「とりあえず、64やるけど……」
遠慮がちなナズナさんの声に、俺はスマホに落としていた視線を動かして反応する。
「悪い。クラスの奴に返信してた」
顔を上げれば、ナズナさんとコウの視線が俺のこめかみを掠めて突き進む。若干視線が当たっているのは俺に対する訴えだ。もっと言えば俺たちへの訴え。
コウのジトとついた目を向けられているのは時葉である。
「その人がいると気が散ってゲームどころじゃないから、別の場所にやってよ。ご主人なんだろ?」
「それもそうだな。ハツカもいいか? 椅子ないけど」
「地べたに座るからいいよ」
「分かった」
スマホで命令を出すと、時葉の姿が霞に帰る。視線を下ろせば床に波紋が広がっていた。階下へとすり抜けたのだ。
「当然のように椅子扱いなのは気にしない方がいいのかな……」
「コウくん。多分コイツらはこれがデフォだから諦めた方がいいと思うよ」
「心外だな。サディストなのはハツカだけだぞ」
「お前も充分S側だと思うが」
「それはない」
酷い言い草だ。
俺は決して人を虐めて楽しむ異常者ではない。正しくはハツカと時々立場を逆転させて愉しみたいが正解だ。ハツカという女王アイデンティティを持っている相手だからこそいいのだ。
「コウからも言ってやってくれよ。俺は決してサディストではないってな」
「サディストだよ」
「なんでぇ!? 写真だって消したじゃんかよ!!」
「消す前に弄ってきたじゃん」
(……俺はサディストだったのか……!?)
「そうだよ」
心の呟きに三人が口を揃えた衝撃の事実に、全身が雷が焦がされたような錯覚が生じる。
ありえなかった。確かにハツカにザワザワしたりゾクゾクしたりするけれど、コウ達にはそんな心の変形は認知できなかった。少なくとも虐めて楽しむといった感覚はないのだ。とはいえ、客観的に見たら全然違うの実例なのだろうと受け取った。
もう少しうまく立ち回らないといけないな。
「あとさ」
「なんだよ」
迷うそぶりを見せるコウは、少し視線を逸らしながら口を衝くように言った。
「なんかさっきから怖いよ?」
頬の周りで手を彷徨かせると最後には頭にたどり着いた。頭を掻くと、ポリポリと骨が鳴る。
後でやろうと思ったし、ハツカにもそう伝えたけれども抑えられていなかったようだ。沸騰寸前。プツプツと小さな気泡が見え始めるまだ揺らぎが少ない水面そのもの。
「頭冷やしたいので15分だけ別室借りて良いですか? このままだとお二人と楽しくゲームができないので」
「いいけど」
訝しむカオを受けながら、軽く頭を下げてから回れ右をする。隣にいるハツカの首根っこをわし掴んで引っ張る。
「ほら、行くぞ」
「え、僕も?」
「お前がいなきゃ冷やせないんだよ」
「わかっ–––痛っ……くない! いや掴むなら襟にして!?」
「それナズナさんの服だろ」
「服と僕、どっちが大切なのさ!? わーわー!」
腕をジタバタさせるハツカの口答えに返事はせず、そのままズルズルと引き連れてガシャンと扉を開閉する。居間から出てすぐ、彼に向き直る。
「……ここでやるの?」
彼は少し驚きながら両腕を抱き寄せる。声は明らかに扉一枚挟んだ先にいる二人に向けられていた。
コンコンと扉をノックする。この厚みなら少し大きな声を出せば、何を言っているかぐらいは聞き取れるだろう。
「やられたいのか?」
「違う違う!!」
全速力で首を横に振るハツカを制止する。
「分かってるよ。でも驚いたな。ハツカにも羞恥心が残ってたとは」
事情を知らない相手にバレるかもしれない羞恥心から来る行為なのだろうが、俺に椅子にされたあげく馬鹿みたいな面を撮られたのに一体全体何を恥ずかしがる必要があるのだろうか。
「あれ以上のことはないのに……みたいな顔してるね!」
「凄いな。エスパーか?」
「一発ぶん殴っていいかな。あんなことされたから余計に恥ずかしいんだよ!」
「そうじゃなきゃ、女王様じゃないよな」
