――時は五分ほど遡る。
有馬菜々は祥子の入院している病院のすぐ目の前まで来ていた。それも剣道着姿という都会の真ん中では少々目立つ格好で。
先輩に当たる小笠原祥子さまが交通事故か何かで入院したので、お姉さまに半ば強制的に誘われて、お見舞いに行く約束をしたのである。よくよく考えると二、三度しか『祥子さま』とは会ったことがないことに、約束してから気がついたのだが、お姉さまに久しぶりにあえるので良いことにした。が、しかし、少々遅刻をしてしまった。
今日は養父、つまりは祖父の、一番弟子の道場へ出向いて、ついでにそこのお弟子さんたち稽古をつけたのだが、少し熱中しすぎたらしい。結局、慌てて着替えもせずに出てきてしまった。これはこれで新鮮で面白いけれど、さすがに汗や臭いが不快であった。
(多分、怒ってらっしゃる)
そうやって姉の顔を思い浮かべるとわくわくする。怒っていない姉も面白いけど、怒っている姉はもっと面白い。
そこで菜々は初めて来る病院なので、外観を観察することにした。
その病院は都会の病院らしく近代的な外観をしていた。うち放しの壁に、エントランスやロビーは大きくガラスを使っている。棟は二棟に分かれて、おそらく手前が外来、奥が入院棟のようだが、祥子さまが入院されている特別個室は外来棟の最上階と聞いている。たしかのこの病院も小笠原の関連施設だったか。
ふと、そこで、菜々は振り返った。後方から変な感じ(としか言いようがない)がしたのだ。そこには病院より少し高いビルがあった。それを下から上へ見上げ・・・そして――
(・・・・?)
屋上で何かが光った、気がした。
紅き天使のレクイエム 第二章 背信者(下)
「ちっ・・・気づかれた」
その男はビルの屋上で舌打ちした。黒いサングラスをかけた東洋系の男であった。男の前には、金属製の柵の間から銃身が出るようにライフル銃が置かれている。その横には屋上にあったコンクリートブロックのかけらで重石した写真――今回のターゲット――オガサワラサチコ――の写真があった。
男は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
(まさか、こう寸前に気づかれるとは・・・逆光になっているはずだか・・・・くそ、そうか、ビルの所為で反射したのか・・・!)
男は焦っていた。しとめ損ねた以上、ここから早々に立ち去るべきだ。しかし、なんの成果も上げずに逃げ帰ると、饕餮にどんな制裁を加えられるかわからない。とくに今の饕餮はなぜか気が立っていた・・・・。
冷や汗が流れる。
と、その時、スコープに影うつる。思案の中にいた男は、とっさに引き金を引いてしまった。そこで、自分の失敗に気づく・・・
(ターゲットじゃない!!!)
と。あきらかに男であった。
寒いものが背中を走る。今までに、少なくとも仕事のときには、なかった感覚だ。悪寒とも違う。なにか第六感が疼いていた。
男は落ち着かず、後頭部をかきむしった。
(ちっ・・・・くそ、なんかやべぇ・・・嫌な予感がする。・・・・・?!・・・も、もしかすると今殺したのは・・・相手の幹部かなんかもしれん!・・・ならば饕餮も許してくれる・・・)
男は得体の知れない不安感に押されるように、淡い期待を抱き、ここから一刻も早く立ち去ることを決めた。一秒一秒、時間を過ぎるたび、焦燥感が募る。
素早く撤収・・・とはいってもライフル自体は捨てていくので、たいしたことではない。だが、そこで、男は後方に気配を感じた。振り返る。
「!!・・・・んあっ?!」
男は思わず間抜けな声を出してしまった。なんと、わずか五メートルほどしか離れていないところに、木刀を持った女が突如として立っていた。
(この俺が、気づかないうちにこんなに接近されただと?!)
