よふかしのあじ   作:フェイクライター

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第十八夜「私の子供」

 私には嫌いな物が2つある。

 1つは会社と。

 

 起きた時に見上げる空を小面憎しと睨んだ。燦々と照りつける太陽が今日も私の心を苛立たせる。

 いつもの服に腕を通していると、またいつも通りの日常を送るのだと脳に負担がかかる。

 

「疲れる……」

 

 園田(そのだ)仁湖(にこ)。26歳。

 小森に来て、そして働き出して4年。

 大手家電メーカーの小森支店で渉外担当をしている。

 この仕事自体は悪くないのだ。色々な場所に行けたりもする。契約が結ばれたときには達成感もある。なんとなくで選んだ職業だが、まあまあ納得していた。

 けれども、人付き合い。

 これが致命的に私に向いていない。

 

「おはようございます」

 

 名前に因んで、笑顔は大事にしろ、と親から口うるさく言われてきたこともあってか笑顔は得意だった。

 

「おはよう」

 

 にこやなかに微笑んで職場に入る私に返されるのは華のない声だ。

 こっちは挨拶してんだぞ。もう少しした側も気持ちよくなるような返事をしてほしいものだ。

 しかし、ここはまだいい。

 

「明日の取引先の資料でこの部分変更になったから」

「この資料の更新日–––」

「そんなこと言ってる場合か! すぐに頼むぞ」

「分かりました」

 

 ため息をつきたくなる気持ちをグッと堪えて、笑って受け取った。

 全身逆鱗だらけで何を言っても怒るのがこの上司のクズなところだ。この現代社会でここまでのパワハラ上司がいるのかと思った。なにかきっかけさあれば、こちらに手をあげてくるだろう。

 変更されるのは客の都合だが、その連絡が週を跨ぐとなれば明らかに上司のミスだ。

 自身の過ちもちゃんと謝れないなんて人としていかがなものか。しかも攻撃する時は周りから見えないところでやっているからタチが悪い。

 

「––––それで園田さん。このこと都雉(ときじ)さんに伝えてくれない?」

「構いませんが、なぜ?」

「いやだって……あの人仕事はできるけど話しかけづらいじゃん。最近はなに考えてるのか分からないし」

 

 だったら電話でいいだろ。それかメールを送れば良い。

 こっちにも仕事があるのに、なんで私を経由するんだ。自分の好き嫌いを他人に押し付けないでよ。

 

「う〜〜ん……そうは言ってもね……ひとりでは仕事は成り立たないんだから、仕方ないところもあるよ。上手くかわして」

「……はい」

 

 私の会社は苦痛に満ちていた。

 なんとかやり過ごしているが、身と心には相当な負荷がかかっていた。

 極め付けは飲み会だ。

 

「私はここで」

「女ひとりじゃ危ないだろう。送って行こうか? それとも–––」

「いえ、この辺りは治安もいいので」

「鬼が出ても知らないぞ〜〜?」

 

 アハハと愛想笑いをしてからタクシーを降りて、そそくさと離れる。

 なんでお前になんか送られないといけないんだ。

 

 研修が終わり、私がこの部署に配属されてから暫くして『新入社員歓迎会』というお題目で飲み会が開かれた。自分を含んだ同期の祝いの席という名目につられたのと、人付き合いの悪さを改善しようと参加したのが間違いだった。

 いざ始まると、自己紹介や好きなこと、得意なことを一人ひとり喋らされ、中途半端に歳を食ったジジイからはセクハラ同然の品のない冗談を言われる。

 食事の場だというのに、上司へのお酌ばかりやらされて肝心の食事にはありつけない。なんだったら、お酌のマナーで怒られたりもした。

 クソだ。イライラする。

 しかし、参加しない訳にもいかず今もズルズルと続けている。

 

 あぁ……思い出すだけで腹が立つ。

 タクシーで途中で降りて歩くのだって私の聖域()に手を出されないためなんだ。なにが『鬼が出ても知らないぞ』だ。そんなの出る訳ないだろ、いい加減にしてほしい。

 こんな厄介で胃をキリキリさせる職場だが、まだ支払いは良い。いや、残業量を考えればもっと稼げてるはずだが……。

 

 でも生活のためにはやるしかない。

 私には不満をぶつける場所がないのだ。

 嫌味を言ったところで変わらないのは上司も会社も同じ。親に話したところでなにも変わらない。

 愚痴を言ったところで、会社には行かなきゃいけない。

 

