今年は中吉スタートでしたので、楽しみながらやっていこうと思います。
第百肆矢「腹減ったなぁ」
はじめに言っておこう。
俺は、吼月ショウは蘿蔔ハツカのことが好きだ。この好きは熱に侵されたような気持ちではなく、恋というものではなく、ただ生きていて欲しいという愛情的なものだと思う。ハツカのお陰でそう思えるようになったよ。
できれば傍にいて欲しい相手。
断じて嫌われたいとは思っていない。
そこだけは肝に銘じておきたい。
俺とハツカのスタンスからして、ずっと一緒に、は無理な話ではあったのだ。元より俺は『吸血鬼は基本説明不足だし、もうちょい上手くやれやこのやろぉ〜』と気に食わなかったし、ハツカも『なんだコイツ生意気だな。眷属にして飼育してやろう』と企んでいた。
気に食わなかったからこその対決。どちらかが相手に靡いたら終わりのゲーム。俺が信頼したいとか個人的な副産物–––俺にとってはそっちがメイン–––もあったが、大体の経緯はそこに行き着く。ハツカも俺の顔が好みかつ、男の娘という種類の眷属がいなかったから並べたかったのもあるだろう。
一緒にいること。折れて相手の価値観に帰属するか、お互いが許容し合える中で共に過ごすかのどちらかだ。
けれど一緒にならないとしたら、どちらかが逃げ出した時。
「はあぁぁ……」
力が入らなくなっていた身体をベッドに投げ捨てた。ギシリとスプリングが軋み、押し込んだ力と同じ勢いで押し返してくる。中身がすっからかんになったように軽くなった身体が弾んではベッドにめり込んだ。
身を預けているのは俺のベッド。
つまり今いるのはハツカの家ではない。
「なんでこうなるかなぁ……」
馬鹿なことを言ってみるものの、結論は何も変わらず【俺だから】にしかならない。自分の価値観と星見キクに出会った時の衝動に突き動かされた結果だ。ハツカが信じた星見キクはいなかった。
だったら、後悔なんてしても意味がない。
キィキィと軋む音が暗闇に響いてくる。
自分のまま行動した結果を非難できるのは他者だけだ。それは感謝されるときと同様に観測する側の価値観によるからだ。
眠気はまだ襲ってこない。
「腹減ったなぁ」
ピカリ。緑の蛍光が視界を染める。暗闇かつ間近で身は腕時計の光は割と目に染みるが、瞼を瞬かせながら時間を見た。23時になろうとしていた。一ヶ月前の俺からしたら随分と遅い時間にも関わらず、視界が黒に閉ざされることはない。
随分と不規則な生活を送っている。
本来人間の身体は太陽の光を浴びながら生きるのを前提に構築されている。太陽を浴びないと鬱病になりやすいと言われるのを考えると頷く他ない。
俺が人間かと言われたら……まぁ普段の肉体は人間だ。
病院では特に何も言われたことないし。
病院の人には気味悪がられたことはあるけれど。
「よし」
俺はベッドからズルズルとはみ出し落ちる。床に尻餅をつくと、残った筋肉繊維をフル稼働させて立ち上がった。
コンビニに行こう。
だって、この家には何もないんだもん。
なんでこうなっちゃったかなぁ……
☆
僕の問いかけに頷いたショウくんを見て、苦しまずにはいられなかったのは言うまでもないが、なにより素直に受け入れたのが納得いかない。殴ってやりたかったけれど、『俺が悪いことしたから仕方ないよね』とズレた捉え方しかしないのは目に見えていた。
明かりがついた部屋。
現れたショウくんは僕が気絶する前とは違う男の服装をしていた。それも苛立つ。コレはキクちゃんが適当に選んだりしたのだろう。
僕らは家の外に出た。
シンと鋭く冷え固まった夜の気配が外には充満している。玄関のそばにはキクちゃんや
ショウくんは夕くんや白山くんと別れ話を始めた。特に仲が悪くなっていない……それどころか夕くんは自分から攻めるように会話していた。
「なぁショウ……また話せるか?」
「電話で話そうぜ。仲違いしたって噂ぐらい立てておかないと、神崎の奴がマヒルの下にすっ飛んでいきそうで怖い」
「分かったよ。コレからはもっとお前の話が聞きたいし」
「本当に意味わからん奴だな……」
その光景を見て面白く思わないのは、僕とキクちゃんだ。
上手くいってしまった結果、事態を顧みなくなる恐れを危惧している僕とは違い、キクちゃんは『猫め』と恨めしそうに睨みつけていた。
なんでキクちゃんが敵視するかなぁ。別に夕くんをとって食おうとしてるわけじゃ、
