よふかしのあじ   作:フェイクライター

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 よふかしのうた完結記念に書いたものです。
 うぇぶりの方でも1週間経ったのであげたいと思います。
 そのため、ここから先は18巻より先のネタバレを含みますので、もし単行本派の方が居ましたらブラウザバッグ推奨です! また自己解釈が多く含まれた内容となっています!



 また、前があれば後もあるので、そちらは30分後にーーー


EX-Night3 虹の空蝉(前)

 ある国で出会った男は未だ真っ白なキャンバスに筆をつけた。その筆先に色はなく、本人曰く『書けるはずないもの』らしい。

 月光だけを取り入れるアトリエで、七草ナズナはロッキングチェアに身体を預ける。青白く淡い光が照らすこの場は、どこか幻想的にすら思える。

 目線の先では、男が荒い呼吸を繰り返す。

 数秒、数分―――胸を締め付けられる男の吐息と、ゆったりと前後に揺れる椅子の音だけが響く。

 ナズナは可哀想だと心底同情し、そして共感した。

 

「駄目だね」

 

 男はため息の代わりに諦めを口にした。筆を置いて、代わりに軽くかかったパーマの髪先をちりちりと摘んで弄る。

 

「やっぱり描けないや。神の腕はいつまで経ってもご立腹のようだ」

「何回やってもか?」

「そりゃ勿論。君より長く向き合ってる僕が言うんだから間違いないよ」

 

 彼の手には呪いがかかっていた。呪いが鎖となって、ガシャガシャと金切音をあげながら巻き付いている。

 

「呪いと心はニヤイコールだ。強い力で何かを蝕み続けて、見えもしないし掴めもしないから……キッカケがなければこの身が自由になることはない。解呪不可の鎖なんだ」

「あぁ……知ってる。アンタと似た女を知ってる」

 

 悲観的な話をしているが、唇が軽やかだ。その原因は諦めでもあるし、幻想的な空間が心にゆとりを持たせているのもある。

 

「50年間両片思いをした吸血鬼か」

 

 ナズナと目の前にいる男。そして、ナズナが思い浮かべる女性は吸血鬼だ。その証拠にふたりの開いた口から鋭い犬歯が光を反射しながら覗いている。

 吸血鬼に恋をして血を吸われて眷属になる。

 恋で廻る生き物ーーーそれが吸血鬼。

 しかし、吸血鬼は恋を【させる】生き物で、恋を【する】生き物ではない。吸血鬼にとって恋愛とは禁忌なのだ。

 吸血鬼が人間に恋をすること自体が間違いである。その証拠に好きになった人間の血を吸うと、人間に還り、死ぬ。最悪、愛した恋人さえも灰に変えて殺してしまう。

 してはいけない恋をした罰として、解けない恋で苦しむ呪いをかけられる。

 

「『我々にとって、恋とは呪い』ね。恋に生きる僕らが恋をしてはいけないなんて、神様もブラックジョークがお好きなようだ」

「その子は神様じゃないって言ってたぞ」

「いいや、神様だね。ほら、キミが以前いた日本なんてその典型例じゃないか」

「うーーん……?」と七草は首を捻りながら答えを探す。

 

 いつまでも悩み続けるナズナを見かねた男が「七草くんでも付喪神なら聞いたことぐらいあるだろ?」と答えを口にした。

 

「なんだっけ全てのものに神様が宿ってる……みたいな奴だっけ?」

「そう。そして、神を宿すのは心と知恵だ。神話、宗教の始まりは人間の知能。その場に適した共通認識を作ることで、神の試練として過酷な環境を生き残ることができるし、神の罰だとして現状のまま諦めることもできる。集団の心を統率する人間の立派な発明品だ」

「えっと、つまり……腕が動かないのは自分の心の問題だと?」

「その通り!」

 

 男は鬱憤を晴らすかのようにパチンと指を鳴らした。元気に弾けた笑顔を見せるが、男の口端が牙でキツく噛み締められていることにナズナは気づいていた。

 

「僕はね、ただ約束を果たしたかっただけなんだ」

 

 肩の力を抜いて、ゆっくりと脚を窓の方へと動かした。見上げた空には満たされた月が輝いている。誰よりも強く優しい光をここへ届けている。

 

「今日も一番星は綺麗だね」

「ッ……」

 

 ナズナは耳を塞ぎ、目を閉じた。突然耳を劈く不快な音が鳴り渡り、幻想的な空間を破壊したのだ。

 瞑っていた瞳を見開いて、音源に目をやれば男が窓ガラスに爪を立てていた。人の首すら飛ばせるほどに研がれた鋭利な刃が異音を鳴らす。

 

「あ、ごめん……」

 