男にはその女が瞬間移動してきたようにしか思えなかった。しかし、そうではないことも分かっている。だから驚愕するのだ。饕餮麾下の暗殺者でも上位に位置する自分が気づかなかった、そのことに。しかも、一見華奢そうな女だ。
しかし、男は知らない。女の名前は有馬菜々・・・現在、女性で最も強い剣道家であることを。
屋上に着いた菜々は現実の中であまりアドベンチャーな風景をみて驚いた。狙撃手というモノを初めてみてしまった。しかし、非日常な光景に感動はするものの、面白いものじゃない。こんなのはもう少し、自分の生活が離れたところでやってほしい。出きるなら創作の中で。あまりに危険だ。しかし、放っておくことはできない。
そして・・・撃たれたのが最愛の姉だった場合、絶対に許すことは出来ない。絶対、に、だ。
木刀を手に自然に普通に男へ近づく。そうあくまで自然に。一歩一歩・・。
あと五メートルというとこで、男に気づかれた。それに菜々は多少驚かされた。男もただ者ではない、ということだ。無論、この日本でライフルを手にする男がただ者でないはずもない。男は驚愕した顔を見せたが、同時に懐に手を入れて、拳銃を取り出した。
しかし、男の射線軸上にもう菜々は居ない。すでに大きく一歩で、滑り込むように懐に踏み込んでいた。菜々が木刀で男を逆胴に斬りあげる。男は紙一重にかわしたように見えた・・・が、菜々の狙いは元々、男の方ではない。かわしきれなかった男の右手が打ち据えられて、拳銃が宙に舞う。
だが、男はそれでは慌てない。驚いてはいたが、予想の範疇にはあったのだろう。男の左の袖口からナイフが出て、それを握る。それを菜々の身体へ差し込もうとするが、菜々は軽く避ける。その流動を利用して、右肘で男の左手を打つと、あっさり男の掌からナイフがこぼれた。
そこで、男は大きく驚愕した。
「何ぃっ!!!!」
(俺は夢でも見ているのか?!!)
何が起こったのか理解できなかった。ただナイフが手から落ちただけの話だ。しかし、わからなかった。何が起こったか。何であんな軽いひじ鉄で自分の左手の力を奪うことができたのか。
「くそぉっ!」
男は逆上して右ストレートを菜々にたたき込んだ。が、菜々は風のようにひらりと一歩下がって避けて、女の細い左手でそのごつい右手を掴んだ。次の瞬間、男が見たのは、女の肩、そして、一瞬で切り替わって、赤みがかった空を臨んだ。男は宙を飛んでいた。
鈍い音とともに男は床にたたきつけられた。
(何だ?!何なんだ?!)
男は自分の状況がわかる前に、反射的に飛び上がっていた。なんとか受け身はとれたらしい。
(まさか・・・あんな崩れた体勢から、この俺を投げた・・・だと?!)
