振り抜いた手のひらがジンジンと傷んでいる。目の前には僕の手と同じぐらい痛々しい赤がくっきりと残ったショウくんの頬がある。
なぜキミはこうも一人で暴走してしまうんだ。
一言だけでも言って欲しい。
なんで僕に相談せずに突き進んでしまうんだ。
いや、なんら不思議ではない。あったのは一度の忠告だけで、それからもまだ日が浅い。僕の想定が甘かっただけなんだ。
「ショウくん。今回の、これだけは絶対にダメだよ」
「殺人だからな。ちゃんと責任は取るよ」
掴んだ首が震えて、か細い声が絞り出される。
まるでこちらの気持ちを全て汲み取っているような表情で僕を見つめた後、背後にいるキクちゃんへと視線を投げた。その視線は異様に鋭くて何を想っているのか、僕には分からなかった。
また【俺のルール】というやつだろうか。
そうじゃない。
潔く罪を認めろとか、そんな事を言ってるんじゃないんだよ。
お願いだから、ちゃんと話をしてくれ。
お願いだから、僕のことを見てくれ。
「ずいぶんとヤンチャな子を持ったわね、蘿蔔さん」
まるで慌てる僕をなぐさめる口調でキクちゃんが声をかけてきた。
「……そうだね」
ヤンチャ、か。
酷く安い言葉だと思った。
振り返り、ナイフを拾っていたキクちゃんの表情を見て––––ゾワリと体が震える。
綺麗な湖のような吸血鬼ですら美しいと思ってしまう微笑みを浮かべている。それが突き抜ける
怒っているとはまた違う。
「そうだ」
キクちゃんは優しく手を鳴らす。
「近くに知り合いのお家があるの。せっかくならそこで話さない? もちろん三人でね」
「家……?」
「いくら人通りが少ないとはいえ、吸血鬼だってバレるわけにはいかないでしょ」
「ダメだ。話すなら俺とアンタだけだ」
「いやよ。危ないもの」
それだけ言って、キクちゃんは背を向け歩き出す。
「行くよ」
「バっ……」
首を縦に振るのを見届けずにくるりと回ったのは、僕がその提案を呑むと分かっているからだ。同じ吸血鬼である以上、何に警戒するべきかは共通しているはずだから。
にしても、キクちゃんに家を貸してくれる友達なんていたんだな。
歩き始めるとショウくんが囁きかけてきた。
「……ねえ、星見キクにバレないように聞いて」
無視しようと思った。周りの人を傷つける独断専行をとったのだから、それくらいはまずしないといけない。
しかしその声色が先ほどの堂々とした態度とは一変しており、あまりにも小さく怯えるように震えていて、一瞬、神崎に殴られている時の姿が過った僕は返事をしてしまう。
「なに」
ショウくんが求めたように小さく答えてしまった。
「俺の血を吸って」
「このタイミングで何言ってるの。ダメに決まってる」
「…………だったら信じてよ。証明してみせるから」
「なにやってるの〜〜、こっちだよ」
キクちゃんの声がして見てみれば、話していたからか距離ができている。
彼の願いに答えを返すことなく、僕はズカズカ前に進んでいく。僕は無理があると言いたかったんだ。これ以上好き勝手したら、僕らの立場は危うくなるのもあった。
「急ぐよ」
「……用心だけはして。お願いだから」
ショウくんの腕を掴んで、連行するような形で彼女の後を追っていく。右に曲がったり左に曲がったり、あみだくじのような道のりを進んでいく。ショウくんはその後特に抵抗する素振りを見せないから、苦もなく目的地である一軒家に辿り着いた。
暗闇に支配された家からは、やはり人の気配がない。
まるで見た目だけ綺麗に整った幽霊屋敷にキクちゃんは笑顔で僕らを招き入れた。
家の中に入ってもそうだった。キクちゃんは、まるで誘導するかのように自ら扉を開けては僕たちが通り抜けるのを待った。電灯のスイッチの在処も知っていて、彼女に馴染みがある場所なのは明らかだった。
「こっちがリビングだよ」
明るくなった部屋は、これから生活感を色付けるかように新品の家具ばかりが並んでいた。月明かりすら入らなかったのは、雨戸がされていたからだ。見た所、その窓には内窓まである。
荒れのない夜空には不似合いな強固な装いに僕が首を傾げていると、突然、手の中にあった温かさが消えた。
