よふかしのあじ   作:フェイクライター

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第六十四夜「悪い子」

 意外だったのは父親本人が迎えにきたことだった。

 吼月くんに対して興味もなさそうな男がわざわざ自らの足を運んで迎えにくるというのがとても違和感があった。

 神崎が迎えに来ると思っていたのもある。

 なにより神崎の言葉を借りるなら『母親は心配している』そうなので、そちらがやって来るのならまだ理解はできた。見舞いにも来ない母親だが、本当に心配していたなら息子の訃報を聞いて意気消沈してしまったのかもしれない。

 

「えっと……琢磨……さん? か、ん崎……さんが言っていた僕の父親ですよね」

「喋れるようになったんだな」

「ええ……なんとか……」

 

 数少ない記憶から男の顔と名前をなんとか思い出す。

 舌ったらずだった言葉ももう一様に喋れるレベルまで到達した。

 しかし、父親の興味なさげな態度は変わらずそれ以上の言及はなかった。

 

「さっさと支度をしろ」

「服……これしかないですけど」

「それはウチのだ。病院(ここ)のじゃない」

「なら、もう行けます」

 

 踵を返して独りで歩き出していく父親に吼月くんは素直についていく。

 道中にしたことは借りていた本を返したぐらいで、医者や看護師とは何も話さなかった。元より話ができるほどの関係にもなれていなかった。

 当然の権利と言わんばかりに子供を傷つけているのだから、その程度の質だっただけなのだろうが、子供にありがとうとすら思われない病院は如何なものか。

 ふたりはスタスタと病院を抜けて外へ出た。

 吹き付ける暖かく少し湿った風が頬を撫でて、新鮮な感覚に吼月くんの心が踊った。

 

「外だぁ……すぅぅ……はあぁ〜〜……」

 

 張り詰めていない解放感に溢れた空気と、それでいて自分がここにいるのだと感じさせてくれる重みのある風が吼月くんを高揚させる。

 病院の出入り口先で深呼吸を繰り返していると、視界の端では既に父親は歩き出していた。

 それに気づいた吼月くんは急いであとを追い始める。

 

「乗れ」

 

 少し歩いたあと、駐車場の一角に停められた自動車のロックを解除すると、父親は端的な一言で乗車を促した。

 何をどうすれば良いのだろう。

 首を傾げていると父親が運転席側のドアを開けたのを見て吼月くんも目の前にあるドアに取手があることに気付き、それを引いた。

 助手席に座ると初めてのものだから興味があるのかその場にある物を触り出した。灰皿には三本ほど吸い殻があり、フィルターが全てこちらに向けて放置されている。サンバイザーを下ろすと開けっぱなしになっていたミラーに吼月くんの顔が映る。

 鏡に映る瞳はキラキラと輝いている。記憶を失ったことで目に見えるもの全てが新鮮に見えるのだ。

 

「おい。さっさと座れ」

「……ごめんなさい」

 

 ワクワクが止まらない吼月くんを睨みつけながら父親は語気を強く叱る。

 しょぼんと肩を落とした吼月くんは大人しく腰を下ろした。

 

「シートベルトをしろ。……左肩の近くにある帯があるだろ。その先の金具を座席の所にある器具に挿せ」

「えっと……これかな」

 

 シートベルトが分からないことを察した父親が先んじて説明すると、吼月くんは言われた通りにシートベルトを着ける。

 父親は無言のままクルマを発進させた。

 

「……」

「……」

 

 病院を抜けた自動車は快晴の空の下を法定速度を守って道なりに進んでいく。

 揺れの少ないゆったりとした走りと身に沁みる暖かな日差しが相まって、僕ならうたた寝をしてしまいそうだ。原因はもうひとつあって、深く腰をかけた座席から優しくて甘い香りが仄かに鼻腔をくすぐる。

 ただそれを差し引いても、吼月くんの肩肘を張っている。

 叱られたばかりなのもあるが、父親があまり自分を快く思っていないことを悟っているからでもあった。

 吼月くんからすると、父親も看護師達と同じ存在なのだ。元より記憶を失ったことで、親子という繋がりも希薄になっている。

 父親はそれ以上に何もない。あちらは気色悪い存在とすら思っている。

 だから自分から父親に話しかけることはなかった。

 窓の外に目をやる。輪郭を崩して背後へと溶けて流れていく風景を眺めていた。ビルや喫茶店、コンビニなどなど。見たことのない物ばかりで脳が思わず舞い上がりそうになる。

 そうして暫く無言の時間が続くと、

 

