風呂から出た僕は夢心地のような微睡の中にいた。風呂に入ったあとは身体がポカポカして、頭が働かないってことがよくある。
光悦したままの僕は脱衣所でハツカから渡された服を着たあと、リビングに移動していた姿見の前に座っていた。その鏡は奇妙にもまるで髪が独り手に形を整えている様を映している。
鏡では僕の背後には誰も映っていないのに、気配や声はしっかりするのは違和感がどうしても拭えない。二つの情報に頭が混乱して、脳が正転逆転を繰り返しているみたいだ。
「ほら、できたよ」
最後にハツカは前髪を触って横に流す。目の前を横切った手からもう一度姿見へ視線を移すと、対峙しているのは女の子と口にして間違いない人相をしていた。
ここ一ヶ月で伸びた髪は、ふわっとボリュームがありハツカに整えられたのもあって正面から見るとダイヤのような形をしている。
加えて、僕が着ているのは女物のセーターに、ロングワンピースという完全な女装だからだ。寒くもないし、動きやすい。それでいて、メイド服ほど股の辺りに風が通らないから悪いわけではない。寝る時でも邪魔になる服装ではない。
「どう? 可愛いでしょ」
僕の羞恥心を飴にして舐めるかのような蠱惑的な響きがある声がする。
右耳が死ぬほど心地よい。
鏡に映らないハツカの顔は充溢した支配欲で喜色に歪んでいるに違いなかった。
きっといい笑顔なんだろうなと思った。
「ねえ、どうなの?」
「……そりゃ、可愛いと思うよ」
彼の言う通り、今の僕は可愛い女子と言えるだろうが、これも自分との認識の差で酔いそうな恥ずかしさがある。
「そう、キミは可愛い男の娘だ。なんで女の子の服を着てるの?」
「は? いやだって」
身につけているのにも勿論理由がある。
どうやらこの服しかなかったらしく、ハツカが持ってきたコレを渋々着たのだ。自分で言っておきながら、なにを問いかけるのかと訝しんだ表情で後ろを見ようとする。
「だめ、ちゃんと自分を見て」
しかし、僕の意思を押し返すように両手でグイッと元の方向に固定される。
「キミは僕が男物の服も持ってることを知った上でこの服を着たよね?」
「……それは」
「本当に嫌なら突き返してるよね?」
「ハツカに渡されたからだよ」
どこを取り繕っても僕は男なんだ。女装は趣味なわけではなく、ハツカへの恩返しも含めて彼が好きだからやっているのだ。
にも関わらず、否定する僕の声は石ころが転がる音よりも小さい。
「恩返し? 本当にそんな理由で女装してるの?」
「そうだよ」
「違うよね」
右頬を包んでくれていた手がぬるりと身体を這う。肩から胸へ、そのままセーターの内側に腕が侵入して左脇に触れる。そこで止まらず、彼は僕の身体を味わうように抱きしめてくる。
ハツカの吐息が空いた頬にかかる。
「僕に女装してる姿を褒められるのが好きなんだよね。女装の方が僕の気を惹きつけれるって分かってるから」
俺は顔を背けず、できる限りイエスともノーとも取れる表情を取り繕う。
オバサンやクソ爺婆も顔が触れるか触れないかぐらいの距離に近づかれたことは多々あったが、なべて気味が悪かった。
けれどハツカに触れられるのは違くて、風呂場でもそうだったが、身体を這いまわられること自体が嬉しく感じてしまっていた。
「僕に逆らわないのが気持ちよくて仕方ないんだよね。自分のせいで僕を突き飛ばして離れちゃって、でもやっぱり僕と居たくて堪らない」
「……うん」
「僕が望んだ通りにすればキミは僕の傍に置いてもらえると思ってる」
「……うん」
「自分で言ってみて」
「…………」
