よふかしのあじ   作:フェイクライター

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EX-Night4 虹の空蝉(後)

 春が終わり、夏を超えた。

 秋は背後に流れて、冬がやって来た。

 コウがナズナを訪れた最後の日から、あと一ヶ月もすれば一年近く経つ時期だ。

 あれから、コウはやって来なかった。

 何故だろう。何で来てくれなかったんだろう。

 

「……コウくん、コウくん」

 

 ナズナは呟き続ける。

 自分の居場所は日本から遠く離れた異国なのは従順承知している。自分の脚でここに来たのだ。見つけられなくても無理はない。

 けれど、彼は見つけてくれたのだ。

 だから、来ないはずがない。

 来てくれる。

 コウは来てくれる。

 

「コウくんコウくんコウくん……」

 

 自分の痕跡を見つけられなかったのだろうか。

–––手伝いを始めたって言ってもまだ数年だし、仕方ないのかな。

–––先輩もアザミもアタシの足取りが分からなかったのかな。

–––ススキっぴにもここ一年会っていないし。お互い、世界中旅して回ってることを考えたら、ばったり出くわすなんて奇跡か。

–––足跡は残したはずなのにな……

 

「……はあ……はぁ」

 

 ナズナは部屋の隅で膝を抱えて丸くなりながら、荒い呼吸を繰り返している。自分の吐息だけが近くで聴こえる。ひどく疲れ切った身体は小汚く、美しいを象徴する生き物である吸血鬼とは一眼見ただけでは誰も気づかない。

 彼女のそばには空になった試験管と栓をしていたコルクが無造作に床の上を転がっている。中にはひび割れた試験管すらあった。

 割れてガラス片の先から、微かに残っていた血が床に垂れた。

 

「くそ……」

 

 ナズナは血が床のシミへ変わっていく前に指で掬い取って舐める。

 多少は気が楽になるが、本当に微々たる差だ。

 いくら胸にどデカい風穴を開けられても血液一滴飲めば瞬時に回復してしまう尋常ではないエネルギー効率、回復速度を持っている吸血鬼とはいえ、今のナズナにとっては塵に等しかった。

 血が足りていないのだ。

 コウが持って来た血液パックはないのか、と問う者もいるだろう。

 そう、問題はそこなのだ。

 彼から渡された血液パックの量は一年間耐え続けるには少なかったのだ。

 ただでさえ、血液というのは繊細で大切な貴重品。

 日本に出る前に看護師である本田カブラという吸血鬼–––ナズナの母代わりでもある–––に、看護師の仕事について軽く教えられたことがある。

 採血などを行うらしく血を吸う吸血鬼としては天職で、コウの血が吸えなくなったナズナは、血を求めて看護師に就こうとした。

 ナズナはカブラが言っていたことを思い出す。

 輸血用に使われる全血は2度から6度で保管されており、その使用期限は採血後からたったの21日まで。赤血球ですら28日がデッドライン。

 余りにも短すぎる期間。

 その間に使いきれなければ、一部分は出血や血栓を改善するための血漿分画製剤の生成に用いられるが、大部分の血は何にも使われず廃棄される。

 

『だから、皆んなには献血に行って欲しいのよね。私たちの食事のためにも』

『人間に使う期限と吸血鬼が飲む期限って関係あんの?』

『飲んで腹を壊すってことはないけれど、念のためにね。あとやっぱり新鮮味が薄れるの。飲むと、あ、これ古いやつだって分かるくらいには』

『飲んだことあるの?』

『……ハルさんの眼を盗んで少しだけ、ね………』

『看護師がつまみ食いすんなよ』

『悪かったわね! あの時はお腹が空いてたのよ!』

 

「あぁ……確かにお腹が空くなぁ……」

 

 転がっているコルクを小突きながらナズナは力無く口にした。

 周りに転がっているのはコウの血ではなく、ここに行き着く前に売人から受け取ったものだ。

 つい先日購入したばかりだが、新鮮なものではなかった。運が悪いことに、血の本来の持ち主はすでに眷属候補から除外されているのか、喉を抑えたくなるほど不味い。

 しかも、飲んでもエネルギーになった気がしないのだ。逆に身体を害してしまう。

 コウの血が欲しい。

 