「早く帰ってひとりで飲み直そ。米と魚と……」

 

 そうしよう。そうしなければやっていられない。

 風呂入って酒を飲んで寝よう。まあこんな時に限って寝付けないのが私なのだが。

 求めに従うように、帰宅への進む私の足が動き出す。

 けれども、徐々に動きが鈍る。

 

「疲れた」

 

 気がつくと足は止まっていた。

 

「頑張ってくれよ〜 私のあし〜……」

 

 家まであと少しだというのに、身体は動かない。

 最悪なのだわ。

 

「あっ」

 

 目に入ったのは道の傍に置かれていたベンチだった。

 私の脚は自然とそこは動いて、腰を下ろした。

 

「…………はあ」

 

 私は空が嫌いだ。特に夜の空は。

 夜特有の静けさは自身の希薄さをより際立たせ、己を損失してしまうのではないかという錯覚を促す。見上げた空は(よど)んで、今にも降り注いで襲いかかってくるのではないかという恐怖を誘う。

 

「子供に戻りたい……」

 

 ため息をつく。私が幼い頃夜に外へ出たことはなかった。もしその頃、夜の街を探検していれば、夜のことを多少は好きになっていたかもしれない。

 何も考えずに遊んでいたあの頃が懐かしい。

 

「うちの会社の方が澱んでるか」

 

 他の会社で働いたことがないから当社比だが、ウチの会社はビックリブラックだ。インターンやパンフレットでは分からなかったのが痛い。あの会社は隠すのだけは一流のようだ。

 知っていれば同じ職種の他の会社で働いていたことだろう。

 

「昔は良かったって言ってたけど……今の会社からは想像出来ないな」

 

 四年前までは部長が違ったそうだ。

 その人は私と同じ女性で、各地を転々としていたらしい。その人が支える職場は明るく、多少の負荷はあったそうだが今よりは遥かに楽しかったそうだ。

 しかし、その女性は4年前に急逝してしまったらしい。

 結果が今の有様、というわけだ。

 

「鬼はテメェだっての……」

 

 いっそのこと、本当に鬼にでも襲われた方が面白いのではないか? なんて馬鹿な発想をしてしまう。

 確か瞬きをすれば眠たくなるんだったかな?

 目が疲れて自然と瞼が落ちてくるという。私は何を思ったのか、瞬きを始めてしまった。

 

 1回。吹き付ける風が黒髪を弄ぶ。

 

 誰でもいい。

 

 2回。コツ。視界が暗転と明転を繰り返す。

 

 なんでもいい。

 

 そして、3回。

 

 私をこの世界から解放してくれ。

 

「やあ」

「…………え?」

 

 瞼を開けた次の瞬間。

 横から声が聞こえて視線を向けると、そこには––––––

 

 

「お嬢さん、眠れないのかな?」

 

 

 

 鬼がいた。

 

 

 

 私は漏れ出した声を飲み込むように、唾を胃に送り込んだ。

 誰だとか。いつそこに座ったのだとか。なんで声をかけたのとか。私は一切思いつかなかった。

 鬼の姿が、あまりにも常軌を逸していたから。

 風で靡く髪は淡い葡萄(ぶどう)のような色。鼻筋がすっと通った高い鼻に、しっかりとした二重でとても整った幼い顔。

 着ている服装は司祭着のような物だが、清らかな印象を与えると同時に男女どちらにも魅せる妖艶な逸品。

 

 御伽話に出てくるような存在を目にした。

 私は、その鬼に見惚れてしまっていた。

 

「……はい」

 

 見入った私は鬼の言葉に頷いた。

 

「ついておいで」

 

 一度目を合わせると、彼は車道に出た。え、と再び声を漏らすが、迷うことなく私は鬼についていった。

 

「…………」

 

 私と鬼は、喋ることなくただ車道の真ん中を歩いている。

 

–––––広い。

 

 この辺りはそれほど都会でもないから、夜にもなると車が通ることもない。実際、私がタクシーに乗っていた時も他の車は見当たらなかった。

 でも、いつも昼間は車がたくさん通っているこの道なんだ。そこを歩くというのは、非日常を感じる行為だった。

 

「あ。あの」

 

 鬼は顔だけ振り向いた。車道の真ん中で私たちは口を交わす。

 

「貴方は……鬼さん? なんですか?」

 

 どうしてこんな質問をしたのだろうか?