「言ってくれないの?」
「一度言ったことは二度も言わない」
「好きは何度も口にするべきだよ?」
それは––––……知っている。
「なら、ゲームと行こうか」
「負けたら言うってわけ?」
賭け事の提案に僕は首を傾げながら訊ねると、ハツカはニタニタと笑いながら僕の前に立つ。
「それだけじゃないよ。これからキミが僕の家に住むにあたって、マナー以外の特別ルールを勝った側がひとつずつ決めていく。これでどうだい?」
「僕もハツカを縛れるってわけか。ゲームのお題は?」
「◯リカーでいいでしょ。3レース1セットで、先に2レース取った方がルールを作れる」
「いいだろう。乗った」
威勢よく笑ってみせると、ハツカも頷いてゲームの準備に取り掛かる。
「さてさて、どんな風に縛ってあげようかな〜」
「なに勝ったも同然みたいに言ってんだ。どんな命令でもいいのか?」
「勝った側の自由だしね」
話し合った結果ルールが10個に到達するまで勝負することになった。賭け事の大まかな取り決めとして、
1、1回で複数個のルールを作れるようにはしない。
2、勝ちを1つ使って相手からのルールを1つだけ取り消せる。
3、取り消したルールは復活できない。
1番目は常識だが明文化することで、万が一を防ぐことができる。そして、2番と3番があれば本当に嫌なことは無くすことができるし、自ずと相手の変えちゃいけない一線も見えてくる。
ハツカが僕に許してくれるのはどの辺りまでなのか、純粋に知りたい。
「カセットって棚の中のまま?」
「そう。オリーブの木の隣に棚があるでしょ。そこ引き出しに入ってるよ」
訊ねると愉快そうな顔そのままに、どこか優しげな微笑みも薄らと感じ取れる顔のハツカに疑問を抱きながら言葉に従う。
青々と茂っているコロネイキの隣にある棚の……確か2段目にあったはずと思い出しながら引き出しを引っ張る。
すぐに引き出しを押し戻した。
「……すぅ……」
未だに頭がのぼせているのか、俺は幻覚を見てしまったようだ。眉間をつまんでから溜め息を吐いて、もう一度中身を確認する。
引き出しの中を覗き込むと先ほどと変わらず、ゲームカセットの上にそれは我が物顔で鎮座している。どうしても目についてしまう鮮やかな緋い色をした革で作られており、輪っかを作る形のまま金具で止められている。
間違いなく、首輪である。
(首輪!? なんで!? 犬を飼う予定なのか……? でも、そんな話一切聞かないし……)
見れば、首輪にはタグがついている。犬がどこかに走り去ってしまった場合、保護してもらうために犬の名前や飼い主の名前、住所が記載される所謂ドッグタグと言われるものだ。
棚に頭を打ち付けて記憶を消したい。
一度記憶失ってるんだから、もう一回ぐらい行けるだろ。
「キツツキの真似?」
「……お前のせいだぞ」
「どっちでもいいけどさ、早くやろうよ」
真後ろからハツカに急かされるものの、僕は頭を抑えながらどうするか迷ってしまう。
タグの今見えている面には、飼い主であるハツカの名前と住所などしか載っていない。つまり犬の名前を見るには裏返す必要があるということ。
カセットだって、首輪に触らず取り出せる。
なら、無理して見なくても–––––しかし! 知ってしまった以上、こっちは悶々とした疑念に苛まれながらゲームに挑まなければいけない! 絶対に集中なんてできなくなる! パッケージに記されたナンバリングを見る限り僕が負けることはありえないが、勝負において一抹の不安すらあってはならないのだ!
ゆえに! 見るしかないのだ!