「コウくんが見たら怖がるだろうなぁ」

 

 コウが出会ったらしい死ぬ寸前の吸血鬼も、自分と同じ様な苦痛に耐えていたのか。

 いや、自分どころではないだろう。

 なんせその吸血鬼は、10年誰からも血を吸わずに生きて来たのだから。

 

「本当に感服するよ」

 

 自分が弱音を吐くには早すぎる。

 けれど、自分の辛さと他人の辛さを比較して良いことなんて何一つない。自分が辛いなら、他の誰かを付け加える意味がないのだ。

 

「コウくん……早く来て。だめ、来ないで」

 

 彼は何故来ないのだろうと、立ち返って考える。

 やれることがそれだけなのもあるが、自分の飢餓よりもコウの事が心配なのだ。

 病気になってしまったのだろうか? その病気はちゃんと治るのだろうか? 事故に遭ってしまったのか? 星見キクに殺されかけた時の様に溺死してしまったのではないか? 自分の知らない内にこの世を去ってしまったのか?

 嫌だ。嫌な想像だけが彼女の心の中で広がっていく。呪いの鎖が喉を締め付ける。

 コウが初めから会いに来なければ辛い想像なんてしなくて良かったけれど、会えて嬉しかったからこそナズナはより強く苦しむ。

 早く会いたいと願いながらも、会ってはいけないと戒める自分にナズナは苦悶する。

 相手がこちらの居場所を知らないのなら、自分から会いに行けばいい。コウの居場所をナズナは知っているのだから。彼は自分との繋がりを残すために故郷に残り続けているのだから、想い出に向かって足を進めればいい。

 けれど本当に会ったとして、今のままでは絶対に危険だ。

 吸血衝動に駆られている今、コウくんと出会ってしまえば何をするか分からない。けれど、いま動かなければ彼の顔を見ることすら叶わなくなるかもしれない。

 

「どうするかなぁ……」

 

 そう口にしながら、ナズナは壁に手をやってなんとか立ち上がる。

 

「子供が腹括ってるのに親が不甲斐なかったらカッコつかないよな」

 

 重い身体をなんとか支えながらナズナは冷蔵庫の前に立つ。扉を開けると床に転がっているのと同じ、試験管に入った血液が保存されている。

 試験管はプラスチックケースに収められている。

 取り出して中身を覗き込めば、残り1本になっている。初めは20本もあったのに随分消費が早い。

 

「最後の最後まで不味いなんてことはないだろ……」

 

 ナズナはケースから取り出して、試験管を軽く振った。ぴしゃぴしゃと血が弾ける。

 日本に帰るにしても、そのための準備がいる。

 吸血鬼には基本、身分証明書がない。人間として生きていた環境から抜け出すので、失踪から十数年経てば死亡届を出される。

 なので、特殊な方法で飛行機に乗ったり、家を借りたりするわけだが、今回に限っては前者は行えない。血を飲んでも満たされない心のまま、飛行機に乗り込めば大殺戮だ。

 だから、密入国よろしく人に会うことなく国を渡らなければいけない。

 その手配にも時間はかかるし、用意ができるまで此処にいる必要がある。幸いなことに人里離れてはいるが、山を降りればすぐそばに港はある。

 

「でも凍ってたら動けないんだよな。別口の渡りかたも考えておかないと、そのためにも」

 

 試験管からコルクを抜き取れば軽快な空気の抜ける音がする。中に入った血を一気に飲み干す。飲み込むと、やはり喉につっかえる不快感が後味として口の中に残る。

–––慣れて来たけど、やっぱり不味いなぁ……

 だけも、気休めがわりにはなる。

 

「アイツを見つけて血をもらって、日本に戻る話をしないとな」

 

 口を拭って、ハンガーラックにかかったいつものパーカーと、コウから受け取ったマフラーを手に取った。

 今宵の進むべき道は決まった。

 暖炉の火を消すと、室温が一気に下がった気がする。部屋に霜が張るのではと錯覚してしまう。ナズナは温もりを感じるマフラーをギュッと掴みながら、部屋の一角に置かれたベッドを見つめる。

(コウくんとまた一緒に寝たいな)