「なに?」
よほど気分が顔に出ていたらしく、殊更不機嫌に目を細めてキクちゃんが尋ねてきた。
「そんなにあの子のことが嫌い?」
「大嫌い」
「キクちゃんがそこまで言うなんて––––」
「なによ」
「いや、まぁ分かるよ。あんな子供に好き勝手言われたら腹立つよね」
「アレとはやり方がかけ離れてるのよ。誰かの大切に取って代わろうとするのを否定されたのは初めてだわ」
「悪いわけじゃないけど、あの子はそういう性だからね」
何を言おうと思ったのか。珍しい、とでも言うつもりだったのだろうか。何を考えているのか、その根底にある価値観がなんなのか今の今まで知らなかった僕が言えることなのだろうか。
ダメだ。変に考え込んでしまう。
「そっちこそどうなのよ」
「どう、とは?」
「私としてはさっさと諦めて殺した方が早いと思うけど。殴った殺せるとは思えないけど」
「なんで僕が」
「だってアレ、誰も落とさないわよ」
ぴしゃりと言ったキクちゃんからは確信が満ちていた。軽く髪がかかった額に青筋が立った。別れ話を容易く受け入れられた僕にとっては、否定したくて堪らない。僕は落とせないんじゃない。まだ落としていないだけだ。
「ふぅ〜ん、キクちゃんには無理なんだ。百戦錬磨の吸血鬼なのに」
「無理以前の話でしょ。アレに落ちる場所がないんだから」
その返答に僕は頷いてしまった。
「あの子を惚れさせたいなら、お互いの関係が決まっていないうちに速攻洗脳なりしておくべきだったわね」
「知ってる風に語るじゃん」
「ヤキモチ? 私はたんにあの子の血を飲んだだけよ」
「……ショウくん、飲ませたんだ」
「全部図られたのよ。ホントにムカつく奴」
語気を強めて唾を吐き捨てそうな勢いのキクちゃんを見るに、ショウくんにしてやられて、煮湯を飲まされたと自覚している。理解してるから余計に気に食わないのだ。
元々血を飲ませて、彼女の精神面から攻めるのがショウくんの作戦だった。どんな記憶を見たのかは分からないが、一定の効果はあったようだ。己の過去を悔いているとは違う。でも、何かに戸惑っているのは間違いなかった。
キクちゃんでも、化かされるだけ……か。
「悪人っていうのはあの子みたいな人間を言うじゃないかしらね」
ため息をひとつ落として、キクちゃんが歩き始める。
「ま、もしあの子を壊したいって言うんだったら手伝うわよ。あの子の泣きじゃくった顔が拝めるなら儲けたものだから」
それじゃ意味がないんだよ。
あの子が苦しんでたら意味がないんだ。
今も辛くて抜け出したいはずなのに、ルールだとか矜持だとかで動けなくなっているのがショウくんだ。辛い過去が今にも響いて、誰も信頼できないと嘆く。鍵がかかっているとしたら痛みからに違いない。
髪の毛をくしゃくしゃに掻きながらショウくん達を見ると、別れの挨拶が済んだようだ。
「ごめん、キクさん。長話しちゃって」
「いいのよ。ここ一週間は吼月に会えないって思ってくれれば」
「……というと?」
「とりあえず私の家に行こっか。まだ観てない映画もあるし」
「はい!」
嬉しそうな夕くんの笑顔には以前【
せめて被害を受けたキミだけは真っ直ぐに怒りをぶつけてほしい。あの子の過去を知らないからこそ言える言葉をぶつけてほしい。
しかし、ダメだったのはなんとなく分かる。
それもまた吸血鬼だ。
『じゃあまたな』と夕くんは手を振り、キクちゃんは『べー!』と下瞼を引っ張りながら苛立ちを露わにする。初めて見るキクちゃんの表情に夕くんがうっとりとしているのを最後に、彼らは姿を闇に消した。
残ったのは僕らふたりだけだ。
「ねえ、ハツカ」
「なに?」
「僕、何が駄目だったの。それだけは教えて」
そうじゃないだろ。
離れたくないって言え。
お互いの胸は肺に息が詰まって出てこないかのように膨らんでいた。息苦しさが絶えず続いている。
「ハツカが別れたいのは尊重するよ。でも、そこだけは、やっぱり……聞かせて」
「分かった」
冷えた空気に僕の声が浸透していく。けど、その声は小さくてこの子の寸前で止んだ。ショウくんは『やっぱりダメなの』と聞き返してくるから、僕はもう一度『分かった』と意識して口を大きく動かした。
体に溜まったものは出ていかず重いままだ。
僕が歩き出すと、その半歩後ろをショウくんがついてくる。
––––何をどう話すべきなんだ?