僕は首輪へと震える手を伸ばす。
ゆっくりとタグをひっくり返すと、お座りをしながら舌を出す犬のロゴがあった。犬用の首輪だと安堵して肩の力を抜く。
「ふぅ……」
その時、名前がチラリと目に入ってしまった。
「負けたら首輪をつけて散歩しようね、ショウくん」
囁かれた声に胸が弾け飛びそうになる。
【吼月ショウ】と一言一句間違うことなく、タグに印字されていた。消すことのできない従属の烙印として、己の名前が使われているのを見てどうしようもなく舌が渇く。
空気の中にある露にさえかき集めたいほど、凄い乾きだった。
でも、まだ物足りない。
☆
「それにしても、わざわざオンラインでやる必要ある? 僕ら以外NPCで良くない?」
「まぁ……ちょっとね。知り合いいないかなって」
「ゲーム仲間いるの?」
ゲームの開始のために僕らはメンバーが集まるのを待っている。その間にコースを選択したり、テキトーにコメントを送る。
時間を潰しながら、僕は赤いソファの上から床に座るショウくんを見下ろす。
––––全勝確定かな。どうしようかな〜〜。どんな奴隷としてのルールを作ってあげようかな〜〜。
コントローラーを握る彼の手は微かに震えていて、力の入り具合からしてもマトモな操作はできそうになかった。
ブラフを張ることは成功したと言っていい。
さっきの首輪は前々から買ってあったショウくん用のチョーカーだ。チョーカーに合わせた服装だって調達済みである。服のサイズは、以前彼をマネキンにした時に調べてあった。
なんで買ったかは、似合うから、と答えておこう。
胸の内で勝ち誇りながらコントローラーを握り、テレビに視線を向ける。
メンバーが集まり、ゲーム開始の準備が整う。
深呼吸をする吐息が聞こえる。
「ふぅ……」
ピッ、ピッ、ピーー!
3カウントが数え下されると共に、レースランプが青になった瞬間にロケットスタートを決める。グイッと後続の走り屋たちとの距離をつき離す。
首位をキープしつつ、キチンとコインを最大量持ったまま僕は爆走し続ける。
対するショウくんは勝つ気概があるのかないのか、はたまた僕の術中に嵌って操作すらできないのか、最後尾争いをしていた。
「ここでインをしっかり攻めて……一気に加速する!」
「ミニターボうまいな」
「早く追いついてきなよ。張り合いがないじゃないか」
「そう焦らずにさ、見てなよ」
彼はレース開始前とは打って変わってどこか余裕を持った表情をしているが、現状と反りが合わない。言い草からは、開き直って僕に支配されるのを受け入れたとも違う。
訝しんでいるとレースは三周目に突入。
変わらず僕が首位で、彼は最後尾。勝ったも同然だが、ここまで張り合いがないとゲームを変えた方がいいかもしれない。
––––ゲッ……
そんな怠慢を砕くように天から光が迸る。端的に言えば、サ◯ダーだ。スターもテレ◯もない僕には対処しようがなく、身体を打つ雷によって一時停止しスピードが遅くなる。
くそ、誰だ……と思っているとテレビ画面を真っ二つにした左側を走るショウくんのキャラは無事だった。悪あがきをしやがって、大人しく僕に負ければいいんだよ。
きろりと彼を睨むと、ニヤリとした笑みを返しながらボタンを押した。
「ちょ––––」
体感数秒のことだった。
ショウくんはもうひとつ所有していたアイテムで、砲弾に変身して一気に上位に食い込むと、そこから黄金のキノコで首位に迫り、赤甲羅で僕を狙撃する。
「あぁ……」
僕が立ち直った頃には彼がゴールしていた。
開いた口が塞がらないとはこのことだった。
しかし、こんなラッキー何度も起こるはずがない。
「ま、まぁ一回ぐらいなら偶然もあるよね」
「だったら同じものを見せてやるよ」
第二レース––––
先ほどと展開をほとんど同じだ。僕が首位で、ショウくんがドベ。たった一つ違うのは、僕が後続とよりを大きく離しているところだろう。
アイテム運があるなら、あっても意味がないくらい開きを作ってやればいいだけだ。細かなコーナーではミニターボを、大きなコーナーでは利用してウルトラミニターボを的確に決めて速度を上げる。
そして、崖を最速で飛び立つ!
「久しぶりにやるけど、やっぱりこのコース曲がり角多いな」
「赤甲羅ひとつでも当たるとすぐ落ちちゃうからね」
「そうだな。気をつけろよ」
「ん?」
右下にあるコース表示を見ると、最悪なものが迫ってきていた。赤甲羅なんかよりももっと嫌なもの。トップの天敵。青いトゲトゲ甲羅が見る見るうちに僕との距離を詰めてくる。
不味い不味いーー!