 願望と視線を切って玄関まで歩けば、冷たいままのドアノブを捻って押し開く。

 冷たい風が家に流れ込んできて身構えながら外に出る。

 白い息が立ち昇る。鬱蒼と茂った木々が作る黒の中に白が溶けて消えていく。

 

「月を拝めるかと思ったんだけど、仕方ないか」

 

 本当なら月が覗く時間だが、広げられた傘によってその居場所を探ることはできない。森の中に届く微かな光は月の光なのか、星の光なのか判然としない。

 ただそれだけの光があれば吸血鬼にとって、暗さはなんの障害にもならない。

 

「うぅ……寒……」

 

 凍えるのは当然で、辺りを見渡せば落ち葉の上に白の絨毯が重ねがけされている。先ほどまで雪が降っていたらしい。

 

「行くか」

 

 眼前にあるなだらかな斜面を注意しながら進んでいく。

 風景はあまり変わらない。白と黒だけが続く世界を眺めながら、いっそのこと吐き出した息のように溶け込むことが出来ればすべてが丸く収まるのではないかと思えてしまう。

 ちょうどいいことに服装は白と黒だ。なんら違和感もないだろう。

 ナズナは自分の中に湧いてくるのが弱音ばかりで嫌になる。コウと出会う前の自分にはこのようなセンチメンタリズムは介在しなかったはずなのに。

 

「アタシがどっかで死んだら、それこそコウくんの人生が無駄になるんだよな」

 

 ナズナには、自分が死んだ後も見つかるはずのない痕跡を探して人生を消費するコウの姿がハッキリと想像できる。

 自分のやるべきことは、コウが満足するまで生き続けること。

 それが今、壊れるかもしれない。

 会わなきゃいけない。

 杞憂ならそれでいい。ちょっとした病気ならそれでいい。また会える日を楽しみにする時間が伸びるだけだ。

 自分の高望みを抑えつけることが最低条件だけれど、血の入手自体はできるのだから待ち続けられる。

 でも、コウのそばに居ないいけない時に、ナズナは知る術がない。不安に思ったなら動かなければいかない。

 コウのお陰で、ナズナは勇気を知った。

 彼のようにナズナを御する力を手に入れたり、ナズナを探し出す知恵を身につけたり、半吸血鬼を使い続けられたりする運を持っている訳ではないけれど、一番大事なものは貰っている。

 所々凍り出した雪や落ち葉に足を取られないよう歩き続けて、木々の縫い目が広くなって来た。

 

「もうそろそろ出れる」

 

 そして、森から一歩踏み出した。

 視界が開けて光がより一層強くなる。重苦しい空気が弾け飛んで開放感のある爽やかな風が吹く。

 耳を撫でる風は冷たいけれど、揺らぎそうな心を真っ直ぐにするには適していた。

 

「今の時間ならアイツは酒場にいるか」

 

 再び付け出したトランシーバー型の腕時計を見る。

 時間は22時を過ぎた頃だ。コテージを提供してもらった時に、取引相手の吸血鬼は『日を跨ぐまでは酒場で男と飲んでるからいつでも来な』と言っていたのを思い出す。

 酒場までは十数分は歩くだろう。人間に会うと襲ってしまいそうで、なるべく人と出会わないよう売人と会わなければ。

 目的地を再確認した、その時だった。

 

 

プ――――ッ

 

 

「え」

 

 久しく聞いていなかった喧しい音が夜に鳴り渡って、ナズナはすぐに首を振りながら辺りを見渡す。

 この音が聞こえたということは、間違いなく。

 

「あ……」

 

 肩の力が抜けていく。

 雪に足跡をつけながら、米粒大のシルエットがこちらに近づいてくる。どんなに遠くても見間違えるはずのない人影に驚きながら、ナズナの息遣いは穏やかなものになっていく。

 ナズナは飛び跳ねるように駆け出して、一気に距離を詰めていく。

 彼もこちらに気づいたようで、足の進みが早くなった。

 お互いに近づき合い、どんどんシルエットが大きくなってきて、ようやく相手の顔が像を結ぶ。

 

「ナズナちゃん、久しぶり」

「コウくん!」

 

 一年ぶりに見た彼はまた大人びてて見えた。けれど変わらない笑顔を浮かべていて、自分の想像が杞憂に終わったことに安堵した。

 そうして、

 

 ―――ナズナの口元から何かが垂れた。

 