「ショウくん、なにして––––」
その手は彼の腕を掴んでいたから、きっと『いいかげん離せ』とでも言いたかったんだと思った。図々しいことが言える立場か。僕は反抗する力に叱りつけてやろうとして、首だけを後ろに捻った。
「––––ッグウ」
次の瞬間、呻き声と共に床を転がるショウくんを見た。
その奥には変わらない笑顔で左脚を浮かせたキクちゃんがいた。
☆
リビングに入った途端、空いていた腕を無理やり引かれた。
思考が飛びそうだ。
けど、なんとか意識を保つ。慣れてたおかげだろう。
左の指先が服の端に触れる。
しかし、掴めない。
「ゥッヴ」
吸血鬼の脚力ともなれば内臓が万力で押し潰されたかのような苦痛を引き起こし、それが瞬く間に全身を駆け巡る。
何度か床に体を打ちながら、テーブルの下を転がったタイミングで受け身を取った。あとは減速しながら身体を転がして、窓際で止まる。こちらの表情が見えないように体を丸くして、俺は次の展開を待つ。
「キクちゃんなにしてるの!?」
声を荒げたのはハツカだった。
けれど、星見キクは柔らかい声で返す。
「大丈夫。この家、防音しっかりとしてるから。あの子がどれだけ喚いても近所には聞こえないよ」
「話をするって言ったよね! それに相手は人間だよ!?」
「そうね……人間にしては頑丈よね。それなりに力入れたから、血反吐を吐くぐらいはするかなと思ったけど」
「何言って」
ハツカの怯えた声を裂くようにゆっくりと足音が近づいてくる。
遅いせいか鼓動がやけに速く、多く感じる。鼓動が鳴るたびに口の中に酸っぱく鉄くさい液が戻ってきて、それを必死に押し戻す。
「貴方だってこの子に悩まされてたんでしょ? さっきの様子だと初犯じゃなさそうだし」
「それは……そうなんだけど、でも」
「壊さないから安心して。すこーしキツく言い聞かせるだけだから」
彼女の話を聞いてまずは一安心。星見キクは今回の騒動にハツカが関わってるとは考えていないようだ。
足音が真後ろでやむと肩を掴まれて、無理やり仰向けの状態にさせられた。必然的に目が合う。
「責任、取るんでしょ?」
ガラス玉の瞳。生気のない眼がそこにあった。
口元だけ笑いながら俺の服に手をかけた。
「ちょっーと体触らせてもらうわよ」
「触るな……!」
「拒否権なんてないよ」
星見キクはポケットに入っていたスマホや財布などを傍に放ると、上着をめくられて、俺の腹が外気にさらされる。露わになった腹部。鳩尾と呼ばれる部分にはくっきりと青痣が残っていて、彼女は満足そうに頷きながら指先で撫でてくる。
思った以上に深く突き刺さっていたらしい。軽く触れられただけでも痛みで脳が揺さぶられるが、呻くだけで相手を楽しませるのは分かるからじっと堪える。
指先で痣を弄びながら彼女は言う。
「吼月くん。大人を揶揄うのも、好き勝手暴れるのもダメな事なんだよ」
まるで子供を諭すような声色だった。
けど、やったことがやったことなので今の俺に反論するつもりもないのだが、この女にだけは言われたくねえなと思ってしまった。星見キクがやってきた事を思い出したのもそうだが、交えた瞳が中身のない水晶で、優しい声が虚構だと分かったから。
「返事は?」
「ぃぎぃ」
「もっと大きな声で言いなさい。どうせ聞こえないんだから」
不満が見透かされたようで今度は指ではなく手のひらで痣を押し潰される。内臓がペースト状になってしまいそうだ。
「だいたいね……
「……コウが言わなかったら、吸血鬼だって事も隠し続けてたくせになにを」
「話してるのは私なの」
「色んな吸血鬼から聞いてるよ。アンタは今まで自ら眷属にした相手に、吸血鬼のことを告げずに消えてるってな。タイミングなんて言葉、信じられないね」
「こそこそ嗅ぎ回って……なに? 貴方は吸血鬼殺しの仲間なの?」
「違うな。俺は俺のルールで動いてる」
自分の思い通りにことが運ばないと苛立つ性分なのか、口を交わすたびにお淑やかな微笑のまま鳩尾を押す力を強くなる。
星見キクは口を開く。目線は俺に、けれど声の先にいるのは俺じゃない。不味い。
「蘿蔔さん、この子のスマホ取って」