尊厳を踏み躙るように頭上にやってきた悪意の塊は、許しを乞う暇すら与えずに谷底へと僕を叩き落とす。
「早く復帰! 復帰!」
しかし、最悪は重なって、
「危ないよ」
「え」
愉悦に浸した声が僕の耳朶を打つ。
ようやく復帰した僕のキャラだったが、このゲームでも弾丸になったショウくんのキャラに吹き飛ばされて、再び深い深い闇の中へと舞い戻る。
敗北の一撃として相応しかった。
結果、ショウくん1位、僕が最下位になって最初のゲームは彼の勝利となった。
「…………アイテム運酷くない!?」
「そういうゲームだからな」
「絶対違うからね!?」
ミドリちゃん相手ならともかく、他の人に負けるだなんて。
横目で彼を見ると、両手を合わせて僕へと向き直っている。愛想のいい表情だけど、目だけは小動物を咀嚼しようとする猛禽類のようだ。暗闇でもきらりと光って獲物を捉え続けるだろう真っ暗な瞳に晒されて、背中がゾクゾクとする。
「さて、ハツカをどんな風に縛ってあげようかな〜」
このままでは僕の尊厳が大変なことになる。
脳が最大レベルで警報を鳴らしている。
それにアイテムだけでやられるなんて、納得できるわけがない!
「待った!」
「往生際が悪いぞ。さっさと僕のお人形になりなさいよ」
「ルールで手繰る前にチャンスをくれ!」
「……なら、次勝ったらさっきの勝利を帳消しにしてこの戦法は今後取らないし、追加権もひとつやる。代わりに、次負けたら僕はルール追加権と取消権をもう一つずつ手に入れる。これでいい?」
「うん」
今度こそ負けない––––!
「ああ!! ちょっと待ってここで◯ンダーは不味いて!ってキミはなんでそんなにキ◯ーに愛されてるんだよ!!」
「愛されてるんじゃなくて、どのコースでどの順位でどんな距離感なら、どういったアイテムが出るか知ってるだけだよ」
「なわけあるか!」
「一応ランダムとはいえ、システムなんだからできなくはないだろ」
「宝くじの当たりを確実に引けるって言ってるようなものだよ!?」
「去年は◯リカーをやることが多くてな。休みの日は勝利への道を模索していたのさ……これを知るのに夏休みの何日かを潰した思い出も……」
「悲しい思い出……」
再び負けて、
「そろそろこの戦法も飽きてきたんだけど、まだやる?」
「負けるか……!」
「ハツカって負けず嫌いだよね。口汚くなるし。そんな好きだよ、折ってあげたい。はい青甲羅」
「さっき別のやつが投げてきたばっかりなんだけど!?」
負けに負けて、最後には……
「くぅ……」
「結局僕の3連勝で、追加権が4つと取消権がひとつか」
「……」
「メソメソしないの。飽きてさっきのセットは普通に走ったけど、普通に負けたからって」
「だったら傷口に塩を塗るな……!」
真剣にやってここまでコテンパンに負けるなんて、悔しさで胸が張り裂けそうだ。張り裂けた胸の中に涼しい風が入り込む錯覚があるのは、清々しさすら感じる負け方だから。
いくらゲームとはいえ、賭け事で勝負だ。勝つ気でやっていた分反動も大きい。
「ここまでやられたら言い返しもできない。好きなルールを作って……ください」
「分かった。そう言うなら縛らせてもらうね」
今日、僕はショウくんのおもちゃになる。
ショウくんは変わらず猛禽類を想起させる微笑みをしながら、手を叩いた。パンッと部屋に響くいい音だった。
「ハツカ、四つん這いになってね」
「分かった」
彼が作った1つ目のルールは『ショウくんが手を叩いたら、僕は命令された姿勢をすぐに取り、次の命令まで維持し続けること』だ。負けた側に抵抗する権利はなく、どんな体勢も取らなければいけない。
ソファから立ち上がって、その前で四つん這いになる。敗者だから言い訳できないが、悔しくて腕が震える。
