第百二十捌夜「キミがやったみたいに」
おかえりー、とここ最近聞き馴染み始めた声がした。
エプロン姿で出迎えてくれたのは私が好きな人。疲れを隠した声ではなく羽が生えたように軽やかな口調は、私がいない間になにか良いことでもあったのではないか、と嫌な気持ちになる。
黒々とした澱みの根源である同級生。吼月ショウは部活帰りの私にまるで夜ご飯ができたと呼びかけるように、憂いも後悔もなく宣告する。
「俺、期限が過ぎたら蒼としっかり別れるから」
無慈悲な宣告だったのに、悲しくも腑に落ちてしまった。
分かっていたことだから。
愛されていないって。
☆
ぷっくりと赤く膨らんだ袋を見下ろすと、澱んだ汚い錆色に見えた。手渡してくれたその人は背中を向けたまま、新鮮よ、と断言するのだけれど釈然としないまま
飲めば不快感のない喉越しを感じて、不味くない、と首をふれた。それだけだ。乾きは薄らいだけれど満足までは程遠い。
「ご馳走様、ありがとねカブラさん」
「礼のわりには口がへの字に曲がったままよ。もう少し上手く取り繕いなさい」
「顔に出てた?」
「しっかりとね。結構切羽詰まった様子だったから渡してあげたのに」
「気をつける」
「できることなら感謝第一にしなさいよ」
片付けをしながら顔だけこちらに振り向いて、普段と変わらない冷えたグラスのような温度の視線が飛んでくる。せっかくの血に文句をつけるのはよろしくない。道徳的に正しいのだけれど、だからといって食欲という素直さに嘘はつけなかった。
だから納得と抗議がまぜこぜになった視線を返して、見慣れない服装の彼女に言う。
「ナース服姿のカブラさんを見るのって意外に初めてかも」
ここ小森第3病院の一室に居座る彼女––––本田カブラの姿を改めて見る。ダウナーな雰囲気の彼女がナース服という白一辺倒の明るさにつつまれているのを眺めると、目眩を覚えるほどクラクラする。理世とは違う趣向だけれど、確かに欲しいかも、とちらりと押し込められた胸元の脅威を目をやってすぐに顔に動かした。彼女はこちらを向き直って、デスク下から引っ張り出した椅子に腰を下ろした。背もたれに身体を預けながら、椅子の頭を右へ左へ振らせる。
彼女の首に主人の証は着けられていなかった。
「出てくる言葉がそれなの。……まあ、職場で会うことないものね」
「今までは来る理由もなかったからね。血は自分で採れたし」
「じゃなに? 落とせなくなったとでもいいたいの。情けないわね」
「は? 違うが」
「だったらなんで来たのよ」
「……舌が肥えたの」
負け惜しみではなく事実だった。
非常に腹立たしいことだが見ず知らずの誰かの血を飲んだからこそ、ショウの血が舌によく馴染むのが実感として身に染みる。あの子が吸血鬼にならない限りこの欲は無くならないだろうという、嫌な予感があった。嫌なのはきっと、僕があの子なしでは生きられないみたいに思えてならないからだ。
「そういえば貴方、ナズナと同じで中学生に手を出してるんですってね。多感な時期だから味の濃さもバリエーションも豊富なんでしょうけど……試したくなるわね」
「頼めばもらえるんじゃない」
「……やめさせないの」
「あの子が隠れてやってることなんて分からないし」
「ふーん……」
なにか面白いものを見つけた様子のカブラさんは微笑んだ。
「妬いてる?」
「ムカついてる」
「同じじゃない」
「違う」
手放したらすぐに誰にでも血を渡す薄情者だったんだと苛立ちを覚えただけで、彼以外の誰かに妬み恨みを募らせるなんてあり得ない。自分の血を試験管に入れ時葉たちに持たせて帰らせてきたときは、煽っているのかとしか思えなかった。
僕の血がないとハツカは生きていけないでしょ?といわれているみたいだった。
ムカつく、グチャグチャにしてやりたい。
「……ふぅ、はぁ……」
「息、気持ち悪いわよ」
「キモくない」
ムッとして棘をつけた物言いで否定する。
「ハツカ、もしかしてなんだけど」
「なに?」
「その子のこと性欲で見てるの?」
尋ねられた僕の中に以前からショウに感じていた劣情感がクッキリと浮かび上がってくる。顔が好みで、いつもは大言壮語を振り撒く一面の奥になるあざとさ混じりの幼さを見ると欲を感じずにはいられない。
七草さんにも感じた、ベロチューしてやりたい気分である。
「あぁ〜〜、性欲でも見てる、かも」
「相手は中学生よ」
「でもさ、好みの顔で人としてそれなりに好ましい性格もあって、気に食わない奴をベロチューでぐちゃぐちゃにしてやりたいって普通じゃない?」
「ああ……キスね」
拍子抜けしたみたいに肩をキョトンと落とすと、くるりと回転してデスクへ向かって置かれた紙をパラパラとめくっている。突然顔を背けて誤魔化すように紙をいじり続ける彼女は、どことなく居心地の悪そうな雰囲気を僅かに醸し出している。
「…………」
「……もしかして僕がショウを押し倒してやりたいって勘繰った?」
「……」
「思ってるよ」
「思ってるの!?」
グワンと音を立てるほどに髪を散らしてこちらに向き直ったカブラさんは心底驚いていて、かえって僕はキョトンと困惑をこぼす。
「そんな驚くこと? 第一、人間と同じやり方で子供を作れるって教えてくれたのカブラさんじゃん」
「前提として、吸血鬼が人間的な性欲を覚えるのが珍しいのよ。吸血で済むことだし、私が知る限りひとりだけよ」
「七草さんのお母さん?」
「そうよ」