 無意識だったのだ。自分が爪を立てていることに気づいた男はすぐに手を窓ガラスから離す。

 ナズナはもう一度目線を外すと、深呼吸をして彼に尋ねた。

 

「どんな絵だったんだ?」

 

 その問いに言い淀むが、結局男は話すことにした。

 

「虹の下でキスをする男女だよ」

「それはまあ……随分とロマンチックなことで」

 

 キスをもう一度したいと思うナズナだけれど、面と向かって言われると頬を赤らめてしまう癖は直らない。

 

「あはは、褒め言葉として受け取っておくよ。でも、虹の下で見る彼女の笑顔は本当に素晴らしいんだ」

 

 笑って流す男をナズナは怪訝な表情で見つめる。

「ナズナくんは虹を撮ったりしないのかい?」と男は問いかける。

 

「え、いや……空はあまり撮ってないかな」

 

 あまり、は語弊だ。ナズナは夜空を撮ったことがない。写真に収めるのはいつも大切な男の顔だけだ。

 なによりナズナは虹を見たことがない。本当は目撃したかもしれないが、自分が愛する男と出会う以前の出来事はーーひとつの例外を除いてーー記憶の中で影も形もなくなっていた。

 けれど、流石のナズナも虹が太陽の下にかかることは知っていた。吸血鬼には撮れない光景であることも知っている。

 

「アンタは人間になりたかったのか?」

 

 ナズナはある存在のことを思い出した。

 星見キク。多くの人間の血を吸い、眷属にして、多くの誰かの幸せを壊した吸血鬼。最後は愛した人間の血を吸って、灰になって朝に溶けた元吸血鬼。

 吸血鬼になった時間が短ければ、人間になっても肉体にかかる負担は少ないだろうが彼は少なく見積もってもナズナの倍は生きていた。

 最悪の結末を想像してナズナは身震いするが、男は首を左右に振って否定する。

 

「いいや、私は彼女を吸血鬼にしてあげたかったんだ」

 

 予想外のナズナは椅子の振り子運動を止めて、前のめりになって彼を凝視する。

「どういうこと?」とナズナが思いをそのまま投げかけると、男は薄く笑って応えた。

 

「彼女は吸血鬼になることを望んでいた。僕の絵をずっと見ていたいと言ってくれた。けれど、僕も彼女に恋をしてしまったせいでその夢は崩れた」

 

 吸血鬼と両想いになった人間は吸血鬼にならずに死ぬ。理由は不明だ。しかし、実際に星見キクと共に亡くなった男をナズナは知っている。

 

「だから約束した。僕が恋心を忘れた暁には、彼女が望んだ絵もプレゼントすると。幸い血は吸ってなかったからね」

「それでその絵は?」

 

 無粋な質問だと思った。

 男の視線がナズナからズレた。彼の瞳が納める場所へとナズナも首を動かすと、そこには先ほどのキャンバスがあった。

 

「絵は先に片付けるつもりだったんだ。けれど、出来なかった」

 

 男の声が鉛のように重く、暗くなる。何も描かれていないキャンバスへ歩み寄る。

 

「僕と彼女のことだと思うと、本当にまた好きになれるのか不安で手がつかなくて、かといって他の誰かだと想像しても自分たちが幸せじゃないのに、と祈れない」

 

 恋慕や嫉妬、様々な感情が入り混じる想いを受けとめることができなかった彼はずっと立ち尽くすだけ。

 

「恋心を引き摺って、この歳だ」

「……亡くなったんだな」

「つくづく弱い自分を呪ったよ」

 

 ナズナにとって他人事ではなかった。

 相手の血の味を知らないこと以外瓜二つだった。

 

「虹は幸せの象徴。またふたりで見たかったけど、彼女はもう墓の中。僕はずっとここにいる。もう呪いが解けることはない」

「吸血鬼なのにか」

「知らないのかい? 虹は夜にもかかるものなんだよ。一番星のそばでね」

 

 想像力を働かせてみるが、ピンと来なくて「そいつは見てみたいな」と流すことにした。

 

「虹を見つめるときに心に翳りはない。それは人でも、吸血鬼でも変わらない」

 

 男はキャンバスに向けていた視線をナズナに戻す。瞳に宿った強い意志、それが視線から伝わってくる。真正面から受けとめる。

 

「ナズナくん、忠告しておこう。今のまま事態を好転も悪化もさせず場当たり的に過ごすのもいいが、覚悟は決めないといけないよ」

「できてるよ」

「本当かね」

 

 男は肩を落として呟いた。

 

「できれば、キミらが僕らとは違う道で(まじな)われることを願っているよ」

 

 男はくるりと背を向けて、筆に手を伸ばした。

 再び過去に立ち向かおうとする背中を見ているナズナの腹の中で意思は固まっているはずだ。

 