自分が思っている以上に剣呑な声が出る。
「夜守くんも言ったけどなんか機嫌悪いよね? 僕、何もしてないじゃない」
などと供述しており、何ひとつ俺の心を落ち着かせることはできない。
少し手荒な真似にするが、無自覚なのか理解しててやっているサディストなのか分からない相手には丁度良いだろうと踏ん切りをつける。
今日もつけてきた腕時計に手をかける。
「とりあえず、俺たちも降りるか」
ストン、と全身を通り抜ける異物感を覚えながらすり落ちた。
☆
目の前の少年が忽然と姿を消して、脳が理解を拒んだ。けど、考えてみれば当たり前のことで、僕らにできることはあの子にも出来るはずなのだ。
視線を床に向けてみれば、僅かに波紋を残していた。
同じ穴を通るようにして僕も重力に身を任せる。少し不快さを感じながら身体は階下にスルリと入り込んだ。勢いを殺して着地すれば、暗がりだが四つん這いになった時葉に腰を下ろしたショウくんがしっかりと目に入る。
「よくもまあ僕のモノを当然のように使うね」
「そういう約束だろ」
「時葉も……汚いだろうに」
この雑居ビルはテナントが七草さんの添い寝屋以外入っていないので、もちろん他の階層は全て手入れがされていない。数ヶ月か、年単位で主を待っているであろう部屋は薄らと埃が積もっている。見渡すだけでどんよりとした空気になる。
手足をつければ汚れてしまう。吸血鬼なら無理だと突っぱねてやるところだが、時葉は構わず椅子になっている。ショウくんが座り心地の良い場所を探して動けば、身悶えするように時葉は体を捩る。
心の中がイガイガと形を変えていく。
「それにしても、いつからスリ抜けを使えるようになったの?」
「今朝だよ。試してみたら幽霊みたく通り抜けるもんだから驚いた」
「やっぱりキミ、吸血鬼だろ」
「……だな。数え役満ってやつかな」
とはいえ彼が降りたのは、スリ抜けのことを伝えるためではない。落胆した声にも鋭さが宿している。まるでハリネズミのように敵意すら浴びる針を全身から伸ばしている。
ショウくんは人差し指で促す。
「とりあえず座って」
「いや、あのね。汚れてるところに座りたくないんだけど」
「は?」
その指先は咽せてしまいそうなほど埃が待っている床に向いていた。思わず不愉快さを隠しもせずに強い語気で言うと、返ってきたのは針ではなく剣になった敵意だった。
『……分かりました』と、触れない方が身のためだと直感した僕は、正座で彼の目の前に座り込んだ。咳ひとつすら許されない空気感の中、僕は直接訊ねる。
「なにに怒ってるの?」
見上げたショウくんの顔は見たことないほど鋭い目をしていて–––自画自賛が入るが–––僕が認めた容姿なだけあり、僕を睥睨する様が似合っていた。
不意にこの間オモチャにされた時のことを思い出して、不愉快ながら、尻に心地よい熱が広がる。
ゴスロリ少女も良いな……と改めて思った。
「なんでナズナさんに手を出した」
油断していた心に、冷凍庫でキンキンに冷やしたアイスピックで突き刺すような一言が飛んできた。狼狽えないように心を保とうとしたが、想像よりも喉が震えてしまう。
「手、ダシテナイヨ」
「ハツカ様て言いかけてたよね。普段は呼び捨てなのに」
余りにもぎこちない返しに、言い逃れが難しいツッコミまで受けてしまう。視界が揺れ動き、焦点を定めずに泳ぎ続ける。
ただ僕は一言だけ口にできるとしたら、
––––確かに……確かに様呼びはさせたけど、怒ってるのそこなの!?
「ナズナさんはコウのものなんだ。なのに洗脳まがいのことをするとはいけないな……アイツらはいい奴だから幸せになるべきなんだ」
つまりショウくんの頭の中では、お互いに好意の矢印を向け合おうとしている二人の間に、割って入った最低な男として存在していることになる。
そうだとしたら、いくらなんでも思い込みが激しすぎませんかね!?
友達だし、可愛いからちょっかいかけたくなるだけなんだけど!