「見せておきたいものがある」

 

 赤信号で自動車が停まったところで父親から声をかけられて、ビクリと体が跳ねる。サイドミラーに映った自分の顔を見て『これがギョッとするってことか……』と勝手に学びを得た。

 父親は懐から一枚の写真を取り出すと押し付けるように渡してきた。

 そこに映っていたのは1人の女性。一眼で分かるほどその女性は吼月くんに似ていた。

 

「……この人は?」

「母親だ」

「お母さん、ですか」

 

 首を傾げてしまうのはやはり実感が湧かないから。

 どう答えればいいのか判断がつかなかった吼月くんは自分の感性に従って『綺麗な人ですね』と月並みの台詞を口にした。

 そしてもう一度写真を見つめる。

 容姿も整い服装は少し草臥れてはいるが、清楚な純白のワンピースが光を受けて綺麗に輝いている。お淑やかでその女性の雰囲気にマッチしていた。好意的に解釈すればそうなるのだが、僕が本当に思ったのは【儚げ】だ。

 白装束の女性は意思が薄い微笑を浮かべながら、小さくせり出したお腹を優しく摩っている。恐らくその腹の中に胎児である吼月くんがいるのだ。

 

––––どういうことだ……?

 

 必然、僕の中に疑問が落ちてくる。

 気になるのはこの写真を撮影した場所が屋外–––それも陽の光を直接浴びれる草原だったことだ。

 写真の中の母親と絶賛お天道様の下を車で走る父親。どちらも陽の光を浴びても問題ない人間。もしくは、どちらかが元々吼月くん同様に半吸血鬼ということになる。

 そうなれば記憶の中で判断するのは難しい。人間状態の吼月くんの感覚器官では吸血鬼の匂いを判別することはできないし、気配だって吼月くんが感じ取れるか分からない。

 手がかりが消失したことに暗然とした。

 

「わざわざ写真まで持ってるってことは琢磨さんにとって大切な人なんですね」

 

 吼月くんはせっかくの家族の話題だからと考えた末、二人の関係を羨むことにした。

 しかし吼月くんの期待は全くの見当違いだ。

 

「いいや。それしか見せるものがなかっただけだ」

「……」

 

 突き放す物言いに吼月くんは返答のしようがなくて黙り込んでしまう。

 この男には子供といい関係を作ろうと努力する考えが頭の片隅にも浮かばない愚鈍な存在なのだろうか。

 思わずため息をつきたくなる僕は、吼月くんの視界の端に映ったハンドルを握る父親の左手の薬指に意識を向ける。

 そこには何もついていない。

 警察に結婚指輪をつけてはいけないという規則はなかったと思うが、仕事中に抜けてきたから何処かに保管しているのかもしれない。

 それはない。ただ着けるつもりがないのだろう。

 

「いいか、コレのことを母さんと呼ぶな」

 

 父親の言葉に吼月くんは首を傾げる。

 

「……? 母親なのにですか?」

「俺のことも父さんなんて呼ぶな」

「……」

 

 わかりました、オジサン。

 吼月くんは一度だけ空を見上げると、すぐに俯いて鉛を吐き出すようにしんどそうな声で呟いた。

 青信号に変わり進み出した車の負荷だけで今の彼は潰れてしまいそうだった。

 

 

 

 

 到着して目についたのは大きな一軒家。

 小森とは違う街に立つ白い家。

 遠くから見ても異様な気配が漂うにも関わらず白塗りの家なのがとてもミスマッチにしていた。

 父親はガレージに車を入れるからと、吼月くんに鍵を渡して先に家に入らせた。

 

「ここが僕の家……」

 

 父親が戻ってくるまで家の中を歩き回った。

 とても殺風景なリビングは現在の吼月くんの部屋と重なって見えたが、それは直ぐに錯覚だと気づく。

 無駄なものが何も置かれておらず生活感が感じられないのはそうだが、どこかカビ臭いというか、腐臭が漂っていて鼻につく。脳を刺激し不快にする。既に精神的な不快感を溜め込んでいる彼は異臭を嗅ぐだけで気が立ちそうになる。