 

 コウくんが死ぬその時まで、アタシは。

 

 

ーーーー

 

 

 光が差し込んだ。ぼんやりとした視界が次第に力強い輪郭を描き出して、像を形作る。

 寝ぼけながら頭を左右に振る。壁にはシロクマやクジラといったこの地だからこそ撮れる動物たちの写真が飾られている。

 

「やあ、起きたかい? ナズナちゃん」

 

 眠気がおさまらない瞳をパチクリと数回瞬かせてから、声がした方を見た。そこには暖炉に火を起こしたばかりの老婦が人のよい笑みを浮かべながら、ナズナに手を振っている。

「ん、おはよう」と口元を覆っていた真っ白なマフラーを下げてから、彼女は返事をした。

 

「おはよう。時間は夜だけどね〜」

 

 どうやら毛布に包まったまま椅子で寝てしまっていたようだ。

 

「何か手伝う?」

「なら、スープでも一緒に作ろうか。そろそろ晩御飯だからね」

「オッケー」

 

 相槌を打ったナズナは立ち上がり、毛布を椅子の背もたれにかける。マフラーの尾は火にかからないよう背後に回す。

 ふたりで何を作るか話しながらキッチンに向かい、各々準備に取り掛かった。

 

「そういえばこの間の子。また来るのかい?」

 

 老婦が使う食材を出しながら尋ねた。

 この間の子ーーと言われて、ナズナが思い浮かぶのはたったひとりだけだ。

 

「コウくんのこと? ……あれ、おばあちゃんってコウくんに会ったっけ」

「町の子たちが教えてくれたのよ。なんせ浮浪の少女を追ってわざわざこの町にやってくる男の子。話題にならないほうがおかしいよ」

「あはは、客人じたい珍しいもんね」

 

 笑いながらナズナはニンジンを器用に刻んでいく。

 ナズナは旅をしている。夜守コウという自分の眷属候補への恋心を忘れることが目的だ。自分の初恋を終わらせてコウを吸血鬼にする。

 そう意気込んで国を出たのはいいものの、恋が冷める様子はなくずっとのらりくらりと生きていた。

 しかし、数ヶ月前に突如としてコウがナズナの前に現れたことで事態は変わった。

 コウが探偵になった。ナズナのもう一人の友達である目代キョウコ。探偵名、鶯アンコと名乗る女性の助手として精を出している。

 その中で人脈――吸血鬼含め――を広げたコウは、中々戻って来ないナズナに自分から会いに来たのだ。わざわざ外国にまで来るとは思っていなかったナズナは、度肝を抜かれたことを今でも覚えている。

 

「追いかけっこの途中だからね。アッチに時間があって、アタシもここに居るならまたこの町の土を踏むんじゃないかな。前にも話した通り、そろそろ別の場所に行くつもりだけどさ」

 

 いつかまた彼と会えることの喜びも、当然覚えていた。

 

「世界を股にかけた恋愛逃避行か。熱烈熱狂、いい人生じゃない」

「そんな大層なモンじゃないよ」

「でも、こうして料理も上手くなってきてるわけだし、花嫁修行みたいなものでしょ」

「うっ……そういうこと言うなよ」

 

 ナズナは老婦のうっとりとした物言いに照れ臭さを感じて頬を赤くする。

 旅をする過程でナズナは知り合いの吸血鬼からの紹介で理解ある人間の家にお邪魔することが多々あった。老婦もそのひとりで、彼女のご厚意で住まわせてもらっている。

 その礼として家事などを手伝ってきた。その影響で料理や洗濯など一人前になっている。

 

「いつか振る舞えるといいわね」

「いつになるかな」

 

 そんな未来が来るなら来て欲しいと切に願う。

 

「ここを出るなら最後に贈り物代わりにその時のことを聞かせておくれよ」

「ええぇ、人に言うもんじゃないぞ……まったく」

 

 肩をすくめるナズナだが、大好きな人を語れることに不快感などあるはずがなかった。

 

 

 

 

「やっほ、ナズナちゃん」

「早すぎんだろ」

 

 冷えた首を暖めようと摩りながらナズナは目の前にいる青年に愚痴をこぼす。

 

「早く会えるだけ幸せになれるよ」

 

 静かに雪だけが降り積もるこの街にナズナがやってきた数日後、コウはまたぶらりと姿を表した。時期がちょうど春休みとはいえ、いくらなんでも早すぎだろとナズナは目を細めた。大方、旅の途中で会うススキや他の吸血鬼から情報をもらったのだろう。

 そこは問題ではない。

 大変なのは記憶よりも大人びてきたコウの立ち姿だ。大人というには笑顔が幼く、子供に括るには早熟すぎる。両耳にピアスを開けて草臥れたコートを着ているのが、どっちつかずな振る舞いに危険な薫りを加えている要因だ。

