窓の外を見つめると空は真っ赤に染まり、太陽が本日最後の頑張りを見せている。
夕暮れ時になったこの時間帯は部活動の時間であるのだが、いるべき場所に
終業後、パソコン部の部室に向かい作業を始めようとしたものの何とひとつ手につかなかった。数十分は部室でパソコンと向き合っていたものの、今後のことが頭の中をぐるぐる回って集中できない。
俺は東根先生の許可を得て外に出た。
先生は「わかった」と言うだけで、なにも言及してこなかった。元々生徒に干渉しない教師なのは分かっていたが、今回限りはそのことに感謝した。
諦める覚悟はしているはずなのに、どうしても動くことができない。
吸血鬼のこと、エマのことを考える為に昨日と同じ空き教室に来ていた。
「会わなきゃいけないのは分かってるんだけどさ……」
俺は盛大にため息を吐いた。
吼月に言われたようにエマの本心を聞きたいと思っている。
けれども、この一ヶ月間まるで連絡を貰えず会えたと思ったら何も言わずにどこかへ消えてしまっているのだ。ただ連絡を取ろうとしても無駄だ。
いっそのこと他の吸血鬼たちが連れてくるのを待てばいいのではないだろうか。
『それで本当にエマの心が聞けるのか?』
言われた覚えのない言葉が吼月の声で脳内を駆け回る。動きたいと考えている俺が、吼月が問いかけているように頭の中で生み出した幻想だ。
「ああ〜〜くそっ!」
昨日の夜と同じ考えが堂々巡りして、解決に至らない。何を始めるか決心することもできない。
不甲斐なさ、情けなさにため息を吐く。
気持ちを切り替えたくて俺は窓を少し開けた。冷え始めた風がツンと頬を撫でて、焦れる気持ちが少し落ち着きを見せる。
どうしようか–––そう悩んだ時だった。
ガラガラと木製の扉が音を立てて開いた。俺は当然振り返っていた。
「え……?」
「あ」
ドアの前に立つ人物が目をしばたたかせていた。
俺が目にしたのは綺麗な女性だった。片目は前髪で隠されており、手脚がすらっと長くて本当に【綺麗】という表現にぴったりな人だった。
––––……違う、そうじゃない。
ここに入った時に鍵をかけるのを忘れていたことを思い出した。自身の不注意に頭を抱えながら、ドアの前に立つ女性に目線を流す。
一冊の本を抱え、シワのない整えられたスーツを着た如何にも仕事ができる風体の人だが、こんな女教師を見たことがない。一年か三年の担当の人だろうか?
四月の教師発表の時にこんな人いた覚えがないが……。
「えっと……デザイン科の先生……ではないですよね?」
「アタシは夜学の担当の平田ニコだ。よろしく」
「よろしくお願いします」
にこやかに笑う先生に会釈を返す。
小森工業高校は昼間に通えない人たちのために定時制の授業も行っている。彼女の顔を見たことがなかったのはそのためだった。
「平田先生はなぜここに?」
「授業前の息抜きだよ。この時間帯なら焼けた空を眺められるからね。……眩しっ」
「教師って忙しそうですもんね」
「とっても大変だぞ〜。でも、この学校は良い子もいっぱいだから苦ではないがね」
「その本は?」
「これかい? 授業の教材だよ。答えられないことがないか最終確認をさっきまでしていてね」
「そんなことまでしてるんですね」
「事前に知っておくということは大切だからね。教材だって全部が全部正しいわけじゃないから。人が作っている以上、語弊やミスもある」
教卓の上に本を置いた平田先生は俺の隣までやってくると、窓際に設けられた手すりに両手を置いた。にこやかな笑顔は知的な風貌を柔らかくみせ、親しみやすさを抱かせてくれる。
そのおかげか初対面でも苦なく会話することができた。
「涼しい……」
開けた窓からまた風が吹き込む。
平田先生の髪が風に揺られるといい香りが教室に漂う。母さんがする香水とはまた違う飾りっ気のない純粋な香り。
エマと会っていたときも同じような香りがしたなと思い出す。
綺麗な人は総じていい匂いがするのだろうか、と我ながら変態的な考えをしていた。
会いたいな……。
「そういうキミはどうしてこんなところに?」
突然投げかけられた質問に胸が高鳴る。
「悩み事かな? ……それも人間関係の」
「ッ……! よ、よく分かりましたね」
