よふかしのあじ   作:フェイクライター

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第八十六夜「篤信的」

「本当にすみませんでした……」

 

 吼月ショウ()は服屋のスタッフルームでスタッフに頭を下げる。客の視線がない代わりに、真っ白なデスクに座るスタッフ達から正気を疑う怪訝な眼差しを向けられる。

 空気が漂うがどんよりと重苦しい。

 身体もずっと重く、気怠くて動きずらい。

 

「構いませんよ」

 

 目の前にいるスタッフが小さく手を上げて、いえいえ、と小ぶりな頭を横に振る。

 

「カーテンも自分たちで直してくれましたし、引き継ぎなしで渡されて困っていた集計用のマクロの手順書まで作ってくれましたし」

「その程度で許してくださるんですか……?」

 

 頷いてくれるスタッフに俺はもう一度深々と頭を下げる。

 発端は時葉が勘違いでカーテンを壊したこと。カーテンを引き下ろすようにして開けたことでフック部が破損してしまったのだ。幸い、カーテン自体が破れなかったため、弁償代を払う代わりに自分たちで取り付けを行うことになった。マクロについては、俺から何か手伝えることはないか申し出た結果作ることになった。

 

「騒ぎにはなってしまいましたが、店長も許していますし。ね、店長?」

 

 スタッフが背後にいる女性に声をかける。他のデスクより一回り大きな物を使い、唯一レザーチェアに座っているのが店長だった。

 

「やらかした張本人は怒られてるみたいだし」

 

 恬淡とした口調で店長は俺たちを許す。やはり長だから他のスタッフよりも落ち着いた物腰だ。

 店長はスタッフルームの更に奥にある倉庫に繋がる通路へ目を向けた。明かりがついていない通路の向こうで抑揚のない叱責が飛び交っているのだと、声は聞こえなくとも理解できる。

 ひとりのスタッフがするりと口から溢す。

 

「あのお客さん、いつも落ち着いてる印象だったんですけどね」

「ねぇ〜、お得意さんだし悪い目では見たくないね」

「誰だって気が動転しなきゃならないことだってあるよ」

 

 立ち上がりながらスタッフ達の疑念を払拭する店長が、俺の目の前にまでやってきて目線を合わせる。

 

「次どんちゃん騒ぎしたら出禁にするから覚悟しておいてね」

「以後気をつけます……」

「よろしい」

 

 大らかに笑ってみせる店長は最後に、こう付け足した。

 

「それと午鳥(ごとり)様と神楽(かぐら)様が貴方のことを待ち望んでますよ」

 

 一安心できる間もない。萩凛さんの眼はどこにでも光っているのだと、俺は薄寒さすら覚えてしまう。

 そうして、ハツカの説教が一通り終わったあと、

 

「またのお越しをお待ちしています」

 

 スタッフから投げかけられた言葉を背中で受けながら去った。

 

「…………」

「…………」

 

 より闇が濃くなった夜の街を三人で進む。ハツカは俺の隣を不機嫌そうに足を動かし、後方でハツカの影を踏まないように忍び歩く。雰囲気は悪いが、それは俺たちだからこそ理解できる険悪さで行き交う周りの人たちが気づく様子もない。

 

「で、萩凛さんが言ってたホテルってどこ?」

 

 尋ねるとハツカは立ち並ぶビルの中から18階建てのホテルを指差した。大きく重量感があるホテルからひんやりとしたオレンジ色の光が漏れている。

 

「あそこが処刑場」

「うわぁ……はっきり言われるとホテルの威圧感もあって薄気味悪く思えてくるな」

「オレンジは朝焼けの色。眷属()を罰するにはちょうどいい場所じゃないかい?」

 

 彼の物言いから、ムカムカとした湯気が渦巻いているのが分かる。

 途中、コンビニに寄ってからホテルに着いた俺たちは、フロントに向かって名前を告げると部屋の鍵が渡された。萩凛さんとの契約を結んだことで無料で貸してもらえた。

 部屋は17階にある。

 エレベーターで登り、処刑場(部屋)へ直行。中に入ると、外が見た時とは違い、オレンジ色の光が優しく室内を照らして落ち着いた雰囲気を醸し出す。ダブルサイズのベッドや大きなテーブルの他、バスルームなどが設置されている。