 それだけでも魅惑的なのに、彼は怯えることなく首をナズナに見せるのだ。

 襟を立ててくれればいいものを、律儀に折り畳んでいるせいで綺麗な首筋が露出する。邪魔になるものなんてなにもない無垢な柔肌。

 生唾を飲み込む。最高の血が目の前に。

 だから、

 

「効かん!!」

「ふぎゅうううう!?」

 

 手を出そうとするのだが、コウの肩を掴もうとする両手を逆に捕らわれて、粉雪が霙に様変わりしながらナズナの背後へ去っていく。

 瞬きのあと、自分が顔面から雪の上に叩きつけられたのに気づく。べちょりと顔が濡れたことに気を取られていると腕の関節に激痛が走る。

 

「ぐぎぃ!?」

「膝固めじゃ!」

 

 ガッチリと技を決められたナズナは思わず呻き声をあげてしまう。

 吸血鬼は人外ゆえに人間には測れない力を持っている。厚さ何十ミリのコンクリートを打ち砕いたり、腕を一振りで切り落としたりなど枚挙に暇はないが、吸血鬼であるナズナを抑え込むコウの力。それは半吸血鬼と呼ばれる半端者の力。

 

「痛いいたい! また半吸血鬼になってきたね!? しかも技のレパートリーが増えてる!?」

「前のままだと思わないことだ! 今の俺は朽木倒しも腰締めもできる!」

「なんかよくわかんないけど頑張ったね!! タップタップ!!」

 

 ナズナが雪を必死に叩いてパサパサと音を立てると、コウは力を徐々に緩めていく。くるぶしまで積もった雪の中で、バランスを取りながら立ち上がろうとする。

 

「ハッハッハ! リアルファイトだと俺が連戦連勝だね!」

「ふ、ファイトなんてしてないし! 本気でやったらアタシが勝つもん!」

 

 誇らしげに笑うコウを見て、ぷくうと饅頭のような顔にして怒る。

 ナズナとコウが直接対決をしたことはない。あっても今みたいに戯れ愛の延長線上で、全力で戦ったらどうなるかは分からない。分からないけれど、多分やりあったら自分が負けるとナズナは本心では思っている。

(ビルを一発で壊すやつと戦って勝てる気しないし……)

 以前、自分が住んでいた雑居ビルが粉々に粉砕された様を思い出して、思わず身慄いする。

 吸血鬼と人間の狭間を生きる青年。半吸血鬼という異端な存在だからなのか、通常の吸血鬼では出ない力を彼は宿している。

 

「ほら」

 

 桁違いの力が籠っている手をコートの中に入れると、そこからあるモノを取り出した。新鮮で真っ赤な血がたっぷりと入った血液パックだ。

 

「もう何個か持ってきてるからあとで渡すね」

「サンキュ」

 

 和かに笑うコウにナズナは肯首する。

 彼の背後に微かだが雪を被ったアタッシュケースが見える。恐らくその中に入っているのだろう。

 

「はい、ナズナちゃん」

 

 コウは封を開けると飲み口を差し出してくる。艶々の赤色に目を奪われたナズナは、飛びつくように飲み口に口をつける。

 一息にちゅぅと吸い込んで、身体中にエネルギーが広がっていき、自制心と力がどんどん溢れてくる。自分を呑み込む衝動もなりを潜める。

 

「ぷはあ〜〜」

 

 口を離すと、風呂上がりの一杯を思い出させるような満面の笑みを浮かべた。

 

「いやあ、飲んだ飲んだ! やっぱりコウくんの血は最高だな」

 

 できれば直接首を噛んで飲みたいけれど、それは我慢したければならない。パック経由でも飲めるだけありがたいことなのだ。

 

「落ち着いた?」

「おう、バッチリだ!」

「それは良かった」

 

 血液パックを手渡してコウはナズナの左隣に腰を下ろす。ふたりは並んで雪景色が続く地平の彼方を見つめる。白と黒がはっきりと分かれた二色の世界だ。

 厚着をしているとはいえ雪に直接の座るので、じんわりと冷たさが臀部から伝わってくる。

 

「冷たっ!?」

 

 一箇所が冷えると他の場所も異様に冷たく思えてくる。頬に触れる粉雪さえも身体を裂くのではと疑いたくなる。

 コートの端を雪と尻の間に挟むように座り直して、冷たさを和らげようとする。

 動くと視界の端に風に揺れた淡い紫色の髪が現れる。その持ち主へと眼を動かす。

 

「どうした?」

「いや、別に」

 

 何事もないと示すようにコウはぴしゃりと否定しながら、彼女からは見えない左手でコートを強く掴んだ。

(吸血衝動が無ければ一緒に温まれるのかな)