渋い顔で言うものだから七草さんの母親と何かあったのだろうか。想像してみて一つだけ可能性が浮かんだが、わざわざ口に出すことでもなかった。加えて、僕よりも早くカブラさんが言葉を繋いだのもあった。
「でも貴方の眷属候補、男の子じゃなかったかしら」
「そうだけど」
「貴方、本格的に
「僕は昔から変わってないよ」
側から見れば同性好きに映るなのは間違いない。けれど、僕はショウに恋慕を抱いているわけでもなく男が好きと言うわけでもない。僕は僕。ショウはショウ。男性だとか女性だとか区別なく、面白おかしく僕らは姿形を変える。
僕が望めばあの子は男の姿にでも女の姿にでもなってくれる。
その裏返しであの子にとって魅力的に映るのであれば、僕もまたどちらの姿にも様変わりするだけだ。
「今も昔も僕の好みをとるだけだし」
「相変わらず変な関係ね」
「変なのは最初からだしね」
考えてみると螺旋を描くように一周した気がする。興味が湧いて血を吸って、逃げられ小馬鹿にされながら恋愛勝負になって、油断できない子だと認識して、過去を知って余計に放っておかなくなって、なのに彼はこっちの心配には無関心で、それでも無法者な彼に興味がある。
変わってるようで変わってないような。
曖昧な関係だ。
「僕らってどうなると思う?」
「その子を眷属にする。それ以外にないじゃない。私たち吸血鬼だもの」
「……普通はそうなるよね」
吸血して眷属にする。
それが自分の気に入った相手でも、吸血鬼の存在を知ってしまった子供であっても変わらないことだ。今まで通り、いつもどおり、何も変わらない。何も悪いことなどない。
「実際どうなのよ、その子との進展は。最近別れたって聞いたけど」
「
「あれでも吸血鬼としても上司だからね。話はしてくれるわ……で、どうなの」
「多分、血を吸えば眷属にできる」
「じゃあ油売ってないでさっさと吸いに行きなさいよ」
ごもっともで頷くしかないのだけれど、今までの当たり前に釈然としない気持ちが胸の奥にポツンと目立つところに置かれている。それはボールのようで、入れておくゴールがあった。
「どうしたの? どこか変よ」
変ではない。
ただ今の僕は、
「ゴールの決め方を少し工夫したい」
「……?」
うん。行き着く先は僕のものになる、だとしてもそれまでは別の楽しみ方をしていたい。
「彼の処分は結局吸血鬼側にいるかどうかでしょ。それは無理だと思う。あの子は……絶対的に傲慢で、徹底的に独善者だから。あの子はキミらの思い通りにはならない」
「冗談でもニコちゃんに怒られるわよ」
「いいんじゃない。あの子の願いの至るところは、究極的にニコちゃんもどうにかしなくちゃいけないわけだからね」
あの子の理想は人間と吸血鬼が平穏に暮らせること。同時に各々の征きたい道を示すことなら、人間が吸血鬼を、吸血鬼が人間を許容できるようにしていくしかない。
吸血鬼殺しも巻き込んで全部僕らのものにする。
「その子とどうなりたいの」
「どうなりたいもなにも、あの子を僕のものにする。その過程で他すべてを手に入れる必要があるならするだけだし、新しい楽しみを見つけられるかもでしょ」
そこにはきっと人間と吸血鬼が揃って上に立っている必要がある。
「せっかく永く生きるんだ。楽しみを作って損はないでしょ」
「吸血鬼になれるのは一年だけよ。長々と時間がかかることできるわけないでしょ」
そうだね、と僕はニタニタ笑いながら頷いた。
普通ならカブラさんが正しく、楽しみなんて悠長なこと言わずに吸血鬼にして記憶を奪ってしまうのが得策だ。けれどショウは普通じゃない。吸血鬼よりももっと尋常ではない。記憶を失うまでに時間があると吸血鬼の彼にも生き方が移ってしまう。
なら、そのままでいい。
「……なにか考えがあるの」
僕の表情から何か読み取ったらしいカブラさんは尋ねてくる。
「うん。まずはあの子の中で僕と言う存在を絶対にさせる。僕のことは絶対に見捨てない神様にする。
それと……そうそう。カブラさん、吸いたければご勝手に」
––––誤って首輪をつけられないようにね。
☆
無慈悲な宣告を受けたはずなのに。
私とは付き合えないと目を見て言われたはずなのに。
「蒼も髪の毛綺麗だよね。触り心地いいし」
「……」
今はとても気分が良くなっている。汗で張り付いた下着を脱げて、生まれ変わるようにシャワーで身を清めた後、好きな人に伸ばした黒髪を梳いてもらっているのだ。一本一本丁寧に扱われるたびに、自分自身が大切にされているのだと実感する。
ソファに座る私は、その背もたれの背後に立って髪を梳くショウに尋ねる。
「ねえ、なんで別れるの」
「元から好きな人がいたから、かな」
「理世のこと?」
「うんん。ハツカ」
「……男の人、なんでしょ」
あのとき私の楽しみを見ていたであろう人物の名前が出て、心臓が首を吊ったかのような心地になる。
「変、かな」
「知らない」
相手が男だろうが女だろうが知ったことか。
フラれたあげく、フった相手とお似合いかと言われても気分良く答えられる人などいるのだろうか。
「だったらなんで私のそばにまだいるの?」
「蒼は俺のこと好きなんだろ」
「甘い言葉吐いてつけ込むんだ」
「まあ、好んでくれる人を拒む理由って、おおよそ自分が信頼できないからだし。今の俺は吹っ切れたから問題ないよ」
「私のこと、愛人にでもするつもり?」
「蒼が望むなら」
私が望むならってなに?