「……」
「早く取ってよ」
「だったらショウくんから手を離して。辛そうだよ」
何も言わなくていいから。
お願いだからこっちに踏み込むな。
優しさなんて俺にはいらないから。
今は傍観者でいてくれ。せめて星見キクの味方でいてくれ。
「ダメよ。ここまで反抗的な子はもっと教育しないと」
「いや……ほら、マヒルくんに襲いかかったのだって本気じゃ」
「そんなこと分かってるよ」
視線を俺から切って、ハツカに繋ぐ。
「刺したいなら声をかけずに奇襲をかければいい。なのに、わざわざ私の評価を落としてから攻撃したってことは、目的はそういうことなんでしょ?」
ナイフだってわざわざ私の前を通る右手で持ってたし。
そう付け加えてから、立ち上がって俺の鳩尾を踏みつける。ハツカが下手にこちらに手出しをしないように、首だけを捻り顔を隠す。
「甘くなったわね……貴方だって踊らされてるのが分かってないの?」
「どういうこと?」
「吼月くんの想定を借りれば、さっきの状況は私の眷属らしい子がマヒルくんの命を奪えた。知らない
マヒルくんを支えたのが貴方なら別だったんだけどね」
ハツカが懐疑の視線を浴びせてくるので、俺は肯首して星見キクの言い分が合っていることを伝えた。俺から星見キクを引き剥がすならハツカの方が確率が高いと思っていたからだ。
流石は齢数百歳。
「……」
何を言うべきか迷ったように顔を歪めたハツカは、唇を固く閉ざした。
これで星見キクにとってハツカは同情の対象だ。
「ませた子供って嫌いなのよね」
星見キクはスマホのカメラで俺の顔を捉え、ロックを解除すると、なにかしらの操作を始めていた。
「
どうやら電話帳などを見ていたようだ。名前の出所は名刺からか。事前に『キョウコさん』と本名だけにしていたからバレはしないが、歯噛みするしかない現状だ。
「本当に吸血鬼殺しと繋がってないなら余計に分からないわね。もしかして本当に恋路を邪魔しにきただけ? わざわざ友達や蘿蔔さんとの関係まで捨てて?」
「邪魔ね……」
「私の過去をバラしておいて邪魔じゃないなんて宣わないでしょうね」
「邪魔しているとしたら俺ではなく、アンタ自身だろ」
「よく強気で居られるわね。貴方に味方なんていないのに」
俺の言葉に星見キクの目の端がピクリと動き、口の端が苛立ちに従って吊り上がる。足蹴にされた腹にはより強く重い力がかかり、彼女は煮える煩わしさを誤魔化すように俺が苦しむ様を愉しむ。
けれど、やられるだけでは終わらない。
「アンタが自分のしてきたことから逃げた結果だ。親としての責任すら果たさずに消えて、多くの人を悲しませた事実が目の前にある」
「それを選んだのはあの子達よ。全員が私のために全てを捧げてくれた」
––––話し通りだな
「捧げさせたわりにはすんなり捨てるくせによく言うよ」
睨み合いを続けていると、星見キクは鬱陶しそうに俺の腹から脚を下ろして自身の髪に手を突っ込んだ。
そのまま彼女はハツカへ苛立ちを投げかける。
「うるさいわね、ホント耳障りだわ。ねえ、いい加減蘿蔔さんも手伝ってよ」
「……分かった」
「自分の
「待て」
訳のわからん理由までこじつけやがって。
ハツカが見下ろしながら近づいてくる。星見キクは両手を背面で……ハツカには見えないように手を組んだ。
ふたりの瞳はどちらも酷く冷たいものだった。構わない。それだけの生き方だったのだから、俺を見るそれは蔑むものでなくちゃならない。
罪は俺だけのものだ。
他の誰にも向けられていいものではない。
「待たない。流石の僕も君を守る気になれない」
「そうよね。自分を利用した子なんて徹底的に教育してあげないと、ね」
ハツカが俺に罰を与えようとする。
星見キクと共に俺を罰そうとしているのだ。彼はそのつもりだったに違いなかった。
だから、目に映る鋭い五指にやどる鈍色の輝きに俺は、
「来るなッ!!」
飛び出た叫びがハツカの足を止まる。
軋む体を叩き起こし強引に二人の間に割り込ませた直後–––何かが落ちる音を聞きながら–––視界を四つに裁断する真っ赤な痕が奔った。擦過したそれは吸血鬼全員が持つ凶器、爪だ。
