よふかしのあじ   作:フェイクライター

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第百捌夜「抜きにして」

「ああ、ショウの匂いがする」

 

 枕に顔を埋めながら理世が言った。

 風船が風に乗って浮遊するように、視線を上げたり下げたりしながら周囲に潜らせた。目的のものを見つけてそこに紐付けされる。ベッドのそばに置かれたデジタル時計だ。まだから遮られることなく日差しに照らされた時計は、当たり方が悪いのか反射して読みにくい。

 

「9時10分よ」

 

 時計の向きが少し傾けられて、俺からも読めるようになった。

 平日の朝である。普通なら学校にいるはずなのに、辺りを見れば見慣れた俺の部屋である。大丈夫か? 神崎が聞きつけて、ハツカに矛先を向けないだろうか。連絡入るなら先にオジサンになるのか? 今まで気にしたことない。でも緊急連絡先みたいなのには神崎のものが書かれていた気がする。ハツカ大丈夫かな。

 手に持った早退届けを見て、俺は考える。

 なんで俺まで早退扱いなんだ?

 別に俺は病気でもなんでもないぞ?

 

「–––う? ショーウー?」

「あ、え。ごめん、なんか言った?」

 

 思考の湯に浸かっていると声の矢声が飛んできて、慌ててそれを掴んで矢を放った本人に意識を向ける。

 

「なにボーっとしてるのよ。紙の裏、見なさいよ」

 

 促されたまま反対側を見てみると、そこには走り書きで『親には連絡しないから安心して』と書かれていた。

 吉塚先生は学校内で俺の過去を知る唯一の人物だ。自分から話したわけではない。こっちに転校してくるにあたって、入院履歴やカウンセリングを受けている経緯を彼に伝えることになったからだ。終わったことを口にしなきゃいけないのは億劫で、去年も今年も散歩ついでに行く意識でカウンセリングに行ったが、吉塚先生は何を話したとかは特に触れようとせずに『分かった。お疲れ様』とだけ言ってくれる。

 あの学校でたったひとりのマトモな先生だ。澤さん含めたらふたりかもしれない。

 肩の荷が降りてホッとするが、別の意味で気まずいことになる。

 理世にバレてるってことじゃん。けど、マハルにもバレてるし……深いところまでは知らないだろうから無視しよう。

 

「にしても、なにもないわねえ」

 

 理世は俺のベッドに横になったまま辺りを見渡した。

 

「悪いな。変なものを見せて」

「なんで? ショウの家でしょ。他の誰でもない貴方の家に来れて私は嬉しいわよ」

「……」

「なんか置いていい?」

「いいけど。ずっとはダメだぞ」

「分かってるわよ」

 

 理世は嬉しそうに微笑みながら制服のカーディガンのボタンをひとつひとつ外していき、その下のシャツに手を–––––『ふむ。おっぱい大きいよね』『揉みます?』。不意にハツカとミドリさん、そして理世の会話を思い出してしまった。

 顔がカッと熱されたように茹って、ベッドの上にあるシーツを理世に向かってぶん投げた。

 

「隠せ!」

「え、なに?」

「人がいる前で脱ぎ始めるな!」

 

 投げた勢いのままベッドに背を向けながら言う。代わりにニヤニヤを伴った声が飛んでくる。

 

「もしかして私の裸、想像したの?」

「いきなり脱ぎ始めたらそう考えるだろ!?」

「へぇ……女として見られてないと思ってたわ。なら、もっと見せてあげる」

 

 言い切ったところでガサガサと音が大きくなった。

 今度は俺の頭に何かが被さった。隣に座ってよく嗅いだ匂い。陽の光を沢山吸った天日干しの香りというよりも、暖かい光そのものみたいな香りが全身に降り注ぐ。ハツカみたいな艶やかというか淡い香りとは違うけど、安心できる香りでもあった。

 かけられたそれを手に取ると、やはり理世の服だった。ため息を吐きながら投げ返そうとしたところで、その服は四つあることに気がついた。ふたつは先ほど脱いでいたカーディガンとシャツ。残り二つは肌着とスカートだ。白い靴下もある。

