キスしてる場合じゃない!
彼女は人殺しだ。
他人を煽り立て、傷つけることを良しとして、目の前で死ぬ女性の姿を忌み物に変えながらその瞬間を永遠に保存した。あまりにも醜悪だった。何より、彼女が道楽部の連中に向けた力は見間違えようもなく……僕らと同じ吸血鬼の力だった。銃弾を手で受け止め同等の速度で投げ返すなんて、人間にはできない芸当。
しかし、今の彼女は人間だ。
キスするほどの至近距離だから間違えるはずがない。倉賀野からは吸血鬼だと断言できるほどの匂いも気配もない。でも、これだけ近ければ残り香があるのが分かる。
つまり、倉賀野はショウくんと同じ半吸血鬼––––
「ッ……」
体を動かしたいのにまるでスライムのように纏わりつく彼女の両腕、両脚が絡み合う。両手が僕の頭を胸を、脇を臀部を這い回る。唇だけでなく全身が貪られる。
頭が呆け始めた。抵抗する気概はあるのに、気持ちいいキスだという自覚もある。人殺しのキス。醜悪な攻撃を僕は水音を立てながら過ぎ去るのを待った。
抵抗する意思を示すことはなかった。燃え盛っていた激情が彼女の足裏で踏み消されていく。僕という大切な感情が蔑ろにされていく。僕を見向きしなくなったショウくんは、彼女の下に戻るのだろうか。
嫌だ。容易く一線を超えてしまうような子の場所になんかいて欲しくない。吸血鬼の力で人を傷つけないと誓ったショウくんが、倉賀野の側にいること自体許容したくなかった。
でもショウくんは僕を傷つけた。力なんか無くても、行動だけで僕を傷つけた。傷なんてつけられたくない。
花壇に植えられた花みたいに、僕だけに微笑むような存在でいて欲しい。出会った時に見せた
ふたりは同じなのかもしれない。
凄く。すごく嫌だった。
傷をつけるなら僕が良かった。
「……ぷはぁ」
欠けた月がかなり傾いた頃、ようやく倉賀野は唇を離した。油物をたらふく食べたあとにビールを呑んでスッキリした酔っ払いみたいな悦に浸った
似ている。僕を尻に敷いた時の顔に。僕の顔についたチーズを食べた時の顔に。
「ご馳走様」
「ありがとうございました」
慌てて僕は口を手で押さえた。嫌だったはずなのに感謝を告げていたことに気づいた。
僕は本能からくる何かを覆い隠すように矢継ぎ早に口を開いた。
「なんでキスなんて……っ!」
「ふふっ。ショウが好きになろうとしてる人の唇を奪うって……背徳感が凄いわよね。もうキスをしてるなら奪い返せるし、まだなら貴方では無くその唇を覆う私の唾液とキスすることになる。貴方は二度とショウとキスはできなあい」
「……ど畜生め」
「寄生虫より野良猫のほうが優秀でしょ?」
「猫は畜生じゃない」
「そうよ? 私は畜生じゃなくて動物で、なにより猫に当たるもの」
「僕らだって寄生虫じゃない」
「いや吸血鬼は人間に寄生しなきゃ生きていけないでしょ。人間みたいに家畜を作れてる訳じゃないし、本田カブラ達みたいな輸血パックの横流しだって人間の仕組みの利用でしかないわけだしね」
事実を淡々と語るような口調で僕を、
「吸血鬼は不自由よねえ……血だけでしか生きていけないもの」
疲れが取れたと言わんばかりに全身でストレッチをする彼女は、そのまま屋上に設けられた非常階段へと戻って行こうと歩み出す。僕はその背中を睨んでいた。
この子には言われたくない。
この子が言うってことは、ショウくんの言葉と同じかもしれないから。
「待て!」
「待つわけないじゃない」
「……だったら言うぞキミが半吸血鬼だってこと! 人を殺したってこと!」
くるりと綺麗に反転して、倉賀野が僕を見る。ギュッと唇を噛み締めた。些細な変化だった。瞼が少し降りて、物憂げな瞳がこちらを捉えた。咎めているはずの僕が憐れまれていた。彼女の視線は本当に可哀想なものを見る目で、嘲笑して然るべきものに慈悲を与える。
なんで?
僕が悪いの?
