よふかしのあじ   作:フェイクライター

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第九十八夜「舌に揃えておきなさい」

 煩わしい木目の蓋が霞んで見える。等間隔に空いた隙間から覗くのは、長年懲りずに清潔感を保ち続けている白いベッドだ。薄暗い中でもはっきりと分かる潔癖は誰にも使われていない証拠であったし、すでに温もりの一欠片も残ってはいない。

 

「うー……」

 

 寝起きで潤んだ眼を擦る。それだけで頭の切り替えができて、『出るか』と意識が外へと剥き出しになった。

 キクさんと遊ぶようになってからは朝から寝床につくことが増えた。最初は夜中に凄く身体が熱っぽくなって怠さを覚えたりもしたけれど、それを一ヶ月以上続けていると異変も収まった。

 真昼なんて名前だが、身体は躊躇いなく夜へ迫っている。

 小学生の頃から変わっていない2段ベッドの狭苦しさから逃れようと、折り曲げていた脚を皮切りに抜け出した。背の低い天井に頭をぶつけないよう気をつける。

 足早にドアに近づいて顔を出す。目の前を横断する通路の右側を陽の光が照らしているが、取り入れているリビングからは気配というモノを全く感じない。恐らくふたりとも一階の花屋で働いているのだろう。

 反対側にあるのは玄関。家主たちを守る最初の防壁であるはずのそれは、鍵をかけられておらず役割を果たさずにいた。鍵が壊れているわけではなく両親(ウチ)の方針である。

 

「はぁ……」

 

 リビングに入る前の障壁に俺は足を止める。立ちはだかるのは、風に揺れるだけでもジャラジャラと音を立てる珠の暖簾だ。素早く来訪者の存在を伝えるためのビーズカーテンだが、役に立った姿を見たことはなく、雑音を発する異物でしかなかった。

 意識を閉じて潜り抜ける。壁にかかった昔ながらのシンプルなクォーツ時計は、14時直近を指し示していた。

 

「16時まで時間はあるか」

 

 放課後の約束まで暇だ。

 

「別に守る必要なんてないんだよな」

 

 刻々と進み続ける秒針は行って戻ってきてを繰り返す。昨日はキクさんを話題に出されて行くべきだと思考が固まっていたが、ここで関係をリセットしたとしても時間が経てば妙な興味を抱かれるかもしれない。堂々巡りをするだけでメリットなど本当はない気もする。

 いや、そうじゃない。

 ショウは毒を吐け、と言った。

 関係をリセットするということは、アイツらから縁を断ち切らせる必要があるんだ。

 

「終わらせよう。学校での立場なんて必要ない」

 

 花が活けられた花瓶だけが置かれた木製のテーブルから、綺麗に整えられたキッチンに眼を向けた。

 作るしかないか。

 金さえあれば外食という手立てもあるが、中学生のお小遣いでおいそれと手を伸ばすことはできない。多少の苦心を味わう程度であれば、キクさんとの時間に金も費やしていたい。

 

––––起きたばっかりだし、トーストとコーヒーぐらいで良いだろう。

 

 簡素なものしか食いたくない。冷蔵庫の中身なんて覗きたくない。

 マーガリンを塗った食パン2枚をトースターに置いて、電力とタイマーを設定して放置する。ルーティンとかした作業なだけあって見張っていなくても問題ない。

 ケトルで沸かしたお湯をインスタントコーヒーの粉末を入れたコップに注ぐ。

 遅すぎる朝食をテービルに広げた俺は椅子に腰を下ろす。

 

「今日こそはブラックで……」

 

 凶々しいまでに真っ黒な液体にゆっくりと口をつけた。

 

 

 口の中に残る苦味に舌を震わせていると、登校するのに丁度いい時間になった。

 登校するといっても最後の授業中–––それも終わり掛けだ–––に校庭に踏み入れるから出席にカウントされることはない。今更学校生活に未練はないし、中学は義務教育だからその気になれば進級できる。テストが必要なら別に受かればいいだけだ。

 割り切ってはいるものの、誰かに見られると無条件に罪悪感が湧いてくるので、校庭に人がいないことを確認してから動く事にした。

 

「生徒会室は開けてあるんだったな」

 

 すでに登校しているショウからは、先に待っていて欲しいと返信が来た。ショウの奴はいつ寝ているんだ。コウたち(親友)以上に生活が心配な友達のことを思い浮かべながらスマホをポケットにしまい、誰にも見られないように一気に校庭を駆け抜け昇降口に入る。