核心をつかれて鼓動の高鳴りが引いた代わりに上ずるような声が出た。俺は苦笑を浮かべながら首を縦に振る。
平田先生は、これでも長いこと
「その悩みはひとりで解決できること?」
「……え」
彼女は子供が想像するような生徒想いの教師の顔になる。
俺はそんな彼女の誠実さに驚き、またこの学校に生徒の悩みを聞こうとするタイプの教師が居たことにも驚いた。
車椅子生活になってから腫れ物扱いを受けることはあった。
例えば部活動の変更の時には、話し合いという体であるが、既に退部届にサインだけする状態になっていた。パソコン部へ移ったのは、現状行なえる上で得意だったのか他になかったからだ。
悩んでいた時期なんてきっと沢山あったけど、教師たちは邪魔だなという視線を送るだけで俺の話を聞こうとしなかった。そんな人たちの一員である平田先生が俺の話に耳を傾けようとしたことが信じられなかった。
「どうしたんだい? 虹の根元を掴めてしまったような顔をして」
「あ、いえ……」
平田先生がありえないことを喩えにするほどに俺の顔は驚愕に染まっていたようだ。それほどまでにありえないと思えたものだったんだ。
「教師に心配されたことが初めてだったので……」
「そうか。なら、そんな初めての教師に助けられることはあるかな?」
こちらを真っ直ぐ見据え邪念を感じさせない瞳から俺は目を離せないでいた。
––––……まあ、そりゃいるか。
吸血鬼がいる世の中だ。それに学校を跨いで関わろうとしてくる吼月だっているんだ。一般的に想像できてしまうような教師がいるくらいおかしくもなんともない。
ここに吼月が居たら、話せよと言ってくるだろう。
「えっと、なら……聞くだけ聞いてもらっていいですか……?」
俺がそう尋ねると、平田先生はおもむろに首を縦に振った。
一呼吸置いてから悩みを話し始めた。
好きな人がいるが、その相手の考えていることがわからないこと。その相手の行方が分からないこと。相手の親代わりの人から付き合えと強制されてること。しかし、付き合うとやりたいことが出来ず、両親とも離ればなれになってしまうかもしれないこと。その判断もすぐにしないといけないこと。
自分でも思っていた以上の悩みを打ち明けた。
吼月に吐き出したことでなにが嫌なのか分かり、そして平田先生に話す事で鮮明に言葉にできた。
吸血鬼のことを省かなければいけなかったため、どうしてもちぐはぐなところが生まれてしまったが平田先生はそこに言葉を挟むことはなかった。
きっと、それは平田先生の優しさだと思った。こちらの言えない事情を汲み取ったのだろう。
「簡単に言えば、キミの事情を無視して婿養子にさせられるといったところかな? それにキミは納得していない、と」
「大体そんなところです……」
俺はゆっくりと大きく肯首した。
「キミの好きな人にこう……言いたくないが、危ない所の娘さんだったりしないかい?」
「ま、まぁ……ぶっ飛んでるのは確かですので……」
危ないも何も吸血鬼なんて化け物だしな……。
含みを持たせた言い方をしたせいか、平田先生も複数の意味を考えるように何度も小さく唸る。
「それに相手の親御さんは不埒なことが嫌いなのだろうか……? 純愛厨のような」
「純愛厨……」
視線を落として考え込む彼女の口から思いがけない言葉が飛び出して、俺はそちらに一瞬気を取られる。
少しして考えがまとまったのか、もう一度俺に視線を当てる。
「キミはどうするんだい?」
「どうするって言われても婿養子はならなきゃダメですし……」
「それは絶対なのかい?」
その念を押すように訊ねられる質問に俺はすぐに返すことはできなかった。それは仕方なく吸血鬼にならざる負えない現状への反発よるもの。なにより俺には肯定するための情報も、否定するための情報も待ち合わせていなかったから。
知らないと再び認めた時、吼月の『吸血鬼を見ようとした時間が違う』という言葉を思い出した。
「分からない、です……」
俺が吸血鬼について知っているのは、人間を
片手で足りるほどのことしかわかっていないのだ。
「なら、キミの一番大切なモノはなんだい? そういえば、さっきはやりたいことがあるって言っていたけれど、どんなこと?」