 もっと色んなことを聞けたはずだったのに、胸から出た疑問はそれだった。

 鬼さんは笑った。侮蔑する訳でもなく、ただ優しく微笑んで『そうだよ』と肯定して、続けた。

 

「君がそう思うのなら僕は鬼だ」

「……?」

「時には人として、時には狐として、時には––––鬼として、僕は存在する。ここでは、君が望んだ答えが正解だよ」

 

 ふんわりとした答えが返ってくる。

 つまりは私次第で、鬼さんは何にでもなれると言っている。

 まるで『夢の中にでもいるような』と、私の心を視ているかのように鬼さんは呟いた。

 

「そう。夢だ。僕は君が望んだ夢と共にやってくる。眠りを求める者たちの前に現れる」

 

 なら、私はわたしが望んだままに過ごさせて欲しい。

 

 

 

 

 魔法や奇跡なんて物は存在しないけど、彼と歩いている時間はドキドキした。まるで人間以外の不思議な生物と一緒にいるような気持ちが湧いてくる。

 だから、私はこの子を《鬼さん》と呼ぶことにした。

 そうであって欲しかったから。それを受け入れてくれる。

 

「鬼さんはどこから来たんですか?」

「今日は貴女の心の中から。そう言ったら信じますか?」

「あははっ、なら鬼さんは私の子供ですね」

 

 普段だったら『何を言っているのか』と一蹴するような返答も、非日常感と彼の不思議さがそう思わせない。

 彼からは何も聞いてこない。

 それが安心できた。彼とは関係がないということが、私であれるという関係性を生み出していた。

 

「ここは」

 

 鬼さんと歩いていると着いたのはコテージだった。周りに明かりがついていたので直ぐに目についた。寂れた印象はなく、コテージは私を歓迎しているかに思えた。

 しかし、存在を主張するコテージは、静かなこの一帯から浮いた異質感を出している。

 妖怪の住む館にはうってつけだ。

 

 ここは鬼さんの所有地なのだろうか。

 自然もあって、交通の弁も悪くない。ここで起きれたりすれば、多少は朝日も好きになれるだろうか。

 中に入ってスリッパに履き替える。外見同様に清掃が行き届いたコテージ。使われている樹の香りが鼻腔をくすぐる。知らない場所というのも合わさってワクワクしてきた。

 修学旅行に1人でやってきたような背徳感。

 

「あちらへどうぞ」

「え。はい?」

 

 差し出してきた手に私は鞄を渡す。

 鬼さんが促した方向へ私は歩いて行った。

 

「お風呂だ」

 

 そこにあったのは浴室。

 歩いて汗もかいたから入りたいなとは思っていたけど、どうしようか悩む。知らない家の風呂に入るなんて、普通ならありえない。

 けど、今は普通じゃないんだ。

 

「入ってから考えましょう」

 

 冷えた身体は白い湯気を立ち昇らせる湯船の誘惑に抗うことはできず、浴室と廊下の間にある脱衣所で服を脱いでいた。

 身体が解放感を帯びる。

 浴室に入り、全身をお湯に浸からせた。

 

「あたたか〜〜い」

 

 

 

 

「気持ち良かったあ……」

 

 数十分後、暖かいお湯を満喫した私は脱衣所に戻る。

 

「タオルと着替えが出てる」

 

 戻るとそこには湯上がり後に身体を拭くために使う大きめのバスタオルと、白装束が置かれていた。

 私の着ていた服にチラリと目が動く。

 

「触られてない、わよね」

 

 特に触られた形跡もなく私が脱いだままになっていた。

 タオルの上には子供っぽく丸い字体で《拭いたタオルは籠の中に入れておいてください》というメモ書きが置かれていた。

 

「可愛い」

 

 鬼さん、こんな字書くんだ。

 

「ゆったりしてて着やすい。もふもふしてて暖かいし」

 

 用意された装束を着てみると少し大きめのサイズになっており、締め付けるような感覚もなく身軽だ。

 そのまま廊下に出ると、また鼻腔がくすぐられる。

 先ほどの樹の香りではない。

 

「美味しい料理の匂い……」

 

 身体が操られるように香りがする方へと歩いていく。

 たどり着いたところはダイニング。中央にはテーブルがあり、ホカホカの料理たちが並べられていた。白米をはじめ、鯛の兜煮や茄子の甘辛焼き、刺身にお味噌汁など。そしてお酒が置かれている。