 守衛もいないから侵入するのは簡単だ。

 靴を上履きに履き替えて生徒会室に向かう。遅刻も何度も繰り返せばどの時間にどの辺に先生がいるかも分かってくる。今日はショウから二年の時間割全て聞いているので見つかる心配など皆無だった。

 終業のチャイムを聴きながら、俺は生徒会室にたどり着いた。

 

「待つといってもな。めんどくさいなぁ」

 

 話し通り、客として俺を迎え入れるようにすんなりと扉が横に滑っていく。いつもの調子で長机を中央に車座で置かれているパイプ椅子のうち、ドアから見て右手側の真ん中を選んだ。

 ぼんやりと無意味に時間が過ぎていくのを待つのも勿体無いので、あいつらに言ってやりたい言葉を考える。

 

「…………、……?」

 

 考え出したところで、俺自身、なんて罵ったらいいか思い浮かばなかった。

 気に食わないのはずっと変わらない。少しでもあっちに不都合があれば悪者認定して問答無用で責め立ててくる。新しい奴だと一年半、長い奴だと五年の付き合いになるけれど、それが面倒だから上手いこといなしてきた。

 けど、限界があった。キクさんの眷属になると決めたタイミングが重なり、『楽しくないから』と拒絶した。

 

「もう嫌い、ですらないんだよな」

 

 居ても居なくても変わらない。なんだったか。ショウの人の良さにつけ込んで吸血鬼(こっち)側へ引き込む為に『友達いなかったんだ』と自嘲を装ったが、あながち間違いではなかったようだ。

 キクさんさえいればいいなら、他の人達は俺にとって無価値ということだ。だから、アイツらのことを突き放した時は、背負っていた重荷を放り出したようにスッキリした。

 この切り替えの良さを別のところで発揮したいモノだ。

 

––––嫌悪がないなら、何を叩きつければいい?

 

 かける言葉を見失い天井を眺めていた視線が地に落ちる。それと同時にガラガラと扉が開いた。肩肘を張る必要はないにも関わらず、姿勢を正してしまうのは、何をすればいいか自信がなくなってしまったからだろうか。

 できれば第一声くらいは決めておきたかったが––––後悔するマヒルは、すぐに肩の力を抜くことになる。

 

「倉賀野さん?」

「あら、お早い到着ね。(セキ)くん」

 

 豪奢な金の髪を靡かせながら入ってきたのは、生徒会の副会長でありショウの親友の倉賀野理世だった。戸惑ったのは突然の来訪者なだけでなく、自分の知る限り自信家でムードメーカー的なスタンスの彼女が凄く凛とした表情を携えていたのだ。見たことがない顔にギャップを感じてしまう。

 

「隣、貰うけど構わないよね」

「え、ど……どうぞ」

「お菓子あるけど食べる? ショートブレッドなんだけどね。この間––––」

「いえ、お構いなく」

 

 倉賀野は『そう』––––と肩を落として見せたあと、何食わぬ顔で右隣のパイプ椅子へ回り込んでくる。その足音が背後で鳴る時、まるで燦々と輝く太陽の力を目一杯浴びた果実のような爽やかな香りが鼻腔を通り過ぎる。

 香水とはまた違う気がする無垢な香りが自分の隣を陣取る。前を見ていても視界の端にくっきりと黄金の輝きが映る。

 

「ち、近くないか」

「いいじゃない。今日は貴方の味方として出来たんだから」

 

 耳周りで少し微笑みから漏れる吐息がかかる。

 

「応野たちは複数人、けど貴方はひとりきり。ショウは仲介役として片方に肩入れはしない。だから、私を呼んであなたに加勢させたの」

「そ、そうなんだ……」

 

 身体を俺に寄り添わせてほどの距離で囁き始める倉賀野から体を逸らそうとするが、逃さないという無言の宣言で太腿に置いていた右手の上にしなやかで繊細な白い手のひらが重なる。

 わずかな抵抗として顔だけ左を向かせる。

 

「なんで逃げるの?」

「逃げてない」

「だったら顔赤いのはなんで?」

 

 吐息が更に近づいて、右腕には柔らかい物が当たる。肩周りに押し付けられた倉賀野の最も女性を象徴する部位が、俺の体温を急激に上昇させていく。

 

