天使のレクイエム 終章 無原罪の御宿り
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
けがれをしらない心身を包むのは深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治三十四年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一貫教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だに残っている貴重な学園である。
彼女――、福沢祐巳もそんな平凡なお嬢さまの一人だった。
銀杏の葉が舞う並木道をいつもと変わりなく祐巳は歩いていた。秋の涼しい空気が少し棘を持ってきたが、それが新しい季節を感じさせる。
(すこし寒い)
気温はそこまで低くはないのに。
それでも休みを挟んで二日ぶりにお姉さまに会えることを考えると、顔がほころんだ。
顔を合わせられなかった期間が二日しかないのに、もう十年も会っていないよう気がするのはなぜだろう。
でも、それも放課後のこと・・・と、祐巳が諦めていると、
「祐巳」
と、そこで都合良く自分を呼び止める凛とした声が聞こえて、溢れる嬉しさを表面上は抑えて、優雅に振り返る。
「お姉さま、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
マリア様のように笑うお姉さまがそこには居た。祐巳は祥子の方に駆け寄ると、
「わざわざもどる必要はないのに」
と、祥子は微笑みながら、
「タイが曲がっていてよ―――身だしなみはちゃんとしないとだめでしょ」
そう曲がっていない祐巳のタイに手を伸ばし、きれいに直した。祐巳はそれを不条理とは思わず、むしろ幸せな気持ちが胸の奥を熱くする。
二人で顔を合わせて笑い合うと、並んで金色の絨毯で敷き詰められた並木道を進んだ。とくに話を交わさなくても幸せだった。
そして、二手に分かれる緑色の場所で、白いマリア像にいつもしているとおりに手を合わせて、祈る。
(いつまでもこうやってお姉さまと一緒にいられますように)
それが祐巳ののぞみ。隣のお姉さまは何を祈られているのだろう、自分と同じだといいな、と考えていた。
そんな描く美しい世界―――
それが突如として壊れた―――
『こんな茶番いつまで続けるつもり?』
そこには―――もう一人『祐巳』がいた。
そのもっとも慣れ親しんだ声が場を支配するとともに、時が止まった。銀杏の木の裏にちらりと見える蔦子も、さらにその横にいる真美も、道の先にいる令と由乃も、そのさらに向こうに見える瞳子と可南子も、後ろから来る志摩子も乃梨子も、ラケットを背負ってお姉さまと談笑する桂も、隣で手を合わせる祥子も、木も草も雲も風もその他多くのお嬢さま達も身動き一つしなくなった。
動くのはマリア様の前で背後に振り返る制服姿の祐巳と、その背後で祐巳に声をかけた―――黒いスーツ姿の祐巳。
相手を見る感覚と自分を見る感覚が交錯する。だが、それを不思議とは思わず、むしろ自然と感じていた。逆にそのことに祐巳は最も戸惑った。
「ど、どうして・・・・?!」
十年前の姿の祐巳が絶句すると、十年後の姿の祐巳が困ったような顔をした。それを見て烏色の制服が小刻みに震え出す。その時には、祐巳は夢の中のことを思い出していた。忌まわしい悪夢を―――あり得ない夢を―――
「だって、だって貴女は―――」
「あなたの夢の中のあなた?違うよ―――あなたもわたしも」
そう言った祐巳は下げていた腕を祐巳に向けた。その手に握られているTLEⅡが黒く光る。凶悪な輝きが妙な淫靡さをたたえている。
「あ?え・・・・?」
訳が分からずひたすら混乱する祐巳と、その祐巳に銃を向ける祐巳。後者の祐巳はそのまま、首だけを軽く動かして周囲を懐かしげに見てから、寂しそうに言った。