「それで、ショウは信じるの?」
「ぼ、ぼくの言葉だ! 信じるに」
「本当に?」
言い切ろうとした口火が鎮まる。
倉賀野はショウくんとベストマッチなんて自他共に認められる存在らしい。なにより僕と同等に大切だとショウくんに言い切られている。僕に傾くだろうか。大切なこと、何も言ってくれないのに。
「因みに、私の言葉は信じるわよ? 他人が信じられないって弱みも話してもらってるしね」
僕の脚が一歩、下がった。
「あらあら、俯いちゃって」
弾みをつけた声色が近づいてくる。
信じるわけがないとタカを括った嗤い。どうしたら信じさせられるのか。言葉だけでは信じない。確かめることなく彼女を肯定したらどうしよう。
「いや! いやッ! あの手口……今回が初めてじゃないだろ! 次、また次お前が悪さしようとした時にあの子を連れてくる。無理矢理にでも、騙してでも連れて––––」
「………」
顔をあげると、また至近距離に倉賀野の顔があった。嘲笑という言葉がこれほど似合う顔を僕は知らない。
なんで?
馬鹿にされるような事なんて何も言ってない。僕は正しいんだ。あの子は傷ついていて、痛いのはやめてほしいって願ってて。僕はあの子の親として、悪い物から遠ざける必要があるんだ。
僕の事を好きにならないのなら、無理矢理にでも引き離して。
「貴方、ショウと同じ事をしようとしてるの分かってる?」
「同じ事!? 僕が!!」
「そうよ。だって、騙して連れてくるなんて……正にあの子が貴方にやった事じゃない」
「……あ」
あれ、じゃあ……いや、先にやったのはショウくんだ。
「いや、それ以上に悪質かもね。自尊心を満たしたいだけだもの」
「自尊……」
「自分は他の大人たちとは違う。僕はあの子が怖い事を知ってる。僕はあの子を傷つけない。僕はあの子が望んだ大人であり、理想そのもの……そんな風にも思ってたんじゃない?」
遠のこうとした瞬間、両頬を片手で鷲掴みにされる。ぐっと引き寄せられて、視線がかち合う。責め立てるような厳しい目が僕が悪いんだと訴えかけてくる。
葡萄色の瞳が僕を叱責する。
お前は自己満足の安堵のために俺を見下ろそうとしているに過ぎない。
罵倒されてる気がして目を閉じようとするけど、瞼を下すことはおろか、視線を逸らすことすらできなかった。せめて首を振ろうとした。でも、力がてんで出なくて手に固定されたまま。スリ抜けを使う気力すら無かった。
せめて、
「何か言いなさいよ」
せめて言い返さなきゃと力を振り絞る。
「……ぼ、ぼぐぅはわるくな………」
「ふふふ、言い切りなさいよ」
また嗤って、倉賀野は頬を掴んだ力を緩める。
「そう。ハツカは悪くない」
倉賀野は僕に自信を与えるように力強く頷いた。ショウくんと同じ眼で、同じ声で、同じ笑みで僕を認めてくれた。それが堪らなく嬉しくて、自尊心が満たされているのが分かる。
分かるのが余計に嫌だった。
倉賀野はショウじゃない。
「でも、貴方が本当にしたかったことはなに?」
不意に尋ねられたそれに僕は言葉を失う。単純明快なもの。一言で済むはずの
突き放されて、蹈鞴を踏みながら僕は倉賀野を見据えようとして、すぐに力尽きる。視線は去っていく背中をなんとか捉えたまま、酷い俯き加減だった。
僕は何を落としてしまったのだろう。
「……あ、スマホ」
地面にはイヤホンがついたままのスマホが落ちている。突き飛ばされた時にポケットから溢れたようだ。
拾い上げて、自然とイヤホンを耳につけた。
イヤホンから微かに水音が流れ込んでくる。ピチャピチャと小さく響くそれは、キクちゃんの手によって僕が人質に取られた時に、ショウくんが彼女の足を舐めたものだ。
粗っぽい水音でショウくんがキクちゃんを嫌悪しながら舐めているのが分かる。
「……」
屋上の縁に座り込んで、靴を脱いで足を露出させる。瞼を閉じて想像すれば、伸ばした足先に屈んだショウくんが不愉快そうに上目遣いで見上げてくる。
巻き戻した音声をもう一度再生する。
ここにはいないショウくんが僕の足を舐めている。
「狡いよなぁ、キクちゃん」
分かるよ。
恨めしく反抗心丸出しでも、従わざるを得ない子を玩具にする感覚。僕も大好きだ。特にあの子みたいな我儘少年の大切なものを足蹴にしていくのは極上だろう。じゃれ合いみたいな、くすぐって息できなくするなんて生優しい手段じゃなくて、もっとショウを壊滅させるような。
例えば、倉賀野は悪いことしてないとショウに駆け出させて、でも人殺していて失望して、頭の中グチャグチャになってる彼に倉賀野を僕に捧げさせて目の前で壊してやるんだ。
そして言わせてやるんだ。僕が間違ってました、ハツカ様こそが正しい……と。
……でも、ショウ本人にやるのは正しいことなのか?