「赤くない!」

 

 喉が悲痛に震え、叫びをあげた。

 おっ、と––––飛び退くようにパイプ椅子を傾かせて、倉賀野は俺から距離を取った。

 

「夕くんってまだまだ初心なのね」

 

 自分の免疫の無さに嫌気がさす。キクさんが好きなのにも関わらず、ただの同級生に迫られただけで赤面してしまうとは。相手は吸血鬼ですらないただの人間なのに。

 キクさんに土下座してでも謝りたいぐらいだった。

 大きな胸を押し付けられた程度で視線を吸われるなんてコウみたいな真似を––––

 

「そんなに見つめちゃってぇ……好きになっちゃった? 私の胸」

「え、あ、ごめんなさい!!」

「誰に謝ってるのよ。わたし? それとも好きな人?」

「どっちもだよ……!」

 

 試すような微笑に歪む唇を舌で潤す倉賀野に、俺は眼を伏せがちになりながら縮こまる。セクハラだ。照れるところを存分に味わい尽くされた気分になって、顔を伏せるしかなかった。

 だから、彼女が口にした違和感に気がついたのは少し遅れてからだった。

 

「なんでキクさんのこと知ってるの?」

「それが好きな人の名前なんだ。小野ちゃんが言ってたわよ。女の人と何処か行くの見たって」

「……アイツらもそんなこと言ってたな」

「安心しなさい。あの子、肝心なことは私にしか伝えてないし、口止めもしておいたから」

 

 キクさんのことが広まっていないと知って、安堵の息を吐き出した。

 だとしたら、余計に目の前の女子がやってきたことが気に食わない。

 

「知ってるならなんで誘惑してきたんだよ」

「好きな人がいるほど面白いもの。それに夕くんって可愛いし」

「可愛いって。お前が好きなのはショウだろ? 他の男に色目使うのはどうなんだよ」

「隣にいて欲しい人と愛でていた物は違うでしょ。私としては三人セットで飼い慣らしてあげたいくらいだったわよ」

「三人?」

「貴方と夜守くんとアサちゃん」

「おま、お前ッ……! 俺たちのことそんな目で見てたのか!?」

「見てたわよ。せっかく大勢が会する場所だもの、欲しいと思ったものに手を出すのも悪くないわ」

 

 吸血鬼以上に拙僧の悪い女が居たものだと驚愕しつつ、『身体を触らせるなんて誰にでもやっていいことではないだろ』と忠告する。

 

「俺じゃなくてショウに誘惑しろよ。好きなんだろ」

「ふっ、馬鹿ね」

 

 鼻で笑いながら扉を見つめる。ショウたちが来るのか、と身構えたが続く言葉で俺は憐れみを瞳に乗せる。

 

「ショウにやれるだけの勇気があればフラれてないのよ」

 

 見つめていたのではなく、現実から眼を逸らしていただけである。肩を落とす姿が先ほどまでの強気な印象を綺麗さっぱり捨て去った。

 まるで未来の自分を幻視したようだ。

 倉賀野がいたたまれなくなり、落ちた肩を撫でるような声で言う。

 

「そ、そうか……なんか、ごめんな」

「貴方も頑張りなさいよ。捨てられないようにね」

 

 捨てられることはない––––と言いたいが、彼女の一言で確かな焦燥感が胸を焦がす。

 

「まぁ、貴方たちを可愛がりたいのは本当よ。アサちゃんは中学になってダウナーな陰の良さも出てきたし、ふたりは私の好みにピッタリだったし」

「本当じゃなくていいから」

「本当に好きなモノを口にするのはいけないことかしら?」

「だからって他人に口にしていいことと悪いことがあるだろ」

「夕くんにその判断がつくっていうの? 好きを公然とできずに黙ってる貴方に?」

 

 倉賀野の物言いにムッと不快感が押し寄せるが、だからと言って否定できるわけでもなかった。バラすわけにはいかない秘密はある。キクさんが吸血鬼であることがそれだ。

 だとしたら––––

 俺は話題を逸らそうと別の思考に切り替えて……倉賀野の好みといえば、ショウな訳だから……

 

「それにしても、俺たち別に極端な善人じゃないぞ?」

 

 俺が訝しむ表情を携えて訊ねれば、倉賀野は面喰らったように苦笑のまま停止すると、口元に手を当てて上品に笑ってみせる。慇懃無礼と言わんばかりに丁寧で、コチラを嘲るようにカタカタと嗤う。