 買った服などの荷物を置いてから俺は四つん這いにさせた時葉の背中に腰を下ろす。ハツカはベッドに体を沈める。

 

「出ないな……萩凛さん」

「さっさと血を吸ってもらいたいんだけどな」

 

 スマホを耳に当てながら困った様子のハツカが俺の首筋を見る。

 

「嫌だなぁ……」

 

 個人的にはハツカ以外に血を渡したくない。

 けれど帰ろうにも時葉に頼らなくちゃダメだし、吸血鬼の力を使って徒歩で帰宅しようにもハツカは早く罰を執行したい。この両立のために借りるしかなかった。

 約束したから血は吸わせるが、腕か指で済ませるつもりだ。

 さっさと終わらせたいと思いながら、先ほどの店長の言葉について考える。

 

––––それにしても、神樂って誰だ?

 

 間違いなく萩凛さんや士季の仲間には違いない。

 萩凛さんが出ないなら、その神楽って奴に連絡すればいいのではないだろうか。

 

「なぁ–––」

「出ないなら仕方ないし、さっさと始めようか」

 

 しかしハツカは俺の問いかけを遮って、ベッドから弾みをつけて飛び上がる。スマホを片手に俺の椅子になっている時葉に顔を寄せる。

『仕方ない。せっかくのチャンスなんだから頑張ろう』と頬を叩いて意識を切り替える。

 始めるのは、言いつけを破った時葉への罰を決定するためのゲーム。四つん這いになった時葉の上に乗った俺が血のついた指を見せ、自分の意思で指を舐めれば罰確定。制限時間は5分。

 

「まずは血を擦り付けるから、舌べーって出して」

「……はい」

 

 問い直す間もなくハツカの命令で時葉が舌を出す。

 時葉を一ヶ月の間、吸血鬼をやめて家具にする。

 その為のゲームを成立させるために、時葉にだらしなく舌を出させて、味蕾ひとつひとつに味を覚えこませる。俺の血がついた指を擦り付けることにハツカは反対したが、美味しいさを実感して貰った方が時葉に葛藤が生まれる。その葛藤があってこそ、よい姿が見られるのだ。

 元々時葉の負けが決まっているからこそ余計にだ。

 

「こんなもんかな。美味しい?」

「美味しい……」

 

 舌全体に薄らと血を塗り終える。

 背中に座っているだけでは俺は時葉の表情が見えないので、また顔の前に自撮り用のスマホスタンドを立てた。お陰で犬のように盛った時葉の顔が丸見えだ。

 今にも涎が垂れそうな時葉に、ハツカは上から睨みつける。

 

「僕からご馳走を奪っておいて、随分と贅沢をするじゃないか」

「すみません……ハツカ様……」

「喋るなよ。悪いことをした子は好きじゃないんだ」

 

 ハツカの攻めと自分の置かれている立場で時葉の顔が歪む。自分の親の食事を奪ってしまった罪悪感と吸血鬼が持つ吸血衝動から来る欲求に打ちひしがれている。

 時葉にお似合いの素晴らしい表情だ。

 

「ハツカ、頼む」

「分かったよ」

 

 ハツカに左手を差し出して、人差し指と中指の第一関節から指先まで鋭い爪で切れ込みを入れてもらう。まるで峡谷のようにパックリと裂けた指の腹から血が流れ出す。痛みは必要経費としおこう。

 試食させた時よりもずっと多くの量が出ている指を見て、一瞬時葉に出すのを躊躇いかけるがすぐに割り切る。

 

「ゲームスタート。何があっても時間内は血を飲んじゃいけないからね?」

 

 ハツカがスマホのタイマーでカウントダウンを開始した。

 

「ほら、食べちゃえ」

「おっ、お……!」

「さっそく約束を守れてないぞ?」

 

 まずは時葉の鼻腔に血を塗りつける。吸血欲求が刺激されて、鼻息が酷く過呼吸状態になった時葉の顔が俺のスマホに録画される。

 次に唇を鮮やかな血の色で染め上げる。

 顔の一箇所一箇所を少しずつ俺の物に作り替えていく。

 

「吸っちゃダメだぞ。負けるな。アラームが鳴るまで絶対に負けるな」

「ん––––ッ!!」

「今の時葉、おイタをした子に相応しい顔だよ」

 