「私・・・もうここには戻れないのよ・・・。どんなに逃げてもこの場所は時間的に存在しないの、夢は所詮、夢。もう私は純真無垢な乙女ではないし、手は血で汚れている。ねえ、そうでしょ『私』?」
諭すように言われた祐巳は最初、理解できないことと目の前の即物的な物体に対して、混乱していた。しかし、突然、ほんとうに何かのスイッチが入ったように、ハッと何かに気づいた。ここが何なのかに、悲しい事実に。でも否定したかった。
「違う・・・違う・・・違う!そんなこと望んでいない。私はここにいたいの、お姉さまと、瞳子ちゃんと、由乃さんと、志摩子さんと、令さまと、乃梨子ちゃんと、可南子ちゃんと、蔦子さんと、桂さんと、真美さんと、みんなと一緒にいたい、それが私の望んでいることだよ!」
「うん・・・そうだね、それが望み。私だから知っている。でも、ここじゃないでしょ」
祐巳は祐巳に優しく問いかけた。それに対して言われた祐巳は心外そうな顔をする。
「でも、“私”が戻りたいのはここだよ?」
「そうかも。でも、ちょっと違うと思う」
「?」
祐巳は首を傾げた。
「私なんだから分かっているはずだよ。私には箱庭はいらないってことぐらい。私が戻りたいのは、ここだけど、ここじゃない、と」
「じゃあ、どこ・・・?」
「決まってる―――」
祐巳は、蔦子を、真美を、桂を、可南子を、令を、乃梨子を、志摩子を、由乃を、瞳子を、そして祥子を見た。
「――――“ここ”・・・みんなとの場所に、みんなと、お姉さまと触れあえる場所に。そうでしょ?」
言ったあと、祐巳は笑う。祐巳も悲しそうに笑った。
「そう・・・そうなんだ・・・そうだね」
諦観を含む笑い方。
「―――じゃあ、その銃で私を撃って終わりにして、私は“私”にとって邪魔なんでしょ・・・」
寂しそうに目を伏せたもう一人の祐巳に、祐巳は同情したように見つめた。一瞬の間の後、顔をまっすぐ上げた祐巳は笑っていた。視線が合う。祐巳も微笑む。
「―――うん、撃つよ」
祐巳はセーフティーを外し、穏やかでいて満面の微笑の祐巳に銃を向けた。引き金を引く。しかし、
「―――でも私にじゃない!」
と言葉をぶつけて、天に銃口を向けた。
「え・・・」
祐巳はそれを見て目を丸くした。
「あなたは私、撃っても意味がない・・・それに―――」
銃声が鈍色の空を穿った―――――――――――――。
「夢は、夢―――私の居場所はここじゃない」
世界が白い光で満たされた。その間から一瞬見えた『祐巳』の笑顔に妙な寂寥感を覚えた。
―――帰ろう。
白い世界、何も見えなくなって・・・暖かく。
鈍い感覚の中、目を開けると白い光が眼に飛び込んできた。
「眩し・・・」
(生き・・・て・・・・?)
天国?・・・などとは露とも思わなかった。自分はあの世があるなら地獄に行くだろうと思っていたから。だとすれば、夢か、現のどちらかであろう。だが夢にしてはハッキリしていた。それに夢はさっきまで見ていた気がする。覚えていないが、そう・・・、おかげでひどく落ち着いた、そんな気もする。
「い、つぅ・・・」
身動きをしようとしたら、胸に鈍痛が走った。それ以前に筋肉が上手く動いてくれない。長い間床についていたのだろうか、萎えてしまっているようだ。しばらく慣れさせば、有る程度はすぐに動くようになりそうだが、今はあんまりその気力が出なかった。首はなんとか動かせるようなので、寝たままで現状を確認することにした。
おそらく病室なのだろう。しかし、祐巳が知っている病室の概念からいえば規格外に大きい。上海の祐巳の部屋と同じぐらい広い白い部屋に、真新しい病人用のベッドが一つ、その前には巨大なプラズマテレビにDVDプレイヤー、さらにソファーが見える。反対を見ると、病人に必要か、というぐらい大きなクローゼットに、向こうに見える扉は―――トイレ?お風呂かも。キッチン以外は十分ここで暮らすことができそうなぐらい設備が整っていた。
見回せば見回すほど、だんだん自分が居るところに自信が無くなってくる。
枕の上にナースコールらしき物が付いているのが見えるので病院だとは思うのだが。