 

「違うわよ。私が好きなのはね––––」

 

 空気を啄むように小さく口が動けば、それだけで意識が彼女へと集中する。すでに俺たちとショウの共通点に耳を傾けていた。

 

「無理にでも頑張ってる子よ。特に、障害があろうと前に進もうとしてる子がね」

 

 いつしか合わせていた瞳は、心を照らし返す穢れのない湖を思わず輝きを放っていた。純粋な光を放つ瞳を見るだけで、自分の意思が読み取られるのではないかと怖くなる。

 

「夕くんは今回のショウのことどう思ってるの?」

「別にあいつのことはどうも……」

「うそ」

 

 倉賀野は強い語気で否定する。

 足を組んで、背筋を伸ばした彼女からは俺の本音を引き摺り出そうとする気迫が陽炎のように揺らめいてみえる。

 

「本当は煩わしいと思ってる。お節介だと。わざわざ俺に言わず突っぱねて欲しいと思ってる」

 

 澄んだ心模様が一瞬で心を毒する曇天の夜空に様変わりする。

 それを見るだけで本当は––––いや、そうかもしれないと確信めいた意思まで宿ってきた。

 

「でも、アイツは俺のこと心配してくれてるわけだし」

「関係ないわよ。救える(人助け)無為な救済(おせっかい)かを決めるのは助ける側じゃなく、享受する貴方よ」

 

 どうして、好きな人の優しさをそうも易々と否定することができるのだろうか。

 

「ここに来たのだって、状況に流されて仕方なくだったりしない? 例えば、彼女さんに迷惑がかかるかもしれないから、関係は絶っておいた方がいい……そんな風にショウに唆されたりとか」

 

 昨日のやりとりを見透かされて小さく肯首する。

 

「本当にここに来る意味あるの」

「……分からない。ショウが言うような、アイツらに吐ける毒が俺の中にはない」

 

 顎を下げるとスルスルと思っていたことが垂れていく。

 

「流されたのはそうかもだし、アイツらとは関わろうとすら思ってなかった。でも、やった方がいいと思ったのも事実なんだよ。俺のせいで好きな人が陰口を叩かれるのは嫌だし」

「……」

 

 自分のこと以上に大切な相手だ。

 嫌なことぐらい我慢できる。

 倉賀野は暫く口を噤んだあと表情を崩す。

 

他人(ひと)を愛する者としては一流。でも、自分(ひと)としては三流以下ね」

「三流……」

「でも、嫌いじゃないわよ。無理してでもやろうと相手に尽くそうとするところ」

 

 その時、倉賀野が浮かべた表情は笑顔とは違う。相手を心の底から褒め称える表情で、なにか特別なことをされたわけでもないのに自分やキクさんの全てを肯定された気分にすらなった。

 慈母の顔つきが––––母の顔つきなんて全く覚えていないけれど–––––今の倉賀野に相応しいと思えてくる。

 葡萄色の瞳が翳り、黒く染まったそれが理解できないと問いかける。

 

「でももっと輝けるわ。あなたの想いに間違いなんてないんだから、応野たちに胸張って言ってやりなさい」

「……アイツらは関係ないだろ」

「関係あるわ。貴方を中心に廻っている以上、あなたの全てが意味を持つもの」

 

 倉賀野はスマホで呼び出しベルを鳴らす。

 

「三分間待ってあげる。あなたが何より優先したいもの、舌に揃えておきなさい」

 

 

 

 トゥルルトゥルル……

 

 

 

 

 

 ……トゥルルトゥルル

 

 扉をノックするような小気味良い着信音が鳴り、倉賀野から開始の段取りが済んだと知らせがあったのが3分前。それまでは話を持ちかけてきた応野と飯井垣と共に教室で待機していた。

 仲直りほど難しいものはない。仮にマヒルとコウならば本音を吐き出せば元に戻るかもしれないが、応野たちは仲良くないから気楽に終わらないだろう。

 俺個人としては、勝手にやってて欲しい。

 もっとも、都合が良かったのは問題の本体である皆川と真鍋がいない分すんなりと話が終わりそうなことぐらいであった。蒼の晩飯も作りに行きたいし、何事もなく終わってほしい。

 