「ハツカ、もう少し尻を上げて。背中が傾いてる」
「はい」
命令通りに尻を突き上げると、ショウくんは僕の背中を手で軽く払うと腰をかける。形が良く、肉付きもいい尻の感触が背中から伝わってくる。重さが気にならなかったのは、僕が吸血鬼だからだ。
一番座り心地のいい場所を探るように擦り付けられる尻に、僕は歯を食いしばって無心になろうとする。
「これハツカにやってみたかったんだよね」とショウくんが独り言る。
「……この間の仕返し?」
「単純に興味だよ。ハツカってどんな座り心地なんだろうなってね。どうせ後で消してくれるだろうし、1番最初はやりたいことやろうって」
「感想は?」
「0点」
「は!?」
「そういうところだよ。尻動かしたら、ハツカすぐに嬉しそうにモゾモゾするじゃん。それに……」
スカートをビラっと捲られて、一気に下半身をヒンヤリとした空気が取り巻いた。そして、僕の尻肉にパンツ越しでも分かる温もりが伝わる。
「ハツカがよく言ってるよね、椅子が勝手に喋っちゃダメだって。自分でできないのにやらせるなんて、僕はガッカリだよ」
「ちょ、ちょっと待って」
「はい、3回目。『僕は自分で言った約束を守れない駄犬です』と懺悔の気持ちを強く込めて」
2つ目のルールは『僕が粗相をしたら、ショウくんにお仕置きをもらって命令されたことを口にする』である。僕がやりたかったことだったが、先に越されてしまった。
パチンッ!と乾いた良い音が鳴る。
「僕は自分で言った約束を守れない駄犬です」
「ダメ。もっと大きな声で」
「僕は自分で言った約束を守れない駄犬です!」
「そのまま言うことが謝ることなの? 重役謝罪ですか?」
ショウくんの許しが出るまで繰り返す。
絶え間なく尻から聞こえてくる打音は、臀部から脳天まで衝撃と共に駆け抜けてくる。快音だけじゃなくしっかりと痛みもあるスパンキングで、彼の手で尻肉が押し潰される度に力が緩んで体勢を崩しかける。
「僕はご主人様であるにも関わらず、自分で言ったことすら守れない馬鹿な駄犬です!!」
「よく言えました。いやぁ、長かったね」
「……はぁ、はぁ。はい」
何度も声を張ったから息を切らしてしまう。次も来るかと思ったが、身体をくねらせるが来なかった。
その代わりに、上から声がかかる。
「ハーツカ、上向いて」
「え?」
そう言われて、首だけを使ってショウくんを見上げればパシャリとシャッターが切られた。僕を椅子にしてます、と言わんばかりにピースサインをしながら自分と僕を写真に収める。
因みに3つ目のルールは『なんでも撮影可にすること』だった。
けれども、どうして今なのか分からず僕は困惑する。
疑念が消えないままショウくんの興味は僕の赤く腫れたであろう尻に移って、それを撮影している。
「ふふふ」
スマホを弄っている彼は含み笑いを浮かべている。ただ僕の恥ずかしい所をとって優越感に浸っているようにも見えるが、それだけではなさそうだ。意外そうに曲がった口許から、どこか驚いているようにも感じられたのだ。
しかし僕はいま、問える立場にはいない。
「ハツカって意外にやられるの好きなの?」
「なに馬鹿なこと言ってるの……?」
都合のいいことに相手から話を振られる。目の前にスマホが突き出されて、映っているのは先ほど僕の顔写真。
その顔は驚いたことに……頬を淡く赤色に染めて、頬が少し緩まった心地良さそうな笑顔をしている。まるで椅子にされることを喜び、尻を叩かれたことを快感に思っているような僕がいた。
「ありえない……ありえない……!」
拒絶しなければならない現実だ。相手を自分好みに支配するのが好きなこの僕が、逆にお仕置きをされて、あまつさえそれを喜ぶ。尊厳が音を立てて崩れるような錯覚に陥って、息が荒くなる。
