よふかしのあじ   作:フェイクライター

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第七十三夜「いつもながら」

 照明の光を受けて無粋な鈍色の光を放つ銃が、かすかに開けた襖の先でゆらゆらと銃身を揺らしている。温もりとは無縁の凶器の口が見える度、毛穴が開いてジンワリと汗が滲む。

 蘿蔔ハツカ()の身体に粘りつく空気は凍りついているにも関わらず、額から汗が垂れてくる。拭いたいが、いま少しでも動けば襖一枚挟んだ先に立つ男に気づかれてしまうかもしれなくて不用意に動くことはできなかった。

 銃程度であれば、気にすることはない。

 なんせ僕は吸血鬼。弱点を突かれなければ死ぬことはない不老不死の存在だ。ダメージを負ったとしてもショウくんが血を飲ませてくれるからすぐに癒える。

 銃そのものを脅威ではない–––そう言い聞かせて、思考を切り替える。

 

「いつもながら殺風景というか、机もベッドも綺麗に整頓されてるな」

 

 本当の問題は、ショウくんの部屋に当然と言わんばかりにやってきた男だ! 男は神崎なわけだが何故彼が急に現れたのか分からない。親代わりだと言っていたし、変なことをしていないか抜き打ち検査で確認しにきた……んなわけあるか! その為に拳銃を持ってくる奴がどこにいる!!

 

「一年経っても子供らしい物が殆どないし……今の子供ってこんな感じなのか?」

 

 しかも、本人は心の底から少年らしい豊かさを持たない彼の部屋に、哀傷を受けてひとりごちていた。

 襖の隙間から辺りの様子を眺める。

 

「ノートも綺麗に取ってあるな」

 

 神崎は勉強机に手を置くと、本立てに置かれていたノートを手に取った。次々にページを捲って、読み終えるたびにまた別のノートに手を伸ばす。

 なぜこの男がいるのだろうか。

 神崎が入ってきたのは、ショウくんが園田さんと出かけて暫く経ってから。

 僕が見つかるのを恐れた–––理由は分からない–––訳なのだから、ショウくんが部屋に招き入れた線はない。合鍵などを使った進入してきたと考えた方がいい。

 どうして彼がいないタイミングで上がってきたんだ? 彼と話がしたいなら玄関の前で帰りを待っていればいい。

 

––––子供の部屋に銃を持ってくるのはないだろ……

 

 副業で暗殺者でもやってるのか?

 自分で殺して、自分で弁護して……なんてできる訳ないか。

 

–––それにしても、ショウくんの周りにはやばい奴しかいないのか?

 

 母親然り、父親然り。当然、あの老婆も含めて。

 眼を細めて訝しみながら神崎を見ていると、ノートを一通り見終えた所だった。手に持っていたノートを本立てに戻して次の標的に手を動かしていると、ビタンと急ブレーキをかけて腕を止める。

 

「あれ? 日記帳がない」

 

 胸がギュゥと雑巾搾りされたように一気に苦しみだす。振り返った男の面が額に皺がやった酷く険しい顔なのもあって、身体に張り巡らせた緊張の糸が、どんどんキツくなる。

 

「どこだ? あの子が失くす訳はないし」

 

 物音を立てないようゆっくりと腰を動かして、押し入れの奥へと移動する。視界を捨ててしまったので外で何が起きているかは見えない。足音が右往左往して、音が大きくなる度に僕の心が息を詰めることになる。

 恐怖が胸の内で疼くのは、目の前の男の危うさをショウくんが把握しているから。神崎のことを語っていた時、もしかして僕にこの事を気取られないようにしていたのではないかと思考が巡る。

 

「ベッドの下にもないか」

 

 腕に抱えた日記帳を見る。神崎が探している物。ショウくんの一日いちにちが記されている。

 これを読めば、僕と出会う前の出来事が–––何に喜び、何に悲しんだかさえも知れて、より彼の内側を推し量ることができる。情報が少ない僕にとってはやはり強く魅かれるものがある。

 静かに靴を置いて、日記帳を開こうとページの端を摘んだ。

 

–––ダメだ。

 

 心が『いけない』と歯止めをかけてくる。

 彼から辛い過去は語ってもらおうと考えたばかりだし、ショウくんは『見ないで』と言って、僕は首を縦に振ったのだ。

 誘惑を断ち切って、再び外へ意識を向ける。

 神崎が日記帳を探す物音は止んでいた。足音が同じ場所をぐるぐると回るように鳴っているから、恐らく考え事をしているのだろう。

 