☆
風呂に入る前に飲むのか、入った後に飲んだ方がアルコールの効きが早いのか。この歳で酒について詳しいわけないので、
早く眠りたい。無理矢理にでも眠ってしまいたい。
アルコールが一気に回れば目の前には【小森湯】という暖簾がかけられた扉が待ち構えていた。夜遅くで人通りもないというのに、拠り所を探す俺の為に明かりをつけてくれていたかのようだ。
「……おい」
声がかかってそちらを見てみれば、そこに居たのは緩いパーマをかけた白い髪を携えた青年––––岡止士季がいた。月の光を浴びた白髪は、精力をより一層増して輝いているように見える。増大した輝きが余計に陰鬱として持ち主の顔を際立たせてもいた。
「お前、なにしてる」
ピリピリした問いに、少し時間を使って答えを考えた。
「……思い出巡り」
「なんの思い出だよ」
「ハツカとの」
「未練タラタラじゃねえか」
「当たり前だろ」
暖簾を潜り、店番のお兄さんに料金を払いタオルをもらう。俺、士季の順で脱衣所に入っては風呂場に行く。俺たちの他には誰もいなかった。正面奥の壁面に描かれた富士を無言で見つめながら湯船に浸かる。温かい湯に入れば人は蘇るというが、つまり一度死ななければ蘇ったことにはならない。
「……ふぅ」
「いや、溺れるなよ!」
頭のてっぺんまで湯に沈みかけたところで首根っこを士季に掴まれて外に出る。吸血鬼の力だから容易く持ち上げられるのだけど、なんか脱力した猫みたいな体勢で運ばれる。
「ガッツリダメージ受けてるじゃねえかよ」
「気絶しそうになること多いんだよ。前はこれで九時ぐらいには寝れたんだけど」
「今日は寝れてないわけか」
ふたりで湯船のふちに座り込んで、脚だけ湯につける。
「……今日、ずっと見てただろ」
「見てた」
「やっぱり」
「気づいてたんだな」
「そりゃ、お前らから見て俺は異物なのは理解できてるし、星見キクと接触するなら監査に来ると思った。ましてや、白山にも協力してもらってるわけだしな」
見てた割には、ハツカが危ない時には何もしてくれなかったわけだがな。不当にハツカが巻き込まれてしまったことは度し難いが、元は俺の計画によるものだから文句を言うのは違う。
「なんで暴走した」
「暴走ね……俺は最適解を選んだんだけどな」
選んだ。
選んだつもりだった。
マヒルは星見の過去を真実だと認めたし、星見に対して罪悪感を利用して攻撃する手段が有効だと判明した。奴の危険性も確認できた。
しかし、俺の行動が星見の危険性に免罪符を与えて凶暴化させたのは事実だ。
暴走……確かにそうかもしれない。もう少し星見キクの人となりを眼で見極めてからでも良かったのかもしれない。
けど、俺は出来なかったし、したくなかった。
「前にも言っただろ。勝手な真似をしたら、責任を取るのは蘿蔔さんなんだぞ」
またわけのわからないことを……。
今回のことでは、十分お前らの理屈に合わせたつもりなんだが。協力者だとか親だとかそう言う立場を廃して動いたんだから。
『おい、聞いてるのか』と肩につかみかかってきて、怠い絡みを求めてくる。吸血鬼の力で握られた肩がひび割れる。骨が悲鳴をあげていたが、まあ別に治る。でも、コイツらの考えはあり得ない。自分の責任を取るのはいつだって自分だけなんだ。
そして、責任を負うのは背水の陣を取った時。
自分で責任を負うしかない状況のみ。
それ以外では絶対に逃げ出す。俺は悪くないんだと宣うんだ。
「おい!」
「お前らも早く探偵さんに殺されにいけよ」
「……は?」
筋張った綺麗な手が肩から浮いた。俺に何を言われたのか、耳を疑うような顔をしてこちらを凝視し続けてくる。
「俺の行動がハツカの責任になるって言うんなら、星見の悪事の責任だってお前ら全体にあるよな?」
「いや、それとこれとは関係ないだろ」
「知ってて放置し続けたくせによく言うよ」
士季は困惑顔のまま訊ねてくる。
「お前、ずっとそんな事を思ってたのか?」