 

「……」

「ショウ?」

「お前どんな姿?」

「裸––––て、しょう!?」

 

 言語化できない咽せ方をしてしまい、驚愕のあまり理世が叫んだ。背中をさすられるが、その本人は下着ないしは言葉通りの姿ということだ。

 

「なんでさらに脱いでるんだよ!」

「ショウは振り向かないでしょ?」

「スマホの自撮りで見てやるぞこの野郎」

「…………」

「困ったな……みたいな間を作らないでよ!?」

 

 勢いだけで行動しすぎだろ。

 

「わたしね。熱があるから早退したじゃない?」

「まぁ……一応」

 

 全くその様子は見受けられないけど。

 

「でね。熱になった時は好きな人を好きな格好をさせると治るんですよ」

「興奮と体温が釣り合って誤魔化されてるだけじゃ」

「シャラップ!」

「悪い……いや、つまりは俺に理世の制服を着ろ、と?」

 

 背後で頷いた気配がした。

 

「蒼にはメイド服姿を見せたんでしょ? だったら私の服を着て見せてよ」

「いいだろう」

「あら、意外な素直」

 

 強請りながら理世が言うと俺は頷いた。

 拒絶するかと思っていたのか、頓狂な声が強請るような甘い声に代わって口を衝く。面白味がないとでも言わんばかりの声色なのは、俺が嫌々言うのを見るのが好きだからだろうか。

 理世ですら、相手の反応を楽しむのだから、善悪問わず娯楽の一部なんだと受け止める。あの爺婆たちと違って、ハツカと理世には拒否感はない。

 

「投げ返して欲しかったか?」

「いいや。返されても着ないし」

「……なに着る?」

「ショウの服しかないわよね」

「だよなぁ……」

 

 クローゼットを自室に置かなかった昔の自分に感謝しながら、理世の服を持って部屋を出る。テーブルにどさっと制服を置いてから、適当に理世の服を見繕う。カーキのシャツに、ゆったりとしたシルエットの白いストライプパンツ、そしてジップアップのパーカー。極力ドアの開閉も狭い隙間に留め、ベッドの位置へ投げ入れた。

 バサっと広がった音がして、『おっ……』と理世が掴んだのが閉じたドア越しに分かった。閉じた向こうから声が飛ぶ。

 

「部屋着じゃないの?」

「どうせ、この後出てくつもりだろ」

「ありゃ? バレてる」

「でも一応早退って扱いなんだから、女装見たら夕方ぐらいまではそこで寝とけよ」

 

 許可があるとはいえ、体調が悪いわけでもない。送り届けてました、と正直にいえば問題なく授業に参加できる。不調は何もないのに休むというのは、なんとなく変だ。わざわざ破る必要がない。

 

「ねえ。帰る前にさ……デートしようって言ったの覚えてる?」

 

 足音もなく声の距離がドアの壁一枚分になる。突然のことで驚いたが、デートという内容にも少し驚いた。遊ぶなら休みの日でいい筈。『ああ』と肯定して、続きを待つ。

 

「学校になんとなく行くのと、私と一緒にいるのどっちが大切?」

 

 答えを少し迷ってしまう。

 学校をサボるというある種の特別感。『俺も今まで以上になれるよう努めるから』と約束したが、急造の演出をしなければ良くなっていないと思わせられなかったということか。ハツカとばかり居たからだろうか。なら、約束を果たさなきゃ。

 

「約束とかルールとか抜きにして、日常と私、どっちが大切?」

 

 だというのに、俺の思考を見透かして否定する理世に俺は頭が追いつかない。

 約束抜きで、当たり前を抜きにして、考えて––––どっちを取るか。

 

––––……ハツカ。

 

 何故だろう。背中を向けているのに悲しいと理解してしまえるほど、丸まったハツカの背中が脳裡に浮かんで、理世に失礼だから必死にかき消した。

 特に何もない日常に、笑顔を生み出せるなら。

 俺が選ぶべきは一つに決まっている。

 

 

 

 