 生理現象を我慢する顔つきは、めいっぱい歯を食いしばり限界ギリギリで、みっともなく他人に見せていいものではない。

 

「舐めた時点でアウトなんだ。耐えきって、僕の気を変えてみせろ」

 

 鼻の穴に指を突っ込んだり、唇を引っ張りして遊んでいると2分が経過した。その間も絶えずハツカが『吸ったら僕は時葉を生き物として見れなくなる』『ご主人様の食事を取っちゃいけないよね?』と責め立てる。

 冷ややかな瞳のハツカを見て、心が高鳴ってしまう。ご主人様で眷属たちに支配的でいる時の方が、やはりハツカらしい。

 

「顎、押さえて」

「承知」

 

 ハツカからの指示を快諾して、右手で顎ごと口を塞ぐ。鼻からの呼吸を強いられて、指についた血の香りを吸引する。

 けれど、時葉の忠誠心はかなり固い。悲鳴にも似た唸り声をあげるだけでしっかりと耐えている。これは分かっていたことだ。

 

「第一関門突破って感じかな。次はどうするの?」

「指を差し出せ」

「はーい」

 

 すぐに血が流れる指をハツカの口元に献上すると、彼は飛びつくように口に含んだ。顰めっ面が朗らかになっていく。指と指の間も、爪の隙間も舐め回す。これは10秒にも満たない作業。

 食事にもならない程度だが、彼の気分が落ち着くには申し分ない量だった。

 俺としては時葉の鼻水や涎をハツカに掃除させるという背徳感が凄まじい。

 

「……オイ」

 

 ギリッとハツカの眼光が俺を射抜く。

 やばい、バレてしまった。

 鼻を鳴らしたハツカは、指に吸い付いた口の中でわざとらしく舌を動かして水音を立てる。美味しい血を飲む音が聞こえ、時葉は切そうに眼を瞑っている。よく見ると頬がボコボコと形を変えている。舌を動かして、自分の口の中で血を舐めていると誤魔化そうとしているのだ。

 そろそろ、ゲームを終わらせよう。

 

「さて、時葉。眼を開けてご覧」

「……?」

「ハツカがたっぷりしゃぶった指だよ。血だって滴るほど出てるよ〜。間接キスができるよ〜」

 

 時葉の前でチラつかせた指で逆ピースサインを作れば、ハツカの唾液が指に橋を作り出す。ポツリと二本の指から血が垂れる。時葉が大好きでやまない吸血鬼の唾液に包まれた血が人中を溜まり上唇へ……

 血に飢えていたのか、間接キスに絆されたのか、時葉の顔色が変わった。白眼が充血して、化け物のような顔つきになる。掌で転がしやすくて、もはや楽しみまである。

 

「ダメだぞ。舐めるな」

「グゥッ……」

「いい子だ」

 

 唇から舌がはみ出すが、ハツカの命令を受ければ停止できる。まだ理性は働いていることは素直に感心する。

 しかし……ハツカが俺だけに見えるようにスマホを見せてくる。残り30秒で時葉は罰から免れるが、そう易々と彼が勝たせるわけない。断言しよう。時葉は次の一言で負ける。

 ハツカは片側の口角だけ異様に吊り上げた賤しい笑みを浮かべると、優しい声色で言う。

 

「いいよ、舐めて」

「ハァッーー!」

 

 ハツカの命令を受けて、時葉は舌を伸ばした俺の指を舐めた。血が飲めて満足そうに笑い、ハツカとの間接キスが出来て笑顔が蕩ける。

 

「良かったね。ハツカの好きな指が舐めれて」

「そして、残念。時葉の負けだよ」

 

 そんな笑顔もハツカがスマホの画面を見せると凍結する。

 残り時間––––4.6秒。

 ゲームオーバーである。絶望に震える時葉の表情もしっかりと俺のスマホに録画される。

 

「なんで……?」

「言ったでしょ? アラームが鳴るまで吸っちゃダメだって」

 

 その冷ややかな怒りを秘めた眼差しが、時葉が今日最後に交えるハツカの瞳になるのだ。

 

「じゃ、後処理を始めようか」

「はーい、目隠し」

 