「……。……俺、バスケ選手になりたいんです。こんな脚ですけど、小さい頃に観たバスケの試合が忘れられなくて、俺も大きな大会で強い相手と戦って、勝ちたいなって」
平田先生はただ頷くだけだった。
無理だと否定することもなければ憐れむような眼差しを向けてくるわけでもない。かといって、無責任な慰めを投げかけてくるわけでもない。
俺の夢を情報として取り込んでいる。
「アタシはこの手の話題に詳しいわけではないから、できるできないの話は置いておく。この話題自体は関係ないからね。なりたいと思っているならキミのほうが詳しいだろう?」
「……一応、ネットや本では調べてあります」
「なら、その事はより詳しい人と話すとして」
平田先生は俺に問う。
「キミは夢と想い人、どちらを選ぶ?」
俺はすぐに返答する事はできなかった。
バスケ選手になって大会に出たいという気持ちも強いが、それと同じくらいにはエマと一緒にいたい。
答えなんて出せるはずがなかった。
唇をまごつかせていると、不意に平田先生が微笑んだ。
「その彼女さんは凄いな」
「……?」
「長年追い続けてた夢と同じほどの熱をキミから向けさせているんだろう? 凄い事じゃないか」
改めて考えると確かに凄い事だと思う。
俺にとってバスケは唯一無二だった。家族とのかけがえのない繋がりでもあるし、自分が誇れる一番のものだ。その想いに負けない感情をたった一年で勝ち取られてしまったのだ。
だからこそ、俺はエマの事が好きだと言える。
言えるのだけど––––
「でも、単に誑かされただけかもしれなくて」
「本人には直接聴いたの?」
「い、いえ……」
俺が否定すると、平田先生は目を丸くした。
「キミを貶めるようなことをする子なのかい?」
「……違いますよ。……そんなこと、きっと」
「彼女が嘘をついてる?」
「……それを知るのが怖いんです」
質問を重ねられる度に、歯切れの悪い返答になっていく。
「仕方ないでしょう。本当になにも分からないんですから……」
「なるほど」
まるで真っ暗な森の中で歩く道が分からなくなったかのような錯覚に陥り、俺は呻きながら項垂れた。
平田先生はもう一度首を縦に動かすと、膝を折って俺と視線を合わせる。
「キミ、蜘蛛は好きかい?」
「……? え?」
「空の雲じゃなくて、糸を吐くほうの」
「……嫌いですけど」
特別嫌いになる理由はないけれど、家の一角に糸を張られるのは不潔だし、なによりあの脚をうようよさせる姿には生理的な嫌悪感を抱かされる。
漠然と近くにいられるのは嫌だ。
埃だらけのここにも、もしかしたら––––と考えると一瞬背筋が冷たくなった。
「アタシも嫌いだった」
意図がわからない話に首を傾げた。ハハっとはにかむように微笑む平田先生は俺を見据えながら話し続ける。
「昔ね、森を歩いていたら蜘蛛の巣に引っかかって、顔に大きな蜘蛛が張り付いてきたね。それ以来、怖くてたまらなかったよ」
「それは……クモの糸を触るだけで嫌ですよ……」
「だから家に出る蜘蛛とか見つけ次第潰そうとしてたんだ」
「……みんなそうでは?」
俺は蜘蛛を見つけて大声を上げたり、スプレーを片手に蜘蛛を打ち倒さんとする平田先生を想像する。どちらも知的な印象を与える彼女からはイメージがつかない姿ではある。
でも、女性だし怖がって大声を上げるのかもしれない。
「ある時、本屋に出かけてたら蜘蛛の図鑑が置いてあったんだ。家に出る蜘蛛の対策なども載った本がね。このまま怖がり続けるのも疲れるから、手にとって捲ってみたんだ」
「……よく見れましたね」
「
「普通に怖いと思いますけど……」
「例えば、キミも知っていると思うが、家に出る代表はアシダガグモだが、彼らは巣を張らない徘徊型の蜘蛛だ。彼らは我々が嫌う黒い怨敵を食べてくれる」
「あぁ……ごき」
「それ以上は口にするな」
「あ、はい。でも、それはなんか聞いた事はありますね」
「そもそも彼らが人の家に棲家を作るのは、隙間があって入ることができたり、荷物に紛れてついてくるハエなどの餌を求めてやってくることが殆どだ。身の回りを綺麗にしておけば遭遇すること自体ない。
つまるところ、自分たちでカバーできなかったところを掃除してくれるボランティア員のような子達なんだ」
