よふかしのあじ   作:フェイクライター

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第百三十壱夜「なんでもない」

 目を覚ますと、鼻と鼻が触れ合うほど近くに愛しい人がいた。無垢無知という言葉がこれほど似合う顔つきがないと思うほどの、緩んだ寝顔をしている。外では鳥の囀りが聞こえる気がするが、目の前の寝顔に気を取られて音が霞む。

 

 いつの間に眠っていたのだろうか。

 

 昨日のことを思い出すと、認められなかったという哀しみが胸の奥で渦を巻くが、その中で一点だけ蠢くこともせず澄んでいる気持ちもあった。

 まだ大丈夫なんだ。

 私との交際を断ったはずの吼月ショウは、図々しくも無防備に私と同じベッドで眠りについていた。これから何をされても文句の一つどころか、ショウが悪人と思えてしまうほどだ。

 誘っているショウが悪いのだ。

 

「いただきます」

 

 頭を少し起こして、ショウの唇を味わう。軽く唇同士で触れた後、舌で舐めて唾液でマーキングする。そのあと全身を擦り合わせたあと、舌をショウの口の中に入れた。

 今までも睡眠薬を使って動きを封じたときにやっていた。

 その方が安心できるのだ。

 否定されることも突き放されることもない、愛だけがある。ただただ私の想いを受け止めてくれるショウがいた。

 でも、もう私の想いは受け入れられないんだと口にされた。

 その上でショウは『俺のことが好きなら応援する』と言い放った。応援とはなんだ。他人事のような言い草で、なのに容易くキスというこちらの喜ぶことをしてくる。

 安心できないのに、嬉しくてたまらない。

 

 もっともっと。

 もっともっと!

 

 自然と腕や脚がショウの全身を這い回る。

 このままショウが動かなくなってしまえばいいのに。私が蛇で、ショウがカエル。安直な想像だけど、可愛らしい顔が少しずつ私の唾液で汚れるのを見ると徐々に丸呑みしているような気分になる。ゆっくりと咥内を通り、食道を落ちて、胃で溶かされる。

 深呼吸をして、一思いに。

 近づけた唇が寸前で押し止められた。私を止めたのは人差し指で、まるで沈黙を促すようにピンと伸びていた。

 唇から視線を上げると、ショウがニタニタと愉悦混じりの瞳でこちらを見ていた。

 

「へぇ、蒼って俺が寝てる間にいつもこんなことしてるんだ」

 

 自然と身体が気をつけの姿勢になって、音を発さない無機物のようになる。あるいは咀嚼されて鼓動すらできなくなった小動物のようだった。

 

「朝のランニングの時間を使って、俺で楽しんでたんだ」

「……」

「何か言えよ」

「いや、その……」

 

 ごめん、は違う気がした。

 言葉が見つけられないまま立場が逆転し、私はショウのものになった。

 

「お仕置きが必要だね」

 

 彼は上体だけ起こすと、その太ももの上に私の体を乗せた。その態勢は古くから大人が子供を叱りつけるときに用いられるもので、恥ずかしさで顔をベッドに埋めている自分でも自覚してしまう。

 現実逃避で暗闇に思考を投げようとするが、顔とベッドの隙間に入り込んできた手が、無理やり天を仰がせにくる。

 朝のひんやりとした空気が尻を撫でる。

 

「俺は怒ってるんだよ。ひとりだけで楽しむなんてずるいよね」

 

 パチンッ–––乾いたいい音と嬌声が部屋に響き、外では驚いた鳥たちの羽ばたきが騒ぎ立てた。

 私が上擦った声で、ごめんなさいもう勝手に独りで楽しみません、と言えたのは、ショウの手の形をした紅葉痕が尻にくっきり残った後だった。着替えの時にチラリと確認したときは、顔から湯気が出るほど恥ずかしかった。臀部を少しでも意識すると、ふしだらな熱さを感じて身をくねらせてしまう。

 思い返せば昨日も同じだった。

 勝手に自分が来た服をショウに着せて楽しんでいたことを指摘されて、いざやり返されそうになると頭が茹だって現実逃避で眠りにつこうとしたのだ。

 

「むぅ……」

「膨れてもダメーだよ。蒼が好き勝手やろうとした報いなんだから」

 

 ショウは朝食で使った食器や箸をシンクまで運んでいる。ご飯を食べている間、私が恥ずかしそうにしているのを楽しそうに見ていたショウは、いまも鼻歌でも飛び出して来そうな面持ちで食器洗いの準備をする。

 私ばかり言いように弄ばれている。

 ここは一度、ストレス発散のために薬を飲ませておもちゃにしてやろう。

 