 せっかくコートを羽織っているのだから、ふたりでくっつけばマシになるはずだ。少なくとも人肌の温もりは感じられる。

 けれども、不用意に近づけばナズナが自分の首から血を吸ってしまう。

 自分だけならいいが、ナズナまで死ぬことをコウは認められない。少なくともお互いに覚悟が出来ていない今、最悪の事態が起こることをふたりは望んでいない。

 だから、彼らの間には確かな壁がある。相手を思うからこそ生まれてしまう壁がふたりを阻んでいる。

 その壁はいつまであるのだろうか―――

 

「やっぱり何か隠してるだろ」

「あ、いや、別にぃ?」

「そうやって眼を逸らす。朝井ちゃんとちちくり合ってたのがバレた時みたいな顔してるよ」

「そんな顔してる!?」

「してるしてる」

 

 何度も頷くナズナを見て、自分の顔に手を当てる。自分ではよくわからず、手鏡でも持って来れば良かったなと思った。

 ただ血を吸われないから自分の懸念は、口にしなければバレることない。

 心の内を隠す為、コウは逸らした眼をもう一度ナズナに向ける。

 

「アレから二ヶ月くらい経つけど身体に異変はない?」

 

 問われたナズナは不思議そうに眼を丸くしながら、自分の顔を触る。頬に当てた手が首へと下り肩へ。そして胸や背中から腰、太もも、足先と順に確かめる。

 そしてひと拍子置いて、ナズナは口を開く。

 

「変なところはないけど」

 

 キョトンとした声にコウは緊張を緩める。

 

「血液パック経由でもダメだったらどうしようかと思ったよ」

「そういえば、どうして大丈夫なんだろ?」

 

 以前出会った時は三年の間に何をしていたとか、他の吸血鬼たち――主に本田カブラ――からの伝言だったりで時間が尽きてしまった。

 考えもせずに吸ってしまったが、普通に考えたら死ぬ可能性もあった。

 

「よく躊躇なく渡せたよな」

「大丈夫だって事が分かったからさ。ただ長期間飲んでも問題ないのかはまだ実験途中なんだ」

「今は探偵じゃなくて吸血鬼の生態でも調べてるの?」

「はは、その手伝いも、かな」

 

 曖昧な言い方にナズナは首を傾げる。

 

「ナズナちゃんが帰ってこなかった三年間で色々あってさ。探偵てことで吸血鬼以外の仕事も手伝ってて、聞き込みとかそういうの」

「お。いかにも探偵らしいじゃん」

「でしょ」

「それで? その三年で何があったの?」

「変な科学者に出会った。しかも嬉々として吸血鬼を調べるタイプの」

「絶対マッドサイエンティストじゃん!!」

 

 ナズナの頭の中には得体もしれない薬品が入ったデカいフラスコを持った研究者が『フフフ……っ』と低い笑い声をあげていた。

 お化け嫌いのナズナは自分で想像したものにも関わらず、身体を大きく震わせる。

 彼女が想像するものを雰囲気だけで察したコウは、肯首するか迷った。あながち間違いではないからだ。

 

「五十鈴大智って学者で、とある依頼で偶然知り合ってさ。その時に吸血鬼というか、人間と半々になってるの見抜かれ……見抜かれたのか? まあバレちゃって、吸血鬼について調べたりしてもらってる」

 

 コウの中で五十鈴大智という学者が釈然としないのは、自分が半吸血鬼になれる事がバレた理由が分からないからだ。

 相手の前でピアッサーを使った訳でもないし、吸血鬼について話してもいない。コウの中にある人間とは異なる何かを見通されて、話す事になってしまったのだ。

 しかも大智は『へえ、吸血鬼か。僕たちの世界には変わったものが沢山いるね』と興味深そうにコウを眺めて、吸血鬼の存在を否定すらしない。疑問すら投げかけず受け入れていた。

 

「人間なんだよな?」

「脈はあるって探偵さんも言ってたし、間違いないと思うけど」

「でも、コウくんみたいなパターンもあるしなあ」

 

 ナズナが髪の中に手を入れてクシャクシャと動かす。

 言いたいことは分かる。

 しかし、吸血鬼ではないとコウは思っている。人間、吸血鬼問わず多くの奇人変人と出逢ってきたコウだが、五十鈴大智という男に関しては全く毛色が違う存在に感じたのだ。

 

「ソイツは吸血鬼に何も思わなかったのかぁ?」

「脅威とも思ってないみたい。それに吸血鬼よりも眷属化のメカニズムの方に興味がありそうだった」

「まあ、それで種が増えるからな」

「『感情による変異……ギラギラと人生放棄による幸不幸の逆転現象で引き起こす簡易的な……』みたいなことをブツブツ言ってる」

 