「待て! そうじゃないんだ!!」
「弁明があるなら言ってみろ」
彼は埃まみれの床を数回踏み躙った後、大袈裟に足を組んでみせると、上の脚の爪先を僕の顔の前に突きつけてくる。
不用意な口答えをしたら遠慮なくこの足で口を塞いでやる。
そんな圧倒的な脅迫感が、態度だけで伝わってきた。
だから、僕は下手な言い繕いをしないことを選んだ。
「僕はただ甘え方を教えただけなんだ!」
「……?」
「きっと夜守くんも驚くよぉ〜」
全身から放たれていた敵意が、空気を抜かれた風船のように急速に萎んでいくのが分かった。顎に手を当てながら考え込み始めて、突きつけていた足先がグデンと下に向いた。
「……どういうこと?」
溢れた言葉は、いつもの調子で純粋なものだった。
☆
「……どうするの?」
数分経って、ようやく出たのは短い呟き。
何故か苛立っていたショウがハツカさんを連れて、奥の部屋に消えると手持ち無沙汰になってしまう。よく分からないけど、ハツカさんが地雷踏んだみたいでお説教が始まるようだ。つまり、どれだけ長引くのか想像できない。
四人でやろうという話だったのに、先にやってしまうのは忍びない。
まあ、別に文句を言う二人ではないだろう。自分たちの事で勝手に離れただけだし、ひとまず確認の意味合いを込めて、ナズナちゃんにそう訊ねた。
返ってくるのは、「んーー」という間抜けた力の無い声。
目線をドアからナズナちゃんに移すと、背を向けながら疲れた身体をほぐすようにストレッチをしていた。
「やっぱりマッサージの後は疲れる?」
「んー……疲れたからさぁ……」
よく見れば、耳の端が赤く染まっているように見えた。
ナズナちゃんはカニ歩きで居間を横断すると、クローゼットの扉を開けて上半身を中に突っ込んだ。よっこいせ。取り出したのは、新調したベッドが登場して以降出番がなかったお古の薄っぺらい敷布団。
懐かしさを狙った結果、時々背中が痛くなるという欠陥を抱えたものだ。
「……疲れたしさ」
布団を床に広げて、ゴロリと横になる。
反芻するように言うナズナちゃんの顔は見えないが、同じセリフを数回繰り返しながら結った髪を解いていく。
「どうしたの?」と訊ねれば、一拍子置いてから寝返りを打った。露わになるのは、照れた時特有の余裕を無くして誤魔化すようなあっけらかんとした笑み。
「だからさ、コウくんに甘えていい?」
その姿は吸血鬼らしく妖艶さもあって、女子らしい一面もあって、いつもと違う一面を見せる目新しさもあって。どれをどう処理したらいいか分からないぐらいには、目を奪われてしまっていた。
「……ダメ?」
窘められるのを恐れるように訊ねてくる。捨てられた子犬のような瞳に僕の姿が映っていて、そうしなくちゃと思った。
僕は照れながらも頷て、布団に横になる。
うん、やっぱり布団としての気持ちよさは殆どない。現役を過ぎている。
「やっぱりマッサージって大変だよね」
「だねぇ。ハツカさ、ハツカとは色々話し込んじゃったし」
なんで言い直した?
「それはそれは……でも甘えるの、僕でいいの?」
僕らは容姿とナズナちゃんの振る舞いだけ見れば、同年代に間違えられるかもしれないが、れっきとした歳の差恋愛の真っ最中なのだ。今の僕が14歳で、ナズナちゃんが40歳近く。つまり、25歳ほど差があるのだ。
だから情緒はともかく、やはり圧倒的に歳下の相手が甘やかしていいものなのか。
「良いに決まってるじゃん」
そんな僕の不安は、スッと胸の内に入り込んできたナズナちゃんに掻き消される。
「コウくん以外にはしてもらいたくないし」
照れながら上目遣いに言ってくるものだから、今すぐ血を吸ってもらたくなるほどにドキッと胸の中が叩かれて痛くなってしまう。
取り繕うようにすぐに口を開いた。
「なんか今日は強強だね」
「アタシは強強お姉さんなのです。そんなアタシが甘えるのはコウくんだけなの」
『だけ』––––僕の欲求を強く突いた。
強いと言っているが、今まで通り乙女的な台詞を口にするたびに顔の赤みが濃くなるたびに愛おしさも相乗効果で増していく。
だから僕も必死にどうしたらいいかと考えて––––そういえば、以前僕もナズナちゃんに甘やかしてもらったことがあったっけ、と思い出した。