 思わず感嘆の息を出した。

 

「私の心の中から来たって言ってたけど……まさか、本当に?」

「ほんとですよ」

 

 私の後ろからエプロン姿の鬼さんが現れた。

 

「もしかして鬼さんが作ったんですか?」

「ええ、チョチョイと」

「いまですか?」

「もちろん。料理は出てきた瞬間が1番美味しいですから」

 

 鬼さんは私を追い越して、テーブルの椅子を引いた。

 私はそこに座る。少し眺めてから、料理に手を出した。

 

「美味しい」

 

 一口ひとくちが私の為の味だと理解するにはさほど時間は要さなかった。味付けも、辛さも、魚の身の解け具合も何もかもが私の好みだった。

 

「良かった」

 

 鬼さんは私の簡単な感想に嬉しそうに笑った。子供が親に初めて作った手料理を褒めてもらったようなそんな笑顔。

 それだけなのに私も嬉しかった。久しぶりに人?といて気が休まる。

 

 しかし、風呂に入ったことで多少は意識が落ち着いたのか、常識的な考えも自ずと湧いてきた。支払いとか、ここに連れてきたどうするつもりだとか、そんな感情。

 

「かからないよ」

「え?」

 

 それも鬼さんにはお見通しのようで、私の考えを否定した。

 

「夢の中で金を支払うなんて常識的じゃないよ?」

「そう、ですよね」

「楽しんで」

「……うん!」

 

 これは夢。そう、これは夢なのだ。

 設定だとか、心の幻影だとか、瞬きをしていた内に本当に寝ていたとかでもなんでも良い。

 今はただ、この心地のいい夢に浸りたい。

 酔ってきたのだろう。ふんわりとしたいつもの感覚に襲われる。

 

「鬼さんはいつもこんなことをしているんですか?」

「いいえ。貴女が初めてです」

「そっか」

 

 私だけの物なのだと分かると胸の中に喜びが満ちる。

 

「この料理も、この服もそうだけど、ここにはなんでもあるの?」

「喫茶ルナールカにないモノはない」

「喫茶店なんだ……杏仁豆腐ある?」

 

 視線を移すと、大きな月が輝いていた。

 鬼さんと話している内にわたしの気持ちはより軟化して、敬語を使わなくなっていった。

 

「月明かりの下にのみ現れる夢の喫茶店。ここにない物はない。過去でも、居場所でも、瞳でも、杏仁豆腐でも、全てがある。貴女がしたいことをする場所、そして……それができる場所だ」

 

 鬼さんが手を振ると、ダイニングの明かりが消えた。

 代わりに強い月明かりだけが部屋を照らす。それは不可思議な存在が歩く神秘的な光景として似合っていた。

 

「杏仁豆腐です」

「ありがとう」

 

 小さく頷いて、1房のさくらんぼが乗った杏仁豆腐を受け取った。

 

「小さい頃好きだったなぁ……」

 

 真っ赤なさくらんぼをしばらく見つめてから口に運ぶ。

 

 私の脳内で、鬼さんの言葉が反芻する。

 やりたいこともしたいことも、ルナールカは全てできる。

 ない物はない。居場所もあるのだから。

 

「ねえ、鬼さん。私の話を聞いてくれますか?」

 

 息を深く吸ってから私はそう尋ねた。

 

「いいよ」

 

 妖しく思考すら蕩けさせるような笑みで鬼さんは––––

 

 月明かりが陰る。

 雲がかかって部屋の明かりがなくなっていく。

 次第に鬼さんの顔が見えなくなる。

 

 視界が暗転し、そして明転する。

 

 ぼんやりと見えるのは口元だけ。

 

「話そう。わたし」

「––––」

 

 何故だ。よく知る笑顔がそこにあった。

 それが脳に突き刺さる。

 何故だ。よく知る声が聞こえてきた。

 それが脳を震わせた。

 

 口以外が黒塗りされた人形が––––小さい《わたし》が笑っている。

 なんとなく。なんとなくだけどそう思った。

 あどけないその笑顔は小さい頃の私の笑顔のように思えた。

 

 目の前にいるのは《わたし》だ。

《わたし》という子供だ。

 

 抱えてる秘密ぐらい受け止めてくれるよね。

 