 この臭いはどこから来るのだろうか。

 まるで持ってるだけで何年も使っていないのような住居。一応とはいえ生活感のある吼月くんの家とは違う。

 その一階を歩き尽くすと、目についた階段に向かった。

 

「……?」

 

 2階に上がると呻き声が聞こえた。

 声がした場所に顔を向ければその先に扉があった。とても重厚な扉は中に獣でも閉じ込めているのではないかと錯覚させる。

 

「–––––」

 

 僕にはそれが–––感覚的に–––人の声だと分かった。

 吼月くんも気配を感じ取り、ゆっくりとドアを引いた。重そうなのは見た目だけで割とすんなり扉は動いてくれた。

 生まれた隙間から中にいる人物に気取られないよう息を潜めて中を覗く。

 

「あ……」

 

 吼月くんは驚きから小さく声を漏らした。

 膝を折り倒れ伏しながら呻き声を垂れ流す女性がいた。

 吼月くんのお母さんだった。

 美しくはあるが写真で見たお淑やかさは皆無でただ小汚い。しかも、その汚さがなくなってしまえば、いよいよこの世界から消えてしまいそうだった。

 『儚い』では言葉が足りないほどだ。

 吼月くんは部屋の中に入った。

 心許なさが心配になって彼を突き動かしたようだ。

 

「––––」

「…………」

 

 女性がこちらを見た。

 月並みだが死んだ魚のような真っ暗な瞳は、それが目だと認識するのに数秒を要するほど落ち窪んでいた。まるで生きた屍が吼月くんに狙いをつけたようだ。

 必然的に身体が硬直する。恐怖したのだ。

 全身を絡めとる異様な感覚を知っている。吸血鬼(僕ら)だからこそ知っているのものだった。

 

「っ……ぅ……」

 

 顔を床に擦り付けるようにして彼女が這い寄る。

 一歩、這い寄る。一手、這い寄る。人間のものとは思えない異様な気迫を纏って蠢くように前進。煩雑に伸ばされた黒い髪が床に積もった埃を絡め取るように伝う。

 

「し……ぅ……」

 

 しどけない姿でなにかを呟いている。小さな呻き声は人間の耳ではうまく聞き取れないし、僕にとって気にしている暇もなかった。

 吸血鬼化に必要なのは『痛みと血』だと吼月くんは言った。

 必死に彼女に傷口がないか探す。

 顔や手首など露出している部分には見当たらない。彼女が這いずる床にも血痕などは残っていない。

 

「し……ょ…………ぅ……しょ……う……」

「……お」

 

 近づいてくるほどその声は大きくハッキリとしたものに変わる。

 待ち侘びたものを手にする子供のような声だ。

 

「しょ……ぅ……しょう……」

 

 自分の名前を呼ばれたことが琴線に振れた。身体の中で熱くなった何かがある事が証左だった。

 求める声で自分の名前を呼ばれたことに嬉しさが突き抜けそうだった。

 

「お母さん」

 

 揺れ戻しでその言葉を零してしまう。

 

「しょう……!」

 

 一際大きくなった声をあげると生気を取り戻した瞳が見開かれた。

 同時に肩と背中に強い衝撃が奔る。咳き込み、何度もえづく。遅れて後頭部が床に激突して、一瞬視界が点滅し思考が飛びかける。

 

「しょう! シょウ……! ショウ!!」

 

 先ほどまで距離があったお母さんの顔が目の前にあった。

 その姿に僕は何かが重なった。

 まるで古い記憶を呼び起こすかのようで、

 

––––え、いや。やめ……

 

 耳鳴りのような痛みを感じるが、それは一瞬で通り過ぎていった。

 痛みが引いてようやく僕は、吼月くんが押し倒されたのだと気がついた。これが大人との差なのか身体の中から骨が軋む音が鳴っているのを感じる。

 荒く生暖かいが顔に降りかかる。鼻と鼻の先が擦れあい若干自分のものが押しつぶされている。

 反射的に手足をバタバタと動かしてもがく。

 

「やっぱり死にやしないわ……わたしたちの子だもの……私だけの子供だもの……死ぬわけない。あの嘘つき、殺す殺す殺す。ショウ……ショウ……貴方も悪い子ね、お母さんを待たせるなんて」

 

 薄汚れた四肢が全身に絡み合い動きを封じる。吼月くんと言う存在を確かに感じるために顔も、鼻も、腕も足も胴も脇も彼女の身体と同化するかのように混ざり合う。彼女の鼓動が伝わってくる。

 夢だと思いたいが、彼女の冷たい身体が現実である事を理解させてくる。

 僕の思考すら追いつかない。

 何が起こった?