「俺がやるのは引き合わせるまでだからな。その先は自分たちでなんとかしろよ」

「上手いこと元の鞘に収まるようにしてもらえたりとかは……?」

 

 生徒会室までの道中で俺がやれる限界をふたりに再確認させていると、飯井垣が機嫌を伺うように訊ねてきた。その腰の低さたるや、裁判所で判決を言い渡されるまえの罪人のようだ。

 

「無理だ。他人が口出して直るもんならとっくに直ってる。第一、また関係が拗れたときにも俺に泣きつくのか? 自分で仲良くしようと思っていないならマヒルを帰らせるぞ」

「うっ……」

 

 俺がきっぱりと言い切ると飯井垣は狼狽えながら日が傾き始めた夕焼け雲を見ている。

 首を反対に回し、飯井垣の隣で無言を貫く応野にも了解を取る。

 

「応野も問題ないな」

「ああ」

 

 答えとして端的であり、同時に中身がないものだった。

 

「……」

 

 中身がない理由は明白だ。

 応野の意識が別のことに向けられているのが、視線を受ける背中からひしひしと伝わってくる。

 

––––しかし、なぜ俺なんだ。

 

 俺と応野はクラスメイトでそこまで仲は深くない。遊んだのだって土曜日で二度目なのだ。マヒル以上に俺が注意をひくことはない。

 にも関わらず、背筋を撫でる視線はやまない。

 

「……はは」

 

 窓にうっすらと映る飯井垣も応野に眼をやったあと、俺を見つめていて苦笑いを浮かべている。

 なんなんだ……もう……。

 鬱陶しさが冷めないうちに生徒会室が見えてきた。

 

「ほら、行くぞ」

「……おう」

 

 飯井垣は神妙に、応野は無言で頷いた。

 中に入るとそこには気怠そうなマヒルと、頬杖をつきながら彼を見守る理世の姿があった。

 

「よっ、ふたりとも」

「昼ぶりね。ほれほれ、ようやく本番が来たわよ」

「……」

 

 会話のきっかけを作ろうと俺と理世が言葉を結ぶが、肝心の三人は無言のまま対面に座る形で応野たちがパイプ椅子に腰を下ろす。俺は双方の顔が見える位置で席に着く。

 椅子が擦るたび乾いた音を広がる床。ひとり分の体重を受け止めてガチャガチャと鳴るパイプ椅子。それらを動かしているはずの人間の息遣いは聞こえてこない。

 飯井垣に眼をやれば居心地が悪そうに息を潜めているし、応野はマヒルを見つめるだけだし、マヒルに至ってはもはやここにいる価値がないと言わんばかりに遠い眼をしている。

 唯一目が死んでいない理世と俺の視線がかち合う。

 

『虚無ね……』

『面倒事に巻き込んですまん』

『今度パフェでも奢ってもらおうかしら』

『にしてもどうする? 俺、こういう経験あまりないんだけど……』

『だから、私に頼ったもんね。話し出すきっかけが仲直りでは鬼門だし』

 

 アイコンタクトだけで意思疎通をはかりながら、凍てついたままのこの状況を打開するために話し合おうとする。

 

『飯井垣に話させるか? いま一番メンタル弱ってるのアイツだろ』

 

 質疑のように会話の順番を回してやれば否が応でも口を開かざるをえなくなる。ふたりにはマヒルをどう呼んだのか–––星見キクのことを除き–––大方伝えてある。

 しかし、俺を制止するように理世は目だけを横に振り、おもむろに視線を別の場所へと固定して、待つことを求めてきた。

 

「悪かった。マハルのこと好き勝手扱って」

 

 真っ直ぐに謝意を届けようと張った声が静まると––––応野は深々と頭を下げた。

 思わず面食らってしまい、視線を理世へと戻した。

 ニヤリと笑ったその口元を見て、応野が先に非礼を詫びると分かっていたのだと悟った。理世がなぜ応野が謝罪すると分かったのかは定かではないが、それでも一歩前進したことは間違いなく、

 

「ごめんマヒル、俺も悪かった! 勝手にマヒルの名前使ったり、隠れて悪口とか言ったりして本当にごめん!」

 

 追随した飯井垣の頭が机に当たりゴツンと音を鳴らす。

 ただそれだけだ。

 無言––––でも、よい無音だと俺は思う。

 謝罪に対価を求めないノルマ的な行為。

 だからこそ意味がある。

 

「……」

 