「ホントに病室・・・だよね?」
思わず溜め息が漏れる。
自分が個室を当てられているのは理解できる。自分のような凶悪犯を一般人と共同の病室に入れるわけがない。しかし―――こんな好待遇をうける理由はさっぱり思いつかなかった。中にはもちろん、外にも監視役の気配はなく、カメラも見えない。
これ以上は何も分からなかった。もとより察しのいいほうではないので、そのうち誰かが様子見に来るだろうと、祐巳は状況把握を一旦諦めた。
ふと点滴とそれと管で繋がる自分の腕が目にとまった。邪魔なので腕に繋がっている点滴を抜こうとも思ったが、取ったらなんか怖いことが置きそうな気が子供の頃からしていたので、それも諦める。
(というよりも、それ以前に腕がうまくうごかないじゃない・・・)
けっこう重要なこと失念していたようだ。
それは、ともかくとして、さて、これから自分はどうなるのだろうかと祐巳は考えた。中国政府に引き渡されるのが妥当なところであろう。殺人だけでも数十件――おそらく、そうなれば二度と日の目は見るまい。
だから、許されることなら、その前にお姉さまと、それにみんなと時間をとることができれば・・・いいな、そう祐巳は考えた。
しかし、祐巳は祥子の力を甘く見ていたのだ。そのことを祐巳は後に知るのだが、それは今のところ祐巳にとっては別の話だった。
そんなことを漫然と考えているうちに、様子を見にナースがやってきた。その後は埋蔵金を見つけたように大騒ぎだ。数人の医者がやってきて、祐巳の検診を行った。気分など訊いてきたので祐巳は適当に答えておいた。正直、寝起きが続いているようで、気分の善し悪しなど分からなかった。そもそも、これだけのことにこんなに人数が必要なのか。そのあと、水分をもらったが、その後の記憶はない。急に目の前が暗くなった。
誰かが来たような気がしたのだけど・・・。
簡単な診察の後、眠気に襲われて寝てしまったようだ。それに気が付いたのは目を開けた後、窓から差し込む夕日を見てからだった。
「目が覚めたのね」
その声を聞いて祐巳はハッとした。胸がとても熱くなる。
どれだけ時と空が隔てようと忘れるはずのない声。
窓とは反対側に夕日に照らされて、祥子の横顔が輝いていた。
その祥子の顔に見とれつつ、声をかけようと口を開けかけて、一度閉じた。勇気がでない。そのおかしな祐巳を祥子は不思議そうにのぞき込んだ。
「祐巳?」
祐巳は志摩子と会って話して、自分が祥子に言わなくてはいけないこと、そして、言いたいことがあることに気が付いた。それはずっとあの時から、大切なお姉さまと会えなくなってから、外からそして心の内から押し込んでいた気持ちでもあった。祐巳はその言葉を十年抑圧されたその言葉を紡ぐ。やっと、ちゃんと言うことができる。意を決し、口を開いた。心を落ち着ける。
「―――お姉さま・・・・まだ、そう呼んでもいいですか」
祐巳は最初に確認した。全身がこわばっているのに気づく。
「あら、それ以外のなんだっていうの?」
祥子が悪戯っぽく笑ったので、祐巳は心底安心した。理由はどうであれ、祐巳は大切なお姉さまを傷つけた、いや、殺そうとした。だから―――嫌われた、怖がられたそう思った。自分がそうしたその事実を、それを考えるだけで目頭が熱くなる。
(あ、だめ、泣いちゃう。ちゃんと言わなきゃいけないのに)
「お姉さま、ごめんなさい・・・わたし、私っ」
「それはこの間、聞いたわ」
祥子は祐巳の口元に人差し指を添えて、目を見て笑った。それからおもむろにベッドの脇に触れると、
「背もたれを起こすけれど、良いわね?」
「え、あ、えーと・・・・はい」
と確認してから、スイッチを押した。するとちょうど枕の位置がゆっくりせり上がっていく。ちょうど斜めの位置で止まる。
「このぐらいのほうが楽でしょう?」
「はい」
こうすると祐巳と祥子の顔が自然な姿勢で近くなる。十年ぶりにじっくりと見るお姉さまの姿に祐巳はしばらく見取れてしまった。その祐巳の様子に祥子が不思議そうに傾げた。
「祐巳?」