「コウくん!!」

「あ」

 

 気づけばナズナはコウを押し倒していた。コウの背が地面に激突した衝撃でクッションになった雪が飛び散ってふたりの頭にかかる。

 頬にへばりつく雪を払うことなく、ナズナはコウの両手を押さえつけていた。

 吸血衝動に駆られていたナズナの身体能力が、生存本能によっていつも以上の力を発揮してしまったのだろうか。

 

「ナズナちゃん、ちょっ痛いよっ」

「コウくん……コウくんの血……」

 

 恐れていた事が起きてしまった。コウの声はナズナに届いていない。

 コウの耳を見れば、ピアッサーで開けたものがなかった。つまり彼はいま、半吸血鬼になっていない。その証拠として、ナズナは彼から吸血鬼の気配を感じていない。

 理由を言ってしまえば、この段階で会えるとは思っていなかったのだ。

 ナズナもまた、コウと出くわすとは思っておらず心の身構えが出来ていなかった。

 なす術なくコウは人外の力で押さえつけられる。

 ナズナの視線の先には首筋が映っている。そこに歯を突き立てれば、美味しい血が飲めるのだ。

 

「ふふ……ふへへ……はぁ……」

 

 衝動のままナズナは恍惚とした表情を浮かべる。

 

「もう……がまんできない……」

 

 口を開けた。

 

「ナズナちゃん」

 

 コウは怯える事なく、開いた口を眺めながら彼女の名前を呼ぶ。

 

「人の血は夜が一番美味しいもんね。いいよ、ナズナちゃん」

「……コウくん」

 

 滴る雫のような曇りのない微笑みがナズナの視界の端に映り、顔が動き、彼の強さを真正面から見つめる。

 今のままではいけない–––

 コウくんを殺したくない。

 コウくんに幸せになって欲しい。

 願いが渦を巻いて、衝動と共にナズナの身体の中で暴れ回る。けれど、それだけでは足りない。反発するたびに衝動が膨れ上がっていく。

 なにか、代わりが必要なのだ!

 コウを強く求めてしまうこの衝動を打ち消して、心に凪をもたらすほどの強い衝動が必要なのだと、ナズナは生存本能の別側面から感じ取った。

 ならば何がある?

 コウと過ごした中で、思い出に色濃く残っていることは、

 

 

『だから、退屈なんてさせない。俺といよう!』

 

 

 あの後、自分はどうしたんだっけ。

……ああ、そうだ。

 

 心の中にフラッシュが瞬くと、不自然なほど自分の心がそちらに向いたことに驚いた。

 そして、今まで通り、唇を押し付けた。

 

「んっ」

 

 コウの瞳が驚いていた。

 あの時は決意と気恥ずかしさが入り混じって、思わず目を閉じたままキスをした。あの時が一番熱の入ったキスだったと思う。

 自分の舌がコウの口の中を犯しだす。

 

「あ、んんっ……っ……」

 

 今度のキスに熱が入っている訳ではなかった。

 それ以外の感覚が消し飛んで、コウと触れ合っているその一点だけが生きているような錯覚に陥る。

 

「ナズナちゃん……」

「コウくん」

 

 コウもナズナの口の中に舌を入れ始めた。

 お互いが相手の舌と口の中を舐め合う。唾液と唾液が混じり合い、艶めく卑猥な音を誰もいない夜の中に響かせる。ブザーのように姦しい訳でもないのに、妙に通りの良い音はふたりの耳朶を打ち、より深みへ嵌め込んでいく。

 抑えつけていたはずの手も次第に解け出し、優しい形で再び結ばれる。

 無心だった。陶酔していた。

 体勢を取り直したのもふたりは気づいていない。

 既にナズナの身体からも、心からも吸血衝動は消え去っていた。

 数分なのか、数時間なのか。幾許かたった頃。

 

「大丈夫だった? 血とかさ」

「全然ダメ。コウくんの血じゃなきゃ満足できない」

「あはは、ありがとうって言ったほうがいいのかな」

 

 名残惜しかったが、ふたりは口を離していた。

 吸血衝動は引いていた。

 各々は穏やかな雰囲気を醸し出しているつもりだが、温もりを確かめるように唇に手を触れているのを忘れてはいけない。

 