すでに菜々は木刀を青眼に構えていた。銃もナイフも菜々の背の向こう。出口は男の背の向こう。しかし、男は逃げなかった。いや逃げられなかった。
(逃げられない・・・・逃げたら、その瞬間にやられる・・・)
「くっ・・・くそぉ!!!!!!」
やけくそになった男は叫んで、菜々に突進した。
菜々は動かない。そして、男が菜々の間合いに飛び込むと同時に、菜々のヒュッという短い呼吸とともに、男の脇の下にしなやかな動きの木刀が、メキ、という異音とともにめり込んだ。脇影という人体急所だ。そして男は悶絶してその場に崩れ落ちた。
「ふぅ・・・」
菜々は息をつく。よく考えれば、命を懸けた『実戦』は初めてだった。木刀がにいやな汗が染み込んでいた。試合では味わったことのない緊張・・・。
(もう二度とごめんだけど・・・)
それから、男の気絶を確認し、袴から下げていた携帯ホルダーから携帯を出して、かけなれた電話番号を押した。
『はい、福沢・・・・』
「お姉さま?」
電話の向こうからお姉さまの声がして、菜々はほっとした。少なくともお姉さまは撃たれていない。でも、声が震えていることを考えるとあの向かい病院にいるのはほぼ間違いない。
(・・・・やっぱり、許せないや)
『って菜々?!今、どこにいるの、遅刻よ、遅刻・・・・それより、今、大変・・・・』
「あ、病院の向かいのビルの屋上です」
菜々はちょっとした悪戯しているような気分になって、胸がドキドキする。お姉さまの今の反応とこれからされるであろうと予想される反応が面白くて仕方がない。
『・・・・え?』
由乃の呆けた声が聞こえて笑みを零し、そしてとどめの台詞を言うために口を開く。
「銃持った男を倒しました」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・ええええぇぇぇぇ?!!!!!!!!!!』
電話の向こうから絶叫が聞こえ、向かいの病院一室から大きく立ち上がる人影が見えた。
それを自慢できる視力で確認して、菜々は微笑んだ。
見ると、夕日がかなり傾いていた・・・・。夜は近い・・・。
ふと、浅い眠りの中から祐巳が気がつくと、手に持った拳銃のリアサイトが薄く光っているのが見えた。あたりはすっかり暗くなっている。元から薄暗かったのでわからなかったが、どうやら日は沈んだらしい。結局、日中はここで座り込んで、過ごしてしまった。不思議とお腹は減っていない。
しかし、そんなことはどうでも良かった。問題なのは、この現在の状況だ。
「ふぅ・・・」
そう祐巳は明らかに場違いな嘆息をした。それに呼応するように、目の前で何かが、ぴくり、と動いた。
見知った男がそびえるように、祐巳の額に銃口を突きつけて―――立っていた。
しかし、祐巳は動じていない。表面上も、そして内面上も。終わるときは一瞬だ――『どちらにしても』、だ。
「・・・・何の用・・・?・・・呉一」
暗い目で祐巳は目の前にいる男――呉一に、憂鬱そうに問いかけた。
すると呉一はただ低く、うなるように一言だけ話した。
「・・・饕餮の命令だ」
「・・・・」
それだけでわかった。祐巳は驚かない。予感はあったし、予想もしていた。
だが、饕餮は残酷でかつ冷徹な男だが、一方で簡単に有能な部下を切り捨てる男ではない。もっとも、部下に対して情が厚いわけではないが。失敗しても制裁こそすれ、殺しはしない。それが無駄だと知っているからだ。それこそが、ヤツが組織の中で強大な力を持っている理由の一つでもあった。
が、例外はある。それは、自分だ、と、祐巳は以前から感じ取っていた。理由は知らないし、知りたいとも思わない。ただそうなんだろう、と思っていた。私は異質だから、と。
ともかく、饕餮はいつの頃からか、祐巳を嫌っていた。あんな男に嫌悪されても、特に何とも思わないが。
だから予想はしていた。刺客が来ることぐらい。
刺客は、呉一、左に一人、右に一人・・・・三人、いや下にも配置してあるか?