「……私、最近辛いの。仕事自体はやりがいもある。けど、人間関係に疲れちゃって」

 

 微笑みを返す私は《わたし》に打ち明ける。

 

「身勝手な怒りを振り撒く上司も、自分の都合でしか動かない同僚も、そんな人たちが集まる飲み会も……全部全部嫌い。 1人では仕事はできない? それだったら自分のせいで迷惑かけてることぐらい自覚しろよ!」

 

 私自身ここまで抱えていたのかと言いたくなるほど叫んだ。

 

「面白くない冗談で笑わなきゃいけないとか、それこそ冗談だよ。楽しそうにしなきゃいけないとかなんなんだよ! 楽しくないのに楽しくしなきゃいけないとかただの拷問だよ……」

 

 真っ暗な部屋の中で白い装束をギュッと掴む。

 

「私の名前も名前だよ。なんなの仁湖って。そんなキラキラネームつけないでよ……(アンタら)は良いかもしれないけど、こっちには良い迷惑なの……こんな名前呪いだよ……」

 

 したくもないことを強制されるような自分の名前にも束縛を感じていた。育てて親に怒りをぶつけるなんて褒められたことではないかもしれないけど、それでも嫌だった。

 

「そうだ……そうだよ……」

 

 ブワッと溢れ出す想いに、白い装束が濡れていく。

 ひとつ、またひとつ水滴が落ちる。

 

「もう行きたくないよ! 会社なんて行きたくないよ〜〜〜ーーーー!!!」

 

 ここには外の夜のような澱みはない。

 壊れた器の中から純粋な想いだけが溢れてくる。

 

「それがわたしの想いだよ」

 

 夢の中で児玉する私の想い。

 子供のように泣き崩れた私の身体は、大きな音を立てる。

 

「い、いたぁ……」

 

 嫌だ。だめ。

 いま痛みを感じたら、現実に引き戻され––––––

 

 

 

 ブブブブーーー

 

 

 

 耳をつんざく現実(悪夢)の音がした。

 

「…………」

 

 電話だ。上司だ。なんで、こんな時に。

 

「いつも、いつも……こんな時に呼び出すの……」

 

 倒れたまま私は《わたし》を見た。

 

「ありがとう、わたし。現実に戻るね」

 

 月明かりがかすかに戻ってくる。

 本当は嫌だけど、行かなきゃいけない。

 

「行かなきゃ。行かなきゃ……」

 

 うわごとのように繰り返して、私は音のする方へ這いずる。

 光が漏れる鞄の中に手を伸ばす。

 

「ッ……」

 

 しかし、その手は寸前で止められた。暖かくて小さな手によって。

 

「やめてよ、わたし。行かなきゃいけないんだよ」

「なんで?」

「なんでじゃないよ。仕事なんだよ。呼ばれたら行かなきゃダメなの……!!」

「本当にそう思ってる?」

 

 思ってるわけないじゃない。

 

「行かなくていいんだよ」

「ダメだよ行かなきゃ。それが社会人なんだもん」

 

 社会人だからなに?

 行きたくないところに我慢して行くのが社会人なの?

 あれ? 私はどうしてこんなことしてるんだろう?

 

「あ……っ」

 

 私を急かすようになら続けるスマホを《わたし》が鞄から取り出した。それを背に隠すようにして持つ。

 

「ねえ、私。私が行かなきゃいけないって考えも理解できる。でもね、行かなくたって別に問題はないんだよ」

 

 微笑んでいた《わたし》の顔からスッと色が抜けて真顔になる。

 変化した雰囲気に私の意識も強く引き締められる。

 

「私と会社は契約で結ばれている。私が自分の時間を使って、会社にとって利益になる働きをする代わりに賃金を貰う。それが私たち社会人の立場」

「……うん」

「わたし達の時間はどこまで行っても私たちのもの。それを剥奪する権利は会社にはない」

「でもやらなきゃ約束は破っちゃ」

「破ってるのはあっちでしょ。今週だけで何時間残業したの?」

 

 ……なんじゅう時間だっけ。

 

「しかも今は丑三つ刻。こんな時間に呼び出すあの上司は狂ってるよ。狂った神様だ。それに連日呼び出されることもある。クタクタな日も続いてる」

 

 この間なんて7連勤したのに、代休どころか有給すら再来月に飛ばすことになった。

 もう嫌だ。やっぱり行きたくない。

 でも–––とまだ反抗する心がある。

 