その事を理解した平田先生は常日頃から部屋の清掃を心がけているらしい。
他にも外に出るとよく見かける毒々しい黄と黒の縞模様が印象的なジョロウグモは、毒を持つが人には効果がないし視力も悪い、ただ噛まれればいたいので注意は必要。
「ジョロウはアシダガと違って造網型だが、地上に落ちてもカマキリなどに遭わない限りは死なない。壊した後に……今なら巣作り防止用のスプレーをするのがいいかな。スズメバチも食べてくれるらしいから、益虫の括りにいるけど」
「勝手戦え……」
「ふははっ、確かに。でも、こうやって知っていくと、本当にやるべきことが見えたり、無駄に怖がらなくてもいいんだって心が穏やかになるんだ」
「心が穏やかに……」
「今のキミも心がざわついて、何もかもを悪い方向に考えてしまっているんじゃないかな?」
俺は平田先生の問いかけを認めるしなかった。
吸血鬼ってなんだよ。
恋させて眷属にするとかなんだよ。
悪態をつくように心の中にはまた不満ばかりが溢れていた。
その原因は彼女に言われた通りだ。
意味のわからない、得体の知れないものである吸血鬼に対する漠然とした恐怖が俺を取り巻いている。心は落ち着かないし、怖がってみることもできないし、悪くなることばかり考えている。
「キミは知らなさすぎる。そして、彼女はキミに伝えなさすぎている」
俺の現状を的確にかつ簡素に言い表した平田先生の瞳は鋭く、そして透き通っていた。心の奥まで見通そうとする瞳の力強さに負けて、俺は目を合わせることができない。
「キミにはやらなければいけない事がある。それは分かるかい?」
彼女の声がより気の籠ったものになる。それは俺に自身の弱いところを直視させるには充分な迫力があった。
平田先生は吼月と同じく、エマの事を知れ、と言っているのだ。
「今のキミにどれだけの時間があるのかはアタシには分からない。彼女の本心がキミを傷つけるかもしれない。けれど、現状の自分や環境をキミが納得できる形に持っていくには情報が必要だ」
何も知らなければ、道を選ぶことすらできない。
「相手が本当はどんな立場にあって、どんな人なのか。本当にキミが相手の婿にならなければいけないのか。本当に親御さんと離れて暮らさないといけないのか。本当に夢を諦めないといけないのか。
キミには答えられないことが沢山ある」
「……はい」
「キミが夢も彼女も欲しいなら答えを知る必要がある。そして、その答えを求めるなら、それこそ本人に会うのが一番だが……会えないのなら、詳しい人に尋ねるんだ」
「詳しい人に……」
「そうだ。正しい知識で少しでも納得の行く答えを出せるために。もしかしたらその人が相手の行方すら掴んでいるかもしれない。もちろん、これは楽観論だ」
俺の頭に浮かぶ顔はひとつだけ。
「ただひとつ、たとえ怖くても知ろうとすることを辞めてはいけないよ。それを放棄したら選択する権利すらキミには与えてもらえない」
精一杯俺のことを考えて背を押そうとする彼女に俺は自然と目を合わせていた。
そして、彼女はふたたび俺に問いかけた。
「––––私に助けられることはあるかな?」
俺は一度呼吸を整えてから。
「ありません」
それだけ答えた。
吸血鬼に関わればこの優しい先生だって巻き込まれる可能性だってある。吸血鬼たちに知られない、ということは第一条件だ。
ならば、誰を巻き込むか。吸血鬼の存在を知っていてかつ俺の立場でも考えてくれる相手である吼月を頼る他に俺には選択肢がない。
アイツは吸血鬼について調べているといった。きっと俺よりは多くの考えを持っているだろう。
「頼りたくなったらちゃんと声をかけてくれよ」
平田先生は優しい声音で俺の選択を受け入れてくれた。
はい、と力強く答えた俺は平田先生に頭を下げて、教室から出ようとする。そこで彼女に呼び止められる。
「最後に、キミが一番知りたい事はなんだい?」
そんなものは決まっている。
「エマの気持ちが知りたいです。本心からの言葉が」
「頑張っておいで」
我ながら単純だと思うほどに背を押されれば、簡単に前を見ている。
ガラガラと扉を開けて、スマホを手に取っていた。
ポコリン。
☆
ガランと音を立ててドアが閉まった。