「日記帳はどこにある? 机にもベッドにもないとすると、ダイニングのほうか? 狭い所が好きなんてこともないだろうし」

 

 押入れに神崎の視線が動いた気がして、キュッと小さくまとまって身を強張らせる。

 

「アレが唯一の手がかりなんだけどな」

 

 日記帳が見当たらないことにヤキモキしながら、神崎は暗い声で呟いた。

 

「大丈夫かな……クソどもに誑かされていなければいいが」

 

 危険な事に巻き込まれていないか心配しているわけだ。バレちゃいけないことなら日記にすらつけないだろうが、そもそもショウくんには悪い虫が着く時間すらない。僕と遊んでいるわけだからね。

 足音が離れていく。引き出しが開く音がして、僕は襖の隙間に眼を寄せた。背を見せる神崎は一段一段入念に日記帳を探す。

 どれだけ探しても見つからない–––中には僕が鍵がかかっていて、探れなかった棚もある。やっぱり合鍵を持ってるのか。

 3つの引き出しのうち、真ん中の物から何かを取り出した。今のままでは見えない。頬が襖にギリギリ触れない所まで顔を近づけて、視界を広げる。

 

「…………まだコレを持ってるのか」

 

 溢した言葉は、聞いている僕までも暗澹とした気分になるほど陰鬱とした物を孕んでいた。神崎は手に持ったナニカを引き出しに戻す。

 その手をスーツのポケットに入れる。

 手が出てきた時に握っていたのはスマートフォン。それを軽く操作して、画面を仇を刺殺さんとする鋭い眼で眺めた。

 そして、恨みが籠った一言が僕の耳を殴りつける。

 

「小繁縷ミドリか蘿蔔ハツカ……どちらでも必ず殺す。これ以上、あの子の……人生を壊されてたまるか」

 

––––は?

 

 思わず襖から立ち退いた。

 それがいけなかった。ビニールが床と擦れ、クシャッと渇いた音が鳴る。ダメ押しに靴が倒れた音が響いた。

 

「ッ–––!」

 

 ガンッと叩き壊す勢いで襖が開き、光が差し込んだ。

 

 

 突然、ビニールが潰れた音と何かが倒れた音が耳朶を打った。

 まさか–––と思った。

 吼月くんがあのふたりの内どちらかをあの薄い襖の先に隠しているのではないかと。

 思考すらよりも早く動いていた体が、襖を横へと一気に開放した。

 

「ん?」

 

 上下で仕切られた押入れには誰も居なかった。皺が寄ったビニールもなければ、倒れそうなものも置かれていなかった。

 思い過ごしか。

 

「……歳かな」

 

 最近幻聴が酷いからな。

 昔の家電を直すように頭をポンポンと叩いた後、拳銃を懐にしまって床に膝をつくことにした。

 

「ふむ」

 

 不可解な事は探り尽くすに限る。

 いつもの証拠探しのように私は床に眼を近づける。蜘蛛のように床を這って、些細な痕跡の見落としすら許さないと自戒して探し出す。

 例え、髪の毛一本でも見つけ出す。

 吸血鬼(奴ら)の足跡があったら––––周囲にも気を配りつつ、銃をいつでも抜けるように用心しておこう。なるべく吼月くんの目の前で撃たなければ。

 もしもの時は、殺そう。

 どちらだとしても……切り札はある。

 

 

 風に煽られて身体が滑らかな髪の毛のように左右に揺れる。

 

「あっぶな……」

 

 襖を開けられる直前、靴と日記帳を抱えて外に向かって飛び出た。部屋と屋外を隔てる壁は一枚だけだったので、特に注意する必要もなくスリ抜けることができた。

 僕は壁面を東西に走る支柱の出っ張りを掴みぶら下がっている。苦はない。吸血鬼パワーがこのような形で役に立つとは夢にも思っていなかった。出っ張りに靴を置き、ズボンのポケットに日記帳を仕舞う。

 

「んっ、よいっ……しょ」

 

 全身の力を使って器用にショウくんの部屋の窓枠を目指す。眼下には夜から人通りはない。

 寒い風が吹いて、僕の耳元を撫でる。

 先ほどの緊張感が尾を引いて、僕の身体が細かく震えた。

 

–––カーテン開いてるな。これなら中の様子も

 

 軽く閉められただけのカーテンは、室内を見渡せるだけの隙間が十分にあった。覗き込めば、先ほどまで僕が隠れていた押入れに神崎が膝をついて中に探りを入れていた。

 入念に僕がいた痕跡を探す男の姿を見ながら、僕は考え始める。

––––なぜ吸血鬼を知っている?