 俺は荷物の中からコンビニで入れた道具を取り出す。光を通さない黒布で時葉の両目を覆って、視覚を剥奪する。次に聴覚。耳栓を兼ねたコードレスイヤフォンを耳に取り付ける。

 あとは嗅覚と味覚。

 

「選別に僕のソックスをあげよう」

「ムグッ……」

「ショウくん、ガムテープある?」

「ここに」

 

 ハツカは両足のニーソックスを脱いで丸めると、時葉の口に押し込んだ。ご主人様の靴下だと知ったら喜びそうだが、その事を認識するのはずっと先だろう。あとは、時葉の口をガムテープで閉じれば終了。

 鼻は俺の血をたっぷり染み込ませたガーゼで鼻腔を軽く塞ぐようにテープで貼り付ける。

『それでショウくん。この音声読み上げアプリを使えばいいんだっけ?』とベッドに座りながらハツカが訊ねてくる。

 

「文を打ち込んで再生ボタンを押せば、機械音声が流れる。それがイヤフォンに転送される」

「物にわざわざ僕の声で命令する必要ないしね」

「俺も使っていい?」

「いいよ」

 

 ポチポチとスマホを操作して、命令を送信する。

 

「おっ、と」

「んーー!」

 

 俺が降りると、くぐもった声を上げながら時葉は立つ。先ほどまでハツカがいた場所へ彷徨っていると、急に方向転換して床を確かめる慎重な足取りで壁際まで移動する。両腕を床と平行になるまで左右にあげる。

 なんだこれは……とハツカを訝しげに見ていると、俺に向かって口を開く。

 

「さっき買ったロリ衣装に着替えて、今の服はそれにかけていいよ」

「ハンガーラック……」

「それのことなんて気にしなくていいから、早く着替えてよ」

「わ、分かったよ」

 

 俺はクローゼットからハンガーを、ベッドのそばに置いていた紙袋からロリータ衣装を取り出した。真っ黒でシックな服装から一転して、白を基調とした清らかな衣装に着替え始める。

 脱いだベストやシャツにハンガーを通して、時葉の腕にかける。幾らほっそりと綺麗な腕とは言え、フックが引っかかるほど細くはない。微かに動いてもいるから落ちてしまいそうだ。

 久利原を椅子にしてるとはいえ容赦なく命令できる辺り、正しくハツカ様だ。

 

「すっごい絵面。人間ハンガーラックを使うロリ」

「お前の命令だろ。それより物を喋らせてていいの?」

「ハツカ様、ハツカ様ごめんなさいって永遠繰り返させてるの。暗闇の中でずっと僕に懺悔してるなんて篤信的でいいじゃないか。あ、僕の代わりに頭撫でておいて」

「いや、自分で撫でろよ」

「なんで? 動くの面倒。それに僕が触ったらお仕置きにならないでしょ」

「五感奪ってるんだから分かるかな? 時葉だし分かりそうだな」

 

 一応納得を示して腕を伸ばす。時葉の髪を掻き乱すように雑に撫でていると、彼女の瞳を隠す布が湿っていることに気がついた。情けない時葉の姿がすごく嬉しくて、俺はすぐにハツカの隣に座り込む。

 

「どう? この格好」

「可愛いよ」

 

 二回目。

 さっき言われたばかりの言葉なのに嬉しくなる。時間を置かなくても嬉しさが変わらない。

「このまま吸っちゃう?––––グッ!?」

 

 微笑みながら首を露出させると、ハツカに両肩を勢いよく押し飛ばされる。左肩を沈ませながらベッドに横向きになるように倒れた。

 寝返りを打とうとする。それより先に僕の身体を両腕両脚で挟み込むようにハツカが覆い被さってきた。

 

「押し倒されて吸われたいんだろ? お預け食らってた僕に首を見せつけて……何されても仕方ないよね」

「本当に今日はアグレッシブだね。一回吸ってるくせに」

「悔しいけど、僕はキミの血の虜みたいだからね。けどキミだって吸血中毒者じゃん」

「最初に好きになったのは瞳と歯だし。にしても本当に嫌だったんだね。俺に尻を叩かれながら血を吸うのを邪魔されたこと」

「僕だってキミの身体をおもちゃにしてたろ。言っとくけど、僕は尻を叩かれるのが好きなんじゃなくて、血を吸うのが好きなだけだからね。いつもと違う味を楽しむために叩かれるだけだから!」