「中々会いに行けなくてごめんね」

「いや、悪いとは言ってないんだよ。その……ただ、コウくんにアタシの喉が調教されたというか」

「卑猥な言い方やめない?」

「まぐわいだぞ」

「今は食事だけでしょ!!」

 

 詳しく聞いていくと、彼が一年近く顔を見せなかったのは高校3年という大事な時期だったのもあり、試験が多くコウ自身が多忙だったかららしい。キョウコも仕事の都合が中々つかず、ナズナへの訪問を代わりに行くことが出来なかった。

 

「でも、コウくんの身になにもなくて良かったよ」

「ん? もしかして心配してくれてたの?」

「いや、まあね。外に出てきたのだってコウくんの様子を確かめるためだったし」

「日本に戻ってくるの!?」

「ちげぇよ! コウくんが病気で動けなくなってたら、自分で動かないと会えなくなるだけだし。無事なら行く必要なんてないよ」

「ナズナちゃん」

「不味い血をアタシに掴ませた売人を一発殴りたかっただけだし」

「ナズナちゃん……嘘下手……」

「………」

 

 図星を突かれてナズナは潰れた饅頭のような顔になる。

 事実、特例とはいえ自分たちの力で吸血衝動を押さえ込むことができたのだ。

 

「……これは、どっちなんだろう?」

 

 怪訝な表情でこちらを覗き込むコウの呟きにナズナは「どういうこと?」と返した。

 

「いや、薬の効果が出たのかなって」

「薬?」

「あれ、気づいてなかった? 俺が舌を入れた時に飲ませたんだけど」

「……ん? 待って何飲ませたの!? まさか媚や」

「違うから安心して!!」

 

 少し頬を赤らめながらナズナの口を制止する。

 躊躇いなく下ネタを喋ろうとするところは相変わらずで安心するのだけれど、変態扱いされるのは御免被るといった様子のコウは続けて話す。

 

「吸血衝動を抑える薬だよ。ジーニアス555って言うみたいだけど、名前はどうでもいいよね」

 

 コートの内ポケットに手を入れて、薬ケースからカプセルを取り出してみせる。赤、白、青三色のカプセルを見てナズナは返す言葉を失った。

 忌々しい自分を縛り付ける衝動を消し去ってくれる薬の存在は、瞠目に値するものだった。画期的と言っていいだろう。

 不手際を起こさない限り、薬さえあればコウの隣に居ても彼を襲うことはない。

 適度に誰かの血を飲んでさえいれば問題ないのだ。

 

「なんか……あんまり嬉しそうじゃない?」

「え? 普通に嬉しいんだけどさ。ただ、コウくんとのキスで衝動が消し飛んだと思ってたからさ」

 自分たちの力で押さえ込むことに喜びを得たばっかりだったのもあり、肩透かしを食らった気分だ。

 コウは頑固に首を振って、ナズナの曇りがかった気持ちを晴らす。

 

「ナズナちゃんはさっき、俺の血を吸えたのにキスすることを選んだじゃん。薬なんて使わずにさ」

「いや、あれは結構無心だったし」

「大事な所で踏みとどまれるなら問題ないでしょ。薬だけじゃ足りない部分も今のナズナちゃんなら大丈夫」

 

 下げていた視線にコウの手が割って入って来た。成長して大きくなった彼の手を見て、月明かりが差し込んでいるのだと今更気がついた。

 

「……」

 

 見上げれば、星はなかった。

 ただ大きな月を背にした彼の姿を見て、ナズナはただ彼に見惚れていた。月光が夜闇に彼の輪郭をはっきりと映し出す。あどけない笑顔も、月に負けない輝きを宿す瞳も、ゆさゆさと揺れて愛嬌のある後ろ髪も、その全てが蠱惑的で、とても綺麗だった。

 ナズナにはコウが月そのものにすら見えていた。

 

「どうしたのナズナちゃん?」

「いんや。今までで一番カッコいいなって、そう思っただけだよ」

「……照れちゃうナズナちゃんはもっと可愛いよ」

「ほっとけ」

 

 頬を赤らめたふたりは互いの手を取って、立ちあがる。

 

「あ」

 

 コウが嬉しそうに溢した声に呼応してナズナは跡を辿った。

 