 彼はショウくんの母親と生前から親しくしていた。どこかで違和感を覚えても無理はないだろう。

––––彼も吸血鬼殺しなのか?

 口にしているあたりそうなのだろう。この街、敵多くないか。

––––いつショウくんといるのがバレた?

 ミドリちゃんと一緒に怪しまれてるのだから、昨日のメイド喫茶が原因だろう。SNSにあげる物に幾つか僕がチラリと映り込んでいる写真もあった。

 

「しまったな……ナマで見ないと分からないぐらいの女装なのにバレるなんて。変態か? なにより」

 

 一番の問題は神崎が、ミドリちゃんか僕を『殺す』『殺せる』と確信に満ちていることだ。

 浅薄な知識から来る過信ならば問題はない。しかし、あの男が僕らの弱点を持っているならば、本当に殺されかねない。

 僕の中に嫌な予測が立ってしまった。

 もし過去の遺物の中に––––

 

「最悪だ」

 

 本当に嫌な籤を引いてしまった。

 

「違う、違う。そうじゃないだろ」

 

 頭の中を一瞬支配した弱気を首を振って追い払う。

 銃を携帯しているのは吸血鬼対策。殺すのは無理でも、足止めはできる。目を撃ち抜かれてしまえば、治りはするがかなりの苦痛を招く。

 ショウくんは心配要らないが、吸血鬼を人間と認識している眷属候補の目の前で撃てば、人ではないと理解させられる。合理的だが、凶悪な法法。

 吸血鬼を撃つのに躊躇いはない。探偵さん曰く『吸血鬼は存在自体が悪』だから。酷い決めつけだね。

 

「それだけじゃないな」

 

 本当に吸血鬼を殺すだけなら、ショウくんはあそこまで怯えない。

 もしかしたら常習的に悪を断罪する大義名分で誰かを傷つけているのかもしれない。その矛先は吸血鬼でも、人間でも構わない。

 神崎は弁護士だ。

 立場で容易く悪と判断すれば取り返しのつかないことになる事ぐらい容易に想像できるはず。

 

「めぼしい物は見当たらないな」

 

 押入れから身体を出して立ち上がった神崎が、部屋全体を一瞥し始めた。彼の視界に入らないように頭を下げる。物音を立てないよう静かに、風に揺られるのを耐えながら待つ。

 数秒後、『やはり気のせいか』と呟いた神崎が苛立ちを隠さず大きな足音を響かせていた。窓の外にも聞こえる大きな音で、窓枠が微かに振動しているのが指先から伝わってくる。

 顔を上げて再度部屋の中を覗くと、苛立ちをそのままに爪を噛みながら部屋を出て行こうとしていた。

 その時だった。

 ガタンと、物が倒れる。

 考え事に集中していた神崎がゴミ箱を蹴り倒してしまった。こぼれ落ちた中身を膝をついて元に戻し始める。丁寧にゴミを一つひとつ入れていく。

 量は少なく、大した時間もかからないだろう。

 そして、最後の一個を拾うと神崎は手に持ったゴミを何秒か見つめて、叩き入れた。

 

「クソッ」

 

 暴言を吐き捨てた後、立ち上がった神崎は駆け足でこの場を去った。

 ……なんだ、今の。

 神崎の気配がショウくんの家から無くなったあと、僕は指の力だけで身体を跳ばし、窓枠に乗った。ソックスが汚くなるが仕方ない。

 窓をすり抜けて部屋へと戻る。

 

「何を見てたんだろ」

 

 足音を立てないようにして、ゴミ箱へと近づいた。1番上に乗っているのは丸められた青い紙だ。取り出して広げてみれば封筒だった。

 学校でもらってきた物……ではなく、差出人も宛先も書かれていない封筒は、封すら切られていなかった。

 触ると中に紙ペラが一枚入っていることに気がついた。

 普通の封筒だが、これの何処に神崎を怒らせる要素があるのか。答えは中に入っている紙にあるはずだ。

 単純な疑念、あるいは幼稚な好奇心に取り憑かれた僕は、伸ばした爪で封を切り裂いた。テープで留められていた封がビリと音を立てる。

 開いた口から紙を取り出す。

 