上質な睡眠に欠かせないのは安心感。
そして、男が求めている安心とは母性である。
だから友達をお母さんだと思って甘えてみろ、と。
裏を返せば、親のような安心感を与える相手として接してあげればいいのだ。
「じゃ、じゃあ……甘やかしてあげるね」
理屈を理解したところで、すぐにできるかと言われたら別のこと。
手段は一つしかない。
気持ち悪いかな……?と思いつつも、「気持ち悪いわけないじゃん」と頭の中でショウの声を借りたナニカが囁きかけて来て、僕はそれに乗ることにした。
「え!? ちょ!」
自然と腕がナズナちゃんを更に深く抱き寄せるように伸びていた。慌てた彼女の柔らかく熱さを増していく吐息が、素肌にかかっていく。その少し下に更に柔らかなナズナちゃんの女性らしい部分が当たる。
親しい女子を抱きしめている恥ずかしさや、独り占めしたい相手を自分の内側に招き入れている達成感で自分の気が眩みそうになるが、物凄く満ち足りた気分になっていた。
だから調子づいて口にしてしまう。
「ほら、ナズナちゃんも抱きついていいんだよ」
「……ん、うん」
僕の息だけで掻き消えてしまいそうな肯定。
流石に気持ち悪かったかな。
少し冷や汗をナズナちゃんを見下ろしてみると、彼女は死んでしまうのではないかと錯覚するほどの赤くなりながらも嫌な顔は一つせず、それどころか笑顔がこぼれると言った感じの、嫌味が感じられない笑い方をした。
陳腐な常套句にある「守りたいこの笑顔」というものを思い出した。
そのままナズナちゃんは、僕の腰に腕を回して来た。
ナズナちゃんの顔が死にそうなら、僕は胸の中がそうだった。
☆
「つまり……ハツカはふたりのアシストをした、と?」
「そう! だから僕は無実だ!!」
ハツカから一通りの流れを聞いたあと、簡潔に話をまとめると彼は力強く言い放った。人差し指もビシッと俺に異議を唱えている。
俺は少しだけ考えてから立ち上がって、スマホに命令を送る。
すると、時葉がまた姿を消した。コウとナズナさんがどうなっているかの報告と、いい感じの雰囲気なら終わったら連絡して欲しいと指示を出したのだ。
「またアイツは簡単に命令に従って……」
その姿がハツカにはどうにも気に食わないようだ。
「因みに今回のご褒美は俺の血とハツカの足置きになることにしたから」
「さらっと僕を巻き込まないでくれるかな!?」
「でも、簡単に俺に流れる時葉にもお仕置きしたいでしょ?」
「そりゃ……目に物見せてやろうと思うよ」
「怖いよ」
ハツカは立ち上がりながら、脚についた埃を払う。
上向いた顔には怒気を孕んだ笑みが浮かんでいるものだから、僕はスッと大人しく後退ってしまう。その微笑が僕の方に向けられて、心の中で頭を押さえたくなった。やり返す手札を与えてしまったのだから頭を痛くなる。
時葉に仕置きが行く前に、とりあえず俺がやられてしまいそうだ。
何を言われるかと思って、おもむろに動き出す艶やかな唇を見た。しかし、それは意外な形を作るのだ。
「そうだ。僕も甘えていいかな」
「……はい?」
また、純粋な疑問が溢れてしまう。
ハツカはそれを『何故』として受け取った。
「ほら、七草さんに探偵さんの話をする役は僕が引き受けたわけじゃん? 嫌な事を蒸し返すのだって悪いことなのに、それを断罪するかどうかまでやったわけですよ」
元々今日来たのは以前から考えていたナズナさんへの発破をかけることが目的なのだ。ナズナさんからキョウコさんにコンタクトを取ってくれたら、
賭け事はそのついでだ。
「首に爪をかけたりさ。こっちが悪いことしてるみたいで嫌だったよ」
「嫌な役を押し付けた自覚はある」
「でも、キミが言うよりは適任だしね。ニコちゃん経由にするにはちょっと危ないし」
すぐテーブル叩き割るから。
そう付け加えたハツカは、何かを求める寂しがり屋の子供のような目で僕を見てくる。
「だからさ、僕を労って甘やかして」
ねだるような甘い声が耳朶を打つ。
ご褒美としては確かにやるべきだろう。
けど––––
「……甘えられるの嫌?」
僕の中の揺らぎを敏感に感じ取ったハツカは残念そうに訊ねる。