「お姉さま―――」
目線が合う。その声が引き金になったように祐巳は涙を溢れさした。そして意識せずに心情を吐露する。でも、これが本当に言いたかったこと・・・。ずっと胸の内にあったこと。
「私、ずっと会いたかった―――たぶん、そうなんです。お姉さまに、ずっと。どんなに身体を汚しても、どんなに人を殺しても、自分を見失っても、ずっと、ずっと、逢いたかった・・・!」
「祐巳・・・」
祥子は祐巳を優しく抱きしめた。祐巳に覆い被さるように、祐巳を気遣う優しいぬくもりが、鼓動が、祐巳の心を暖かく濡らした。
涙も言葉も止まらない、止められない、止めたくない。
「―――ずっと、一緒に居たかった、お姉さまと一緒に歩いていたかったんです、ずっと、ずっと・・・ずっと・・・・・」
身を乗り出して自分を抱き留める祥子の胸で祐巳は泣き崩れた。その耳に確かに聞こえた。
「私もよ」
と。
自分勝手かもしれないけれど、すごく――嬉しかった。祐巳はこんなにも涙を流しているのにも拘わらず、こんなに嬉しい気持ちなったのは初めてだった。胸がいっぱいになって、溢れる。
人の温度が愛おしく、涙を流すのが心地よい。
(帰って・・・きたんだ・・・・・帰ってきたんだ)
日も落ちて外はすっかり暗くなるまで祐巳は祥子のスーツを濡らし続けた。だんだん我に返ってくるとその高そうなスーツを汚しているようで罪悪感が生まれてきたが、今更どうしようもない。
そんなことを考えることが出来る余裕が生まれたことを祥子は悟ったのか、タイミングを計ったように名残惜しさを滲ませつつ祐巳から離れた。
「お姉さま・・・?」
祐巳が暗い部屋の中、突然立ち上がった祥子を不思議そうに見上げた。
「あなたに渡したい物があるの」
祥子はそう言うとスーツのポケットから何かを取りだして、大切そうに掌にのせた。それを祐巳に差し出す。
「え・・・これって・・・・」
その掌に上に有った物。汚れと傷がひどく、チェーンは付け替えられていた。一度曲がったのか歪みがあったが、まさしくそれは―――
「―――ロザリオ・・・私の、お姉さまの・・・」
誘拐された時無くしたと、そう思っていた。お姉さまから頂いた大事なロザリオ。もう亡い物だと思っていたのに。
「あなたの情報を持ち込んだ男が証拠だと言って持ってきたの。少し曲がっていたみたいだったから直したのだけれど、あまり上手く直せなかったわ」
馴れない工具を四苦八苦して使う祥子の姿が用意に想像できて、感涙を流しながら笑ってしまった。祥子はその笑いの意図をくみ取って、眉を寄せたものの、すぐに仕方なさそうに笑った。
そして、祐巳はこの笑いの後にお姉さまが何を言うのか、わかっていた。だからとても、とても、嬉しかった。ひどく現金な人間かもしれない。それでも祐巳の心は澄みきっていて静かで暖かかった。
「これ祐巳の首をかけてもいい?」
その問いに対する答えは決まっている。おこがましいかも知れない。でも、自分の気持ちには逆らえない。夢の中の、でも夢ではない情景がここに再生されている。
祐巳は笑って――さっきまで泣いていたから少しぎこちなくなってしまったが――口を開いた。
「はい」
「ありがとう」
祥子は、そっと祐巳の首にロザリオをかけた。
デジャブのような光景が目の前を通り抜け、ロザリオは私の所に帰還した。私がお姉さまの元へ戻ってきたように。
自然と鼻歌が湧き出て、それが二つの声で一つの歌を作り出す。ワルツのかわりに笑みが踊って、差し込んだ月光がそれを照らす。
そんな宵をマリア様見ていらっしゃるのだろうか。
見ていてほしい。
こんなにも喜ばしい夜を――――
そんなことを考えながら祐巳はマリアに抱かれる幼子イエスのように、十年ぶりにぬくもりを感じて夢の世界へ落ちていった。
「おやすみなさい、祐巳―――また明日。そして、ずっと側にいて――――ずっと・・・」
夢うつつの中、子守歌のようなお姉さまの声を祐巳は聴いた。明日があることを久しぶりに嬉しく思った。
終章 無原罪の御宿り 終
紅き天使のレクイエム 完了