ショウくんは楽しそうに唸る。
「でも、事実だからな」
スマホの画面を切り替えて、カメラのアプリを起動。自撮りモードになっているカメラに僕の顔が映される。
理屈は分からないが、吸血鬼は鏡には映らずカメラには映る。
「今だって嬉しそうにしてるし」
確かに僕の顔は先ほどよりも赤く染まっている。耳まで真っ赤になって、唇を硬く結んでいて––––辱められて自分が喜んでいると、僕は認めたくなかった。
「違う! 絶対に違う!! 嫌がってるようにしか見えないよ!」
「まだ認めないの? 自覚したら、笑顔を変えちゃうのは分かるだろうに……あ、でもハツカが尻を叩かれるのが好きなのは証明できるよ」
「え」
警戒した理性がきゅっと下腹部に力が籠る。これ以上醜態を晒したら僕は彼の前でご主人様として居られなくなる気がして、普段では考えられないくらい全身に力が入る。
そして、僕の尻に軽くショウくんが触れると、
「馬鹿な……この僕が……」
自分でも理解ができなかった。
軽く触れられただけで、自分から彼の手に尻を擦り付ける。円を描きながら掌をもっと感じたくて仕方がないと言わんばかりに、卑しい娼婦のような動きを身体はやめない。
なにより尻を撫でられて気持ちがいいと感じてしまっている僕がいた。スマホに映る顔も笑顔になろうとするのを堪えているが、耐えきれず口元が緩んでいる。
「ほら、やっぱりハツカはド変態なんだよ」
「なんで……なんで……」
ショウくんに手玉に取られたのが悔しくて、声が自然と震えている。
「理由は簡単じゃない? 僕の血を飲んでるから」
「まさか……」
「そう、そのまさかだ」
神妙に呟いて、結論に至る。
ドMが感染した……という馬鹿げた理屈を僕は正面から受け止めなければいけなかった。
思えば士季くんもショウくんの血を飲んで考えを改めた。毎日赤赤とした彼の感情を愛飲している僕が影響を受けないはずがないのだ。
「尻を叩かれたい変態になれたね」
「クソ……クソッ! 絶対に百倍返してやる……!」
次こそ勝って、僕に逆らおうと思えないほどペットとしての心構えを教えてやると心に誓う。
しかし問題は、彼が従順になればなるほど根深くなることだ。
「別に僕としてはハツカにやられる分には好きだし良いんだけどさ」
「無敵かコイツ」
ショウくんは不敵に笑いながら一度立ち上がり、スマホスタンドを部屋の中から探し当てると僕の顔の高さに来るように調整する。
「それだけハツカには心を許してるって捉えて欲しいな。でも、僕を躾ければ、僕の血を吸うハツカも変態になるってことだけどいいの?」
ショウくんの指摘に間違いはなかった。
今の関係上、吸血は切っても切り離せない。僕は彼を眷属にしたいし、格別な血の味を堪能していたい。彼は契約上絶対に血を吸わせてくれるし、むしろ吸血されるのが好きだ。
恋するまで吸血を控えればいいだけの話なのだが、今更他の血で満足できるかと言われたら––––
「ほい」
「あ」
目の前に血が滴る指が現れる。人差し指と中指の腹についた切り傷から、ぷっくりと溢れ出す血に目が奪われる。生気がたっぷりと乗った甘美な香りが僕の鼻腔をくすぐる。
涎が出そうになるのを必死に堪える。
さっき飲んだばかりだというのに、目にすると食欲が刺激される。吸血鬼である以上、血への欲求は抑えられない。
吸血痕を見ただけですら僕らにとっては刺激が強すぎるのだから、本物の血が目に入ったらこうもなろう。しかも、彼の血は美味しすぎる。抗いたいと思えないのだ。
いつのまにか僕の背中に座り直した彼に言う。
「洗脳はぁ……ダメだって……言ってたじゃないか」
「うん。でも、血はハツカに必要なものでしょ」