 皺がつき、折り畳まれた白紙を開くと、そこには–––––

 

「なんなんだよ」

 

 太く角張った文字で『死ね』と怨恨を書き記していた。

 気づけば、僕は力を込めて紙をグシャと握りつぶしていた。

 

 

 

 

 駆け足で家まで戻ろうとする最中、蛍光灯の光を阻む自転車置き場の屋根や月明かりを遮る住宅によって生まれた闇の中から足音が聞こえてきた。

 こちらへ力を込めて突き進んでくる相手を俺は知っていて、思わず冷や汗を垂れ流す。

 光が当たる場所に足音が近づいてくるにつれて、想像通りのシルエットが浮かんできた。

 遂にシルエットが色を帯びて存在を露わにする。

 

「やあ、吼月くん」

「こんばんは。神崎さん。珍しいですね、こんな夜遅くに来るなんて」

「ちょっとね。仕事が立て込んでいてね」

 

 やはり来ていたか––––この道を通っているならば、既に俺の部屋には入っているのだろう。

 奴は俺の家の合鍵を持っているが、合鍵を渡したのは俺ではない。オジサンが勝手に神崎に譲渡して、出入りできるようにしてしまったのだ。

 今までは問題なかったのだが、ハツカと会ってる時に奇襲をかけられるとやはり困る。これからはドアチェーンも活用していこう。

 

「とりあえず、なんで仁湖(ニコ)さんにバラしたんですか?」

「しつこく訊かれちゃったからね。なまじ接点が続いているのがいけなかったかな。でも、悪い人じゃないだろ?」

「後々困るのはアンタらですよ。一応、テレビにも出てるんだから。オジサンと同じくパパラッチ共のいい餌になるかもしれんのに」

「そこら辺はうまく始末するから大丈夫」

「おっかないことを言わないでください」

 

 涼しい顔をしているが、何を地雷を踏めば何をしでかすか分からないのが神崎という男だ。思想が過激というわけではないのだが、兎にかく一緒に居るのが疲れる相手……というのが俺の結論だ。

 

「神崎さん……まさか裁判の証拠品とかも、そうやって手に入れてるんじゃないでしょうね。でっちあげとか」

「まさか。それをしたら偽装になるじゃないか。証拠はキチンと合法な手段で手に入れて、真実だけを示すよ」

「そうじゃなかったら、次こそ事務所を追い出されますよ?」

「ハハハっ。痛いところを突かないでくれたまえよ」

 

 笑っている神崎に対して、俺は肩の力を緩めながら頭を掻いて誤魔化すしかない。

 以前、神崎の弁護を思い出す。殺人事件の弁護の時にこの男を待つために傍聴席に入ったことがある。その時、なぜか守るはずの被告人が犯人であるという証拠を自ら掴み、提示して罪を立証してみせただけでなく、余罪さえも告発して犯人を無期懲役にした。

 その時の検事と裁判官の顔は面白かった。絶望した犯人の顔も面白かったが、ポカンと間の抜けた顔が厳かな雰囲気とのミスマッチぷりが凄かったのだ。

 もちろん冤罪ではない。

 しかし、被告人を守る義務を捨て去った男が事務所に居られる理由は、この逆もあるからな訳で、例えば、完全に有罪ムードだった被告を無罪にしたことすらある。

 弁護士としての有能さであれば、巷でスーパーをつけて呼ばれるほどの弁護士なのだ。だから、多少の無茶苦茶は事務所の所長からも見逃してもらっている。

 ただ、人間として良い人かと聞かれると、俺は難色を示す。

 

「紹介料はポストの中に入れておいたから」

「分かりました」

 

 これも仕事だと思って、封筒を掴まされるのは割り切るしかない。

 

「要件はそれだけですか?」

「いいや。もっと大事な話があって来た」

 

 神崎はいつになく真剣な顔つきになる。それこそ、裁判の時よりも重々しくコチラも真面目に聞かなければいけないと思わせる雰囲気がある。

 場を取り巻く空気に身を委ねがら、次の言葉を–––神崎の言う大事な話を待った。

 