疑問が頭の中を彷徨って、湧いて出てくる言葉を打ち砕いている。話がまとまらない。ハッキリとした物が自分の中に湧いてこない。
ダメだ。伝わらない。
吸血鬼にあるまじき弱音を抱いている。
認めたくない。
足取りが覚束ない。普段歩き慣れた夜闇がとてつもなく不安で、冷えた空気が足元を凍り付かせて少しでも不要な力を込めればヒビ割れて、底に落ちてしまう。
落ちたら戻れない底は、お互いの距離でもありお互いの隔絶された居場所のようだ。
キクちゃんの友人宅からは離れた。何分歩いたかは分からない。歩いていると丁字路が見えてきて、ショウくんだけを映すミラーにギチギチと音を鳴らして歯噛みする。
鏡の奥には何も言わず僕が口を開くのを待っているショウくんがいる。真っ直ぐとした視線には、悲しさは皆無だった。ただ事実をそのまま受け止めようと芯を通した立ち姿を見せる。
それがたまらなく嫌だった。
「ねえ、キミにとって僕はなんなの?」
振り返らずに訊ねた。
「ハツカは僕の大切な人だよ」
「だったらどうして僕に何も話してくれなかったんだよ」
「話してって……それは星見さんが言ってたみたいに、一番効果的だったからで」
何も話さないショウくんに腹の底から何かが湧いてくる。気づいた時には『違うだろ!』と叫んでいて、映るミラーの中で彼は身体を震わせていた。
「キクちゃんのことが嫌いでたまらないことも! 親の仇かもしれないって思ってたことも! 何もかも話してくれなかったじゃないかッ!!」
「ハ、ハツカ……?」
「内心馬鹿にしてたんだろ!? 簡単に僕を人質にして、殺すと脅してしまうような奴を仲間だと呼んでた僕のことが! 探偵さんに会いに行ったのだって、キクちゃんを独りでどうにかしようって魂胆があったからだろ!」
「いや、待ってよ…いきなり」
「いきなり!? いきなりはキミの方だろ!! 何も話さずに僕の想いを踏み躙って一緒にやろうって約束も破ってさァ!」
気づいた時には胸に詰まったものを投げつけていた。コロコロと力なく返ってくる言葉は空虚だ。僕だけは彼の顔が見えている。困惑した声なのに、鉄面皮を貼り付けたように顔からは動揺もなにも感じ取れない。
「凄いよねぇ〜何から何まで計算のうちだったんだから。子供のくせによくやるよ。僕が傷つくことも想定の内。自分の命を投げ出すのだって仕組んでたことなんでしょ?」
「それは違う」
夜の静かさを取り戻すような声だった。
潰してやりたい。
「違うってぇ〜?」
「違う」
「蹴り飛ばされた時点でキクちゃんに盗聴器をつけてたくせによく言うよ!」
「違う」
どうしたのだろう。
思いの制御が効かない。僕はこんな荒々しく罵るような存在じゃなかったはずだ。なのに、なんで。どうして強い言葉が飛び出てくる。怒りをぶつけても意味はない。して欲しいことに誘導するのが最善なのに。
昨日まで良かったはずだ。普通にやられたからやり返す要領で、ショウくんのことを可愛がっていただけなのに。彼だって嫌がってなかったはずなのに。別に仲が悪くなることなんてひとつもなかったはずなのに。
「そんなのだから–––」
「違うよ、蘿蔔さん」
「……は?」
さっき別れたはずの友達の声がした。鏡を見ても、後ろにいるのはショウくんのはずなのに。キクちゃんの声が凛然と僕の背中を捉えた。
居ないはずの人物の声が響いてくる。
「蘿蔔さんがなんで気を失った後のことを知ってるのかは聞かない。
でも、これだけは言わせて。……俺だとしても、僕だとしてもハツカを傷つけるような手段は取りはしない。ハツカが親として俺を愛してくれると言ったように、僕もハツカのことを愛してるから」
「……だったら」
なんだ? だとしたら、この子は助かるとか打算なしに僕を庇ったのか? いくら切り傷だとしても吸血鬼の力で切り裂かれたらひとたまりも無い。ましてや正面から彼は受け止めた。その時に胴体を真っ二つにされたって不思議じゃなくて、最悪頭を飛ばされていたかもしれない。それだけの隙があの時のショウくんには有ったのは、この耳で聴いたのだから間違いない。
もし僕が録音していなければ、自分から襲いかかったと捏造されてもおかしくなかったのに?