「ッ––––!」
「しょ」
痛覚は麻痺したかのように何も感じず、自分がまた床に倒れたと言う感触がして、少し遠くでハツカの声がした。
小さかった声が、どんどん響いてくる。
「ショウくんッ!? ショウくん!!」
「もう蘿蔔さんは黙ってていいからね」
「あ”?」
傍でまた大きな物音がする。地を這う視線では何が起きたか分からない。
けど、ハツカだ。ハツカが倒れたんだ。
「はぁ……はあ……!」
両腕を使ってなんとか上体だけを起こすと、やはり俺のそばにハツカが事切れていた。息遣いは聞こえてくる。死んではいない。気絶しているだけだ。
その傍には俺のスマホと長髪のウィッグが落ちている。
「んっ。思ったより美味しいわね。貴方の血……」
顔をあげれば、星見キクは指についた血を微かに出した舌で舐めていた。
「これで対等だね」
「お前……ハツカに何をした」
「ダメでしょ。目上の人に『お前』なんて言っちゃ」
伸ばされたままの吸血鬼の武器が、そっとハツカの首に添えられる。星見キクが宿したい笑みは寒空のように、見ているだけでこちらの背筋を凍えさせる。
その笑顔は雄弁に語っている。
逆らったらハツカの首を刎ねるけどいいよね?
「……ごめんなさい、星見……さん」
「えらい偉い。じゃあ、そこに正座して」
自分の身体を見ると、左下腹部から右の肩口まで一気に四本の線が深々と刻まれている。上着は無惨に切り裂かれていて体を起こすだけでポロポロと布が落ちていく。黒地の布だというのに、より濃い赤黒いものが染み込んで変色させていた。
腕を欠損した時ほどではないが、床にも血溜まりができ始めている。
体を動かすだけで激痛が走る。
「さっきのタックル。結構痛かったわよ」
真っ赤な小さな池の上で、やっとの思いで星見キクが望んだ体勢になると、彼女は満足そうに笑む。服がちぎれ、痣や傷跡が痛々しく残る患部を露出させた俺の身体を、ストッキングを脱いだ足先で弄ぶ。
––––……スリ抜けで躱せたくせによく言う。
「謝らないの?」
「……ぶつかって……申し訳ございませんでした」
宜しい、と言いたげな顔になり星見キクは手の爪先を見ながら喋り始める。
「
そして、ハツカの頭に指をスリ抜け入れて、スープを掻き回すような仕草をした。
「初めからこのつもりでハツカも連れ込んだわけだ」
「誰かに出し抜かれたままなのは虫が好かないからね。蘿蔔さんは気づいてなかったみたいだけど」
「さっきの諭した口調も演技ですか」
「堂にいってるわよね、私。これでも年長者だもの」
以前マヒルが『同種の方が安心するだろうから眷属になりたい』と、そんなことを言っていて、俺は実感を持てなかった。星見キクが眷属になった途端捨てることを知っていたからで、それは同時に目的に沿わなくなったら切り捨てる薄情さを物語っていたから。
間近で見て、やっぱりダメだ––––ナイフを執ることを選んだ。
「ひと目見た時から貴方のことが気に食わなかったのよね」
「面白い偶然ですね」
睨み合いを続けながら俺は言う。
「罰なら俺だけを狙うのが筋だろ」
「ばつぅ? 何言ってるの。世界には吸血鬼なだけで殺しにくる人達がわんさかいるのに、暴露はともかく……演技で怒るほど小さい器はしてないわよ。ただキミを躾けるのにちょうど良い餌だし、意趣返しにもなるってだけよ。ふふふ……ふふふ……」
こちらを見据えていた冷たい瞳。
それが徐々に愉悦混じりの歪んだ形に変わっていく。
「にしても良いわよね……自分の事を身を挺して守ってくれる誰かがいるなんて! さっきの貴方はちょっぴりカッコよかったわよ。相手のために何かを捨てる様は美しいわあ」
無邪気な子供のように本音を語る奴に俺は怪訝な表情を作りたくなるが、次の一言で疑いなんて工程はすっ飛んだ。
「どうせならマヒルくんじゃなくて、私を襲ってくれたら良かったのに」
「なに?」
「貴方はどう思う? マヒルくんは私を守ってくれると思う?」
「守るに決まってるだろ」
きっと目の前で星見キクが危険な目に遭えば、考えるよりも先に体が動くだろう。彼女のように手首を掴んで阻止するなんて器用な真似はせずに、ただ盾として大切な人を守る。