「琢磨が再婚することを決めたよ」

「そうですか」

 

 待った甲斐はなく、なんとも拍子抜けな内容で肩を落としてしまう。オジサンが再婚しても俺にとっては大した変化はない。どうせ会わないし、形だけの親権を持つ人間がひとり増えるだけだ。

 多少、安堵はしたけれど。

 

「いつ籍を入れるんですか?」

「来年ぐらいだと言っていたよ」

「来年かー……再来年が良かったな」

 

 中学を卒業すれば俺もキチンとバイトできるし、奴らが知らない場所に越して行ける。その前に吸血鬼問題などもあるが、その結果がどうあれこの街を出ることに変わりはない。

 

「それで本当にいいのかい?」

「別に良いんじゃないですか?」

 

 生みの親が再婚するというのに、大きな感情が湧かないのは繋がりがないからだ。あの人達が生きてることが気に食わないかと問われれば首を縦に振るだろうが、その恨みも昔の話だ。

 地球の裏側で誰かが天寿を全うして死んだとしても形式的な悲しみしか胸の内に宿らないのと同じように、あの人達に特別な感情を抱くことはないだろう。

 だが、俺の想いなど知ったことないと言わんばかりに神崎は食い下がる。

 

「でも、あんなクソビ–––」

「理由がどうであれ、今度はオジサン自身が選んだ相手です。それに今の俺とオジサンは絶縁関係レベルなんですよ。一緒に聞いてたでしょ?」

「……ッ」

「だから、この話は終わりです」

 

 それが嫌だから俺はいつも壁を作るのだ。

 何度でもキッパリと拒絶して、有無を言わさずに立ち入りをさせない。他人に口出しなんてさせない。俺とオジサンの関係はもう決めたのだ。

 神崎も押しても意味がないと察して追求をやめた。

 

「そういえば、日記どうしたの?」

「今は学校にあります」

「日記帳なのに?」

「一緒にいて楽しい奴が居るから、その思い出を業後に書いてる」

「あぁ……そうなんだ」

 

 自分を納得させるように何度か頷いてみせる神崎は、胸のポケットからスマホを取り出して俺に近づく。距離が狭まるほど不穏な空気がピリピリと肌を刺激する。

 

「だったら、最近のことだけでいいんだ。教えて欲しいんだけど」

 

 そう言って、神崎が見せてきたのは––––

 

「なんでキミがコイツらと一緒にいるのかな?」

「え」

 

 メイド服姿で理世達と映っている写真だ。SNSに載せるために撮った写真だとすぐにわかった。その写真の中で神崎が指を刺したのは、ミドリさんとハツカだ。

 ゾワっと全身の毛が逆立って、危険信号の悪寒が脳を刺す。

 つまり一瞬、なにも動けなかったのだ。

 その隙を作ったのがいけなかった。

 

「ねえ」

 

 神崎が苛立ちを隠さず、大きな一歩で俺に近づいてくる。

––––やっべ、面倒くさいことになった。

 今までの経験から危険を感じ取ったけれど、ここで不用意に動くと更に厄介な事になると知っていた。

 だから–––

 バチンッ!と乾いた音が夜空を突き刺すように鳴り渡った。

 

「ッ……!」

 

 –––頬を叩く神崎の右手を躱わさなかったし、続けて鳩尾を深々と突き刺す膝蹴りを防ぐ事もしなかった。

 晩飯が胃から這い上がって、吐き出しそうになるのを堪える。蹴り飛ばされた勢いで強く尻餅をついて倒れ、夜の冷たさで神経が鋭くなっていた頬がいつもよりズキズキと痛む。

 地面にへたり込んだまま神崎を見上げれば、焦燥しきった顔で、親の仇でも見ているかのような冷酷な眼差しを俺に向けている。その瞳は正気とは思えない、暗く澱んだ黒色をしている。

 地雷を踏んだか、或いは豹変スイッチでも押したか。

 ただ分かるのは、ああ……これはあと数発は殴られそうだな、という危険。すぐにポケットに手を入れた。

 

 

 その矢先、左の脇腹を蹴り抜かれる。

 

 

 

 