(厄介ね・・・・でも、問題は―――)
呉一は自分をあっという間に追い抜かした同じ組織の暗殺者に対して、優位にしかも、命を握る立場にいることに、少なからずの優越感を抱いているようだった。口元が薄く笑っていた。そして、その優位を示すように小さく言う。が、それは祐巳のスイッチであった。
「言い残すことは?」
「――ない・・・!!!」
そう言った、その瞬間、祐巳が動いた。
「なっ!」
呉一が瞠目して、引き金を引くが空を通り、壁に穴を穿っただけであった。すでに祐巳は呉一に密接している。祐巳は呉一の腹に二発銃弾を撃ち込んだ。
「かはっ」
呉一は霧のように血を口から吐き、身体を痙攣させる。
そうしている間に、祐巳の早業に出遅れた左右の二人が祐巳に銃を向ける。
祐巳は右の男に呉一の体を押し投げ、動きを封じ、左に向き直る。と、同時に男の銃から銃弾が発射され、祐巳の左上腕を深くかすめ、服が裂けて血が飛び散った。
しかし、表情をかえたのは、撃たれた祐巳ではなく撃った男の方だった。確実に心臓に当てたと思っていたその男は、よけられたことに驚いていた・・・・・・その顔のまま、胸に穴を空けられて何も理解できずに後ろに、バサリと倒れた。
しかし、その時にはすでに、呉一を押しのけたもう一人の男が、怒りと恐怖に彩られた形相で祐巳に銃を向けていた。
「そこまでだ!」
「・・・」
この不利な状況で、不適にも静かに向き直り、祐巳はその男に冷笑した。熱き血を一瞬で凍らせるような極上のほほえみ。暗い地の底から這い出た死神の笑顔・・・。
「っ・・・」
それ見た男が顔を引きつらせて、発砲するが、恐怖で手元が狂って当たらない。
その間に、タン、という軽いステップとともに祐巳が滑るように踏み込む。
「ひっ?い・・・」
薄笑いを浮かべた祐巳の顔が目の前に来て、恐れが男の表情を支配し、潰れた悲鳴をあげた。
「ふふ・・・さようなら」
懐から取り出したナイフで男の首を切り裂いた。熱い血が顔と服を濡らす。男が苦悶と恐怖を入り混じった表情で、痙攣しながら崩れ落ちた。
それ見て、祐巳は笑っていた。
(ちゃんと・・・殺せる・・・)
「フフ・・・フフ・・・フフフ・・・」
人を殺したことで安心する自分がどうしようもなくおかしかった。存在を証明していると同時に、否定している気分になる。不快感が気持ちよく、その気持ちよさが気分の悪さを生む、そのループ。これが自分の世界・・・。十年前に生まれた私の世界。
「?・・・なるほど・・・ふふ」
下の方で物音がした。予想通りだ。当然、たった三人で『ブラッド』を殺しに来るわけがない。
祐巳は自分の銃を懐にしまい、呉一の使っていた銃を拾った。手持ちの弾丸はマガジンの交換一回分しかない。この先、絶望的なのは目に見えている。弾切れなど間抜けなことだけは避けたい、そのため、その銃を握る。それはそこに転がる死体のように、熱を失いつつあったが、祐巳が持ったことにより、暖かさが戻る。
この銃は、現在のものより一回り小さく軽い。たしか、NORINCO M54――これで祐巳は初めて人を殺した。密造で精度はそんなによくないが、この銃の扱いには慣れている。組織で一般的に使われているもので、祐巳も二年前までは使っていたからだ。
ちなみに祐巳が現在使っているものはKimber Custom TLE Ⅱ。銃マニアの標的がたまたま持っていた物を、手になじんだのでそのまま使っている。元々、祐巳に銃に対するこだわりはない。相手を無効化できるならなんでもいい。
銃に詳しい呉二に訊いたところでは、Kimber Custom TLE Ⅱはロサンゼルス市警特殊武装戦術部隊――L.A.P.D. S.W.A.Tの制式拳銃であるという。そして、TLEとは“Tactical Law Enforcement”の略――直訳すれば、『戦術上の法の執行』・・・初めに聞いたときは、皮肉が効きすぎて笑いそうになった。
そして、今、祐巳は笑っていた。
法――秩序とは何なのか。
――私の『法』はどこに・・・・・・?――
祐巳は法を関した銃を懐に、獲物を狩るために歩き出す。
(いや、獲物は私・・・狩人を狩る獣・・・血に塗れた獣・・・・・・・・でも・・・)
その獣には一つの疑問が残された。それは胸をよぎる度に消えていく。
――どうして、ここまでして私は生きたいの?――
と。
第二章 背信者(下) 終
第三章に続く・・・