その行動は突破な発想ではないと確実視できた。
「だよね! マヒルくんは私が大好きでしかたないもんね! にしてもその言い草……だからマヒルくんを標的にしたんだ。彼を傷つけないためには、私に守らせるのが一番だもんね」
その問いの答えは、否定でも肯定でも意味はない。
こちらの反応など気にも留めず、嬉しそうにハツカの上で小躍りするかのように『マヒルが愛してる』という一点にだけ共感した星見キクは、一度だけ嘆息をしてみせて俺にせがむような瞳を露わにする。
「勿体無いことしてくれたなぁ〜……マヒルくんが身代わりになって刺されてくれたのに」
意味の分からない物言いに反論が口をついて出る。
「お前……! 自分で言ってることが分かってるのか!? マヒルはアンタのことが本当に好きなんだぞ!? どんな理由で死ねばいいだなんて、それにさっきは––––」
「そうねぇ……強いていえば、私よりキミを選んだ罰、かな?」
「……はあ?」
「そうそう。キミには言葉遣いのペナルティね」
星見キクは落ち着いた様子で俺の物言いに罰を下す。
ピシャッ。血溜まりが跳ねる。傷跡を抉るように爪先で腹を蹴り飛ばされた俺は、『早く正座しなさい』と飛ぶ指示に従って再び身体を起こす。
その最中に星見キクは言う。
「今日ね、くら〜い声でお願いされたの。キミに会ってほしいてね。そこまではいいわ。夜守くんを心配してた時も俯いた声だったもの。だから様子見でオッケーって返事をしたの。
けど、君に会う直前にマヒルくんが口を閉ざしたの。私にすら言えない秘密だって言ってね。あれはいけないわ……マヒルくんは誰よりも何よりも私を選ぶはずなのに」
「それがなんだって」
「キミの秘密なのよ」
俺の秘密、なんだ。
俺の秘密を黙っていたからってなんでマヒルが刺されなくちゃいけないんだ。
「夜守くんたちみたいな『ただ大切な親友』ぐらいならまだ許す。私を選んでくれればいいだけだからね。けど、守っておきたいものはだめ。だから死ぬくらいの痛い目は見てほしいなって。そしてキミには、二度と私の邪魔をしたくならない程度には壊れてほしい」
「……」
「だから、キミがきっかけを作ってくれたのは素直に嬉しかったかな」
彼女の微笑みに【本当に悪い大人】の姿を見てしまう。
嘘つきや卑怯者を食い潰す、悪い大人の在り方。
やはり止めるではなく、諭すでもなく、利用する側の存在か。
「今の話だと俺が仕掛けるより前にこうするつもりだったようにも聞こえますが」
「当たり前でしょ。今後邪魔になるかもしれないから、気になって見にきたわけだし」
「私怨たっぷりですか」
非常にまずいことになった––––そう言わざるをえない。
あくまで俺と星見キクの関係が真っ白な状態から【自分の過去をバラした敵】として俺個人を狙わせ、ふたりだけで完結する状態を作ることを想定していた。
なんせ星見キクが言った通り、俺だけが敵だ。
わざわざ全員が味方してくれる状況で、俺を潰すために本性を出すとしたら二人きりになるしかない。
彼女の本性を探りたかったが、まさか本性が想像以上の暴君で、しかも俺への恣意的な恨みがあるとは。そもそもこれは恨みなのか。
とりあえず、やらなきゃいけないことがある。
「……やっぱり、星見さんは話通りなんだな」
間を作りながら口にする。
「どんなものかしら。気になるな」
「吸血鬼という正体を語らず、自身に恋をした人間に全てを捨てさせた上で血を吸うこと……それが星見さんが仲間内ですら危険視される理由だと、言っている奴がいた。仲間への被害など顧みないやつだとも」
カオリから聞いた星見キクの姿。
それは自分に恋した相手を顧みない外道の姿。
加えて、彼女の発した『全員が私のために全てを捧げてくれた』『マヒルくんは誰よりも何よりも私を選ぶはずなのに』……それは歪んだ承認欲求なのだろうか。
分からない。
「酷い言われようね。貴方はその話に乗せられて、私とマヒルくんを引き裂こうとしたんだ」
「マヒルが望まないことは実現しない。できるのは、俺の知り得る全てをぶつけることだけだ」