「ま、叩かれたくなったら言ってね」

「言う訳ないだろ!」

 

 白い歯をこぼす僕にハツカは不満気だが、血を吸いたいけど素直になれないハツカへの救済措置だったのだから大目に見てほしい。

 俺の事情なんてハツカの知ったことではない。

 

「いつもより痛くしながら吸ってやる」

 

 それだけ言って、首筋を喰む。微かに濡れた唇がふんわりと触れる。

 

「ふふふ」

 

 その時––––よりにもよって、そんな時に目の前に僕らよりも愉しそうに笑う女性の姿が目の前にあった。

 

「あなた達がここまで進んでるなんて想像してなかったなぁ〜、この数日でよっぽど進展があったのね」

 

 おっとりとした見てるだけで癒されそうな垂れ目が俺たちを見つめる。

 しかし、騙されてはいけない。

 午鳥(ごとり) 萩凛(しゅり)の優しそうな瞳には、確かな荒々しさを秘めている。電話に出なかったのは、このタイミングを狙っていたからに違いなかった。

 

「相変わらず美味しそうな首ね」

 

 彼女は今まさにハツカが牙を立てようとした俺の首筋を指で撫でる。まるで唇に指を当て沈黙を促すような行為は、昂っていた感情の行き場を奪い、余計に量と濃さを増す。

 数秒の沈黙の後、またかよ、と俺とハツカの声がはもる。

 

「無粋な真似はやめなよ」

「わざとしにきたのよ。先に吸われて今日は無理ですって、なあなあになったら嫌だからね」

 

 再びお預けを食らったハツカが切そうに萎れた表情で、俺の首筋を見下ろしていた。その視線を遮るように萩凛さんが顔を首筋に近づけてくる。

 

「腕じゃダメか?」

「ダメよ。奪った相手の親がよく眼にする場所にマーキングするのが好みなの」

「クソ野郎……」

「そんなクソ野郎に傷物にされるのよ? お嬢ちゃん」

 

 ささやかな抵抗も虚しく、穏やかに微笑み返されるだけ。俺は下唇を噛みながら口をきつく閉じる。

 

「ほらハーちゃん、私の好きな言葉知ってるでしょ? 言ってみて? 言わなかったら、さっきやってたことニコちゃん達に送りつけるから」

 

 ハツカに視線を送ろうとしてもすでに遮られているので、どんな表情になっているかは分からない。驚いているのか、嫌悪感が垂れ流されているのか。

 

「僕の眷属で1番美味しい血をご堪能ください……」

 

 せめてハツカが嫌がるはずの萩凛さんに吸血されて俺が喜ぶ姿だけは出さないように努める。

 

「それじゃ、頂こうかしら」

 

 身体を強張らせて待つが中々痛みがやってこない。けれど、ストローでジュースを啜るような水音が耳朶を打った。血を吸われる感じ慣れた以上の快感が首から蜘蛛の巣のように広がって、手で口を押さえた。

 思わず、すごいと思ってしまった。ハツカのように快感で痛みを押し潰すように吸い方ではなく、完全に痛みを感じさせず快感だけを浴びせ続けるような吸血。

 吸血の仕方だけならハツカよりも断然上手い。思ってしまうことがどうしようもなく情けなく思えて、『ごめんなさい』と心の中でハツカに謝る。水音が大きくなる。

 凄い倦怠感が全身を包んだ頃、糸の広がることはなくなった。

 

「すっごく美味な血。ハーちゃんやシッくんが嵌るのも分かるわぁ……」

 

 萩凛さんが最後の一滴まで血を飲み込んだ口を開いて見せてきた。綺麗に並んでいる歯は、所々薄らと血で赤く染まっている。本当にハツカ以外の吸血鬼に吸われてしまったんだと、より強く自覚してしまう。

 

「それでどうだった? 私に吸われてみて」

 

 態々訊ねてくる萩凛さんを怨めしさを纏った視線で刺す。ああ怖い怖い、なんて戯けて身体を抱える萩凛さんだけれど、顔は常に『私の方が気持ちよかったもんね? 分かってるわよ』と言わんばかりに自信満々だ。