 太陽で温まってきた生ぬるい風が正面から襲いくる。それでもまだ温まっていない空気は冴え冴えとしていて、服の隙間から身体を指してくる。この冷気の中で残滓汗まみれになるほど努力している蒼を思い出して、すごい熱量だと感心していると、その中へと押し込むように背後から声がした。

 

「ありがとうございましたー!」

 

 振り返るとそこに立ち並ぶのは売り出したい商品を着込んだマネキン。服屋なわけだが、マネキンを見ていると俺もハツカにもオモチャにされたなあ、と記憶が鮮明に蘇る。

 ハッキリと思い出したのには訳があって、先程まで理世の、いや理世たちのマネキンになったいたからだ。手に持った紙袋の中身を見る。ピンクと紺の派手な装いが垣間見える。女性物の服である。

 

「俺は俺の似合う姿がわからない……」

「可愛いんだから何でも合うじゃない」

「地雷系……? だっけ、あの定員たちが溢してたけど」

 

 マネキンたちの隣。鏡ばりの壁の向こうで、店内から女性定員ふたりが理世に向かって丁寧なお辞儀をしていた。マネキン同様に綺麗な服を身につけた女性たちを見た理世は『やっぱりマネキンって良いわよね……』と呟くと、寒そうに首をさすりながら答えた。

 

「私からすると、ショウにはもっと周りの目を惹くようなファッションをして欲しいのよね」

「いま俺が着てる服も充分目を惹くと思うんだけど」

「制服だからねえ。それとはまた別の意味よ」

 

 制服を着込んだ少女–––俺は男だ–––が、平日の昼間から出歩いているのだから、周囲から怪訝な目を向けられるのは仕方ない。店でも街でもどうしても目についてしまう。

 いっそのこと、この派手な服を纏ったほうがいい気がする。

 

「ダメよ。今日はたっぷりとショウに私の匂いをつけてあげるんだから」

「……犬の求愛行動みたいだな。にしても理世は何も買わなかったけど、今度買う目星ぐらいはつけたのか」

「冬物はそれなりにあるのよね。マフラーぐらいかな」

「マフラーね……」

 

 寒そうに首元を撫でる理世。綺麗な肌色がそこだけ寒さにやられて赤くなっている。

 柄、なにが好きかな。

 横目で眺めていると、俺の右手を包むように温もりが伝わってくる。その暖かさに引っ張られて俺の足は自然に動いた。

 

「次はゲーセンに行きましょ!」

「あちょっと」

 

 手を引かれたまま、また次の遊び場へ。

 踏み入れたゲームセンターは店頭の看板まで丁寧に磨かれた綺麗な真新しい店だった。看板や外装自体は所々傷があり年季が窺える。格闘ゲームの筐体や人気作品のカードアーケードゲーム、この間のアミューズメントパークにも置いてあった画面にタッチする音楽ゲームなどなど。中には綺麗な店に似合わない少し寂れたレトロゲーム群まで。ガタが来ているのか、『乱暴な取り扱いはしないでください』と張り紙されている。

 平日だと言うのに若者から大人までそれなりに人数がいて、騒々しさが独特の雰囲気を作っている。

 

「なにやる? ダンス?」

「今日は一緒にやれる奴がいいな。ふたりきりが良い」

「ならシューティングで肩慣らしするか」

「いいわね」

 

 少し奥へ進んでひとつの部屋を作っているボックス型の筐体に入る。座ってカーテンを閉めると、ゲームのスクリーン以外明かりがなくなる。『暗っ』と思わず呟いてしまうほどで、真隣にいるはずの理世のすらハッキリクッキリとは見えない。頼りの画面光もホラーテイストのゲームの為か心許ない。でも、少しの光でも輝くような金髪のおかげでどこにいるのか分かる。

 だから顔も、分かる。

 見知った美しい横顔だ。見知った天真爛漫な感じとも凛然とした様子とも違う。昏い光のおかげか唇が妖しくぬめっている。

 指を伸ばせば、やはりそこにあった。細やかな前髪をつまみ、おでこに触れてそこから眉間へ、そして鼻、唇、顎と下っていく。ハツカと違うけど、綺麗だ。

 ハツカはどっちもある。

 理世は女で一番––––

 