「虹だ」

「ホントだ! ハロの輪だよナズナちゃん!!」

 

 そこにはまんまるの虹が空に円を描き出していて、月は虹の虚空を埋めるように宿っている。

 幸せを映し出す光の源は天に爛々と輝いた。

 昼間であれば拝むことすら光に拒まれたであろう空は、正しく夜だからこそ見える絶景だった。まるでナズナとコウだけを祝福する奇跡のような一枚絵。

(あいつが描きたいって思ったのもわかる気がする)

 自然とナズナはコウの手を強く握った。

 

「コウくん、カメラカメラ」

「え」

「せっかくの景色だよ! 写真撮ろよ!」

 

 ナズナが笑いながらそう言うと、パーカーからインスタントカメラを取り出した。コウも楽しげにレンズの枠の中に映り込もうとする。

 

「ちょ、もうちょい右」

「コウくんは膝立ちになってよ。それじゃ顔も虹も写らないよ」

「ごめんごめん。あ、コートの中入る?」

「入る」

 

 他愛のないやり取りを繰り返しながら、ふたりはポーズを取った。

 

「それじゃあ、はい–––––」

 

 

 

 パシャリ

 

 

 

ーーーーー

 

 

 その女性は冬特有のカラカラになった日差しに危機感を覚えながら、手庇を作って歩いていた。いつものように雑居ビルの中に構えた探偵事務所に向かっている最中だ。

 小道を経由しながら進み、目的のビルが目に入ると飛び込むようにして中に駆け込んだ。

 入ってすぐのところに郵便受けが並んでいる。

 その上から3段目の右端に【鶯探偵事務所】の表記があり、何か郵便物がないか一度目を通す。確認は日課なだけで何も入っていないことが常なのだが、どうやら今日は珍客がいた。

 

「お」

 

 たったひとつだけ、郵便受けに佇む小さな紙袋を取り出した。文庫本ぐらいのサイズの紙袋をコートにしまう。

 そして事務所がある4階まで階段を登っていく。最初は楽だったが、四階に近づくにつれて脚が辛くなってくる。三十代になった体が、以前より悲鳴をあげているのを理解して自分の衰えに嫌気が刺してくる。

 

「お疲れのようだね、鶯さん」

 

 ようやく目的の踊り場まで来ると、スズメの囀りのように柔らかく、それでいて気遣いの欠片も感じない軽薄さを持ち合わせた声がした。

 鶯アンコ――本名、目代キョウコは声がした方向へ顔を動かす。

 

「大智くんか。今日はどうしたのかな?」

「そろそろ夜守くんに頼んでいたものが届く頃かなと思ってね」

「案外暇なのかい?」

「研究のための時間さ。暇ではない」

 

 キョウコを待つ暇つぶしに大きめのフラスコを眺めていた白衣を着た青年は、コートの内ポケットの膨らみを見て、メガネの奥の瞳をニヤッと笑わせる。探偵事務所で吸血鬼の案件を扱う時、時折協力してくれる五十鈴大智と名乗る学者である。

 学者といっても、本人がどのような研究をしているのかはキョウコも知らない。なにやら怪しい動植物の世話をしているようなのだが、本人曰く『キミらが関わることじゃない』らしく、詳細を聴くには時間がかかりそうだ。

 吸血鬼と関わった時点で、他の摩訶不思議にも耐性ができてしまった事にキョウコの人生は、人間として理非の概念の中にはない。

 機会があれば聞いてみるか。

 その程度にしか思っていない。

 それに大智が現れたことは、キョウコにとっても都合が良かった。

 

「七草さん、見つかってよかったね」

「本当だよ。今回は骨が折れた……七草が隠れ上手とは思えないんだけどなぁ……」

 

 一度振り向いてからキョウコが事務所の扉を開けると、彼女の後に続いて大智も中に入る。日差しを取り入れる窓に背を向ける形で置かれている自分のソファに腰を下ろす。そしてコートの中に入れた紙袋をデスクに置くと、背もたれに身体をどっさりと預けた。

 手には紙袋と一緒に取り出したタバコとジッポが握られている。

 

「……」

 

 タバコの先に火をつけて、黙々と昇るだけの煙を見ながらキョウコは神妙な顔つきになる。

 

「気になっていることがある」

 