俺は死なない。なんて台詞を口にした癖に?
僕のことを無視し続けたくせに?
「全部、必死だったの?」
「まぁ……必死な時しかないけど……さっきはかなり焦ったよ。スマホも弄られたからハツカに証明できなくなったと思ったし。なんとかこの声使って騙せたけど、アイツ、ハツカの生命だけ徹底的に利用しようとしてたし」
「馬鹿じゃないの!? 僕は吸血鬼で、キミはよくて半端者。死ぬとしたらどう考えてもキミだろ!」
「ハツカに死んでほしくないからに決まってるだろうが!!」
ドクンと胸の奥が弾きとばされる。地面をのたうち回って呻き声を上げる獣のイメージが自分の中に湧いて、想像通りの呼吸音がかすかに、それでいて全身を巡る。
「世界を全部良くしたい。みんな幸せでいてほしい。そう思ったら……思ったら……」
熱が少しずつ消えていく。
「俺は王様にはなれないけど、良いこととか、悪いことじゃなくて……それが俺のやりたいことだから。俺の道だから。俺は俺の覇道を生く」
熱が闇に飲まれていく。
待って、消えるな。勝手に消えるな。
僕を振り向かせてよ。
鏡の中にはもう誰も居なかった。
☆
「深夜に食う肉とアイスは格別だろうな」
コンビニのドアを潜り抜けるとそばにあるベンチに腰をかける。俺は少し遠出をして見覚えのある店に来た。ハツカと初めて会った晩に酒を買ったコンビニだ。
女々しいと言いたければ言えば良い。
それくらい始まりの夜と呼べるほどだったんだ。
肉汁が迸る香ばしいエスニック系のスパイス増し増しのチキンに噛みつきながら、アイスの袋を開ける。それも二つ同時だ。肉の旨みが広がり切った口内に、今度は木の棒についた青い半透明でキラキラとしたそれに齧りつき溶かして流す。
迷子になるほど真逆の刺激が音波のように変わるがわるやってくる。それでも徐々に寒気が圧倒してくる。もっと冷たさがほしい。腹の中で疼く熱を治めたい。
「……はぁ」
ハツカに子供のくせに、と言われたのはショックだった。俺の過去を知っている以上、無理矢理にでも頭を回さなければ生きていけないことぐらい想像つくと。
僕の勝手な願望だ。
自分を理解できるのは自分だけだ。
それは孤独とは違う。秘めた思いを知るのが他の誰よりも自分だからというだけだ。
「別にハツカとの約束を忘れたわけじゃねぇよ……」
でもハツカ仲間思いじゃん。可能性があるなら人間だって助けちゃうお人好しだし。そんなハツカが友達だって言ってた相手が本当に下手人だったと知れたら、受け止められないかもしれなかった。
マヒルと同じだ。
星見キクは、ハツカにとって俺なんかよりずっとダチなのだと。本来なら俺はハツカと出会うことすらなかったのだから。
いや、逆か? マヒルがハツカと同じなのか?
「……言い訳か。誰に頼まれたわけじゃないんだから」
せめて本当に星見さんの仕業だと確定させる必要があった。探偵さんの言葉でも、自警団の言葉でもなく、星見キク本人の声で。その関門を潜り抜けたとき、初めてハツカは足を洗える。
ハツカは吸血鬼だ。吸血鬼からしたら、別に問題なしとして扱われていた。俺と協力するといっても、すでに出来上がっている制約を変えるには確かな証拠が必要だ。面と向かって、吸血鬼の誰にでも言えるようなものが。
みんな、意味のわからない責任をハツカに覆い被せようとする。
責任なんて果たさないくせに、都合が悪くなったら責任がなんだとこちらの行手を遮ろうとする。
「だったら、初めからお前らがやっとけよ。初めからお前らが片付けとけばキョウコさんは悲しまなかったんだよ。ハツカだって星見の友達じゃなかったんだ。責任なんて負わないくせに。誰も追込まれなければ責任なんて取るつもりもないくせに」
自分の言葉に責任を持たない奴が嫌いだ。
言ったならやりぬこうとしろ。出来なくてもいいから向き合え。手間がかかるからって連帯責任なんてレッテルを貼り付けて、変えようとしている人たちの邪魔をするんじゃない。臭いものに蓋をして、居ないもの扱いなんてするんじゃない。
やったことは消えやしない。
誰かが覚えている限り消えやしない。
たとえもう既に悲しむ人たちが居なかったとしても、罪は罪だ。
「……」
ただ……それだけなら、ハツカに言っても良かったんだ。でも、話して守れもしない約束をして無意味に安心させる方が……。