 口に手を当てて呟くコウを見てナズナは目を細める。

 

「ヤベェやつじゃん」

「吸血鬼に言われる人間って相当だよね」

 

 腕を組んでふたりは頷きあう。

 

「そんな人だけど、研究に対しては真摯だからその点は信頼できる人なんだけどね」

「コウくんの血を飲めてるのもソイツのおかげだし、遠い異国から感謝はしておくよ」

「本人は顔も見てみたいって言ってるけど」

「モルモットにされそうで怖いし嫌だよ……」

「ひ、否定しきれない」

 

 しかし、悪人ではないのは確かだ。

 なんせ、彼はコウの願いのために協力してくれる数少ない人間なのだ。吸血鬼についても鼻で笑わないし、よく分からない生態をしている吸血鬼に喰らいつくように研究をしてくれる。

 

「ま。五十鈴が生きてる内に日本に行けたら挨拶くらいはしてみるよ」

「俺としてはいつでも帰ってきていいんだけど」

「ダメにしまってるでしょうが。いつまで平静でいられるのか分からんのだぞ」

「その時はまた締めてあげるから」

「返り討ち前提で話進めるのやめない?」

 

 コウの言いぐさは自信よりも味を占めた感じが強い。

 実際コウは強くなった。通常の吸血鬼から外れた身体スペックや半吸血鬼という変貌による不意打ちなど、元から備わっている力を差し引いても、身につけた技術で暴発寸前のナズナを抑え込める。

 お陰で心理的な壁はあるけれど、傍にいられる。

 そばに居ても大丈夫だとナズナに印象付けることができた。

――けれど、あくまでコウにとっての話だ。

 ナズナにとって、良いことではない。

 甘えが生まれてしまうのだ。

 コウと一緒に夜を過ごすことは、ナズナにとって嬉しいことのはずなのに今は素直に喜ぶことができなかった。

 手に持った血液パックに視線を落とす。

 綺麗な血が入っている。自分に渡すために大事に保管されていたんだと、ナズナはその想いにポッと胸を暖かくする。けれど、その見た目とは違って中にある感情は日を置いた薄味になっている。

 旅の途中でもナズナは時より酒を飲む。血は酒と違って日を置けば美味しくなるものではない。

 直飲みが一番だ。

 いま、この瞬間に、彼が強く思っている血を、月夜の下で首筋からそのまま飲みのが一番美味しい。飲みたい。七草ナズナの舌は肥えてしまったのだ。

 旅に出て飲むことを諦めていた喉が、パック経由で飲めるという事実に甘えて『飲め』と訴えかけてくる。

 キクとマヒルだったから死んだのかもしれない。吸血鬼と人間のハーフである自分が吸ったらうまいこと二人とも死なずに済むかもしれない。

 そんな油断が彼女の心を蝕んでいく。

 ――きっと、

 ―――きっと、そうだ。

 

「ナズナちゃん、聞いてる?」

 

 コウの一声にナズナはびくりと身体を強張らせる。

 血液パックに向けていた視線がいつのまにかコウの首筋に移っていた。

 ナズナは慌ててパックの中の血を飲んだ。一滴も残さないほど豪快に飲み干す。

 

「いやぁ、コウくんってホント美味しそうだよな」

「えっ、待ってそれは血ってことだよね?」

「そのままの意味だよ」

「めっちゃ目がギラギラしてる!? 怖い!!」

 

 もちろん冗談なのだが、本当に襲ってしまいたいほどの衝動には駆られていた。血を飲んだから平常心を保てているが、もしこれが数年ぶりに会った時だったらどうするべきか。

 ナズナには自信がなかった。

 関係を断ち切って『血もいらない』と言えれば簡単だが、コウに会えるのは、コウと話ができるのはやっぱり嬉しい。それにナズナから断ち切った所で目の前の青年は必ず探し出すだろう。

 彼は昔からそうだった。

 コウを落とす決意をしたものの、彼に合わせる顔がなく街を彷徨っていたナズナを彼は自分の力だけで見つけ出したことがある。

 ナズナを突き刺す瞳は、その時の輝きと同じだ。寒空の下だというのに真っ赤に燃えるとすら思えた。それだけ強い意志が彼の中には宿っている。

 知らない土地の、知らない言語すら越えて彼はここにいる。

 以前、自分に会いにきた時と変わらない。

 なんとしても自分を日本に連れ帰る願いを持っている。

 ナズナの覚悟は彼の思いに比肩するものか?