「?」
星見キクの怪訝な表情を無視して、俺は色んな人から耳にした彼女の側面を思い出す。
マヒルからは母親のような優しさを持つ良い人だと聞いた。カオリや探偵さんからは人の人生を狂わせる悪魔のような存在だと聞いた。それでもハツカは人を陥れるような悪趣味な奴ではないと言った。
分からない。
でも自分だけの価値観で選ぶことは、やはりダメだと思い知ったばかり。
だから、深く知らなくちゃいけない。
「星見さんは何を求めてる? 俺は星見さんに勝つために、星見キクを知らなくちゃいけない」
「……」
自問自答にも思えた呟きに応えるように星見キクは、身体をいじっていた足先をピシッと俺の口元に添える。
「なんのつもりですか」
「言ったでしょ。愛する誰かのために何かを捨てられるのは美しいことだって」
「恥を捨てろ、と」
「物分かりが良くて助かるわ。できたら私の事、少しくらいは教えてあげる」
擬似餌か。
結局はハツカを人質に取られている以上、俺に選択の余地はない。血肉で汚れた足先。それだけで見れば悍ましいのにも関わらず、やはり吸血鬼と言うべきか、真っ白で澄んだ脚とのコントラストが極まって芸術的にすら思えた。服や顔に線状についた返り血も似合っている。
こんな状況で、相手が星見キクでなければ––––それこそハツカであれば、素直に感心していただろうほどに。
マジないわ。汚ねえわ。
その澱んでいて甘美な足先に舌を這わせる。自分の血で汚れたそれを綺麗にしていく。血の味だけじゃない。なんだ。汗とかそんなところだろうか。
最悪だ。
「あら、上手いわね。やっぱり蘿蔔さんに躾けられたのかしら……ここまで出来て手綱が壊れるなら私でも手が焼きそうだし、仕方ないのかもね。でもこれだけ尽くしてくれるならアリではあるか」
星見キクのくだらないご感想を右から左へと聞き流しながら、作業をして口の中が血で汚れ切った頃。星見キクは汚れがなくなった足先を見て頷いた。
「良いものを見させて貰ったわ」
ついた唾液を俺の両腕を包む服の残骸で拭き取ると、星見キクは『約束は約束だからね』と言ってから語り始めた。
「キミは愛情や恋心……そんな曖昧な物を何を以ってして伝えられると思う?」
唐突な哲学的な話に困惑するが、その問いかけはまるで––––
「【自己犠牲】……私は相手のためにどれだけのものを捨てられるか、それが愛だと私は思う。キミがこの囚われのお姫様を身を挺して守ったように」
すぐにはなにも言えなかった。
「……それが星見さんのルールか」
理解ができないわけではない。それこそヒーロー物では愛する者の為に戦場に身を投げ出して戦い、その生き様自体が願いの証になっている。だから俺も……奏斗先輩やエマの一件では自分の意思を押し徹す様を、士季や白山たちに見せつける舞台を用意した。
けど、星見キクの言い分はズレている。
戦士たちの愛情は個々人が芯を持って向けるもの。星見キクが言う愛はふたりで溶け合いひとつになって完成する愛情で、片方がかければ瞬く間に崩壊する危険なもの。
「今までの眷属達だって全て捨ててきたんだろ? だったらどうして見放したんだ」
「マヒルくんとの友好を無碍にした貴方が言うの」
「マヒルに必要なのはコウたちであり、星見さんだ。その事実は否定できやしないし、俺はアイツが幸せになる為の捨て石にすぎない」
マヒルが俺を求めたのは、星見キクが中々自分を眷属にしない焦りと空虚感を一時的に誤魔化すためだ。全てを捨て去って相手のために生きようとした者たちとは覚悟も立場も違いすぎる。
その違いに気づいたのか、星見キクは興味深そうに俺を見てからボソボソと言った。
「……愛せなかったからよ」
「もう一度お願いします」
「はあ。愛せなかったのよ、二度も言わせないで」
一度受け取れなくて取りこぼした言葉は、哀しそうな声色と共にもう一度やってくる。受け止めるしかなくて、でも理解ができなかった。
「相手は全て捨ててくれたけど、自分は愛せなかったから捨てたのか。血を吸うだけ吸って、眷属にして。色んな人の人生を台無しにして?」
「何か悪い?」
悪いか、と訊かれれば、悪いと言い切ってやろう。