「ショウ?」

「あ、悪い」

「なに? 私に見惚れてたの」

 

 ニヤついた声が耳元に返ってくる。横目で見ると輝きが遠かった。こちらに顔を向けたらしいが、見つめてくるのは普通の顔だ。なんだ。さっきはもっと綺麗な気がした。

 モヤっとした感覚が胸の内で苛む。

 

「……うん」

「……そう」

 

 それでも見惚れていたのは事実だから、ありのままに頷くと、理世はぎこちない所作でスクリーンへ視線を移した。垣間見た表情が凄かった。おれの反応にありとあらゆる感情がかき混ぜられかのような顔だ。喜怒哀楽全てだ。その全てが俺の手の中にあるような錯覚が一瞬でも訪れた。

 ぎこちない雰囲気の中でそれぞれの席の前に備えられた銃を構える。

 ゲームが始まると現れるゾンビやクリーチャー達にかかりきりなって、ひたすら撃ち殺していく。聞こえてくるのは銃声と断末魔。劈くような不快な音も今回ばかりは無音を取り持つ緩衝材ぐらいにはなってくれた。

 お互いゲームのことだけ考えていたから、完全クリアを果たした。

 問題はここからだ。

 カーテンを潜り抜けて外に出ると、どうしても間にある静寂が気になってしまう。もう一度理世を盗み見る。今度は横顔だ。すごく綺麗だ。靄は霧散して、見入ってしまっている。

 少し後に気づいたのだが、俺も理世も立ち止まってずっと横目で相手を見ていた。

 

「わ、私、すこしお花摘みに行ってくるね!」

「あ、ああ。俺はUFOキャッチャーとかしてくる」

「出たら連絡するね」

 

 顔を背けながら足早に去っていく理世に残念な気持ちもあったが、正直ホッとしている。今の自分が理解できていない。何を考えて顔に触れるなんて軽率な行動をとったのか。

 多種多様なUFOキャッチャーが雑草のように並ぶ中を歩く。喧騒の中に身を置いても、雑音は思考を邪魔することすらできない。

 いまさらだ。本当に今更なんだ。理世が綺麗だなんて小森中学に来た時から知っている。にも関わらず、今になって妙に意識してしまっている。数日前には顔を揉みくちゃにして『楽しいー』ぐらいにしか思わなかったのに。

 奇妙な意識の変化。

 

「まさか……これが、恋?」

 

 と、自問してみて速攻で『ないな』と首を振った。

 この程度で恋するなら、初めてハツカに血を吸われた時点で俺は眷属になっている。衝撃度。絶景度。星を背にしたハツカほど美しいものを俺は知らない。

 だとしたら––––

 

「ハツカに捨てられたから理世に乗り換えってこと……?」

 

 ––––マジで最低すぎる。

 

「11時半……さっき来たばかりだけど飯にして帰したほうがいい気がする」

 

 腕時計を視界から外す。

 吸血鬼だったら悩まずに、どっちも、って答えられるのに。いや、ハツカは元から吸血鬼だし。俺の眷属にはできないじゃん。まず人を手中に収めようとする発想自体どうなんだ。コウやアッくんさんみたいな独占欲は肯定するけど、俺の感覚は違う。もっと悍ましくて気味が悪い。言語化ができない。

 そこにたどり着いたらいけないって直感がある。

 大切を知りたい今の状況とはまったく逆の位置にあるもの。

 でも、同時に【相手も自分も独立した上で手を合わせる大切】とは真逆に位置する大切でもあった。それは【相手を依存させて壊させる大切】で、星見キクと……昔の俺が持っている思想と同じものだ。

 それではいけないと首を振る。

 振っていると動く視界の中である物を見つけてしまう。透明な壁の向こうに転がる丸っこいものに俺は視線が釘付けになってしまう。

 

「あぁ……」

 

 ザワザワザワと胸の内が騒いだ。

 ゾクゾクゾクと強烈な何かが脊髄から神経の末端までを駆け巡った。

 あの時は遊びだから許されたはずなのに、

 