 そんなわけない。

 飲み方はハツカより上手いが、快感だけで気持ちいいわけではない。

 

「……まぁまぁ。怠いし」

「そう、残念。でも意外だったわ。吼月くんってハーちゃんのことをそんな風に思ってたなんて。それに時葉ちゃんも上手く場外に送り込んだみたいだし……中々の策士っぷりね」

 

 声があまりに小さかったのは俺に気を遣ったのか。

 萩凛さんの指摘に間違いはない。試着室のカーテンに映っていたはずの時葉の影がなくなっている時点で、聞き耳を立てていることには気づいた。だから、時葉が約束を破って飛びつくネタを与えた。

 ハツカの恥ずかしそうな顔と、想像と現実がズレて絶望する時葉の顔が見れてよかった。

 

「別に悪いことじゃないだろ」

「いいじゃない。居たい人との時間を邪魔されないように動くのは正しいし、キミぐらいの歳なら好きな子にちょっかいかけたくなるものよ」

 

 囁く萩凛さんの言葉で少し心が軽くなる。萩凛さんには受け入れられる事実が、もしかしたらを作ってくれる。

 

「でも本当に一ヶ月間やらせるの?」

 

 俺とハツカの間に座り直した萩凛さんは、ハンガーラックになっている時葉を見ながら微笑んだ。

 

「発狂されても困るし、気が済んだらやめるよ」

「萩凛さんとしてはどう思う?」

「センスいいと思うわよ。鼻につけてるガーゼはキミの血がついてるし、吸血鬼からしたら地獄そのものだって見ただけで分かる」

「お仕置きとしては効果抜群だよね」

「ねー」

 

 ふたりが楽しそうに時葉を見つめる。眷属や他人で遊びたいという波長がシンクロして、小馬鹿にするような嗤い声がさらに大きくなる。萩凛さんはハツカの太ももに手すら置いている。

 ––––俺の血を吸われたのに簡単に打ち解けていいのか?

 街灯も星もなくなった夜空に覆われたのように心の中が昏くなる。その心の中で壊れた電球のようにどこかが点滅している。萩凛さんだって時葉と同じ、地獄のようなお仕置きを受けるべきだ––––傲慢なのだと分かっているからやるせない。

 それにセンスが良いと言われても違和感しかない。

 物だと言うならあんなベタベタ顔に貼るのではなく、頭部全体を包むマスクでも被せたほうがよっぽど良い。

 

「相変わらずハツカと萩凛のセンスはぶっ飛んでるな。お面でもつけた方がよっぽど見栄えもいいだろうに。お前もそう思うだろ? 眷属候補くん」

「ええ……不慣れな人が作ったコスプレ衣装より酷い」

 

 完全な同意見を口にした相手に頷きながら同意して……また知らない誰かと話していることに肩を落とす。呆れて力を抜いたのがいけなかった。

 

「確保っ!」

 

 突然現れた第三者に両腕で身体が引き寄せられて、すぐに抱きかかえられた。そのまま黒いニットセーターの上にワインレッドの革ジャンを羽織った不審な第三者––––恐らく萩凛さんの仲間は、俺を抱えたままベランダへ駆ける。

 ハツカは身体を弾くようにベッドから立ちあがろうとする。

 

「いや、ちょっと神楽さん!?」

「ダ〜メ。ハーちゃんはこの部屋で吼月くんについて、私と語り明かすの」

「ハツカのことは萩凛に頼むぜ。俺はこの子と楽しむからさ」

「飲みすぎないでね」

 

 俺を取り戻そうとしたハツカだが、萩凛さんに太ももを抑えられていたのもあり押し倒されたまま動けなくなる。

 その隙に俺を連れて窓を一気に通り抜けてベランダに出た誘拐犯神楽は、脚を軽く曲がる。

 

「それじゃ、いただくぞ」

 

 飛び上がった吸血鬼は牙を月夜の光で輝かせると、

 

「は?」

 

 俺に喰らいついて血を貪る。

 痛みは全くないのに、血だけが消えていく。快感も感じているはずなのにひどい頭痛が濁流のように脳を襲い、視界が点滅する……–––––『おーい』と女性の声が遠くで響く。

 直後に鋭い痛みが脳を突き刺した。

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