 壁に背を預け、フラスコをバッグの中にしまった大智は目線だけで問いかける。

 

「キミが作った鎮静剤は画期的だ。けれど、ふたりの行き着く先は別れだ。七草が吸えない以上夜守くんは吸血鬼にはなれないし、夜守くんは他の吸血鬼に恋をする気は微塵もない。現状はすべて、問題の先送りにしか過ぎないのではないか、と」

「……なるほど」

「悲観的かな?」

「いいや。現実的で良い着眼点だ。キミのような人がいて、夜守くんも心強いだろう」

 

 あくまでナズナが衝動的にコウの血を吸うことはなくなり、安心してふたりで居られるようになるのも時間の問題だ。

 事態は好転した。

 好転したが、そこで打ち止まりだ。

 

「だったら、どうして薬を作ろうと思った?」

 

 口から吐いた白い煙が視界を遮る。

 コウはナズナと楽しく過ごせる時間は少ない。歳を取れば体は自由に動かなくなるし、まともな反応すら出来なくなる。半吸血鬼になれるとはいえ、不運に見舞われて病気や怪我――最悪の場合、死ぬかもしれない。

 そうなれば、ナズナはコウの十字架を持ち続けることになる。

 

「夜守くんが口伝で聞いたが、人間への恋は呪いだと言っていたらしい。二度と忘れられない恋。もしそうなら、十字架は永遠にナズナの胸の中に居座り続ける。流石にそれは……酷だと私は思う」

 

 少なくとも友人として喜ばしいことではない。

 瞼を合わせて感情を落ち着かせる。どちらにしろ自分が決めれる範疇に、ナズナとコウの感情がないことは事実。

 開けた視界を覆った白い煙越しに大智を見つめる。

 彼はキョウコの話に耳を傾けているが、表情に深刻さは見受けられない。それは他人事だから、では決してなく大智にとってその事柄全てが杞憂だと分かっているからだ。

 

「今の夜守くんの姿は亡くなった友人に似ているらしいね」

「夕マヒルのことか? そうだな。後ろに束ねた髪なんか正にそれだ」

「つまり彼らはとっくに腹を括ってるんじゃないかな」

 

 淡々とした調子で大智は続ける。

 

「年老いて動けなくなって、喋れなくなったとしても、彼らは血を吸えば気持ちを伝え合うことができる。これからの時間を有意義に進め続ければ、『幸せだったね』と満足して逝くことができる」

 

 コウの心理を理解しているからこそ、大智は鎮静剤を作った。ふたりで過ごせる時間を確保するために必要不可欠なものを最優先にした。

 

「とはいえ、本当に二人揃って死ぬかは分からない。話を聞く限りだと、星見キクと夕マヒルが死亡した状況は余りにも異例だ。まず夜ですらないんだからね。

 夕くんが死んだのも吸血鬼化する際に必要だった血を星見キクが飲み過ぎて、変貌に耐えきれなかったからかもしれない。吸血鬼として特異な七草くんが吸えば問題ないかもしれない。

 本音を言えば、吸血鬼については想像を膨らませる段階だ。これから検証を繰り返していくしかない」

 

 

 大智の話にキョウコは黙って頷いた。

 ふたりの覚悟についてもそうだが、星見キクたちの死亡原因は全く分からないのだ。

 聞いたのは、血を吸って2人とも死んだ、それだけ。

 状況的に両想いで吸血したら死ぬと【仮定】しているに過ぎない。

 コウの血を飲んだら死ぬ仮定は嘘だったと目の前の男が証明したが、他の仮定を実証するには不安要素があまりにも多すぎる。

 

「だから、私たちがすべき事は2人が人生を謳歌する土壌を作る事になるわけか」

「そういうこと」

 

 危険のないふたりがまた共に過ごせる現状の最善策だ。

 

「けど、夜守くんは吸血鬼になれると僕は思っているよ」

「……は?」

 

 しかし、今までの前提を覆して大智は続ける。

 

「彼はまだ信じ続けているからね。七草くんを退屈させず、一緒に生き続けることを」

 

 彼の語り口はとても和かで、悦びに満ち溢れている。

 