「俺が約束を破ったなら、それはハツカも同じだよ」
ため息が溢れる。
アイスじゃ物足りない。
肉よりも腹に詰まる物、温まる物。
「酒、飲みたいなぁ」
酔えないなら無理矢理にでも。
☆
気づいた時には、オフィス街に出ていた。
どれだけの距離をどれだけの時間をかけてここまで来たのかは分からない。もう既にビル達の明かりは消えていて、あっても提灯の薄い色の赤が地面に伸びているくらいだ。
「いやぁ……まだポツポツとあるなぁ」
譫言が自分の意思とは関係なく漏れる。
酒かぁ。こんな夜には飲まないとやってられない!って七草さんならビールを煽りそうだな。キンキンに冷えた黄金をグイッと一息に身体の中へ流し込む。
けれど、まやかしの冷たさで今僕の中に疼く渇きを取り除くことはできない。猛暑日に熱中症のまま外を出歩くような無謀さが下半身を蠢いていた。
座り込んでしまいたいが座ったら最後、もう何も出来なさそうだった。
久利原たちを呼ぼうか。嫌だ。こんな姿を見せるつもりはない。ニコちゃん達も同じだ。この僕が眷属に出来ないのなら他の誰にも出来やしない。あの子達だってショウくんからすれば、幸せでいてほしいみんな、でしかないのだ。
でもニコちゃんやカブラさんが弄ばれてるのを見るのはいいかも。翻弄されて、疲れ果てて、それでも想いだけは本物だから余計に辛くて。
「……ははは、はははっ…………」
僕だけは違うと思っていた。
傷ついているショウくんを守る側の存在。
ショウくんの意識の奥底で見た本当の姿。右腕がなくて、片目が焼け爛れたままの幼いあの子を守り、あの傷を忘れさせるのが僕のゴールだ。
彼にとっての救世主だと。
「意味、なかったのかなぁ……」
顔をあげると行手には陸橋があった。暗闇の中で異様に浮かび上がるシルエットは街中に突然現れた狂気の山のようだ。誰かがそこに昇っている。薄い光がスポットライトのように二人組を照らしていた。
顔を合わせるように体を密着させて、
「僕を」
振り向かせてほしかった。
僕が欲しいのだと。
「……いいなぁ」
呟いた所で、眺めていた二人の体が離れて天を指差した。顔は直前で離れたように見える。
どうしたのだろうか。
身長が低い方が指を夜空に向けて突き出した。願いが叶う流星でも見たのだろうか。もう一人が体を捻るのに合わせて、僕も視線を漂わせる。
そこには、影があった。
屋上の縁に誰かがいる。
喉が締まる。
シルエットに見覚えがあったわけじゃない。ショウくんが落ちた時のように煩わしさがあったわけでもないにも関わらず、息が詰まってしまいそうなほど苦しいのは、今の機嫌が悪いだけじゃない。
嫌だ。これも心底嫌だ。
カップルに目を向けると慌てた様子で女性が電話していて、男性が両手をメガホンにして大声で呼びかけている。『よせ』だの『早まるな』だの持てる言葉で必死に。
別に僕がやらなくたっていいんだ。
じきに警察だってやってくる。到着時間は平均して8分ほどだ。聞こえているかは別にして、それまでに飛び降りるならよほどの決心があるのだろう。止めるのだって無粋だ。
無視しよう。あの時、自分は正しかったと再確認するために。
きっと数分後には、地面にへばりつく弾けた四肢と夜闇にも浮かび上がる赤を見て……僕は安堵する。
「くそ」
全く似合わない言葉を吐いたあと、すでに誰かが飛び降りようとしているビルに沿う人気が皆無の路地に踏み込んでいた。その路地を挟んだ向かい側の建物の壁面の凹凸を足場にして、夜空へ––––
次の瞬間には停滞とともに、泡に包まれたような浮遊感が全身を覆う。見下ろせばそこには人影がビルの屋上にあった。
「ふたつ?」
まず、ひとつじゃなかったことに驚いた。
ビルの縁に立つ人影の意識が、人生最後の花火をあげるのを妨害する闖入者に注がれている。それが僕の眼下で繰り広げられているワンシーンだった。切り取られた一枚絵のようにくっきりと。
ゆっくりと落ちていく。
近づくごとにその闖入者の姿が、色がハッキリしてくる。
「……つくづくキミたちは」
反対側のビルに降り立った僕が見たのは自殺志願者ではない。その終わりを望んでいる者を妨げる色香を放つ存在は、
「私? そうね、私は––––」
–––––葛樹理世。
ショウくんの親友は、愛でるような声色で艶やかに名乗ったのだ。