 神崎が去ったあと、僕は靴を回収して履き終えると、地上に降り立った。

 フワッと虚空に漂っていた髪を払いのけてすぐさまショウくんの下に駆け出す。問い詰めなければいけなくなった。彼の現状も、彼の想いも、きっと、きっと僕が感じたことよりもずっと辛い現状で––––

 建物と建物の間。蛍光灯が照らす道路にふたりの人物が向き合っているのが見えた。

 僕はそばにあった自転車置き場に身を潜めて、ふたりの様子を伺う。片方が地面に腰を下ろしており、俯いているが明かりに照らされているので誰かは判別がついた。

 ショウくんだった。

 なら相手は神崎だろうと予測を立てて身を乗り出せば、鈍くかなりの重量があるものが地面に叩きつけられる音がした。

 

「……」

 

 僕は声すら出せなかった。

 神崎がショウくんを殴り出した。顔を蹴り、脚を踏みつけて全身を満遍なく殴打する。

 

「ねえ、なんでキミが奴らと一緒にいるの?」

「待って! やめ!」

 

 どうしてショウくんが殴られているのか全く理解できなくて、僕の頭の中は完全に真っ白になって動きを止めた。今にも泣きそうになっているショウくんが、必死に堪えながら呻き声だけを漏らしていた。

 やらせてはいけない––––と、泣き声が脳を刺激し全身に警報を鳴らす。

 飛び出そうとしたその時、

 

「–––––」

「え」

 

 ショウくんと目が合った気がして、その瞬間、彼が来ちゃダメだと手をコチラに突き出した。

 

「待って、来ないで!」

「何を言ってる!」

 

 読み取ったままが、彼の思惑かは分からない。でも、向かおうとする度に彼が制止してくる。

 なんで? なんでなの?

 神崎は吸血鬼を目の仇にしている。僕から神崎を遠ざけたくて、身を隠させたとしたら怯えていたことにも一応の辻褄は合う。

 そんな事はどうでもいい。

 

「どうして自分は助けようとしないだ」

 

 僕は動くことができずにショウくんが殴られている所から目を背けた。

 服の上から爪が皮膚に食い込んで痛かった。

 

 

 せめて、出来ることは––––

 

 

 

 

 殴られ続けて幾星霜。長時間経っているわけではないけれど、夜空を見上げれば月の傾きが変わっていたので、結構な時間が経っているようにさえ思えた。

 自転車置き場の陰。誰かの気配があって、危険だから来るな!と神崎にバレずに伝えるのは大変だった。こんな馬鹿げたことに巻き込まれるなんて可哀想だ。

 

「最近夜更かしが酷いそうだね! なんでそんな悪い子になってしまったんだ!! 辛いことがあるならちゃんと言いなさい!!」

 

 現在進行形で吐きそうで辛いです。

 もう殴られるのは慣れてしまって特別嫌な事とも思わなくなった俺だが、吐き気だけはどうにもならなかった。

 絶え間なく降り注ぐ暴力の雨に俺は挽回する余地すら見出せなかった。

 

「どうしてキミが小繁縷ミドリと一緒にいる? 遂に唆されたのかい?」

 

 殴る最中、奴らやミドリさんの名前を口にする。

 どうしてだ? なぜ貴様がミドリさんやハツカのことを気にする? 

 

––––その答えは分かりきっているだろう?

 

 一段と強い吐き気に遭わされていると、神崎は胸ぐらを掴んで俺の顔を引き寄せる。自然と体が起き上がる。

 

「私は–––」

 

 首を振れば頭突きが出来てしまうほど近くに迫った神崎の顔は悲しみで歪んでいた。唇を噛み、目尻に涙を湛えながら彼は言う。

 

「キミには妹のようなって欲しくないんだ。前にも話しただろ?」

「それは……はい……」

 

 とても嘘とは思えなかった。

 なぜ妹の話が出て来るのかはわからない。けど、神崎が俺を心配しているのは見て取れる。

 だからこそ。この男は恐ろしく、現れる予兆があるだけで周りに気を配らなければいけなくなる。もし俺のそばに居る誰かが敵だと判断されたら、何をするか予想もつかない。

 吐き気がひどい。眩暈もする。

 そこで、ああ……いつもの症状が出てきたんだ、と分かった。

 ハツカ。

 ハツカ、ハツカ。

 キミは何も手を出されてないよね。

 逃げて、逃げてて。

 

「……」

 