相手からすれば星見キクの思惑なんて関係がない。それこそ今の俺の行動で、白山もマヒルもハツカだって怒りが渦巻いている。相応の責任があるはずだ。
ただ、それはあくまで善悪の線引きでしかなくて、彼女が言っている物差しは別だ。
「何も思わなかったのか。別れる時や断る時には」
「感傷にひたるタイプじゃないの。……印象に残ってる人はいるけど、別れる時も無言だし」
「……そうか」
恋してくれた人と別れることに長けた女からは特に得るものはなかった。
「捨てた理由は分かった。でも、吸血鬼になったことすら伝えずに消えるのは違うだろ」
「眷属にするつもりじゃなかったんだもの。仕方ないじゃない」
「愛せないと分かって冷めたとかではなく……?」
「冷める……そうね。それもひとつの理由かもしれないわ。どれだけ相手のために自分を捨てても、その人を愛せないんだもの。そうだと分かった瞬間、相手のそばにいることも嫌になってくる。何回も、何十回も、何百回と失敗してきた」
ハツカさえ取り戻せていたら、俺は絶対に『下手くそ!』と叫んでいたに違いなかった。狙って騒動を起こしたいわけでもないのに、自ら禍根を残して去っていくなんて癇癪を起こした子供にすら見えてしまう。
けれど、それよりも気になったのはその結末の由縁。
だいたい分かった。
「星見さんの理想が叶ったら、貴女は、そして相手はどうなる」
「知っちゃったら面白くないじゃない」
星見キクが望む形の結末を訊ねることが危険であることも。
「これだけ言えば分かるわよね。マヒルくんには沢山私に愛を伝えてほしい。伝えて伝えて、私に愛させてほしい」
声だけ聞けば純情な願いでしかないが、その真っ白な願いが俺には血の気を奪うほど恐ろしかった。それと同じくらいこの
––––奴には誰も愛せない。あのクソ親父どもと同じく、作るだけ作って捨てる愚者だ。マヒルも捨てられる。
––––奴は昔のお前だ。依存させ、独りでは立てなくして最後には誰かを滅ぼす。
––––なにより今のお前と同じだ。目的の為なら手段を選ばずに
胸の奥で誰かが言った。
愛着がある分まだマシだろ。
「……」
「その為にも、キミには働いてもらう」
星見キクが取り出したのは、俺が使ったバターナイフ。
「マヒルくんの目の前で私に襲いかかるの。そして、身代わりになったマヒルくんをそのまま刺す」
「やるわけないだろ。まずそのナイフじゃア、星見さんは殺せない」
「殺せなくてもやってみせるだけでマヒルくんは動くわ。貴方だってそう考えたでしょ。それに大きいのならこの家にあるわ」
俺が返答を濁すと、星見キクは自身の手をハツカの首の中に入れ込む。
「それに……私には
今はまだスリ抜け状態だが、もし奴がそれを解除すればハツカの首は砕けて胴体と頭が離れ離れになる。血を使えば治せるだろうか。いや治すより先にハツカが死ぬ。
「無視できないわよね。この子が大切だって貴方の血も言ってたし」
顔を俯かせる。
このままでは––––
「好きになろうとしてる相手を守る為に友達を手にかける! その時の血の熱さは貴方を離さない。私の思い通りに動いて、友達も初恋も全てが粉々になる!! そうなれば貴方はもう……私に逆らえない」
––––いや、行ける気がする。
ゆっくりと陽炎のように安定しない身体を持ち上げる。その手には傍に落ちていたスマホを握りしめてある。
「ちゃんと座りなさいよ。……?」
咎めるだけなのは余裕の現れなのだろうか。
軽く操作して星見キクに見えるように掲げたその画面に映し出されていたのは録音画面。奴が消したはずのアプリとはまた別の物。
次に奴の視線が吸い込まれたのは左手首。
それは俺が暗示するかのように左手の服の袖を捲って見せたからで、奴の袖についているのは、黒々とした薄汚い粘着質の物体。
「ダメでしょ。目上の人に『お前』なんて言っちゃ」
部屋に響いたのは、寸分の狂いのない星見キクの声色。
「ッ!?」
–––––ドープアップ!
そうして、すました余裕面を変える一発。
渾身の蹴りを奴の鳩尾に叩き込んだ。
さっさとハツカから降りやがれ
壊れた者同士