 これはどういうことだ?

 全く整理がつかないのは吼月くんの中に渦巻く恐怖心が大量に流れ込んできたからだ。それは僕の脳では処理できないほどの戦慄と恐れだ。

 萎縮した身体はピクピクと痙攣している。

 

「もうどこにも行っちゃダメよ。悪い子には罰を与えないとね」

 

 背中が床と擦れて熱い。彼女が吼月くんの身体ごと前進しているのだ。

 彼女の上半身が浮いて少しするとガチャと頭の上から音がした。鍵がかけられたのだ。

 

「そうね逃げられないように……足折っちゃいましょうか」

 

 その言葉を理解する間もなく体感することになる。

 

「ンンーー!」

 

 激痛。僕の意識がチカチカと点滅する。

 全身が叫び出し悲鳴が口から噴き出ようとしたが、「ダメでしょ叫んじゃ」とまるで諭すような優しい口調でお母さんは口を押さえつけた。

 悲鳴が漏れることはなく、くぐもった声が周囲に溶けていくだけ。

 

「……!」

 

 左脚に力が入らない。

 先ほどまで動かせた両脚がうんともすんとも言わない。折られたのだ。どうやったのかは理解できないけれど使い物にならなくなったのは確かだった。

 

「次は右脚を折って……いっそのことダルマみたいにでもしてあげましょうか」

 

 その言葉に咄嗟に身構える。

 お母さんが口にすれば次の瞬間には右脚に先ほどと同質の痛みが奔り、脳が呻き声をあげる。脳しか叫ばなかった。口は顎ごと砕かれるのではと錯覚するほどの力で押さえつけられており、叫び声を上げることは叶わなかったから。

 

––––や、やめ……

 

 しかし、口が動いたとしても泣き叫べてかは別問題。

 全身を支配する恐怖が本来取るべき行動を阻害しているようだ。

 その甲斐もなく全身が断末魔の叫びをあげるような悲鳴を出す。右脚に続いて左腕、右腕。痛みが連鎖する。

 苦痛で視界が歪み、頬が何かに濡れた感触がした。叫び声は上げることはできなかった。口を顎ごと押さえつけられていたから。

 せめて叫ばせてほしかった。

 吼月くんの記憶だと知らなければ自我を保っていられない。

 そうだ。これは吼月くんの記憶なんだ。

 僕は大丈夫だ。大丈夫なんだ。

 

「ふふっ……」

 

 もがいていた四肢が動かなくなる。身じろぎしても全く身体が動いてくれない。些細な服の擦れる音すら聞こえない。

 

「本当のショウは私の言う通りにしてくれるいい子。だって私の息子だもの。だから、謝りなさい。私に。ほら、ごめんなさい」

 

 まるであやすような優しさ声色が恐ろしくて僕は彼女に従うしかなかった。

 彼女が僕の口から手を離すと、空気を求めて浅く呼吸を繰り返してからごめんなさい、と涙ながらに謝った。

 

「ごめんなさい」

「愛してるわショウ」

「ごめんなさい」

「信じてたわショウ」

「ごめんなさい」

 

 僕の顔が涙でドロドロになった頃、繰り返した謝罪の果てに彼女の顔の全てが映し出された。

 そのタイミングで彼女は笑いながら指で僕の瞼を無理やり大きく開かせる。

 

「昔みたいに私の目を見て」

 

 完全に恐怖に支配されていた僕は言われた通り彼女の目を見た。

 目が落ち窪んだ骸のような目つきの中に生気を取り戻した確かな光が渦を巻くそれは、異様な禍々しさを持っていた。生気はあったとしても正気とは言えない瞳が僕を見る。

 

「……」

 

 何時間、何日とも言えるほど長く感じる見つめ合いの中、次第に女性が笑顔から虚無へ、虚無から邪気に満ちた形相へと変わっていく。

 そして、彼女はこう言い放った。

 

「誰よアンタは!!」

 

 顎を押さえていた両手がズルっと這い下がり、首を力強く掴んだ。常人の元とは思えない力で締め付けられて息ができない。通りもしないのに本能的に空気を求めて口をぱくぱくと動かす。