 

 カラン、と落ちる。

 井戸の中で何かが跳ねる音に似ていた。

 ひとつだけ方法がある。

 

 

 

 

 案内板に従ってトイレの近くに行くと、ちょうど理世が出てきた。制服姿なのもあって俺は目立ったらしく、足を止めることなくそばに駆け寄ってきた。

 

「結構取れてるじゃん! なにやったの?」

 

 理世が最初に視線をやったのは増えた紙袋だ。理世が出て来るまでに景品を取るのは造作もなかったから、何個か手に入れてきたのだ。俺は紙袋の中からまずひとつだけ理世に手渡しする。

 手のひらに乗せれるほどの小さなぬいぐるみ。少し虹色がかった真紅を基調にした身体に角を持ち、胸には青いマークがついている。ウルトラなぬいぐるみである。

 

「え、いいの!?」

「理世のために取ったんだから」

「ありがとう! ゲーミングタイガ持ってなかったのよね!」

「レインボー……」

 

 ぬいぐるみだから仕方ないが、得物である剣を持っていないので今度作って渡す––––と言うと、また理世が喜んでくれた。華が咲いたかのような笑顔が観れるとこっちまで嬉しくなる。

 ……普通、大切ってこの笑顔にすることだよな。

 喜ぶことをしたり、共有した目的を一緒に果たす。でも笑顔にすることが違うなら、試してみるしかない。

 

「他にも取ったのあるから、このキーホルダーとか」

「涎垂らした子猫かわいい!」

 

 気持ちを落ち着かせた俺たちはそこから小一時間ほどゲーセンの中を満喫した。太鼓の奴やホッケーの奴、理世が何故か腰につけていたホルダーから取り出したカードでライダーのゲームをしたり、コインゲームをしているとあっという間に過ぎていったのだ。

 

「なんでホルダー持ってるんだよ」

「カード系ヒーローの嗜みでしょ」

「お前、学校に持ってきてるか?」

「新弾が出たら帰る足でやりにいくもの」

「余裕ある生き方してんなぁ」

 

 昼飯にしようと外をぶらついていると目ぼしい物を見つけた理世が指をさした。俺は首を傾げてその看板を見た。確かに喫茶店ではある。名前に喫茶とあるんだから、間違い無く飲み食いもできるのだろう。

 

「けど、なんか、ここなの?」

「いいじゃない、漫画喫茶。最近は便利よ。漫画もあるし食べ物もそうだけど、サービスによってはここで寝泊まりも出来るわよ」

「へぇ……」

 

「いらっしゃいませー」

 

 頷きながら二人で店に入ったものの、金銭以外は先駆者である理世に任せて、通された部屋は狭かった。パソコンが置かれたデスクに、自前の紙袋もあるから更に肩身を寄せ合う必要があった。

 黒いフラットなシートに座り込む。俺は木目の壁に背中を預ける。

 どう考えても一人用の部屋としか思えないここで、向かい合って話そうとするなら、どちらかが脚を伸ばしてその上に股がらなければいけない。しかも、ハツカとミドリさん曰くデカイらしい胸が俺の胸元に当たっている。確かに柔らかい。

 

「なあ、別に横に座ればよくないか? わざわざ俺の股の上に座らなくても」

「だって私たち、今はデート中なのよ。好きな人に仕掛けられるチャンスがあったら攻めに行くわ」

「そ、そうなのか」

「ちゃんと顔をこっちに向けて」

 

 グイッと顎を持たれて、顔を固定される。

 心地よい香りがする。ハツカとは種類が違う。心地よいより温かい。似ているようで違う香り。ふたりとも俺にとって安心できる匂いなのは間違いなかった。

 

「好きな人が自分に照れてるのを見るってこんなにも嬉しいのね」

 

 真正面から好きな人って言われると返答に困る。それが恋愛的に好きだと知っている照れ顔を隠さない相棒なら尚更で、どう触れていいのか全くわからない。まずデートといっても、ハツカと一緒にいる時と大差ない。あるとしたら、相手の趣味を殆ど把握していることぐらいだから、戸惑うほかない。