「ショウ、お皿洗いは私がやるよ」

「え、いいのか。部活があるだろ」

「いいのいいの。そうだ、コーヒー飲む?」

「飲みたいな」

 

 半ば奪い取るようにしてキッチンに立つ。食器洗いを進めながら、睡眠薬を飲ませるためのドリンクも準備していく。ポットに水を入れ、ポコポコと沸き始める音が私の高揚感を増幅させる。

 洗い物を終えて、カップの中にインスタントコーヒーの粉を入れる。

 仕上げに収納棚の奥にしまった睡眠薬の粉を–––––

 

「あれ」

「どうした?」

「なんでもないよ」

 

 自分の目を疑いながら、極力声に心を出さないように努めた。もう一度収納棚の奥を見る。すべてを、埃のひとかけらまで逃さないほど食い入るように見た。けれども、睡眠薬を入れていた袋がない。

 確かにここに入れていたのに。

 

 ––––バレた?

 

 悟られないようにショウを見つめる。彼はソファに座ってニュース番組を見ている。当てもなく眺めている瞳は、ぼんやりと微睡の中に入って来そうなほど潤んでいた。

 策謀などなにひとつ無いだろう。

 間違って捨てられた? いや、ショウに限って確認せず捨てるなんてことはしない。

 どうしよう–––このままじゃ、ショウが私のものじゃなくなる。

 

「……大丈夫?」

「え、うん」

 

 首だけ回して振り返ったショウが尋ねてくる。

 話題を切り替えるようにして、コーヒーをテーブルに運ぶ。そのお供にミルク飴を二粒そえる。ショウは、ありがとう、と小さく頭を下げてから口をつけた。ショウの隣に腰を下ろして、直視する勇気を持てず、横目のまま話しかける。

 

「今日は学校行くの?」

「そのつもり。言われた通り少し休んだし、文句は言われないでしょ」

「そう、だよね」

 

 結局のところ、学校だけを休ませてもショウは動き回る。それは私のためだったり、よく知らない人のためでもあるし、恋人のためでもある。無理矢理にでも留めておかないとこの手から離れてしまう。

 いや、この手に掴んだことなんて一度もないのだ。

 

「けどさ」

 

 視界の端で捉えていたはずの顔が正面に現れた。違う。顎にぬくもりがある。女子の私よりも可愛らしく妖艶な微笑みを湛える顔が目の前にあって、鼓動が痛いほど鳴り響く。

 

「蒼は午前中、サボれるか」

「え、サボり?」

「そうそう。お互い、満足しきれてないでしょ。朝から欲求不満だもんね」

 

 そうしてショウは誘うように私を抱きしめる。啄むような僅かな触れ合いだが、仄かなぬめりとショウの匂いを確かに感じる。そばにいるんだと、心が温まっていく。

 分かっていてやっているなら、私は悪くない。

 

 やってしまえ、壊してしまえ。––––

 

 頭の中で強い想いが爆ぜる。警告音を伴った感情の暴発は、それを形とする言葉を消失させたままショウを押し倒そうと身体を突き動かす。

 しかし、失望した顔つきでショウで、呆れ果てたため息をついた。

 

「ッ!?」

 

 押し倒したはずなのに、気づいた時には後ろ手で両腕を掴まれたままショウの膝の上に座らされていた。右腕が背後からぐるりと私の腰回りに巻きつく。痛くない程度には優しく、逃げられないほどに力強い腕が抱き締めてくる。

 背中からショウの鼓動が伝わってくる。その音は、自分の心臓が二つに増えたみたいに全身に響き渡る。

 

「言っただろ。勝手に独りでおっ始めないこと……って、注意、したよなあ。朝にしたばかり約束ごとも守れないなんて最低だね」

 

 耳元で囁かれた声はこちらの罪悪感を無性に駆り立ててくる棘のある音をしていた。口元にキスをして、背後から抱きしめられて、一緒に寝られるほどの距離間だけど、私たちは付き合っていない。彼の中の線引きは、私の中の一線を有耶無耶にする。まるでグラウンドにひかれた白線がつちに紛れて見えなくなってしまっているようだ。

 自分の中の線が、ショウという土台に覆われ始める。

 

「なんで悲しそうな顔してたの」

 

 後ろにいるショウはどんな眼で私を見ているのだろうか。

 憐れみだろうか。

 けど、声からは母親が子供の頭を撫でる時のような優しさが宿っている。ふと、祖父母に新しい服を買ってもらった時のことを思い出した。

 

「……だって」

「だって?」

「学校に行ったら、みんなにも似たことやるんでしょ」

 

 拗ねた口調で言ってしまって、口の中が苦々しい味で満ちていく。

 コロコロと耳元で音がする。

 苦味が濃くなるほどに、本当に付き合っていたわけでもないのに、と酸味まで出てきて、おもわず床に吐きつけてしまいそうだ。けれど、口に飛び込んできたものが、気持ちを内側に留まらせて、そのまま安らぎを与えてくれる。甘い。