「信じてるからってそんな曖昧な……」

「そんな事はない、叶うさ。現に彼は一年ルールという制約を突破して、願いを叶える道を突き進んでいるじゃないか」

「半吸血鬼、か……」

 

 あの存在も謎だ。

 吸血鬼と人間のハーフであるナズナが親であるが故に、眷属化の過程でそうした不安定な存在が生まれたのか。あるいは、ナズナが眷属を作ると半吸血鬼で頭打ちになるのか。

 キョウコを悩ませ続けてきた謎は一向に解けない。

 しかし、この謎こそコウの理想を実現するための希望になるかもしれない。

 

「この世界にはもう幸せの総量も限界もない。皆んなが願った分だけ幸せになれる世界だ」

「神様みたいな視点で言われてもな」

「神様が言っていたからね」

「本気で言ってるのか?」

「本気も何も事実だからね。友達ではないけれど」

 

 ときどきキョウコは大智の物言いがわからなくなる。

 コウほどではないにしろ、大智も十歳近く若い青年だ。だというのに、妙に大胆で歳以上に頼り甲斐がある。研究に関しては頼もしさが顕著に表れている。

 かと思えば、常識から外れたことを容易く口にする。

 

「『Ace with us(一番星はいつも傍に居る)』なんてね」

 

 ニヤッと笑う大智は、どこか懐かしむような笑みを浮かべる。

 

「それに僕の願いは【人間と異種族の共生】なんだ。彼の理想が叶うのは僕の本懐でもあるのさ。もし、何か起これば、その時はまた手を貸し合えばいい。叶うまでね」

 

 つまり、彼は吸血鬼とはまた別の–––––

 

「前から思っていたのだが、キミも吸血鬼じゃないたろうね?」とキョウコは尋ねる。

 

「吸血鬼ではないよ。親戚かもしれないけど」

「はぁ?」

 

 掴みどころのない人物なのも、余計に疑わしい。

 聞いても聞かなくても、骨の髄まで理解はできないのが五十鈴大智という男に思えてきた。

 ため息をつきながら、キョウコはタバコの先端を灰皿で押し潰しながら火を消した。

 そこでようやく彼女の手が紙袋に伸びる。ペン立てに置かれたカッターナイフを取って、紙袋の封を切り裂いた。

 中にはコルクで蓋された試験管二本が入った半透明のケースと、何やら絵葉書が入っていた。

 

「キミが欲しがっていたのはこれだろ?」

 

 キョウコは大智に向かってケースを差し出す。

 

「やっぱり守ってくれた。彼はやっぱり優等生だね」

 

 受け取ったケースを大事そうに鞄にしまうと、大智はドアに向かって歩き出す。

 

「葉書は見てがなくてもいいのか?」

「それは探偵さんたちが楽しめばいいよ」

 

 気にも止めず顔すら動かさない大智に呆れながら絵葉書に目線を移す。そして、絵葉書に書かれている文に目が入った。

 

「大智くん、朗報だよ」

「なんです?」

「七草のやつ、今度遊びに来るそうだ」

「!!!」

 

 知らせを聞いた大智は全身ニッコニコでドアを盛大に開けて、有天頂になりながら軽快な足取りで出て行った。

 

「たくっ」

 

 もう一度絵葉書を見つめる。

 そこには虹が架かった夜空を背にしてこちらにピースサインを向けるナズナとコウの写真が一面に載せられていた。

 その端にナズナの字でこう書かれている。

 

『今度、遊びに行くね!』

 

 キョウコは思わずくしゃっとした潰れた餡饅みたいな笑みを浮かべる。

 

「アイツら写真映り下手くそだなぁ、まっ、取り敢えず……出迎えの準備でもするかーー!」

 

 絵葉書をデスクに置いて立ち上がり、身体を伸ばす。すると、絵葉書の裏面が目に入る。同じ毛布に身を包んで何処かの一室で横になっている写真。

 写真に顔を近づけてまじまじと睨みつける。

 

「ふたりとも、裸か……? 遂にヤったのか!?」

 

 下卑た想像をするのも友達の特権である。

 




 半吸血鬼って結局なんなんだよ!!
 ということで、風呂敷で花火できたら良いなと思いました。ふたりは幸せにならなきゃいけないんだ……


 アニメから入った新参者ですが、最期まで楽しんだ作品でした。二期来ないかな。
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