 でも不思議なことに、告白された時のような嫌悪感が湧くことはなかった。

 

「私と顔を寄せ合うのは、真正面から見るのは好き?」

「好きだよ」

 

 もっと言えば横顔の方が美しいと思う。

 この違いなんだろう。同じ顔だというのに、横と正面で違いがあるとでも言うのだろうか。

 

「なにか不満がありそうね」

「……気持ち悪いかもだけど」

「うん」

「俺、理世は横顔が一番好き」

「正面は?」

「……ハツカが一番好きです」

 

 理世は照れた顔のままムスッと不機嫌さを露わにすると、俺の肩を下へ押し込んだ。ズルズルと下がっていく身体は理世の股下を潜りながら、ついに背面全体がピッタリ黒のシートに沈み込んだ。

 俺の腹部に腰を下ろした理世は口元を隠すように手で拭う。まるで食事を前に垂らした涎を拭う猫か犬のような仕草。口周りを綺麗にすると、上体を倒してきた理世の顔が再び眼前に迫る。

 さっき見つめ合っていた時よりずっと近い。

 

「えーっと、これはどういうことでしょうか?」

 

 戸惑いが破裂するギリギリで俺は問いかける。

 理世は少し震えた声で言う。

 

「もしキスしてってお願いしたら、してくれる?」

「キス……」

 

 俺が、理世に、キスをする。

 頭の中で蘇るのは、偶然ハツカと唇を合わせてしまった時のこと。

 偶々だった。

 でも、戸惑い以上に嬉しかったことも覚えている。いってらっしゃいと言われた時と同様に嬉しかった。

 

 別にすればいいじゃないか。

 理世にキスすることが嫌じゃないんだから。

 別にやっても誰も咎めないよ。

 ハツカだって俺以外にもキスしてるんだから。

 別に深く考えるなよ。

 何気ない事を特別視することはやめた方がいい。

 

 でも、

 

 やってもいい理由はたくさんあるけど、全てに『でも』がついて回る。

 

「そっか……ダメなんだ」

 

 一瞬、理世の顔色が沈む。暗い色になってしまって、胸が締め付けられる。自己の考えなんて捨てて、理世がやりたいようにしてやれば良いんだ。自己中過ぎたんだ。自分の戸惑いや拒否感なんて無視して相手のやりたいようにやらせてやればいいんだ。

 それが士季の言う、大切、なんだから。

 でも、今まで碌なことなかったよ。

 

「でも」

 

 その言葉がついて回るのは自分だけじゃないらしい。

 眉と眉が擦れ合うほど近くに理世の顔があった。

 これも今更だが、俺は理世を一度振っている。けれどフラれたという話しが出回ったあとも、俺たちは一緒にいるわけだ。つまり、理世にとっては先ほど口にした通り、『仕掛けられるチャンスがあったら攻めに行く』だけなんだ。

 諦めの悪さも理世の好きなところだ。

 

「……」

「そんなに嫌なの?」

 

 けど、理世の唇の柔らかさが捉えたのは俺の口元ではなく割って入った俺の指だった。シーッと理世に静寂を求めるように人差し指が力強く立ち塞がっている。

 

「なんで俺にキスしようとしたの? ダメだって分かったのに」

「自分のしたいが一番大切だもの。それに迷ってるなら、やってみてから話を聞いてあげようった思ったの」

「俺は理世にキスされるのは好きだと思うよ」

 

 理世は驚きで顔を張らせながら怪訝そうな目で俺を見下ろす。

 

「理世の大好きを理解するなら俺はキスが一番嬉しいと思う。けど、今はハツカと事情があって恋愛ゲームしてるんだ。どっちが先に堕ちるかってゲーム」

「……知ってる」

 

 なんで知ってるんだろう。

 メイド喫茶で会った時にでもハツカが邪魔されないように牽制したのかもしれない。

 