 首を縦に振れない。

 軟弱な心のまま――出来てると言ったくせに情けない。

 

「やっぱり聞いてなかったんだね」

「悪い悪い。で、なんだっけ?」

「この間のリベンジだよ!」

「あー……オーロラとかの?」

「そうそう! エキ氷河も見たいし、クジラやセイウチが見れるクルーズツアーとかさ!」

「……やっぱりコウくん変わったよね」

「そりゃ3年も経てば変わるよ」

「そうじゃなくてさ。昔は口数少なかったり、東京に理由もなく憧れるなとか言ってたのに行動派になったよな」

「だってナズナちゃんと見たいって歴とした理由があるし。せっかく遠くの異国に来たんだもの。ふたりで楽しみたいよ」

 

 私もそうだよ。

 ナズナは遠ざけるための擬弁を心の中に秘めながら鼻で笑う。

 

「いつか春が来たら見に行きたいなぁ」

「その春はいつになるのかな」

「さあ、いつ頃だろうね」

「因みにオーロラは4月までがシーズン。もうそろそろ終わっちゃうよ!」

「でも、あと数日は雪ばっかりだしな。ま、見られる季節になったら、また見つけてくれよ」

「ナズナちゃんはすぐにそう言う……でも見つけるさ。何度でも」

 

 コウが浮かべた笑顔に懐かしさを覚える。

 

「いつかはずっと傍にいられるようにしてみせる」

 

 確信に満ちた声が夜空へ突き抜ける。

 

「っ……」

 

 いつのまにか彼はナズナの手の上に自分の掌を置いていた。温かい。掴み返してあげたい。できない。力で勝るとはいえ、死ぬ引き金になるかもしれないことを承知でやっているのだから末恐ろしい。

 危ないと分かっているのにドキッとしてしまう自分もちょろい奴だと思った。

 

「そうだ! あとね、面白い話を聞いたんだよ! まんまるの虹の話!」

「丸い虹……にじぃ? 月じゃなくて?」

「そう、虹なんだって! なんか夜にしか見れない絶景なんだって!」

「虹かぁ……アタシ、見たことないんだよなぁ……」

「だったら最高の一枚にしなきゃね」

 

 雪が降る空を見上げるコウの横で、ナズナは付き添うように真っ黒な空に浮かぶ七色の輪っかを想像する。

(なんか……空虚だな……)

 興奮する隣の青年とは違い、幸せの象徴に寂しさを感じていた。

 地の果ての何処かに脚をつけている虹は何かのそばにある。けれど、一人っきりで完結してしまった輪には他に何もない。できた円の虚空は、まるでぽっかりと空いた心のようにすら思えてならない。中身はどこに行ってしまったんだ。

 だからこそ、不思議に思えてならない。

 呪いを受けた画家は、なぜそこまでして虹を見たかったのだろう。虹が単なる幸せの象徴だからだろうか。

 

「でも、コウくんとなら良いものが見られる気がする」

「ふたり一緒なら何でも良いものになるよ」

 

 答えは出ている。

 ふたりだから幸せなものになるのだ。でも、虹である必要はどこにあったのだろうか。

 

「月、見えないね」

 

 コウが顔を上げて言う。

 

「空も地平線も真っ白だよ」

 

 ナズナはどこまでも続いていく白い地平線だけを見つめる。

 

「コウくん、また遊びに来てね」

「うん。また見つけるよ。ま、今日はここでゆっくりしてくんだからさ」

「ええ!?」

「大丈夫。今度は迷惑はかけないからさ」

 

 不敵に笑うコウに余念はない。大きめのアタッシュケースには血液パックの他に着替えやふたり分のゲーム機などが入っている。

 

「格ゲーのソフトも持ってきたんだ」

「そりゃいい。さっきのお返しをその身に叩き込んでやる」

「おーし! 昔の俺じゃないから覚悟しておきなよ。またハルカとも特訓してきたんだから!」

「返り討ちにしてやらー!」

 

 闘志を剥き出しにするように各々の牙を見せ合う。

 そこでコウが間の抜けた声を出す。

 

「そうだ。忘れてた」

「ん? どうしたの?」

「渡したいものが他にもあってさ」

 

 コウは思い出したようにアタッシュケースに駆け寄る。積もった粉雪を払って、一度手に息をかけて温めたあとケースを開いた。

 その中から取り出したのは肌触りが良さそうなマフラー。ナズナがいつも身につけている真っ黒なオーバーパーカーと正反対の上品な白を基調にしている。

 

「なんでマフラー?」

「この間あった時、ちょっと寒そうにしてたからさ。ほら、ここって冬場になるとマイナス20度になるらしいじゃん。前入った冬の海よりも寒いんだよ、今だって寒いし」

 

 そのことはナズナも覚えている。

 気温の変化に耐性のある吸血鬼とはいえ、流石に冬に海に入っていられなかった。

 確か、日本の海水温度が5度や10度ぐらいだったと思い出す。それよりもずっと寒いのだから、手で摩りたくなるのは自然な行為だった。

 