 

「どう? 美味しい?」

 

 テーブルを見てみると、コーヒーカップの横に置いていたミルク飴がひとつ、包装だけになっていた。

 確かに甘くて、苦味は消えている。

 でも口の中に沁みる甘さはミルクの味だけではない気がした。

 

「……口移しのほうがよかった?」

 

 問いかけられた私は飴を片頬に寄せて『もしかして、ショウが舐めた飴?』とカタコトな言葉遣いで聞き返す。ショウは言い淀むことなく肯定する。

 

「なんかさ、蒼は勘違いしてるけど、誰も彼もにベタベタするわけないじゃん。ハツカって例外を除けば蒼や理世ぐらいだよ、深いスキンシップを取るのは」

 

 言い切ったショウがコーヒーを一口啜る音が背後から聞こえる。満足気な吐息とカップが置かれた音がしたのは同時で、そうしてショウはミルクより甘い声で囁く。

 

「当然学校のみんなも街の人たちも、世界の人たちも愛するよ。でも、独りひとり、愛したい人も愛された人も別にいる。俺がハツカを好きなようにね。だから、俺が踏み込むのはお節介まで」

 

 口にされて、ひかれたラインは今までと同じ線引きだったと気がつく。

 

「でも、蒼は違うだろ。俺を愛してくれてる。だからこそ俺も蒼をより深く愛してる」

 

 私の腰に巻きついていた腕がゆったりと這い上がってくる。腰から腕へ、そのまま肩までやってくる妙に紳士的というか、触れてはいけないところを回避してショウの指は私の口の中に割り込んできた。そのまま小さくなったミルク飴を–––口から飴まで私の唾液で橋をつくるその飴を–––温かいコーヒーの中に落とした。ぽちゃん、と音とともに黒い水面に細波が立つ。私の唾液で濡れたままの指でコーヒーをかき混ぜると、黒い姿から次第に白濁の混ざった混沌とした液体になる。この中には私と、ショウの。まるで舌を絡め合ってできた液体をマジマジと見せつけられているかのようだった。

 

「だから他の人よりも深い……深いふれあいをしたい」

 

 途方もなく甘くなったであろうコーヒーをショウは私に聞かせるように綺麗な音を立てながら啜る。唇に触れられているわけじゃないのに、口の周りが無性に熱く、痒くなってくる。

 喉を鳴らして縮こまっていると目の前で、ぴちゃっ、と水音がした。それは一口で飲めるだけが残ったミルクコーヒーだった。

 

「ねえ、知ってる?」

 

 また甘い声で囁いてくる。

 

「嬉しいお仕置きって、これ以上ないほど強い触れ合いなんだよ。

 不快感もなく、ただその人に触れてもらえて、触れることができて喜びだけがある。痛い、寒い、辛いなんて想いはない。空虚な時間を過ごすこともない。

 だからさ––––今日はたっぷり、お仕置きしてあげる。面と向かって俺を求められるように」

 

 啄むように甘く濁ったコーヒーに口をつける。

 優しく頭を撫でてくれる。ふんわりとした心地に包まれて微睡む。

 

 

 今日もショウは休んでいる。

 聞くところによると、蒼も休んでいるらしいからなにか進展でもあったのかもしれない……と、邪推してしまう。考えてみて、真剣に考え直してみるが、やはり蒼とショウが付き合う流れになるとは思えなかった。よくてペット。事実、本人からも遠回しに『付き合っていない』と伝えられた。だとしたら、なぜ今日はふたりっきりで休んでいるのだろうか。

 蒼がゴネタとしても、彼女には部活動もあるしショウが行かせようとするはずだ。

 

 そして、いまは彼女の最終手段は使えない。

 

「……」

「コラー、お前ら眠るんじゃないよ。テストも近いんだぞ」

 

 机と机がつくる網目をスタスタと歩く女教師は、机に突っ伏している数名の女子生徒たちの前を通るとその頭をポンポンと叩いてさっていく。

 いまは2時限の授業中。いくら胃袋に入った朝食がほどよく消化された時間帯とはいえ、ひーふーみー、五人もの生徒が爆睡しているのはおかしい事態である。

 けれど、生徒たちは小さな寝息を立てるだけで飽きる気配はない。

 教師は諦めて黒板にチョークで白線を描いた。

 

「なんでこんな物を蒼が持ってたのかしらね」

 

 机の引き出しから取り出した袋を見る。

 それは––––やはり、睡眠薬であった。

 

 なんでもない、では済まされない。




莫カッコよかった……!
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