必死に車椅子を漕いで空き教室を出ていく生徒を見送ったアタシは、静かに息を吐いた。
「独りで呆然としてたから何事かと思ったけど––––」
アタシには彼の事情の全てを察することができない。
力になれる事ならあると思ったのだが、彼にはアタシ以上に頼れると思える相手がいるようだった。吸血鬼であるアタシにはそのことがよく分かった。
それは人との繋がりがちゃんとある証左でもあるのでとても安心できた。
「あまり大っぴらに振る舞うわけにはいかないしな」
吸血鬼として前に立てれば手を貸せることは多くなりそうなのだが、そう簡単にいかない。
それに今の彼なら、本当に危ないと分かれば警察などに駆け込むという正常な判断を下せるだろう。
……ヤクザの娘だったりするのかな。時折変な噂は耳にするが、この辺りにそんな危ない人たちが住み着いてるなんて聞いたことはないが。
連絡先でも交換できればいいんだが、流石に同じ高校にいる生徒のものをもらうのは禁止だ。
今だと送っていくのにも申請が必要だしなぁ。
「一応、他の先生に彼のことを聞いてみるか。……手遅れになるのは不味いしな」
教卓の上に置いた教材を持って、アタシも空き教室を出ていく。
☆
ポコリン。
暗くなった街に電子音が響く。捲っていた紙束を脇に抱えて、ズボンのポケットにいれていたスマホを取り出す。トーク画面を見ると、『覚悟を決めたよ』というメッセージが記載されていた。
『だから、もしもの時は利用させてもらう』
なんせアンタは俺を使うしかないんだから。
それが分かっていたから、俺は予め打っておいたメッセージを送信した。
『任せろ。今の世界なんて忘れさせてやる』
––––さて、俺も頑張りますか。
樹木に預けていた背をひとり立ちさせて、その奥側を見る。屹立する木々に囲まれる形で俺の前に鎮座するのは四階建てのビジネスホテルだ。騒がしさとは無縁の静けさに満ちたここは、夜を過ごすにはピッタリな場所だ。
殆ど目線がないのはとても俺好みだ。
このホテルに俺の目的とする人物がいる、らしい。
「そうなんだろ?」
「ふっ……さあね。まあ、これで契約は終了ね」
俺の頭上からカオリの声がした。
「いけば分かるさ」
「殺されるかもよ?」
「そうなりかけた方がアンタには得だろ。–––行ってくるよ」
再び鼻を鳴らすカオリにそれだけ言い残して、手に持った紙袋を揺らさないようにゆっくりと歩き始める。フロントを通り、エスカレーターを使って上の階まで上がっていく。
幸い、係員に呼び止められることもなく驚くほど簡単に動くことができた。悪くいえばかなり無防備な状態だ。不自然さを感じるが、すり抜けが使える吸血鬼相手に防犯なんて無意味だと思い出す。
目的の部屋の前にやってきた俺はその玄関を一瞥する。そして、玄関の横に設けられたインターホンの呼び出しボタンを押した。
「夜分遅くに申し訳ございません、小森第二中の者です」
身につけた俺のアナログな時計がチクタクと時を刻む。静まり返った周囲によって1秒1秒の進みがハッキリと判る。
その震えを数十回ほど味わったところで、インターホンから声がした。
『……どういったご用件でしょうか?』
返ってきた声は若いが確かな疲れを感じさせる女性のものであった。
「吸血鬼の件についてです」
俺が曲げることなく告げると、明らか向こうにいる人物が狼狽したのがインターホン越しにも分かった。
「あまり……外で口にできることではありませんので、すみませんが中に入れていただくことは可能でしょうか?」
『……わかりました』
彼女の声が重くなったのが分かった。
再び少し待つとカチと鍵が開錠され、目の前のドアが押し開かれた。現れたのはベージュのコートを羽織る長身の女性で、声から察した通り気だるげな風体をしている。
「どうぞ、御入り––––」
女性の言葉が不意に途切れた。
招くはずの相手にかける声は想定していた目的地を失って霧散し、代わりに飛んできたのは丸眼鏡の奥から向けられる訝しむような視線だけ。
そんな彼女に俺は笑って右手を突き出した。
「こんばんは、
「え、あ……どうも……」
俺が差し出した紙袋を探偵–––鶯アンコは、訳も分からず受け取るしかなかった。