否定できない事実に僕は押し黙る。
彼だって僕の意思を蔑ろにしたいわけじゃない。それどころか、彼の独白を聞けば拒絶するような行為だ。
けど、吸血鬼である僕が生きるには必要なもの。
そして、いま僕が飲んでいたいのは、他の誰でもないショウくんの血だ。
「だから頑張ってずっと女王様で居てね、ハツカ様」
無邪気な要求に僕は思わず戦慄する。
これから一体どんな躾をされてしまうのだろうと、想像すると身体が嫌な熱りを放つ。きっと彼は、本当の意味で僕を調教するのだろう。
「くぅ……」
「負けちゃったんだから仕方ないよね。偶には弄ばれる夜も悪くないよ」
弾んだ気持ちを携えた赤い2本の指が、僕の鼻の両穴を蹂躙する。鼻に指を抜き差しされたり、鼻の穴をみっともなく広げられているのに全身がだらしなく緩んでいる。
嫌だけど、嫌じゃない。
「焦らさないでよぉ」
「だったら、言うべきことを言わないとね」
スマホに映る僕は、鼻についた血を舐め取ろうとはしたなく舌を伸ばしている。
これが僕なんだ–––だらしなく血を乞う姿が吸血鬼である僕の姿なんだ––––と、悪意のない声に心が震える。
「尻を擦り付けてんだから、ルールに従うくらいわけないでしょ。ハツカは悪くない。ルールで縛る僕に意識を向けるんだ。ほら、自分がなんなのか、ちゃんとルールを守って言ってみて」
大義名分はもうあるんだから。
今日だけは、もう負けてしまっているのだから。
再び背後に感じた手の気配を尻でしっかりと確かめる。
「ぼ……」
血反吐が詰まった言葉を蹴り飛ばすように、目の前の自分に吐き出す。
「僕は吼月ショウ様のペットです」
吸血鬼は
口を犯す彼の指からは、いつもとは–––さっき飲んだものさえ–––比べ物にならないくらい美味な血が流れている。
☆
ハツカという巨城は陥落した。未だ悔しさが馴染んだ声をしているが、それよりも喜びが大きいように思える。
一度口の中に指を突っ込んで、食欲を刺激してやれば彼の脳は僕の血に翻弄されて、理性が蕩けてしまうのだ。
「また勝手に指に吸いつこうとした……何回目なの?」
「ごめんなさいご主人様。でも美味しすぎるご主人様の血も悪いと思うんです」
「何回目なの?」
「……10回目です……」
「謝るの下手くそだね……次は1時間延長。はぁ……早く終わらせないと次のゲームに行けないんだけど。それとも引き伸ばしたいの?」
「うぅ……ちがぃますぁ……」
「なら、ありがとうの練習しようか」
「……尻丸出しにするので延長無しにしてくれませんか?」
「だめ。けど丸出しにはして」
「くぅ」
ハツカは片手でずりっとパンツを下ろして、肉付きのいい美尻を曝け出す。要求が通らず渋々といった不満に、どこか期待に満ちた色も含めて声を漏らす。
餌を目の前に出して、勝手に舌を出して舐めようとすれば躾として今みたいにお仕置き。
「蘿蔔ハツカはご主人様の血に目がない卑しい吸血鬼です! お仕置きありがとうございますっ! 蘿蔔ハツカは節操もないダメな男です! お仕置きありがとうございますっ! 蘿蔔ハツカはルールを守れない女王です! お仕置きありがとうございますっ!」
ハツカの謝罪に合わせて尻を叩く。
この姿は始まりから終わりまでしっかりと録画されている。ハツカの顔を映すように僕のスマホが、尻の動きをハツカのスマホが置かれている。
そこに映る彼は、尻を叩かれるたびに弾けた笑顔を見せている。
「ありがとうができたご褒美」
血が滴る指を今度は唇に当てる。するとハツカは喜んで口に咥えて、頬を窄める。
「美味し〜」
「ホント僕の血が好きだな」
「僕で遊んでくれるほど良い香りだし、美味しくなってます。頭狂いそう。嫌なのに、好きなの」
「いいよ、狂っちゃって。負けちゃえ、負けちゃえ」