「だから、決着するまでキスはハツカ用に取っておきたいんだ。理世と付き合ってるのにキスを他の誰かへの売り物にしたくないし、もし俺がハツカを好きになった時に安易にできるものにしたくない。ちゃんと恋してるって自覚しながらやりたい」

 

 ハツカが聴いたら『余裕がないね』と鼻で笑いそうな気がするし、理世には『もっと馬鹿になりなさい』って怒られる気がした。怒られるのは杞憂だった。

 

「そう……今の私じゃダメなんだ」

「今の俺は理世を恋人として見てない。少なくともゲームの間は」

 

 理世は残念そうに肩から手を離す。その遠ざかろうとする手を俺が押さえ込む。

 

「それでもキスがしたいって言うなら、一つだけ俺の提案を呑んでくれたらいいよ。好きなだけキスしていいよ」

「………? なに、それ」

「理世が俺のものになること」

 

 右手を伸ばして壁際に置いた紙袋を倒した。その中から真っ赤な輪っかが顔を出す。目にしてしまった理世が呟いた。首輪、と。全身を驚きで震わせながら俺を見下ろす。視点では理世の方が高いのに、精神的にはまるで違う。

 俺が理世を見下ろしている。

 

「いつの間にこんなもの」

「景品だよ。さて、理世は一応俺のことが好きだって公言してるわけじゃん」

「好きだもん」

「だったらなんでマヒルにちょっかいかけたの?」

「え、なんで知っ–––」

 

 慌てて口を塞いだが、漏れたものは二度と戻ることはない。

 

「マヒルの彼女さんが言ってたんだよ。知らない女の匂いがするって。不愉快な匂いだって」

 

 星見キクと協定を結んだあと、聴いた小話だった。マヒルの近くにいる女子は今だとアキラぐらいだけど、彼女さんは一度会ってるから違うって明言してた。あのタイミングでマヒルに女の匂いがつくとしたら、直前までマヒルと二人きりの時間があった理世ぐらいだ。

 

「俺から簡単に乗り換えられる程度の好きだったんだね。フッた側だから文句を言うつもりはないけどさ」

「あ、いや……まって、違うの。ただからかっただけで」

「揶揄うために身体に匂いが染み付くようなことをしたんだ」

「……あ、あっあ、でもね」

「いいんだよ。理世の自由だから。でももし、俺が好きだって言うなら」

 

 俺は首輪を手に取って理世に差し向ける。

 

「首輪をつけて、理世が俺の物だって証明してみせてよ」

 

 理世の目線が吸い寄せられるように首輪に留まる。1分ほど釘付けになってようやく口を開く。

 

「もしつけたらなんでもしていいの?」

「節度を守ってくれる間ならね。好きなだけキスすればいいよ」

 

 視線が首輪から俺の唇に移る。

 

「でも、キスはキスなのよ。しちゃっていいの?」

「さあ、何故だろうね」

 

 だってペットにキスされた程度でハツカは怒らないでしょ。眷属(ペット)と恋人は違うんだから。

 けど、飼い主はペットを見捨てない。

 死ぬ瞬間、最後の最後まで大切にする。

 その一線を護ればきっと。俺は星見キクでも昔の俺でもなく、蘿蔔ハツカに近づける。

 

「……ショウのものにして、私もショウを私のものにするから」

 

 理世が綺麗な首元を晒す。傷ひとつない美しい柔肌は、ハツカと同じく尊いと感じさせるほどの逸品だった。この肌に自分の印を刻めたらと思うとザワザワする。

 首輪で理世の首を締め付ける。

 圧迫された肌が赤くなっていく。理世が喉を震わすたびに小さな鈴が鳴る。

 

「これで理世は俺の物だ。ハツカにも誰にも渡さない」

 

 聞き終えると同時に、理世の顔がアクセル全開で俺の顔を捕獲した。

 

 

 

 因みに漫画喫茶は静かだ。

 本来マンガを読んだり、茶話をしたりする場所であるから当たり前だ。だから音はよく通る。

 とある個室から水音が響くのを咎めにきた定員が、数分後その個室の前で笑顔で昇天していたのを別の定員が発見したらしい。




レインボーストリウムの人形ではないかな
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