「今日ぐらい自分を許そうよ」

「…………」

 

 私の欲しい言葉。

 

「だって今は夜だよ。自由の時間だ」

「自由……」

「だから私を解放したんでしょ?」

 

 わたし(・・・)自身が選んでいいもの。

 

「どうするわたし。神の愛を享受するのか? 摩天楼の愛を胸に燃やすのか?」

「わたしは……」

「私は、わたしの決断を応援してるよ」

 

 私はスマホを差し出した。

 

「–––––」

 

 そうして、鳴り続けるスマホの着信ボタンを押した。

 耳に当てて、聞こえてくるのはあの上司の声。

 

『何をしてるんだね園田! さっさと出ないか! はあ……まあいい。すぐ会社に戻って別の資料を作成をし』

「嫌です」

『はあ?』

 

 私が拒否するなんて想像していなかったのだろう。上司の声がプルプルと怒りに震えているのが分かる。

 

「嫌ですよ。なんでこんな時間に呼び出すんですか……それに残業時間だってもう40時間越えてるんですよ?」

『それがどうした! さっさと』

「嫌です! 来て欲しいならもう少し自分の態度ぐらい見直したらどうですか!! 変更があるなら連絡があった日に伝えるぐらい社会人のマナーですよね! それがなんで二週間経った後なんですか! そんなんだから係長止まりなんですよ!!」

『なっーー! 君ね!! ふざけるな!!』

「わたしは行かないですから! 自分のミスぐらい自分でカバーしてください!!」

 

 吐き出すだけ吐き出したわたしは、叩きつけるように電話を切った。

 

「はあ……疲れた」

 

 でも、気持ちよかった。

 晴れやかな想いになった時、部屋の明かりがパッとついた。

 

「あ」

 

 目の前に立っているのは《わたし》ではなく、鬼さんだった。

 自覚すると急に心苦しさが喉を締め付ける。さっきまで私の愚痴を聞いていたのは紛れもなく鬼さんだ。《わたし》なんかじゃない。

『私の怒りを関係ない鬼さんにぶつけてごめんなさい』と頭を下げようとする前に鬼さんは口を開く。

 

「良かったです」

「え?」

 

 呟いたはずの鬼さんもキョトンとした顔をして胸に手を当てた。

 そして。

 

「うん。貴女の本心が聞けて本当に良かった。ちゃんと見つめることが出来ましたね、自分を」

 

 心の底から嬉しそうな瞳で私を見てくれた。

 

「ごめんね。恥ずかしいところを見せちゃって」

「カッコよかったですよ」

「ありがとう」

 

 鬼さんは私の頭をそっと撫でた。

 子供に戻った気分だった。

 何でもいい。お礼がしたいな。この不思議で優しい鬼さんに。

 

 

 

 

「夜風が気持ちいいですね」

「そうだね。うーーーんっ……はあ〜〜」

 

 お礼がしたいと鬼さんに告げた私は、小森の町の外れにある高台まで来ていた。

 寝る前にどうしてもここに来たかったそうだ。

 

「さっきはありがとう。秘密を受け止めてくれて」

「約束だもん。お母さん」

「ちょっとやめてよ。まだそんな歳じゃないよ」

 

 ハハハハッと2人で笑い合う。

 ここから眺める光景に圧倒されて心が熱くなる。いつも行き来しているはずの街が、時間や視点が変わるだけで良いものに見えてくる。

 

「鬼さんは夜景が好きなの?」

「マイブームです」

 

 鬼さんが目を瞑る。

 

「なにしてるの?」

「夜を感じています」

「なにそれ〜」

 

 鬼さんも冗談言うんだな。

 振り返ってみれば口にすることの殆どが、冗談みたいなことばかりだったけど。

 

「そろそろだな」

 

 目を開けて、腕時計を触った鬼さんは私の前に立つ。

 

「…………ッ」

 

 正面に立たれるとその整った顔を直視することになる。

 また見惚れてしまう。

 

「行くよ」

 

 ヒョイッと手摺に飛び乗った鬼さんが手を差し出す。

 それを私が掴むと–––––

 

「さあ最後だ!! 夜を楽しもうッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 

 

 

 

 

 気づけば私は夜空を飛んでいた。




 唐突に自語りを始めて、最終的に空へ投げ出されたOLさん(26)
 
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