「〜〜〜っ」
口の中から指を引っ張り出す。
両手で尻と頭を撫でてやれば、嬉しそうにハツカは舌を垂らす。凄く全身が疼いて、自分でも調子に乗ってることが分かってしまう。
ハツカが好きなのも頷ける。
––––ただ、なんなんだろうな……僕の血……
別に他の血でも問題ないはずなのに、それでもハツカが口にしたくなる美味な血。
頭の中で生まれた疑問を今は片隅に追いやって、いつもとは真逆の立場に、調教に専念する。
彼の目の前にセットしたスマホを取って、写真と映像を確認する。全て他人に見せてはいけない痴態が収められている。
その中の1番最初に撮った写真を拡大する。
「ふふふ」
ハツカに見せたものほど照れてもない。恥ずかしさと嬉しさ、敗北感から戸惑った笑みを浮かべるハツカだ。
実のところを言うと彼に見せた写真はハッタリだ。最近よく広告で見るベストショットを作るためのアプリで、写真の編集アプリで顔だけ加工したものだ。
1番最初に喜んだという情報を刷り込んでしまえば、あとの写真はハツカが我慢していると思わせられる。自らの意思を懐疑的にさせ、本当に喜んでいるのでは?と錯覚させる。
そして、ハツカが尻を触られるのが好きだというのも、
「叩いて欲しいならおねだりしないと。血もあげないよ」
体を少し傾けるとハツカが尻を突き出す。
僕が意図的に重心をずらすことよって、四つん這いになっているハツカがバランスを取ろうと無意識に体勢を整えているだけだ。
「ご主人様の手でハツカの尻を虐め抜いてください!」
つまり、全ては僕の思い通りにハツカが誘導され繰り返した結果で、今や重心を傾けなくてもハツカは僕の手の気配を察知して尻を擦り付けてくるまでに至った。
「どう? 悔しい?」
「っ! 悔しいに決まってるでしょ!」
「なら、次こそ勝って僕を穢さないとね。あと1時間38分頑張ってね、ハーちゃん」
「んっっ!」
悔しく思いながらも、それが本心なんだと思い込んで僕に身を委ねる。
姿勢も言葉も、欲求さえも
まだまだ夜は浅い。
たっぷりと時間はあるしアイツもいなかったから、この賭け以外にやることはない。
残り6個のルールを作りながら、もっとハツカを沼に引きずりこんでやる。血の底なし沼は、吸血鬼である彼を絶対に逃がさない。
僕は血のついた指で、ハツカの野晒しになった首裏を撫でる。血の跡をぐるっと一周つけて、薄い赤い線を首に巻く。
「先に首輪をつけさせてもらったよ」
呟いた言葉は羞恥心と嬉しさに震えるハツカには聞こえない。
支配し合って一緒に落ちていこうね。
首を締める赤色がもっと濃くなった時が、ハツカを物にする瞬間かもしれない。
その為にも僕が好きなことを、ハツカにも知って欲しい。
僕もハツカを躾けていく––––
ザワザワザワと、ゾクゾクゾクを知ったのだから。
とはいえ、簡単に終わるはずもなく。
「え? 誰ですその子」
「足おき、だよ」
「たっぷりお仕置きし返されました……」
ゲームが終わったタイミングで呼び戻し、ようやく来た久利原たちにハツカの足置きにされている所を目撃させた。ソファに座わった彼の投げ出された裸足の裏が、正座した僕の顔の上に乗っている。
「吼月くん」
女装だとか、姿勢だとか。色々言いたいことはあるだろう。
しかし、彼らが重ねた一言目はやはり、
「踏まれるなんて狡いぞ!!!」
みんなもハツカに好き勝手されるの好きだね。
「ふふっ」
「嬉しそうにするな」
「はい、ハツカ様」
顔を押し潰す足の隙間から覗けるのは、照れながら尻を触るハツカの姿。
そんな彼の首には赤黒い首輪が残っている。
今回の理屈書いてても思ったんですけど、これだとナズナちゃんがコウくんの癖知っちゃってヤっちゃう概念書けそうですね。