「ナズナちゃん、巻いていい?」

「う、うん」

 

 パーカーの首周りにあるボタンを解き、ファスナーを下ろす。背中を向いたナズナの首が顕になって、そこにコウが持つマフラーが巻かれていく。

 

「どう?」

「気持ちいいし、何よりあったかい」

 

 マフラーのおかげでだいぶ寒さが緩和される。見た目通りの肌あたりの良さもあり、柔らかな生地に手を沈ませる。チクチクとした感覚がないマフラーにナズナはぼんやりとだが、これ高かったんだろうな、と思った。

 

「コウくんから見て、どう? 似合ってる?」

「似合ってる」

「良かった」

 

 そう言ってもらえるだけ、彼にとって自分が価値がある存在だと認識できる。血を吸わなくても理解できる感情表現だ。

 

「それじゃあ、そろそろ中入ろっか」

「あ。いいんだ」

「どうせ帰れって言っても帰らないんだろ?」

「正解」

 

 ふたりは雪景色に家までの足跡をつけていく。

 

「今日、家の人は?」

「旅行中。暫くは帰ってこないよ。しかも日本の……うきなんとかって神社に行くって。全くナイスバッティングだよ」

「じゃあ、明後日まで居ないのか」

「今回もそれだけなの?」

「うん。冬休みがもっと長くなればいいのに。せっかく夜が長い時期なのに」

「勿体無いよなー」

 

 コウがナズナと居られる時間はいつだって短いのだ。行って帰ってを含めると本当に時間がない。

 頑張って連れ帰ろう。

 コウは心に誓った願いに準じる。

 

 

「惚気が多い!」

「そ、そうかな……?」

 

 話が終わると、老婆が吼えた。決して嫌気がさした訳ではなく、歓喜が有り余って吹き飛んだのだ。

 

「にしても、好き好きぃって感じだったのに帰らなかったんだ」

「むぅ、そりゃね。いつ暴発するか分からない爆弾を抱えたまま帰れんよ」

「殺しちゃうのは嫌よね」

 

 老婆は食事に使った皿を洗いながらナズナの話に相槌を打つ。

 

「でも、その子は死ぬことも腹に入れてるように思えたけど」

「どうだろうね。それにコウくんの意思とアタシの願いは別でしょ。アタシにしてみれば、好きな人と一緒に死ねるって幸せか分からないし」

「わたしらみたいに永く生きた上でなら満足はするでしょうけど、その子はもっと先がある。若いなら先を求めたくなる」

 

 綺麗になった皿は鏡のように老婆の姿を写し、純粋な輝きを放つ。

 あるはずだった未来を捧げるほど恋してくれるのは嬉しい。けれどナズナは、コウの親友という幼い命と共にこの世を去った星見キクのようにはなれない。

 

「完璧を求めすぎるのが間違いってのは分かってるけどさ。やっぱりコウくんが満足できる最期がいいんだよ」

「でも、このままでも大切なコウくんの時間を浪費させてることになるわよ」

「ッ……」

「足跡をつけてるのだって、わざと会えるようにするためでしょ?」

「うるさいなぁ、コウくんがいないとダメなのは分かってるんだよ」

 

 図星を突かれたナズナは分かりやすく狼狽する。

 ナズナのしていることは、今全てを奪うか、ゆっくりと時間を使わせるかの違いでしかない。そう考えると、星見キクの方が潔いのかもしれない。

 

「なりたい理想があるなら、信じて動かなくちゃ運も掴めないわよ。話を聞いてる限りコウくんは前に進んでると思うけど」

 

 コウは間違いなくナズナの先を進んでいる。

 心も体も、熟そうとしている。

 

「今度会ったらちゃんとデートに行きなさい。その子と一緒にハロの輪が見れたら幸運よ」

 

 老婆が強い口調で言うのでナズナは少し驚いた。尻を叩かなければナズナが動かないことを老婆は見抜いているのだ。

 

「人間、いつ死ぬか分かったもんじゃないんだから。都合よくそばに居られるなんて思わない方が身のためよ。最後に『幸せだったね』で死にたいのなら尚更ね。したいことがあるなら、しておかないと」

「したいこと……ね……」

 

 理想論だと投げ捨てれば楽になれる。

 

「そうだ。コウくん、壁にかかってる写真を見てはしゃいでたよ」

「本当? 天にいるあの人も喜ぶわ」

「それは良かった」

 

 ナズナは視線を落として考える。

 心という名の神による呪いが自分を動かさないのでは。

 最期の時に、コウの身体に流れる確かな祈り(恋心)を感じるにはどうすべきなのだろうか。

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