「嫌ではないんだけど、なんかイメージが出来ないというか。想像できないことって無理なんだと思うんだよ」
「僕が甘えてるのはそんなに可笑しい?」
「……ハツカが俺に甘えてるのがおかしいというか」
その姿がどうしても思い描けなかった。
逆なら簡単に思い浮かべることが出来たのだが、どうしてだろうか。
「それは僕の方が大人だから?」とハツカは再び訊ねてくるが、そうではない。必要なら多分できる。キョウコさんや、ブラック勤め時の
大人だからとは限らないと伝える。
「まぁ、僕は出来てる大人女子だからね」
「……だから大人とか関係ないって」
前から思ってるけど大人女子ってなんだよ。
どこか諦めた様子のハツカと向き合っているのがバツが悪くて、とりあえず埃っぽくなった雰囲気を断ち切りたくて話題を変えることにした。
「それに甘やかすんじゃ、ご褒美になるよね?」
ギクッとハツカが強く肩を震わせた。
やっべぇ……と口ほどに物を言っている瞳が、僕から逸れてあちらこちりと動き回っている。額には焦りで汗が垂れ始めている。
「まず僕との賭けに負けたの認めてたよね?」
「……」
「それはどうでも良いとしても、大体甘やかすのをレクチャーするために様付けなんて必要ないよね?」
「…………そっすね」
「断罪されるかもってなった時のナズナさんの顔は?」
「良かったです」
「そこは嘘でも違うって言えよ!」
「僕は良いと思ったものに嘘はつかない!!」
「開き直るな!!」
もはや問答するのがめんどくさくなったと言わんばかりに、胸を張って答えるハツカには澄み切った清々しさがあった。そこまで言い切られると、まるで僕の方が悪いように思えて来てしまう。
そんなことは決してなく、僕はしっかりと罰を与えることにする。
「やはり仕置きは必要なようだな」
「僕の趣味が悪いものだっていうなら受けて立ってやろうじゃないか」
「なら、ハツカが思う一番嫌なお仕置きさせてもらおう。せっかくコウ達がイチャついてるんだ。嫌なことを終わらせてから戻りたいよね?」
「……いいよ」
ハツカは神妙な面持ちのまま、僕の背後に回る。恥ずかしさなど感じない堂々とした足音が数歩響いたと思うと、ガサガサと雑音が下にさがっていく。見れば、四つん這いの姿勢になってハツカが待機していた。身体を支える腕と脚の周囲の床は、ハツカのそれを一回りほど太くした分だけ埃が取り除かれていた。目敏い奴だ。時葉の服などに絡め取られて汚れがなくなったのだ。
「ほら、早く座ってよ」
僕はハツカに促されるまま腰を下ろす。
「なぁ、ハツカ」
「なに?」
「今日帰ったら甘やかせばいいんだよな?」
イメージはできないけれど、対等な存在となるにはキチンと片方に偏るだけではダメなのは分かっている。立場としては、この座る側と座られる側の逆転のそう大差ないはずなのだから。
「うん、そうだよ」
嬉しげな声が空虚な部屋を満たしていく。
大事なことなのだ。
結局はトライアンドエラー。
俺が俺であるためには、間違えてはいけない選択肢だと思うのだ。
☆
俺たちがいるのはとあるファミレスだ。
そこに特別な意味はない。昨日遊んで、その帰りに今日も遊ぶ約束をした結果、深夜に差し掛かろうとするほどに遊びこんでしまったただの中学生である。
返信が返ってきていたラインのメッセージ画面と睨めっこしていると、対面に座っている飯井垣が身を乗り出してきた。
「応野、吼月からの反応はどうだ?」
「『マヒルとのセッティングできたら連絡する』だって」
「なんか、押し付けてばっかりで悪い気がするな」
「だとしたら、自分たちで声をかけるべきなんだろうなぁ……」
そんな勇気など持てるはずもなく、縋るしかなかったわけである。
マヒルに嫌われた原因が自分たちにあるのは薄々と分かっていたことで、だからといって修復が効くものでもない。
それでも謝ることだけはしておいた方がいいのかな。そう思っただけのことだった。
「………それはともかくさ」
「なんだよ」
「アレのことは伝えておかなくても良いのかよ」
飯井垣が指を差した方向から怒声が聞こえて来た。
それはしっかりと『吼月』という響きを伴っていた。