 人の心なんて吸血鬼ぐらいでなければ分からないし、謝罪に何の意味はない。

 謝罪が意味するのは双方が分岐点に立ったこと。

 許そうが怒ろうが決定権はどこまでもマヒルにある。許されるか罰を受けるかは応野たちの心の中にはなく、どちらへの背中を押されるか佇む事になる。

 そして、きっかけを待った沈黙よりも長い思考の末。

 

「そうか、別にいいんじゃないか」

 

 マヒルのどこまでも平坦なものだったが、罰することもせず許すこともしないものだった。分かりきっていたものだった。マヒルは既に彼らの抱える問題など脇道に捨てていた。

 

「俺はお前らといるよりも楽しい相手を見つけたから遊ぶのをやめた。それだけで、恨みつらみだとかそんなものは持ってない。だから悪口を言うこともできないし、嫌いになり続けることもできない」

 

 こちらから関わる理由はない。

 ––––遠回しな宣告。

 今以上に自分のために時間を割く必要はない。

 ––––優しげな表明。

 既に文言が決まっている契約書を読み上げるかのように、つつがなく終わりに向かうだけの言葉である。それが悪いと思うならばここで反抗すればいい。文句を言って、擦り合わせていけばいい。

 あげた二人の顔には特段失望もなく、感傷を持ち合わせていない。それどころか憑き物が落ちたかのように顔色が良くなっている。

 

「これで終わりだな。マヒル、わざわざ呼び出して悪かったな」

「ああ、できればこれを最後にして欲しい」

「会ったら挨拶ぐらいはするつもりだぞ」

「まぁ、それくらいなら」

 

 あっけない幕切れだが、祈った通りになってくれてひとまず安心した。

 

「……あのさ、最後にひとつ聞きたいんだけど」

 

 訪れつつあった静寂が広がりきる前に飯井垣が口を開く。

 

「その楽しい人ってだれ?」

 

 今の関係を再確認する問い。

 流れは話に沿ったままだ。元友人としては、自分たちより優先したい相手が如何程のものか知りたいのは当然の欲求だ。捨てられるのも最もだと言える相手ならば、より踏ん切りがつきやすく……けれど、マヒルが星見キクの存在を明かしたいかと言うと。

 どう返事するかと期待したくなるマヒルは、なぜか理世から揶揄うように、促すように肘で脇腹を小突かれていた。鬱陶しそうに膝を右手で払い除けると、マヒルは顔を淡い赤色に染める。

 

「す、好きな人」

「えっ」

 

 ふたりは揃って幻聴を聞いたのか、当惑をこぼすと一度視線を天井に逃して呆然と見つめた。苛む困惑は衝撃からなのだろう。二人から漂う雰囲気も、さもありなん、として俺は苦笑いを浮かべた。

 それでもひとり、理世だけは悦に浸るように自慢げ。

 ただ時間を置いても理解できない様子の応野たちを見て、流石に呆れてきたのか理世はどっさりと深くパイプ椅子に腰を置いてから小指を立てた。

 

「鈍いわね、これよこれ」

 

 理世の仕草でようやく現実を受け入れたふたりは、困惑の色を隠すつもりもなく息休めとして太息を吐き出す。

 

「マジか。マヒルに彼女か」

「なるほど……」

「なんだよ。俺は好きな女の人がいて悪いのかよ」

 

 不快感を隠す事をしないマヒルに応野たちは慌てて『違う違う』と必死に否定する。

 

「そこはおめでとう、お楽しみくださいでしかないんだけど」

「いいなぁ……彼女……」

 

 話を噛み砕くようにして納得していく応野の隣で、羨望の眼差しをマヒルに投げつけていた飯井垣がおもむろにこちらを見た。

 

「なぁ、吼月」

「なんだよ」

「女として俺と付き合ってよ」

「断る!!」

 

 

 

 一人の女性がジャラジャラと音を立てながらビーズのカーテンを潜った。周囲を一瞥したのちに、そのまま冷蔵庫へと向かう。

 スッと身体に染み込む冷気が真正面から流れ込んでくる。その冷気が数を抑えていたモノに女性は眼をやって、それがなくなっていないことに落胆した。

 一つの皿に盛り付けられた朝食を見ながら、沈鬱に呟き、嘆きの色を顔に滲ませるのは–––––

 

「……正午」

 

 マヒルの母であった。

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