 爪が食い込み皮膚が裂ける。切れた皮膚から血が流れ出し、首筋を伝っているのが分かる。

 

「た……す……」

「助けて欲しいのはこっちだ!! お前なんて要らない!」

 

 彼女が構えた拳が躊躇いなく降ってきた。

 顔面に加わる激痛は一回、二回と何度も続く。彼女はまるで仇をとらんばかりの明確な殺意を持って拳と暴言を振るう。

 鼻が曲がり目元は腫れ、真っ赤な鮮血が辺りを濡らす。

 なんでだ。

 さっきまであんなに求めていたのに、何がそんなに不満なんだ?

 

「返してよ!!! ショウを返してよ!!」

 

 その全てが僕の存在を否定するものであることだけは……確かだった。

 

「ふざけるな!! 誰なんだ!!」

 

 それでも彼女が何を求めているのか分からなかった。

 彼女が何を欲しているのか分からなかった。

 何にを考えているのか分からなかった。

 

「ああもう……たえられないの……はぁ!」

 

 何かが顔に落ちてきた。

 それは女性の口元から滴る涎で、ボト、ボトと次々に顔に垂れてくる。醜く歪んだ唇も、流れ出す唾液も、まるで餌を目の前にした肉食動物そのもので理性のある存在がしていい風体ではなかった。

 また彼女の舌が伸びて、先ほどよりも大粒の涎が降りかかる。

 

「いただきます」

 

 咥内に鈍色の光が鋭く煌めくと––––

 

「いやぁ!!!」

 

 僕は泣きじゃくりながら生存本能に突き動かされるようにして、動かないはずの腕で彼女を突き飛ばした。

 まるで衝撃波が周囲を震わせる感覚のあと、一人分の重量が凄まじい勢いで壁面に叩きつけられる鈍く重い音が響いた。

 それに紛れて嗚咽のような悲鳴が聞こえた。

 

「ぐぅ……ああぁ……」

 

 母親は壁に打ち付けられ、ぐったりとだらしなく割れた壁面に身体を預けて動かない。

 そんな母親を心配できるほど余裕があるわけでも、とち狂っているわけでもない。

 治ったと認識するよりも早く身体を反転させてドアの鍵を解錠する。そのままドアを押し飛ばすようにして開き、早く母親から離れようとーーー

 

「………」

「お、オジサン」

 

 ドアを開けるとそこにいたのは父親、琢磨だった。

 

「た、助けて」

 

 父親を見上げそう呟くが、僕は直ぐに視線を落とす。

 あまりにも醜い怪物でも目撃したかのような厳しく嫌悪感をひしひしと伝える父親の姿に負けてしまったからだ。

 そして、男は僕を殺すように言葉を振り下ろした。

 

「化け物––––」

 

 なんで……僕が悪いの……?

 そこで視界が再び暗転した。

 

 

 次に目を開けた時、僕がーーそう、蘿蔔ハツカが目にしていたのは大きなスクリーンだった。

 まるで映画館のような風景に変わったことに戸惑う暇もなく、身体を両腕で抱えた。

 記憶を覗いたとはいえ自分のことではない。

 分かっている。けれど、全身の震えがまったく止まる気配を見せない。

 狂信を浴びる恐怖。

 殺される恐怖。

 理不尽に突き放される恐怖。

 

「…………!

 

 俯くしかない。

 記憶を失い、産まれたばかりとなったことを差し引いても耐えられる事じゃない。心に傷をつけるなんてレベルじゃない。

 

「なんであんな親どもを……」

「『大切だ』なんて言えるのか、かな?」

「え」

 

 突然声がして、慌てて振り向くとそこにいたのは、

 

「く、吼月くん……?」

 

 今よりも幼い姿。

 入院していた頃と同じ背丈の吼月くんが本を抱えてそこに立っていた。

 ただその姿は異様でーー笑みを浮かべる顔はひどく疲れ果てていて、なにより左眼周りが黒塗りになったように損失していた。右腕も二の腕から先が欠損している。

 目を背けたくなる痛々しい姿のまま、彼はぶっきらぼうに僕を呼ぶ。

 

「やあ、蘿蔔さん」

 

 心の空隙を強く思い知らされるようだった。




今年も残すところ僅かになりました。
拙い部分は多々ありますが、来年もよろしくお願い致します。
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