 神崎が再び手を張り上げる––––勢いよく頬に向かって振り下ろされた手が激しい痛みを俺に与える。

 

 ニャァーー

 

「あ?」

 

 突然、猫の鳴き声がした。

 やけに注意を引く鳴き声だった。

 張り詰めた空間を和ませる愛らしい声が神崎の腕から力を根こそぎ奪った。ズルリと手から襟がずり落ちて、膝をつきながら俺は着地する。

 

「猫か?」

「みたいですね?」

 

 何度も殴られて肺から抜け出していった空気達をかき集めながら立ち上がる。

 猫ちゃんナイスだ。

 サイコーだよ。

 

「で、さっきの話ですけど」

 

 取り込んだ酸素が、バクバクと唸る心臓から急発進で全身へと血に乗って巡っていく。全身に力が戻り始めて、ふらついた足が安定する。

 落ち着いた俺は暴力へと脱線した話を正しい路線へと導く。

 

「隣にいる金髪の子いるだろ?」

「え。あぁ……」

「ソイツが同級生で俺の相棒。理世がその喫茶店が好きらしくて、スタッフの人手が足りないから手伝って欲しかったらしい」

 

 平静を取り戻し始めたのは俺だけでなく、神崎も同じく空虚な瞳にハイライトが戻っていた。

 

「だ、か、ら!」

 

 説得する好機と見た俺は力強く断言する。

 

「そのミドリさんとも俺は関わりがないの!」

 

 すると神崎は完全に力を抜いて、

 

「なんだ、そう言うことだったのか」

 

 胸を撫で下ろして喜んでいた。

 俺は内心「くそッたれ」と蔑んでいたが口にも表情にも出さないようにした。

 制服についた土やゴミを払って立ち上がり、俺は言う。

 

「あっちの方は進んでるんですか?」

「ん? ああ」

 

 一瞬、とぼけたように間を作るが怪しくて、嘘だなと俺は判断した。

 春樹さん達にも依頼しておいて正解だった。

 ちゃんと終わらせておかないと–––––

 

「それじゃあ、私は帰るから。何かあったら言うんだよ」

「ええ」

 

 半ば呆れながら言ってみせるが、神崎は全く気づかない。

 俺の赤く腫れた頬を見て何も感じない。奴にとっては躾なのだろう。暴力と薄寒い善意だけの効果が無い教育で、ハツカの躾とは比べ物にもならない。

 奴とハツカでは立っている場所すら違うのだから–––––

 神崎が消えるまで緊張の糸を張り詰めながら待った。完全にその背が見えなくなった所で肩から力を抜いて、ため息をつく。

 

「あの野郎……外でバカスカ殴りやがって……」

 

 殴るならいつもみたいに家でやれ。

 猫に止められるなんて大人の恥だ。

 腕時計のスイッチを入れて力を発現。腕を刺す痛みの後、傷が直る。

 そして、猫に感謝の撫で撫でをしようと僕は自転車置き場に近づく。あとでお刺身でも持って来ないと。

 

「あれ?」

「ショウくん……」

 

 自転車置き場の陰には猫の代わりにハツカが立っていた。

 どこにも傷はないし、衣服が破れた箇所も見当たらなかったことにまず安堵した。よかった、本当に良かった。

 しかし、安心とは真逆の想いも膨れ上がって一歩後退る。

 

「ヒッ」

「ねえ!」

 

 離れる俺を止めるように、

 

「ねえ、今のなに……? なんであんなことになるの?」

 

 嫋やかな香りが鼻をくすぐった。全身を包み込むように熱が伝わってきて、数秒遅れてハツカに抱きしめられたと分かった。優しい腕の温もりにはがっしりとした強さがあった。

 飯を食って腹が満ちて、風呂入って全身が程よい温かくなって1日が綺麗に終わるような幸福感が全身を支配していた。

 ハツカが耳元で囁く。『ごめんね、大丈夫だった?』と澄んだ声色で言うから、僕も思わず『うん』と心なしか弱々しく応えた

 そっと頭を撫でられる。

 

「ねえ、教えてよ。キミのことを。母親に襲われて、父親から見放されて……今も……キミの辛いことも知りたいよ」

 

 僕はあの暴力にも耐えただけの価値があったなと思った。

 だからこそ、俺には–––––無理だった。

 

 

 

 

 

 

 ハツカを突き離す。

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