「理屈を考えたら行き着くだろ。ましてや自警団なんて名乗ってんだから」
「……警察がイザコザを知ったとして、それが原因で殺人が起きても警察の責任にはならないだろ」
「そうだな。法ごときはそう言ってる。でも、吸血鬼に法は存在しない。ひとりでも動いていれば変わっていたはずだ。キョウコさんのお父さんだって家族に手をかけずに済んだかもしれない。星見に吸血鬼にされて苦しむ奴らが居るんだって分かってるなら、吸血鬼として明るい未来を作れたはずだ。
でも、お前らは放棄した。責任を放棄した」
多くの人が使って濁っているはずの水面に、俺の顔が映り込んでいる。嫌だなぁ。まるで俺が濁り切った下卑た存在だって突きつけられてるみたいだ。けど、忌み物なのは間違いない。否定するつもりもない。
でも、分かってることをわざわざ示されるほど不愉快なこともないから、水面に映った俺の顔を蹴り飛ばした。ピシャッと音を立てて、水滴が壁を濡らす。
なかなか行儀の悪いことをしているけれど、隣からはお叱りは飛んでこない。
見れば、口を開こうとするたびにすぐ閉ざしてしまっている。
まあ、何も言えないよな。コイツらにだってなにも関係ないんだから。
「なぁ……教えてくれよ。自分が動いた結果は自分にしか背負えない。お前らだって、俺たちではなく星見キクのせいだって無視してたのに、なんで馬鹿みたいな理論で関係ない奴に責任を押し付ける。
なんでハツカを巻き込む。やめろよ。やめてくれよ。嫌だよ。アレは全て俺がした事なんだ。俺以外はしなかったことなんだ。俺にしか背負えないものなんだ。だからやめてくれよ。ハツカはハツカだ。俺は俺だ」
捲し立ててごめんね。
本当に分からないんだ。個人主義の権化だとか、自己責任論の極論だとか言われても仕方ない。でも、結局はそうだろ。オバさんだけに世話をさせた挙句、父親として昔の俺をなにも咎めなかったくせに化物呼ばわりは一丁前にするオジサンがいる。子供を金をせびるためだけに使う老夫婦、守銭奴もいる。
オジサンは関係者だったはずなのに何も言われなかったみたいだし、俺が叫び声をあげていて気づいていたらしい隣人たちも罪には問われなかった。
結局のところ、全ては個人間の責任でしかない。
誰かが他の誰かの責任を負うなんてありえない。
もし、奴らの言うとおりならハツカが殺されるのは当然になってしまう。
「……はぁ、嫌なことを思い出した」
湯船から脚を出す。サウナにも入りたかったけど、やめておこう。今日は俺も、士季にも頭をのばせさせるメリットはない。脚を洗い足早にここを去ろうとして、背後から追い縋るような水音がした。
振り向いたと同時に眉間に拳が迫ってくる。反射的にのけ反ると右耳の真横を通り過ぎていく。殴りかかってきた士季の顔が見えた。苦々しい顔つきで、なぜ攻撃できるのか分からないほど苦悶していた。
自分達の論理の破綻具合が分かったのだろうか。
左脚を軸に回転しながら士季から距離を取る。
「だったら、なんで蘿蔔さんに会いに行かない」
どうやら違うらしかった。
「別れようと言われた。なら、俺に拒否権はない」
「未練タラタラのくせに簡単に従っちまうのかよ」
「ハツカの意思に俺の意思は関係ない」
「蘿蔔さんが決めたことならそれでいいってか。お前はそれでいいのかよ」
「いい。ハツカには十分過ぎるほど色々貰ったから、ハツカが自分の道を定めたなら無理やり変えることはしないし、できない」
士季は呆れた様子で首を振る。次第に諦めの顔になっていくのは、なんだよ、俺が何かしたのか? なんでお前が失望するんだ。
「……ショウは、蘿蔔さんのことをどう思ってるんだよ」
「大切な人で、俺の女王様だよ」
そこも、初めて血を吸われた時から変わらない。
だからせめて別れるって言うなら、殺してほしかった。
「ハツカに嫌われたことが死因なら立派な理由だ。元々俺の命はハツカのものなんだから」
死ぬ時に美味しいって言ってくれたら、俺はようやく幸せになれると思うんだ。