愛人なんか望まない。欲しくはあるけど情けが欲しいわけじゃない。
「俺が特別だと思ってるのはハツカだから。もしこの感情が恋ならそう名づけるけど、恋したからってその他全てを愛しちゃいけないなんて理由もないだろ」
彼は平然と、すべての人を愛します、と笑い謳う。
あまりにも突拍子もない宣言に私は唖然としたまま口を空けてしまう。
「俺は頑張っている人が好きだ。誰かに依存することなく独り立ちしている人が好きだ。でももし願いごとが『吼月ショウが欲しい』なら応援する」
驚くほど傲慢な考えだった。
自分には好きな人がいる。でも別の人が自分のことを好きになるのを否定しないし、好きな人から自分の恋心を奪ってみせろという。それは純真で平等で、醜い愛情でもあった。
「あとはそうだな。蒼って親のこと嫌いだろ」
ハッキリと言われて、ピクリと背筋が伸びる。
ショウにはこの家で感じる微かな息苦しさを吐露したことがあった。
「……そうだね。着たい服、買わせてくれないし」
「着たい服に手をつけたいならすればいい。親が買わせてくれないなら貯金して、俺の家のクローゼットにでもおけばいい」
「え」
「ほら、俺の家の鍵」
ポンっと容易く私の手に乗せられた銀色の鍵を見下ろして、喉を枯らして驚き目を放り出して慄く。
「いや、え。ショウの家の鍵……?」
「一応合鍵だけどね。もし親が文句言って着たい服を着れないなら、着れる場所をつくればいい。願いを叶えるっていうのは、成し遂げるだけじゃないからな。許容しあってできる場所を増やしていくってのも叶え方のひとつだ」
これなら親にバレる心配もなく、わざわざクローゼットの奥に男装用の服を隠す必要もなくなる。それも好きな人の家に上がり込んで匂いを嗅ぎながら着替えることができる。
「……ショウは私のこと愛してるんだよね」
「うん。愛してるよ」
「でも他の人にも同じことするんだよね」
「同じかは分からないけど……差別はしないが区別はする男だから」
胸を張って答えるショウに私は言う。
「だったら私に感じさせてよ。蘿蔔さんの次に愛してるって」
無茶苦茶なお願いなのは分かっているけど、言ってやらなければ気が済まない。どうだ。無理だろ。どこまで出来るんだ。心の中で罵倒しながら何が来るかと待っていると、背後にあったはずのショウの顔が目の端を通って、ゆっくりと私の唇の……真横に触れた。
私のことを見ているぞ、と言わんばかりに湿った柔らかい感触が伝わってくる。快感が全ての神経を通してじんわりと脳の節々から、指の末端に至るまで広がって満たされる。一瞬の触れ合いではなく、私の身体が満足してグッタリと痙攣を起こすまでの数秒のまぐあい。
衝撃的で甘美な痙攣は、まるで神様の愛を受信し、収まりきらなかった余波のようだ。望んだ分だけ愛情が返ってくるような幸福感に満ち出した身体は動かない。
「足りない?」
「………ぅぅ、ゎぁ、ごめ」
「足りないか、なら……」
甘さに痺れてうわ言しか喋らないでいると、彼は続けて蠱惑的な響きを耳元で鳴らす。
「キミがやったみたいにその服脱がせて、俺が着てる服……一枚一枚着させてあげるね」
怒りが曖昧になってくる。
憎しみが不鮮明になる。
頭にのぼった想いが希釈され、下へ下へと流れ落ち身体の外へと––––
「謝らなくていいよ。愛してるよ蒼」
赤子みたいな蒼も好きだよ。
濾された黒く濃い部分だけが心の桶の中に残っている。